伝統の義務化?


 このところ「邦楽教育の義務化」とやらでにわかに邦楽の世界が色めき立っております。あちらこちらで講習会が開かれたり、学校向けの演奏会が催されたりしています。おかげさまでなんだか忙しいような気はしてるんですけど、ちょっと疑問に思ったりもします。

 いったい私たちは子供たちに何を語ればよいのでしょうか。音楽教育の一環として、と聞いてはいるのですが私どものやっている邦楽とこれまでの音楽教育とはあまりにもかけ離れているように思うからです。お三味線の調弦が「シ、ミ、シ」とか、お箏の音が「ゲー」とか「ハー」とかっていうのって、何か信用できないんです。音階だって本来は平均律とは違うものを使ってた筈だから、決して同じ物差しで理解しきれるものではないんですね。やはり西洋音楽中心にしかモノを考えられないのかって思うわけです。

 私、日本音楽の多く(全てとは申しません)は言葉の音楽ではないかと思うのです。三味線やお箏のメロディーを聴いてると「ナニガナニシテナントヤラ…」っていう風に聞こえてくるんです。「聴く」ではなくて「聞く」の方。よく「虫の声」なんていいますが、欧米の方には「虫の音」として認識される、という様な説を聞いたことがあります。脳の右側左側のどちらで聞くかで認識のされ方が違う、というこの節、音楽についても結構あてはまるように思います。西洋音楽と邦楽の間に決定的な違いがあるとすれば、この辺でしょうね。

 邦楽の多くは非常に文学的な表現をしているのだなとも思います。三味線音楽はそのルーツを琵琶に持つためか、まず「語り」という考え方が根強くあるようですし、器楽曲をよく聴いていると感じられる変拍子感なども、和歌や俳句などのような日本語の持つ独特のリズムと関係があるように思います。ここで忘れてはならないことは、言葉は常に当時の生活の中から生まれた、ということだと思うのです。

 「学校教育に邦楽を」確かに素敵なことです。しかし私たちは伝統的な音楽だけではなく、今や失われつつある日本の伝統的な文化そのものを、キチンと日本人でいることを子供たちに伝えてゆくべきなのではないでしょうか。

 ナニ、そんなたいそうなことではないのだと思います。例えば箸の持ち方、挨拶の仕方、話す言葉、本来なら親から教わってきた、そんなことから語ってゆけばよいのです。「躾ける」という文化そのものも失われつつあるようです。

 音楽だけでなく芸能全般にいえることだと思うのですが、生活環境によって常に変化してゆきます。この百年ほどの間に、その環境が大きく変わってしまった日本で、私たちは「伝統芸能」よばれる音楽をなりわいにして生活をしているわけですが、「現代」を表現することなしに保護されるようになってしまったら芸能としての勢いも価値も失ってしまうことでしょう。「伝統」という言葉の意味を考え直してみる時期が到来しているのかもしれません。

02.06.19

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