マイ・ネーム・イズ…


 こんにちは。七つの名前を持つ鳴物師、望月太喜之丞です。ある時はナゾの運転手、またある時は…って、ウソウソ!私、ホントはいたってマジメな鳴物師なんですよ。いや、ホントは、ですよ。そう見えないかもしれませんけどね。

 今回は私の名前にまつわる話を書いてみました。


ヨロコビがフトいんです!

 「タキノジョウ」っていうのは、いかにも現代の日本でなじみがない名前らしく、よく電話なんかで初めての方に名前を名乗りますと「えっ!?お名前をもう一度おっしゃってください」なんて言われます。きっと心の準備ができてないんでしょうね。で、その揚げ句、「タケノジョウさん」って呼ばれちゃったりします。あと、手紙やメールなんかで「太喜之丞」を「多喜之丞」とか、ひどいのになると「滝之上」なんて書かれちゃったりします。ついこないだも「太喜之蒸」ってメールを送ってこられた方がいらっしゃいました。

 毎回、訂正していただくんですけど、10数年間、何度お願いしても「多喜之丞」でお手紙がくる先生もいらっしゃいます。

「…ですからぁ、ヨロコビが多いんじゃないんです!フトいんです!!…」
 電話でわめいていたら、それを後ろで聞いていた弟子に突っ込まれてしまいました。
「センセー、あれってセクハラになりません?」
 って、おまえ…


ミドルネーム!?

 私、「姓>名主義者」ですので、海外で出会った方々に自己紹介する時には「My name is Mochizuki Takinojo…」と申し上げるんですが、ワリと多くの方が「モチヅキ・タキ・ノジョウ」だと思われるみたいです。

-- Which is your first name?(どれがオマエのファースト・ネームであるのか?)
-- It's TAKINOJO(タキノジョウがファーストネームである)
-- Oh...I see...TACKEY is not the midlle name...May I call you 'TACKEY'? Because it's difficult for me to pronounce 'TACKEY-NOJO'...Okey?(そうか、タッキィはミドル・ネームではないのか。しかしながらタッキィ・ノジョとは呼びづらい名前であるからして、タッキィと呼ぶことにする。よろしいか?)
-- Yes, it's okey...But please call me 'TAKI'.(オーケー、しかし頼むからタキと呼んでくれ)
-- I call you 'TACKEY'(だから、タッキィって呼んでるってば)」
-- Okey, okey...We have no problem...(オーケー、オーケー…もういいよ…)


あるときは日系三世の鳴物師

 私、海外のお仕事に行った時はその国の名前を考えることにしてるんです。しかも、どういう生い立ちかまで細かく設定して楽しんでいます。

 最初のキッカケは都内の荒川というところで行われた日本音楽集団の演奏会でした。私は留守番組だったんですが、その前々日くらいまで集団は米国にツアーをしてたんです。で、その荒川の演奏会のメンバーはほとんどがそのツアーのメンバーだったのでした。違うのは私だけだったんじゃないかな。

 「この荒川公演がアメリカ・ツアーの最終日」なんて、ツアーのメンバーだった連中が盛り上がってた時に、誰かが「今日は打楽器だけは現地雇用ね」言い出したことから、私は「ジョー・タキノ」という日系三世の打楽器奏者ということにされてしまいました。打ち上げの時にはもう「今はもういないグラン・ファザーの生まれた国『ニッポン』にあこがれ、ロックバンドでドラムスをやるかたわら、密かに祖父の形見の小鼓を練習していた日系人。片言の三河弁を話す」という設定がすっかりできあがっていました。

 その後、初めて行った外地(Essays『私のバージン』をご覧になってみてください)フランスで「ジャン(Jean)・タキノ」を名乗ることになります。

 スペインでは「ホセ(Jose)・タキノ」、ドイツでは「ヨハン(Johan)・タキノ」など、基本的に「J」で始まる名前を考えることにしていまして、南米では「ハビエル(Javiel)」、エジプトではちょっと苦しく「ヤコブ(Jacob)」でした。

