私のバージン… パスポート


 私は海外渡航の経験がおそらく一番多い囃子方(つまり世界一海外渡航が多い囃子方!)なのではないかと思っています。今でこそですが、実は30才になるまで日本を離れたことがありません。

 もちろんそれまでも海外のお仕事の話はないわけではなかったんですけど、たいがいはスケジュールが合わなくてお断りしなくてはなりませんでした。

 まあ、いつかは行けるだろうくらいに考えてはいたんです。しかし、初めて取得したパスポートはなんと失効間際まで四年以上も使われることがなく、もしかしたら私のパスポートはバージンのまま永遠に使われることもなく、自分は一生海外に出ることがないんじゃないかって思ってたくらいなんです。


リストラ

 今から20年近く前に初めてスケジュールがうまく合って、海外に行けそうなお話しがありました。行き先はニューヨークで、「メトロポリタン・コンサートホール」の百周年記念行事です。ところが出発のひと月ぐらい前に私、突然クビになっちゃったんです。はっきり言ってビックリしました。

 クビになった理由を聞いて、またまたビックリでした。会場である、「メトロポリタン・コンサートホール」のオーケストラのユニオンからクレームがついたっていうんです。

 よくよく聞いてみましたらこういうことでした。

「ヨーロッパから来るアーティスト達は皆、メトロポリタンのオーケストラを使うのに、どうしてタマサブロー・バンドーは使わないのか」って言ってきたんです。そう、この仕事のボスは歌舞伎俳優の坂東玉三郎さんで、われわれは彼が踊る「鷺娘」の伴奏を踊することになっていたのです。「鷺娘」! メトロポリタンのオーケストラに!?

 クレームがついてしまっために主催者は玉三郎さんに対する予算を削らなくてはならず、結果として伴奏のメンバーの中から若い人間を数名解雇することになった、ということらしいんです。私、メンバーの中で一番若かったもんで、リストラされちゃったんですね。

 ガッカリしましたけれど仕方がありませんでした。この時はまだパスポートを作る前でして、私が最初のパスポートを申請したのは、この次の台湾行きのお仕事の時でした。


墜落!

「日本アジア航空」という航空会社があります。この会社の路線が台湾に就航して10周年になるので、記念に台北市で盛大にセレモニーをする、というお仕事です。

 私は首席打楽器奏者として、あるバレエ団の伴奏のために同行することになっていました。

 出発の3週間ほど前にビザの申請のためにバレエ団の事務所に出来立てのパスポートを持って、それこそスキップ踏んで行きましたところ、担当者が泣きそうな顔をして「タキノジョーサ〜ン〜...台湾行きィ、アレ、なくなっちゃいましたぁ...」などとのたまうではありませんか! 「日本アジア航空」は向こう一年間、いっさいのお祭りイベントは行われないことになった、と申します。

 その理由を問いますと、ナントッ!その数日前、御巣鷹山に落ちた日航のジャンボジェットの事故が原因でありました! 

 ご存知かもしれませんが、「日本アジア航空」は「日本航空」が100%出資した子会社だったのであります。よって、系列にあたるためむこう一年間、被害者の喪に服すのだそうです。

「まぁ、仕方ないよね...」と担当者を慰めて私はしょんぼりと事務所を後にしたのでありました。


逃走...

 それから一年ほどして私が手に入れたチャンスはオランダ行きのお仕事でした。

 10日間で本番は2回、ファッションショーのお仕事できれいなモデルのオネーサン達とご一緒という、ギャラは安かったんですけどとてもよい条件でした。日本音楽集団の学校巡回のお仕事で直前まで長野にいることになっておりまして、そこから成田に直接行きましょうなんてルンルンなスケジュールを立てていました。

 ところが長野に、東京から「どうもおかしい」という連絡が入りました。オランダへ出発の1週間ぐらい前のことです。

「おかしい」というのは、「航空会社の予約がとれていないようだ」というのです。こちらは長野ですし、情報は間接的にしか入って来ませんでしたのでどうにも手の打ちようがありません。仕方なく長野で待っている私の所に出発の4日前になって、「オランダ行きの仕事はキャンセル」という連絡が来ました。

 理由を問うと、なんと「プロデューサーが夜逃げをしてしまった」といいます。どういうことかといいますと、このオオバカヤロウのプロデューサー氏、大風呂敷を広げたもののオランダ側との折衝が全然できず、とうとう雲隠れしてしまったというのです。

 せっかく空けてあったスケジュールも全て無駄になってしまいました。集団のお情けでその後の松本公演に参加させて貰えるようになったのは良いのですが、そこで小鼓の皮は破くわ、帰りにはスピード違反で捕まるわで、まさに「ナキッツラニハチ」を絵で描いたような運の悪さでした。

 以前、先輩から「海外の仕事は飛行機に乗るまでわからない」と言われたことが思い出されてなりませんでした。


クーデター!

