ゆうきのスタンドなエッセイ(生活密着篇)

##捨てる神あれば捨てられない俺アリ


ここんところの部屋の一大整頓行為により、台所に恐ろしいほど不要なモノ(ゲームのパッケージやら動かない家電やら古い雑誌やら光熱費の領収書やら)が山積みになっている。しかし自分の貧乏性にはつくづくあきれる。いらんもんはさっさと捨てろ!と、少し反省。6年前の東京ウォーカーが何の役に立つのか?表紙の女優さんが若くてかわいいというくらいなものだ。(当時はそーゆーところに目がいかなかったんだから俺も変わったわい)
これというのも、俺のオヤジという人が、「清掃癖」のある人で、ある日突然、「掃除」を猛烈な勢いで始めると、彼にとって「不用」と判断されたものは断りなく、容赦なく捨てられるか、裏の畑にある「焼却所」で灰にされたことに起因する。恐ろしいことに本だけでなく、それにはモノも入る。彼の掃除対象が「庭」になったときは、庭に生えている草木が総入れ替え、気に入らないと判断された草木は焼却所で燃えていた。子供の頃から玩具や本をそれで大量に失ってきた俺は自我が確立された中学生以降は自分の資産をオヤジの手から守るのに全力を尽してきた。結果、電気料金の支払い通知に至るまで5年は捨てられない体になっていたんである。トラウマというのは恐ろしいです。お子さんが居る方は充分に「何事もやりすぎないように」気を付けていただきたいもんです。
そんな俺は大学入学時と就職時、自分の全財産をヤドカリのように引き連れて歩き、いつも大家さん驚かれてきたわけです。良く部屋に収まらない本は実家に送れば、などといいますが俺の場合はそれは半年以内に焼却と同じ意味になります。中学生の時からの趣味であるコンピュータの雑誌やムーやアフタヌーンなどは創刊号からコンプリートとかもあったんですが、3回の引越しの中でそのすべてが灰と化しました。今生残っているのはコミックスと海外SFが少しだけ。とはいえ、それらは15年一緒に苦楽を共にした戦友である。へたな友人より大切に思える。本ですらこうなのだから身につけるもの、といったらその愛着たるや並みではない。
で、昨日ついに毎年履きつぶしてしまう革靴(黒・茶のペア)がいよいよ更新すべき状態になったので買いに行った。「靴のダイワ」というチェーン店で扱っていることが判明して以来、毎年同じ靴である。通勤からハイキングからテニスまでこなしてしまうという恐ろしく相性のいい靴で、スキーに行ったとき「そんな靴で来る奴はいない」とまでいわれたもんである。それゆえ毎年1年で2足ボロボロである。社会人になってその靴に出会って5年間、ないときは注文してもその靴だった。が、ついにその靴が入手できなくなった。去年は休日用のスェードの凄く履きやすい靴がやはりボロボロになったので更新しようとしたところ、生産中止になったことを知ってあわてて探しまくり、近所の靴屋で偶然見つけて大喜びでGETしたのだが、今回はそういう偶然もなさそうだった。しかたなく似たような奴で済ませる。うーん、やはりしっくりきませんな。女房と畳は新しい方がいい、などというけれど、靴と女はそりがあわないと全然駄目。そりがあったら一生付き合いたいという感じである。
で、今年は色々限界になっている年で、ベルトも6年間休まず俺の腰を締めてくれたんだがこれも駄目になった。腹が出てきたせい、とかじゃなく、俺が愛用してるのはオヤジの忠告に従って、穴を空ける奴じゃなく、ローラーに噛ませるタイプの奴で、実際、穴を空けるタイプが1、2年で穴の周辺がヘナヘナになるのに対して実に6年も持ったのだが、ついに噛ませてる周辺の合成革がへたれて裂けてしまったのだ。本革だったら良かったのか?これも探したら意外となくて困った。というのはいい品を探したらなかったのであって、最初買ったのはありきたりの紳士服屋だったのを思い出し、西友の紳士服売り場にいったらすぐ替りが見つかった。うーむ、本革はこの形式にしないモンなのか?