 漢字圏の中国や韓国では仕方がないので「タァ・キジュン」とか「タェ・キヌジュン」なんて名前。アフリカではネイティブな言語には「J」という文字がないので「クン・タ・キンノ」ということにしました。(これは昔ヒットしたアメリカのテレビドラマ「ルーツ」をご覧になった40代以上の方じゃないとわからないと思うんですけど、興味のある方は検索なさってみてください)

 下に「これは珍しい!世界のタキノジョー」という付録をつけました。


またあるときはタキチャン

 日本音楽集団では私のことを「タキチャン」と呼ぶ人が多くて、スタジオ系の仕事仲間やバンド時代のクルー達、あとネットで知りあった人たちは「タキさん」というのが多いですね。

 きっと「タキノジョウ」って呼ぶのが面倒くさいからなんだと思うんですけど、私の師匠も大先輩の太喜右衛門さんも「タキチャン」になってしまいますので、お願いだから古典の仕事の楽屋ではやらないでほしいです。

 本條秀太郎さんは私のことを親愛の情を込めて(だと思うんですけど)「タッキイ」と呼んでくれます。私の友人など、秀太郎さんにご挨拶した時「ウチのタッキイがお世話になります」っていわれたそうです。

 お弟子さんまでつられて「タッキイサン」なんて呼んでくれたりして。それはいいんですけど、ときどき「オタッキイ」になっちゃうのはなんとかならないかな。


LOVE・LOVE・LOVE

 私の本名は「イトーコージ」っていうんです。子供の頃はなんだかつまらない名前だと思っていました。漫画に出てくる「ムラサメケンイチロウ」みたいなドラマティックな名前にあこがれていました。

 高校生の頃、好きだった女の子がテレビアニメの「マジンガーZ」は毎週観ているというんですね。女の子のくせに変なヤツだなと思っていたら、主人公の名前が「兜(かぶと)コージ」っていうんだそうです。で、そのアニメのヒロイン(名前は忘れました)が「コージクン!敵よ!」なんていうのがあんまり悔しいので毎週観るのだそうでした。

 当時はそんな彼女のことを「カワイイ」なんて思ってた自分も、今となってはカワイイなと思います。

 10年ほど前に「愛してるといってくれ」というテレビドラマがありましたね。あれで豊川悦二さんが演じていた聾唖の画家の名前が「コージ」でした。常盤貴子が恋人役で麻生祐未が元恋人の役でしたけど、その二人から「コージさん、ズルイ!」とか「コージさん、わたし、あなたのことがとても好きだった」なんていわれるのが結構しあわせで、私、ほとんど欠かさずに観ていました。ドリカムのあのオープニング・テーマを聴くと今でも目頭が熱くなります。


あなたは、もう、忘れたかしら…

 女流義大夫の鶴沢津賀寿さんはこの業界で唯一、私の本名のファーストネームを「コージ!」と呼び捨てることのできる女性です。私も彼女のことは「○○!」なんてやってますからお互い様なんですけどね。彼女とはこの業界に入る前からの友達だもんで、なんといいますか、幼なじみみたいなものなんです。

 楽屋でもかまわず、これをやるもんですから後で仲間から色々詮索されてたいへんでしたけど、最近は周囲の反応を密かに楽しんでたりもします。

 そそっかしいウチの弟子なんか、私たちが「学生時代につきあっていて、窓の下に神田川の見えるアパートで同棲までしてた」と冗談をいったら、しばらく本気で信じていたものです。

「お風呂屋さんの前でいつも彼女を待たしちまって、洗面器の中の石鹸がカタカタ鳴ってたもんだ」
「え〜!センセーヒトデナシー!」

 アイツら、まだ疑ってるかもしれないな…南こうせつの「神田川」なんて、知らない世代だし…

 おっと、こんな話、本人(津賀寿さん)が知ったら、あちらからも大目玉を食らいますのでくれぐれもご内密に…


ラッシャー・望月

 実は私自身、普段の生活では本名を忘れつつあります。銀行とか役所なんかで私の本名の姓を「イトーさーん、いらっしゃいますかぁ?」なんて呼ばれても知らん顔してることがよくありますし、海外旅行の時なんかは気をつけないといけません。

