吉村禎章 彼が僕らにくれた150本目のホームラン

2000年1月29日は僕にとって忘れ得ない一日となった。われわれ整形外科医にとって,巨人軍吉村禎章選手は『不可能を可能にした男』として刻み込まれているはずだ。

1988年旭川スタルヒン球場で中日を下し,巨人は首位に立った。翌6日,吉村選手は,札幌円山球場で記念すべき100号ホームランを打った。そしてこの日の8回表,吉村選手はレフトの守備についた。中日の中尾選手の打ったボールは,左中間に飛んで,一度彼のグラブに収まった。そしてその直後,吉村選手は他選手と接触し,左膝を受傷した。診断は概略すれば,左膝複合靭帯損傷。医療関係者はだれもが,「プロスポーツ界の復帰は不可能」と思っていた。しかし,不屈の男は,1989年9月2日,423日ぶりに東京ドームの打席に立った。まさに奇蹟の復活であった。そして1998年10月3日,17年間のプロ野球人生を終えた。彼が打ったホームランは通算149本。150本目のホームランは誰もが待ち望んでいたが,結局まぼろしのホームランとなった。

2000年1月19日は,第98回北海道整形災害学会の特別講演に,元読売巨人軍の吉村禎章氏が来てくれた日である。演題名は『私の野球人生』であった。

この学会は北海道の医学部三大学の整形外科が主に主催し,年2回開催している地方会である。今回は旭川医科大学が主幹であった。僕はこの数カ月前に松野教授にこう質問された。

「整形外科の学会で,スポーツ選手に講演をお願いするとしたら,誰を呼びたい?」

僕はすぐさま,

「教授,僕は巨人の吉村を呼んで欲しいです。彼は北海道でケガをしているし,北海道の医者に再起不能と言われても復活を成し遂げた選手です。医者という立場からみても,旭川医大が呼ぶのにふさわしいスポーツ選手は,この人以外にいません。」

ただ,僕には一抹の不安があった。彼は札幌の円山球場であの忘れ得ないケガをしている。もしかしたら,北海道は嫌いかも知れない。しかも,僕らの年代にとってはヒーローだったが,今の若い人にはどう映っているかわからない。吉村さんが来てくれないかもしれないし,観客が集まらないかも知れない。そんな不安をよそに講演はなぜか決定していた。そしてその不安は僕の杞憂に過ぎなかった。


講演の前に,旭川市内の野球少年達に野球教室を開いて戴いた。やはり吉村はバットを持っている姿がふさわしい。野球ド素人の僕でさえ,復帰したあの場面を思い出さずにはいられなかった。講演会場に向かう前に吉村さんはこんなことを言ってくれた。

「かなり素質のある選手がいるね。もう少しがんばれば,かなりいいところまで行くと思うよ。」

お世辞じゃあないと吉村さんは言って下さったが,たとえお世辞でも旭川の子供達にはどんな言葉よりもうれしいはずだと思う。(おーいみんな!がんばれよ!)

講演では,吉村さんがどんな野球人生を送られたのかを冗句をまじえて語って下さった。

会場は500余り用意した席が足りなくて,追加に追加を加えて600人近くの人達が集まってくれた。子供,野球部の学生達,普通のおじさん,おばさん,学会のお偉い先生方まで,会場はすき間がないほどあふれかえっていた。(旭川市民にとって,吉村選手は忘れ得ない存在であったのだ!)しかも1時間以上の講演にもかかわらず,全くと言っていいくらい,途中で席を立つものもいなかった。僕だけではない,みんながその言葉に替え難い真実と感動を感じたと思う。僕なんか2度も泣いてしまった(本当は3度だけど…)。

講演終了後,みんなの感謝の気持ちを込めて,花束の贈呈を,車椅子に乗った五十嵐真幸君がしてくれた。彼は病気のために自分自身の脚だけでは歩くことは出来ない。けれど野球が大好きな少年である。吉村さんとの出会いは,これから彼が受け止めていかねばならない彼自身の人生に,どれだけのはげみになることか計り知れないと僕らは思った。


1つだけ吉村さんに僕が質問した内容を紹介する。

「吉村さん,医者がもし結局は復帰はできないよと言ったとしたら,お気持ちは変わっていましたか?」

それまでやさしかった顔が急にキリリとなってこう答えてくれた。

「何を言われたとしても変わりません。私はプロですから!」

僕にとっては予想通りの言葉であった。やはり僕らのヒーローである。同じ様な言葉を言うスポーツ選手は沢山いるだろう。しかし現実は決して甘くはない。それがもし,誰ひとりとして達成することが出来なかったら,いつまでたっても可能性はゼロである。けれどたった一人であっても達成することが出来たならば,それはいつしか,二人が可能になり,三人が可能になり…と増えていく可能性があるはずである。0点はいくら足しても0点のままだが,1点でもとれれば,それを積み重ねて行くことで,いつかは勝つ可能性があるのだ!と,ある明治大学のラグビーコーチが言っていた。

われわれ整形外科医に,一つの答えを与えてくれた気がした。


帰りの列車を見送る改札口で,吉村さんは突然僕の首を締め上げてこう言った。

「お前のせいでこうなったんだ!」

そしてすぐさま握手を求めてこう繰り返した。

「ありがとう。」

僕は何が起こったのかすらわからなかった。むしろお礼を言うのはこっちである。吉村さんの温かい手は僕の掌の何倍も大きく感じた。

改札を抜けて見送る僕らに,さっと手を振った吉村さんの背中に,僕は『背番号7』の文字が見えた気がした。

吉村さんありがとう。今あなたは現役時代と同じように,全国を飛び回って一人一人の胸に,150本目のホームランを打ち続けているのですね。ありがとう。本当にありがとう。僕らは,見送る駅の改札口で,こう言うのが精一杯だった。