 またまた一年経ちました。このころになりますと日本音楽集団の中には「タキを海外ツアーのメンバーにいれるとそのツアーはなくなる」という噂が広まっておりました。中には私のパスポートがバージンのまま、その有効期間を終えるかどうかを賭ける者まで出る始末でした。私自身も「この世界は実は私を中心に動いていて、神様はまだ日本以外の大道具を作り終えていないんじゃないか」なんて思ってたところに今度は日本音楽集団の海外ツアーの話しがやってきました。

 この年は日本音楽集団、なんか海外ツアーの話しが多かったんですね。韓国へ行くチーム、中国へ行くチーム、フランスへ行くチームと3件も海外ツアーを抱えてたんです。私は中国チームに配属されたんですけどみんな、「きっとなくなるよ」なんて言ってましたっけ。

 私、出発の日が近くなってワクワクしてましたら、やはりこの仕事、なくなってしまいました。

 理由はかの有名な「天安門事件」でした。日本音楽集団としては「あのように言論を弾圧するような国では演奏会をすることはできない」というのが中止の理由でした。

 さすがにガッカリしましたが、私のジンクスはとうとう千人単位で人を殺してしまったのです。


大逆転!?

 ところが、同時に計画を進めていたフランスツアーのチームで、急な欠員が出たのでした。打楽器パートのひとりがお仕事のダブルブッキングをしてしまったようで、その欠員を埋めるために私がそこに入ることになりました。

 こんども「なくなる!  この仕事は絶対にポシャる!」なんて言われてたんですが、とうとう成田で集合する当日になってしまいました。

 飛行機に乗り込むときにはみんな「飛行機が落ちるんじゃないか」って、蒼い顔してましたね。

 私もそれはちょっと考えたんですけど、飛行機は無事に飛びました。窓の外に日本海を見下ろし、むこうのほうに中国大陸が迫ってくるとさすがに嬉しかったです。いつまで飛んでも地面が見える、大陸の上空を私は生まれて初めて飛んだのでした。

 初めて足を下ろした外地は燃料補給のために立ち寄った(当時はまだ直行便がなかったんです)モスクワ空港(当時はソ連の)でした。最初眠くてあまり実感がなかったんですけど、空港内のうどん屋の看板を見たときにそのあんまりなたたずまいに自分が異国にいることを強力に実感したことを覚えています。記念すべきこの日は1989年の7月12日のことでした。


アノ人ハ今...

 その後の私はもう、「ハチクノイキオイ」で海外に行きまくっています。もう、年に3ヶ国4ヶ国はアタリマエ! っていうペースで渡洋するようになりました。

 アパルトヘイト政策が破綻して体制が大きく替わる、ちょうどその時期に南アフリカを2度も訪れることができました。一度目にうかがった時は白人政権でしたが、翌年うかがった時には黒人政権になっていました。現地にご駐在の日本大使が「どうです、言った通りになったでしょう?」とおっしゃっていたのが強く印象に残っています。

 タンザニアではルワンダの難民を救済するために派遣されていた看護婦の皆さんと海水浴をいたしました。「毎日誰かが死んでいく」という、彼女達から直に聞くお話は、平和に慣れてしまっている私の想像を絶するものでした。帰国後、放送されていたドキュメンタリー番組で偶然、皆さんの働くお姿を見て、目頭が熱くなったものです。

 ソウルで1週間、それぞれ全く国籍の異なる3人のパーカッショニスト達と暮し、全く日本語を話せない生活の中で生まれた彼らとの友情も忘れることができません。みんなと別れ際にはもう、泣けちゃって泣けちゃって...必死でごまかしました。

 アルゼンチンでは帰国の直前にニューヨークでテロが起こり、3日間、不安の中で過ごしたこともあります。

 たくさんの人々に出あい、助けられ、支えられ、笑ったり怒ったりしながら旅をしました。もう一度あの皆さんに会いたくもあり、また、まだ出会っていない人々に早くお目にかかりたくも思います。

 世界にはまだ、私が観ていないものがたくさんあります。

02.05.06

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