 一度なんか、入国用の各種申請書全部に芸名をローマ字でサインしてしまって、イミグレーションで大騒ぎになったこともあります。パスポートの名前と違っちゃったもんだから「これはナンダ?」ってな事になったわけですが、あれは非常にヤバかったです。

 とにかく終いには係官が大勢やって来ちゃって、みんなして早口の英語で「事情を説明しろ」ってまくしたてるんですから。そこへ持ってきて、私、芸名のことを「ステージ・ネーム」じゃなくて、うっかり「リング・ネーム」っていってしまったもんだから、あらぬ方向に話がややこしくなってしまったのを昨日のことのように覚えています。

「オマエはプロレスラーなのか?」
「さっきはミュージシャンだって言ってたぞ」
「スモウ・レスラーにしては髪の毛がないぞ(大きなお世話だ!)」
「国防省に電話しろ(これはウソ)」

 …こんなマヌケなテロリスト、いるわけないでしょ?


それはセンセイ

 「センセイ」と呼ばれるのは実は嫌いなんです。なんか、恥ずかしいでしょ?そんなに偉くもないし、ねぇ?でもウチの弟子達はみんな「センセイ」ですねぇ。弟子の前ではやはり偉そうにしてないといけないかなぁ。

 「シショウ」ってお呼びになる方もときどきいらっしゃいますけど、女性にはやはり「オショサン」なんて呼ばれてみたいです。

「オシハン、オハヨウサンドス〜!キョウモヨロシ、オタノモウシマス〜!」(京ことばで読んでください)

 これは京都のさる花柳界のお仕事に行った時の朝のご挨拶です。ティーンエイジャーの舞子さんがこの調子で三人くらい続くと、自分の尾てい骨あたりのズルーッと力が抜けていくのがわかります。いっそこの街に骨をうずめようかと思ったものです。


名取式

 名取式は十九年前の六月のことでした。私、先に書きましたけど本名が実につまらない名前なので、いただく芸名には凝った大時代な名前がいいな、と思ってたんですよ。ですから、このタキノジョウという名前、私的にはとても気にっています。インパクトが強いので初対面の方にもすぐに覚えてもらえますし。

 ただ、名前の方を先に聞かれた方は私のことをすごい年寄りだと思うらしくて、ほとんどの方が「お若いんですね」とおっしゃいます。私自身、もうそんなに若くもないんですけど、もっと年配のオジイチャンが来るのを想像なさる方が多いみたいです。

 式は原則として出席者全員が紋付に羽織ですが、ウチは代々このお仕事に従事していたわけではないので、名取式の時は私の父親だけが紋付が間に合わず、十人ほどの中でひとりスーツで居心地がとても悪そうでした。最後の手締めで当時の家元、先々代(十代目)の太左衛門師がまたいつになく大きなお声で「でわぁっ!…お手を拝借ゥッ!」とやった時、驚いた私の父親が5センチくらい飛び上がった時には、どうしようかと思いました。

 自分以外の全員が紋付ハカマという異常な空間で杯ごとまでやったあげくクダンの手打ちですから、父親はどうやら自分の息子がとんでもない世界に入ってしまったのではないかと思ったようでした。式の帰り道、彼は重たい口を開いて一言「警察沙汰だけは勘弁してくれ…」

 こうして私は太喜之丞になりました。


My name is... 付録 これは珍しい!世界のタキノジョー


フランス 

 ジャン(Jean)・タキノ

 ジャンは日本人の画家を父に、そのモデルだったフランス人女性を母に持ちます。息子が生まれる前に行方不明になった父親がヨコハマ出身だったので、ママンは生まれてきた男の子の名前を「ジャン」と名付けました(意味不明。おそらく父親の使う「あの娘、いかすジャン」などのヨコハマっぽい日本語によるものと思われる)。

 ママンは反対ですが、パパァの国日本へ行くことを夢見て大学で日本文化を勉強していました。パリの「蚤の市」でジャポンの古楽器、小鼓をみつけたことから、フランスで最も東洋文化を理解する打楽器奏者ジャン・タキノとしての人生が始まりました