おかげさまで中学で成長止まって以来、体型も変化していないので、「着られなくなっちゃった」があまりない。大抵は好きな服を攻めすぎて駄目になるパターンである。仕事用のスーツには愛着を感じないが、古くなっただけの奴がどう始末していいかわからない。皆さんは着なくなった服、燃やしてますか?
それより、問題はコートである。学生時代の後半から、そのまま雑魚寝ができるという利点から、冬はコートばかりである。おかげで成人式の時にねだって買ってもらったコートがいまだにお気に入りで替りがなかなか見つからない。冬季限定とはいえ、10年近く着てればもうヘロヘロ。ついにクリーニング屋に「生地が限界です」といわれてしまった。うーん、この冬はとりあえずコレで過して、後で考えるか。
で、Macである。俺の愛機は5年前に買った、Centris660AV(68040 25MHz)である。ついにこの9月頭にiMacを仕入れて、93年の冬から5年間、メインマシンとして頑張ってくれた660AVも現役引退、としたかったんだけど、USBの周辺機器がひとつもでやがらねぇ。せめてスキャナとプリンタがないと引継ぎできないんですけど。ちまたに出回るのはWin98対応の機器ばかり。俺の周辺で98にアップグレードしてUSBバンバン使ってる人って数人しかいないんですけど。あまつさえWin用なのにiMacカラーとかにしないでいただきたい。いや、単に使えないのにそのカラーリングってイヤミですかね、って感じなだけで、マネすんな、とか云うわけじゃないんですけどね。ほとんど「99年4月頃、Macには対応」とかばっかしなので、今度の年賀状は660AVで印刷することになりそう。トホホ。でもなぁ、最高の伴侶である。
「660AVが壊れるまで次の機種は買わない」「じゃぁ10年は駄目だね」という会話をしたこともあったけど、今はまさに壊れず元気にいつまでも動いて欲しいという思いでいっぱいである。アップグレード戦争はソフトだけにしてくれ、って感じ。やることは5年前から変わっちゃいないのに、ソフトは年々重く、複雑になって、高いCPUパワーと莫大なメモリとHD容量を要求してくる。ウェブ・ブラウザやフォトショップも古いバージョンで充分なのになぁ。というわけで数年前からアップグレードのお知らせは無視している。フォトショップもレイヤー機能とかの便利さは認めるけど、結局使い慣れたVer. 2.5Jを使ってしまう。ネスケもネットスケープメールの方がメッセンジャーより使いやすいと思ってVer. 3.1Jを使ってしまう。うーむ、単に慣れの問題かもしれんが、新しい方を「便利で使い易い」って思えないんだから、設計に問題があると思うんだけどなぁ。
その点、MacOSはアップグレードして「損した」ということが少ない。「ない」といえないところが悲しいんだが。不具合3に対して7は「おお、スバラシイ」と思う。特に7.61から8.0になった時は起動ディスクをスイッチして「うわ、古いバージョンがこんなにタルいとは!」と思わせてくれた。8.0から8.1の時は「古い機種だから動きが重いのは仕方ない」という諦めを拭い去ってくれるファインダのパフォーマンスアップがあった。「新しくなったら新しい機械にしてね」といわんばかりの某M$社製の製品とは大違いである。
MacOS8.5はついに660AVでは使えなくなったのでiMacのみアップグレードしたけれど別に不具合なく、意外と見た目とかで変化があって楽しんでいる。(あんまり使ってないからアラが出てないだけかもね)
というわけで、今回は新しモノ好きな割には愛着もっちまって乗り換えがなかなかできない俺、というお話でした。
うーむ、面白味がない割に長すぎるな。無駄無駄(苦笑)。

1998.11.24