望月太喜之丞 Website/Essays/タキノ庵<暮らしのツケ帳>
02.05.06更新


暮らしのではないツケ帳のこと


我々が古典曲を出囃子で演奏をする時には原則として暗譜します

 出囃子というのは、舞台上にお客様から見られる状態で演奏することですね。落語の出囃子とは違います。あちらは噺家さんが舞台に出るときに演奏する音楽のこと。それに対して陰囃子という言葉がありまして、舞台の下手にてお客様からは見えない状態で演奏することです。

 私のように覚えが悪い人間にはこの暗譜というヤツが苦手なんです。

 もちろん、めったにやらない曲なんかは譜面を出して、これを見ながら演奏しますが、先輩や偉い人が出さなかったりすると若い人たちは出すわけにいきません。「念写!」と叫んで舞台直前なのに譜面を一生懸命睨みつけて覚えようとしたものです。たいがいウロ覚えなんですけどね。

我々が古典曲を演奏するときに使用する譜面のことを「附(ツケ)」といいます

 本のように綴じたもの、ノートなどに書いたものは「附帳(ツケチョウ)」です(フチョウではありません)。譜面とちょっと意味が違うのは、主に忘れたものを思い出すためのガイドとして見るものなので覚えることを前提に書く、ということなのだそうです。対して、「譜面」は見ながら演奏することを前提にされているということでしょう。

 この附帳、今はコピーでもって人が書いた附をもらったりすることも多いですが、本来手書きで自分で書くものなんです。お店で売ってないんですね。望月流で売ってたこともあるんですけど、あまりたくさん売れるものでもないせいか、もう絶版になっています。流派が違うと手が違いますし、ま、望月流の中でも人によってやはり違う手順で演奏する方もいらっしゃるので、出版すること自体、無理があるのかもしれません。

 「附」が五線譜と大きく違うところはまず、縦書きなことに加えて、言葉や記号が多用されているところでしょうか。こういうことからも、暗譜することを前提にしていたことがうかがわれます。

 また、もっとも大きな特徴は打楽器独自の譜だということです。まったく、お三味線やほかの楽器達との譜面と互換性がないのです。もちろんお三味線の世界でも、互換性のない、違う譜面を使用していたりもするのですが、このことは私のいる邦楽の世界について大事なことを教えてくれます。

 それは邦楽は本来、楽器ごとに違う芸能だった、ということだと思うんです。西洋の音楽と違って、盛大に合奏してオーケストラみたいになるなんて事をあんまり考えていなかったんですね。例外的に雅楽が、アンサンブルを前提に音楽を構成してはいますが、「小節」という考え方を共有しているだけで記譜方については楽器ごとに違います。

 このことは楽器全般に精通して曲をなす作曲家の不在と、邦楽界の目に見えないカーストの様なものの存在を感じるのは私だけでしょうか。

私たちが現代曲を演奏するときには、圧倒的に五線譜で書かれたものを読むことが多くなります

 「現代邦楽」という演奏ジャンルは作曲家が、最初から各種楽器を合奏させることを前提に全てのパートを同時に見渡せる「スコア」という形で作曲するものがほとんどなので、五線譜に書かれるのですね。もちろん、これは我々演奏家が五線譜の読み方を学ぶことになります。

 また、珍しいところでは「図形譜」なんてものもあります。これは図形の中に細かく演奏するフレーズが書き込まれていて、指揮者が合図をすると、どこの図形に移ってそこのフレーズをランダムに演奏したりするんです。

 私は「日本音楽集団」というところで現代曲の演奏活動をしているのですが、「スコア」を見ると創設から40年近くの間に「現代邦楽」というものが大きく変わってきていることが解ります。特にこの20年位の進化が物凄いです。

 打楽器のパート譜とか見てると、昔は四分音符とか八分音符とかで演奏が済んでしまう曲が多かったのですが、最近のものは変拍子はあたりまえ、五連符、七連符なんてのがボコボコでてくるし、「五小節の間に均等に9発打て」なんてのもありました。演奏家の技術もあがってきたんでしょうけど、作曲家の方々も邦楽器の特性をだいぶん熟知されてきたようにも思えます。

 ここんとこはコンピュータで書かれた譜面を読むことが増えてきました。あれ、符号がきれいに整いすぎてて、とっても読みづらいんですよ。リピートマークがいっぱい並んでるときなんて、指揮者を見て譜面に目線を戻した時に、どこを演奏してたのか判らなくなっちゃったりして... これが手書きだと不思議と自分の位置を探しやすいんです。

