熊野詣

古道何でも一番最初に史料に出てくる熊野詣での貴人は宇多法皇で907年とある。
その前に神話の世界の話で、これは熊野詣ではないのだが神武天皇が日向から大和に遠征したがナガスネヒコに阻まれ遠く熊野に上陸してヤタガラスの案内で大和に入ったという伝説がある。なんでも吉野で大和を手に入れるために厳呪詛(いつのかしり)をしたという。(記紀)
熊野信仰はその後、修行者などで広まっていったのだろう。なぜ熊野なのかは諸説ある。究極の山岳信仰と云っては身のふたもないのだが、地形的な要素もあったであろうが中世は魑魅魍魎が跋扈することが信じられていた時代だ。平安時代は平安ではなかった。
天皇家の歴史をみただけでも皇位を巡る争いはすごい。貴賎を問わず心の救いを何かに求めることが自然だった。熊野詣で
例えば平安京に遷都した桓武天皇は即位に際し異母弟とその母を殺し、実の弟を淡路に流すがその後彼らの怨霊に祟られて苦しみながら死んだと伝えられる。また菅原道真が讒言により流された恨みの怨霊により清涼殿に落雷があり、そして醍醐天皇もみまかる。仏教の加持祈祷が浸透ににつれて神仏混交の修行者が増え、ウバソクと呼ばれる呪術者が尊敬されやがて彼らを先達する者達が説得力を持ってきたに違いない。神さまに祈ってご利益をお願いするのではなく、神さまに悪いことをしないようにお願いすることが主だったらしい。
そして伊勢は陽、熊野は隠国(こもりく)、亡者の世界と考えられていた。
法皇を神を祭る熊野にひっぱって行ったのは天台の仏教僧だから面白い。だから熊野には神様と如来や菩薩が同居している。
いまでこそ坊主は殆ど葬式係りになっているのだが中世から明治の初期までわが国ではインテリの代表であり政治家であり、医者であり占い師であり時に武力もち時に教師でもあった(明治の30年代でも寺子屋がまだ半分あった)。もっと昔は宗教の司祭者が王であった。例えば卑弥呼(ヒミコ)のように。
その後12世紀にかけてあまたの貴人が熊野詣でに出かけ後鳥羽上皇は28回、後白河上皇にいたっては34回も行っている。
一言で云えば熊野は神も仏も一緒、男も女もそしてお金持ちだろうが貧乏だろうがOKというまことにリベラルなム−ドなのだ。
高野山のようなセクハラがなかったのも大きかったのではないだろうか。女人もウエルカムだったのだ。
熊野が今に続くブ−スタ−は一遍さんだ。熊野で悟りを開き(1274)全国に熊野神社(3831あるらしい)を作った。
もう一つは熊野曼荼羅を持った熊野比丘尼の活躍だ。この熊野曼荼羅は現代人の私にとっても面白い。那智大社資料館の正面にあるのだが思わず見入ってしまった。人の一生がハイハイから成人し、やがてトシをとって死んでいき、閻魔さまに地獄に行くものと浄土にいくものに裁かれる。その地獄や浄土の様子も描かれている。熊野比丘尼はこれをもって全国を旅した。曼荼羅
動きこそないが美しい曼荼羅図をひろげ女人のナレ−ションで天国や地獄が説明される。新聞もTVもラジオもない時代に 庶民は引き込まれたに違いない。ホ−ムペ−ジでは限界がある。図書館などで見て欲しい。
蟻のように巡礼が続く熊野詣での中辺路は夏の富士山の登山道のようだったらしい。
ただ法皇の熊野詣は地元の負担だったから迷惑であったろう。千人以上の宿舎や食料それに人馬、なかには逃げ出す農民もいたとのことだ。

戦国になって宗教は武力の前に屈する。叡山や本願寺は信長に抵抗し虐殺といってよいほどに叩きのめされた。見方によっては近代の始まりと云っても良い。熊野比丘尼

婚礼は神前で葬儀は仏前でいうのも殆どの場合自然に受け入れられている。七五三など折に触れての神社参りもある。新車の厄はらいも神様の仕事だ。どうも日本人は神様から出て仏様になるのが人生らしい。
熊野詣での標準コ−スは中辺路コ−スが一般的だった。大略すると田辺から山を突っ切り熊野本宮に出て参拝の後、熊野川を船で下って新宮に出て参拝する。そこから那智大社に詣でた後、大雲取り、小雲取りを経て再び本宮に戻る。

