広島稽古場物語 2004年版
この2月で広島に通い始めてとうとう10年になりました。一昨年書いた文章を少し改めまして、またお読みいただきたいと思います。
2004年春 太喜之丞
広島新稽古場 (このビルの3階です) |
広島といえば原爆と「仁義なき戦い」くらいしかイメージがなかった私がこの街でお稽古場を開いたのは10年前、1994年の2月8日でした。そもそものきっかけは、前年1993年の7月に「OTIS!」というライブハウスでライブをしたことからでした。
そこにお客さんとして見えていた方でおひとり、とても小鼓に興味を持たれた若い女性がいました。私も、楽器を持ってもらってみたり簡単に叩いてもらってみたりして、ずいぶん長い時間お話をしたように思います。私、美人に弱いもんで...
その年の9月に私は「漂流楽団」というバンドのメンバーとして、ミュージカルのお仕事で全国を回っておりました。そのスケジュールで中日にあたる日に福山で一日オフができることがわかっていたので、庄司さんに連絡をして「河内(こうちと読みます)」というところの廃家を使ってバンドのメンバー全員でライブのスケジュールを組んでもらいました。
廃家でライブなんて、ピアノ弾きは楽器をどうするのかと思ってましたら、どこからかピアニカを持ってきて参加してくれまして、あのピアニカでどうしてこんな演奏ができるの?っていうくらいの超絶技巧を聴かせてくれたものです。
そこにもその「OTIS!」でお話をした女性が見えていて、ご自身も(お稽古を)始めてみたいようなことをおっしゃっていました。その方はアマチュアでしたがお箏をやっていて、ネプチューン・海山という米国人尺八演奏者が作曲した「空想」という曲で自分が小鼓を打ってみたいのだといいます。私も何度か演奏したことがある曲でしたのでこれは是非相談に乗ってさしあげたく思い(とても美人でしたのもありまして...)、詳しくお話をうかがいますと二ヶ月に一度くらいお箏のお稽古を受けに東京にみえる、ということなのでその時に私の家に寄っていただいてレッスンをいたしましょうという約束をしました。
通常、私は最初は楽器なしでも練習できる方法をお教えするのですが、いかんせん稽古の度に二ヶ月もブランクが空くような事態を想定していません。広島にも小鼓の先生がいらっしゃるのでその方をご紹介しようかとも思ったりもしたのですが、どの方も彼女が希望する現代曲は専門ではありませんでした。お稽古の後で、今後どのように続けるかを相談しました。私は半ば冗談で「10人も生徒が集まれば東京から広島に行って2〜3日泊まってお稽古ができそうなのにね」と申しあげて、その時は彼女を見送りました。
その年の暮れになって彼女から「ボーナスで小鼓を買いたい」という電話を貰いました。時代物のそんなに高いものは無理だけれども練習用のプラスチック製の小鼓ならこれで買えるので、ぜひ手に入れたいのだと言います。
そこで私はプラスチック製の小鼓を浅草の「白峰」(今は京都にしかお店はないですが、当時はまだ浅草にもお店がありましたっけ)であつらえて広島に送ることにしました。「これは、お稽古の内容もうんと考えないと」と思いましたね。彼女は本気です。
しばらくして彼女から、今度は「本当に10人の生徒を集めたら広島に来てくれるのか」という電話を貰いました。その頃には私もある程度気持ちを決めていたので承諾すると「もう集めました」と言うのです。
まったく彼女の行動力には驚きました。本当にそれだけの人数を集めてしまったのです。それどころか、実際にお稽古を始めるころには生徒さんの数は15人くらいになっていました。
そして慌ただしくスケジュールを相談して翌1994年2月にワークショップという形で広島にうかがうことになりました。これが広島のお稽古場の始まりです。新幹線の「のぞみ」に乗るのが私、そのときが初めてだったのですが、雪のために4時間も遅れてしまったのをよく覚えています。
年に最低10回は広島にうかがいますし、その度に3〜4日滞在してますから、年間ひと月ぐらいは広島で過ごしていることになりますね。当初は広島までは飛行機で通うつもりでいましたが、この年に広島空港は市街地から遠く離れたところに移転になってしまいました。
ドア・トゥー・ドアだと30分も違わないことと、乗り換えが楽なことから、私は基本的には新幹線を利用しています。阪神大震災の時は新幹線の線路も寸断されてしまい、飛行機での移動を余儀なくされたこともありました。一度、自動車を運転して行ったんですけど、片道900キロ。あれはもう、コリゴリです。
また、私の稽古場の「鼓草の会(ツヅミグサ or タンポポ、どちらでも。私のエッセイの「タンポポ」をお読みになってみてください)」という名前も、広島で会の名前で預金通帳を作るために辞書をめくって慌ててつけたものです。不思議なことにお年を召したお弟子さん達の方が「タンポポ」と呼ぶのを好み、若い人ほど「ツヅミグサ」と読む人が多かったです。でも、中には頑固にこれを「コソウ」と読んで曲げない方もいましたね。
当初は「八丁堀」の「幟会館」という区民会館をお借りしていました。朝、昼、夜のコマに別れて借りなくてはならないのですが、現地のお箏やお茶の先生は曜日で押さえているので、私のように何日かまとめて借りようと思うと、毎日のように部屋を移動しなくてはなりませんでした。ひどいときには昼のコマから夜のコマに替わるときに部屋を移動したりなんかして、お弟子さん達と「ソレ!」ってなもんで楽器を運んだもんです。
そんな調子で2年ほど過ぎた頃、こちらでたいへんお世話になった吉住小志知先生が亡くなられました。その追善演奏会を開催するためにというお弟子さん達の要望もあって、紙屋町にあった先生のお稽古場を使わせていただくことになりました。ここには追善演奏会が済んでしばらくいましたから、都合八ヵ月くらいいたでしょうか。この建物を相続された、新しい大家さんから提示された家賃は、とても私に支払える金額ではなかったです。
それから7年もの間、私、ほとんど「流浪の民」と化していましたね。お弟子さんの家にホームステイしたり、あるホテルの社長のご好意でスイートルームを使わせてもらったりして、終いにはとうとう八丁堀のマンションに小さな部屋を借りて稽古場にしていました。このマンションは太鼓のお稽古をすると苦情が来たり、何だかアヤシイ人たちが出入りしていたり、タイヘンな場所だったんですよ。
昨年の暮に、以前お借りしていた紙屋町の小志知先生のお稽古場の下を通りかかったら、どうも部屋が無人のようなんですね。そこでお弟子さんを通じて不動産屋に問い合わせてもらったんです。そうしたら今は空き部屋で借り手を探している、とのこと。家賃も安くはないのですが何とか手が届く範囲に下がっていました。もう、ソッコーで借りることにしましたね。
引っ越しの時には、お弟子さんのところへ預けられていた小志知先生のお稽古場時代の家具なども運び込まれて、昔の面影を取り戻そうとしているように見えます。感慨無量でした。
<広島新稽古場>
広島稽古場 年表 | ||||||||||||||||||||||||||||
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広島方面にお住まいの方で小鼓などに興味のある方はいらっしゃいませんか?よろしかったらぜひ、私の新しい稽古場に遊びにいらしてください。
04.03.09 UP