北米 

 ジョー(Joe)・タキノ

 日系三世の打楽器奏者。今はもういないグラン・ファザーの生まれた国『ニッポン』にあこがれ、ロックバンドでドラムスをやるかたわら、密かに祖父の形見の小鼓を練習していた日系人。モンツキの下には必ず柔道着を襦袢代わりに着込んでいます。片言の三河弁を話し、好きな日本語は「ブシドー」と「コメヒョー(意味不明)」です。実家は全米で展開するジャパニーズ・ヌードルのチェーン店「TAKINO-AN」のオーナー。


スペイン 

 ホセ(Jose)・タキノ

 江戸時代、漁師だった祖先は嵐のために漂流中にスペイン船に拾われ、そのまま水夫としてスペインに渡ります。自分の「タキノ」という姓を不思議に思っていたホセはある日自宅の物置でその記録を見つけ、はるか東の祖先の国、日本に思いをはせます。今日も日本から来た若い女性観光客に「ニッポンジンデスカァ? ボクのナマエ、ホセ・タキノ、いいます。ホンのチョト日本人。チャーでも一杯、シバいたりまへんかァ?」と声をかけるのに余念がありません。


ドイツ 

 ヨハン(Johan)・タキノ

 彼の祖父は第二次世界大戦前夜にベルリンに駐在していた日本大使館付武官タキノ大尉。その祖父とオーストリア貴族末裔の祖母との間に生まれたのが彼の父親です。大戦が始まり、一時帰国するためにタキノ大尉を乗せた潜水艦は途中、行方不明となってしまいますが、両親の反対を押し切って祖母はヨハンの父親を出産、タキノ姓を名乗らせます。孫のヨハンは手のつけられない不良でしたが、日独友好のイベントのためにやって来た自分と瓜二つの鳴物師「モチズキ・タキノジョウ」が自分の遠い親戚であることを偶然知り、行方不明になったという祖父の面影を探しに日本へ渡る決意をすることになります。


南米 

 ハビエル(Javiel)・タキノ

 日系四世。彼の曽祖父は移民として南米に渡ってきました。武士だった曽祖父は一代で莫大な富を築きますが、二代目で大没落。三代目、すなわち彼の父は地道に商売をしています。曽祖父の形見の日本刀と小鼓を見るたびに自分の血というものを意識するのですが、どうもうまく具体的なイメージをすることができません。小鼓を叩いてはみるのですが、どうしても身体が踊ってしまうので、その姿はカーニバルにまちがってやって来た三河万歳のようです。


アフリカ諸国 

 クン・タ・キンノ

 医者をしていた日本人の両親と乗っていた飛行機がアフリカの奥地で墜落してしまい、赤ん坊だった彼はその唯一の生存者でした。5歳までジャングルでゴリラ達に育てられた後、先住民に助けられ、「眉毛が太い黄色い子供」という意味のクン・タ・キンノという名を授かります(デタラメです)。

 成人して都会に出て、アフリカン・パーカッションのプレイヤーになった彼は日本から来た「ホーガク」という音楽の演奏会を聴きに行って、マラリアに倒れた(飲み過ぎで、という説もあります)鳴物師の代役をワケが解らないまま急きょ勤めることになります。倒れた鳴物師、タ・キンノ・ジョー=モッチズッキィ(なんて長ったらしい名前なんだ!)の使っていた「コッツズンミ」という楽器は、たまさか彼の得意な楽器トーキング・ドラムにそっくりだったからです。

 ナゾの日本人タ・キンヌ・ジョー=モッジズッキィ(ああ長い!)はそのまま病院でのたれ死んでしまいますが、遺体を引き取りに来たその親族によって、実はクン・タの従兄弟にあたることが判明します。


韓国 

 タェ・キヌジュン

 元は韓国民族楽団の打楽器奏者でしたが、失恋が元で楽団をやめてしまいます。何もする気力がなくなり、ソウルにいることも辛くなって、なんとなく渡日。焼き肉屋で働いているところに偶然食事にやって来た鳴物師望月某と意気投合して、そのまま弟子入りしてしまいます。

 数年後、鳴物のプロとなった彼は、師匠の代役でニホンオンガクシュウダンの韓国公演に打楽器奏者として参加し、別れた恋人と雪の降る南大門(ナンデムン)の屋台で劇的な再会をします。


03.06.23

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