巡礼
熊野詣でというのはわが国の巡礼の始まりのようだ。巡礼は連綿と現代に続く。洋の東西を問わない。例えば
キリスト教のサンチアゴ・デ・コンポステラはロ−マ、エルサレムと共に三大巡礼と呼ばれる。
またイスラム教徒にとってはメッカ巡礼というのは一度は行かなければならない これは義務だ。
何のためにと問われたらそれぞれに考えるしかあるまい。乱暴だが聖なる地を訪れた自分に満足するということだろう。

わが国では四国八十八霊場巡礼が最もポピュラ−だ。四国の場合は特に「お遍路さん」と呼ばれる。弘法大師の修行跡を追っかけるのだが煩悩が八十八あるので八十八ヶ所なのだそうだ。
今でこそ「お遍路さん」は優雅であり交通機関も発達している。つまみくいも出来る。というよりこれが普通で、なん箇所か訪問した後一度ホ−ムに帰り、再度出直すのだ。
昔の「お遍路さん」そんなわけにはいかない。一度出たら完遂もしくは死だ。暗いイメ−ジが付きまとう。
例えば行き倒れだ。故郷を出るときに「捨往来手形」というモノをもらったらしい。どこかで行き倒れたら、そこで勝手に処分して下さい。当方に連絡の必要もありませんというものだ。それだけの覚悟が必要なものは現代にあるだろうか?旅は苦労だったから可愛い子には旅させたのだ。
今は違う。高知の竹林寺を訪問したときはジ−パン姿の女性からオバサンまでまことに賑やかだった。オジサンのほうがカゲも髪も薄かったのはどこも同じだ。(梼原街道篇)巡礼
ただ古さから云えば西国三十三観音霊場巡礼(那智 青岸渡寺から始まる)の方が古い。観音菩薩は身を三十三変化して六道(六道=地獄 餓鬼 畜生 修羅 人間 天上)の大衆を救済するという。だから満員電車で貴方に席を譲る女の子は観音さまの化身かもしれないのだ。ついでだが菩薩というのは仏になる修行をしている修行者なのだ。キリスト教では使徒にあたる。仏になると如来という。
観音様は優しい表情だが、アレは三十三分(無数という意味)の一だ。手がたくさんあっても(千手観音)、我々を救済するのは大変だろう。観音さまやお地蔵様に癒しを求めるのは日本人の遺伝子みたいなものになっているからこそ続いているのだろう。
巡礼の風習は関東にも伝わって坂東三十三観音とか秩父三十四観音が作られて西国とあわせて百観音霊場と呼ばれる。

巡礼について云えば私の友人にも意外に経験者が多い。その殆どが四国の霊場だ。全部を回るのではなくて、いわばツマミくいだが、やがて全部を回りたいという。巡礼は信仰がなくてもかまわないそうだから、やがて「漂泊の思いやまず」などとイキがって私も出かけて見たい。
友人金子氏は私の友人の中でも特異な存在だ。私も含めて不信心なノンベ−が多い中で40台から仏教に興味を持ったという意味だ。
四国八十八霊場はもちろん100観音霊場もまわり、二回目の四国八十八霊場を回っているのだ。
彼は尊敬できる先達に出会い、この道に入ったのだが「巡礼中は無心になって、なにかわかったような気がするんだ。だけど帰ってくると何にもわかってないんだ。」と正直に話してくれた。

貴人はともかく庶民の熊野詣ではどんなものだったか記録は見当たらない。ずっと時代が下った江戸時代に熊野に替わり盛んになったお伊勢参りの記録がある。
1812年のことだ。
 常陸のお百姓が四人で伊勢参りに行き、その後熊野など西国33箇所の札所巡り、香川の金毘羅さん
長野善光寺、日光を回って帰郷という豪華版がある。(2003/1/1朝日)87日間2890kmだという
。まさに世界一周という感覚だったに違いない。