 横道にそれてしまいましたね。お話を囃子に戻しましょう。

時として囃子の演奏は一行の言葉だけで数十小節の意味を持つことがあります

 たとえば「序の舞掛かり」と書いただけで4分の4の譜割りにして17小節の、「獅子狂い五段」と書けば30小節以上の内容をしかも大鼓、小鼓、締太鼓、笛の4パートの演奏全てを表現しています。もちろん、我々はこれらの内容を覚えてなくてはいけないんですけど、このように使い回しのきく定型句の手順なんかは若いころに先生からお稽古してもらっていますし、いろんな曲で使う手順ですから覚えてしまったほうが能率が良いんです。

 記号は附を書いた人によって若干の違いはありますが、おおむね誰が見てもわかるように書かれています。っていうか、そうでないと困りますしね。

 よく「そこんとこシメて」なんて言うんですが、これ、テンポを遅くしていけっていう、ようするに「リタルダンド」って意味なんですね。これを附帳ではカタカナのシを○でかこって 「シマル」と読ませたりしていて、パッと見て意味がわかるように書きます。他に舞台上で俳優さんや舞踊家が見得を切ったりしたときには 「キマル」とか、「演奏をヤメロ!」って言う意味の 「トマル」なんていうのもあります。

 大小鼓の手順とかはほとんど図形化して書き表しますし、リピートの記号も独特の形をしています。覚えるときにはこの図形を言葉に置き換えて、頭の中で歌いながら演奏します。

 誰が見てもってことでは少し苦い思い出があります。昔、私が若いころのことなんですけど、そのころ私、ちょっとばかりお三味線が引けたもんですから、ツケにガイドとしてお三味線の譜を、習っていた長唄の流派の独自の書き方でそのまま書き添えてたことがあるんです。そのツケを持ってお仕事に行ったら怒られましてね。ガイドに書く三味線の手は口三味線の唱歌じゃないといけないんですね。私自身はその譜を見るとパッとメロディーがイメージできるんですが、ほら、あの「チントンシャン」っていう、そうじゃないとみんなが読めないからだってすごく怒られまして、私、書き直したことがあるんです。

 私、自分が読めりゃいいやって思ってたもんですから不承ブショーでしたけど、今思うと確かにその方がおっしゃる通りツケは自分だけで持つものじゃなくて共有した方が、合理的なんです。

 たとえば、ある曲をみんなで合わせようとするときにそれぞれが独自のツケを持っていたら、いっぺん演奏してみるまではお互いの手順が合ってるかどうかも判らないでしょう?こんなとき、同じツケを見ていればトラブルの原因を特定しやすいんです。

江戸時代の附帳なんかを拝見すると、墨で黒々と達筆に書かれていたりなんかします

 達筆すぎて私などにはなかなか判読できなかったりするのですが、よく見るとキッカケの歌詞が書いてあって、その後に大きな文字で「大小見計らい」という字を読むことができることがあります。これ、この歌詞を聴いたら大鼓と小鼓で演奏しろってことなんですけど、それで何を演奏しろなんて内容については書いてないんです。なんともおおらかというか大ざっぱというか...「内容は覚えてるだろ?」ってことですね。

 「見計らい」なんて、なんだかいい言葉でしょ?現在ではだいぶん合理化が進みまして内容も事細かに記述するようになってきましたが、それでも大太鼓で風の音だとか、雨の音を打つときなんかにこの「ミハカライ」という言葉をよく使います。これは「適当に見計らえ」ということなんですけど、いい加減にやれって意味ではないんです。演奏者が「自分のセンスでその場にもっとも適切な演奏をせよ」っていうことなんですよ。

それぞれの演奏者の所属するの流派によって同じ曲でも演奏の手順は変わったりします

 つまり、同じ流派でも違うことがあるんですよ。また、一緒に演奏するお三味線の流派によってちょっとした寸法が変わってしまったり、日本舞踊の伴奏の時には同じ曲でも演出によって演奏する手順を変えたりもします。そういうわけで、ひとつの曲に幾通りもの演奏手順が存在し、それに伴って附が何種類も書かれたりするんですね。

 ですから、曲によっては演奏する現場でどの手順で演奏するかを初めて決める、なんてこともあります。こういう曲はなるべく同じ附を見るようにしないと事故が起こりやすいので、若い人がコピーに走ることになります。

 若いころは演奏する全ての曲を自分の書き方で記述してみようとしたりしたこともあります。これは上記のように様々なバージョンがあり、これをいっぺんに記述すると却って読みづらいものが出来てしまうし、なにより面倒くさいのでやめました。

 最近、コンピュータをいじるようになってからは、ボタン一つでパッと附が出てこないだろうかとか、ウェブにツケ帳を全部保存しておいたらどうだろう、なんて思ったりもするんですけど、私、生来ものぐさだもんで... 誰か作ってくれないかなあ...っと。

02.05.04


http://www.bekkoame.ne.jp/~takinojo/