ゆうきのスタンドなエッセイ(暫定版)

##偽SF用語辞典〜サイファイの巻〜


そのうち加筆して「スタンドなエッセイ」としてSF感について正式アップしますが、とりあえず、サイファイから起った俺のインスピレーションをまとめてみたッス。

#サイファイ(Sci-Fi)
遅れ馳せながら先ほど梅原さんと青山さんのやりとりを見ました。
難しいですなぁ。やっぱ(^^; でもみんなSFが好きで色々云ってるってことには変わりがないんでしょうな。
ちょっと例の論争というか、喧嘩の後なんでエッセイで偉そうに語るのもなんですが、サイファイネタといえばはずせないのをひとつ。
これは映画「スター・ファイター」のノヴェライズ(新潮文庫:A・D・フォスター)の解説で小川隆さんが書いた文章から引用Death.

(引用開始)
映画や音楽といったポップカルチャーの世界ではサンフランシスコの頭文字でもあるSFという呼称はなぜか嫌われ、SF映画ブームの起った1950年代に当時普及しはじめたハイファイ(高音質)にちなんだ
サイファイ(Sci-Fi)という用語が使われ始めました。
これはSF作家やファンに非常に反発を買い、特に毒舌家としてしられるSF作家ハーラン・エリスンはこう言ったといわれています。
「サイファイ、サイファイ、って騒ぎ立てているけどおまえたちはアホじゃなのか?
サイファイっていうのは、コオロギがSEXするときの音だぞ!」
(引用終了)

こないだのSF者オフ会にでも語ったんですが(忘れちゃったかな?)、俺は2001年の映画が知りたくて海外SF(ハヤカワの青背)に入った人で、このスターファイターはCG使ったSF映画ということで当時「i/o」という雑誌で紹介されて、(小説としての)海外SFをまったく知らない時期に読んだわけだけど、この部分は今でも凄く印象に残っており、良く考えたらあの文章はエリスンでは?と思って読み返したらやっぱりそうだった(笑)。これが俺のファースト・エリスンかよ!(苦笑)
で、俺のオフ会アンケートにも書いてあるが、そこで話したかったテーマは
「なぜSFと銘打つと作品が売れないのか」
だったわけで、実はホンモノの作家さんたちも悩んでるし、50年前から延々と続く永久問題だったわけですな。
ショックなのは「SFは元気だ」説の野阿梓さんを同じ元気派の梅原さんが「(大衆から)嫌われてる作家」として自分とは切り離しているところで、またひとつ「なるほど」と思うところでありました。
「じゃぁ、ゆうきさんはどう思うの?」といわれると、やっぱ、ムムムム、です。
正直、「スペオペがSF以外のモノだ」なんて考え方があることも意識したことない俺なわけで、この梅原さんたちの文章のようにキチンとした説明を受けてようやく都築さんページの話もわかりかけてきた有り様です。
ああ、そうなんだ。俺があんまり好きじゃないのは「現実」との接点がない作品最初なんだ、と理解し始める。
宇宙とか別の世界とかで繰り広げられるくせに話しの筋は時代劇や大河ドラマや西部劇(=ホースオペラ、このオペラからスペオペと呼ばれるんだよ、若いSF研の諸君。だからなんでスペオペって誰も歌ってないんだ?とか云っちゃ駄目だよ)のまんまである作品は俺の感じるSFではない、だから好きじゃなかったんだと思えてきた。
先日、ある翻訳家の先生と個人的にお話する機会がありまして、そのとき自分の中の「SF」像がはっきりしてきた気がするんですよ。
まだしっかり言葉で書けないんですが、それは「驚き」なんですよね。「センス・オブ・ワンダー」(SOW)とか、大袈裟(?)なもんじゃなくて、シンプルに「驚き」かも、です。
最初から魔法使いが指から火炎を出せる世界とか、その惑星の人は生まれながらに超能力が使える、という「設定」は驚きがないんです。俺的には。
そういうのは派手な演出(エフェクト?)を正当化するための「詭弁」という言い方もできるかもしれません。
ところが、この現実の地球上で実証もされていない、「超能力」を「使える人が希にだけど確実にいて、その存在はあまり知られていない」という前提のもとに、「それじゃぁ、その超能力にスタンドっていう名前を付けて映像化します」とかやられると、「ええっ!何それ?!そんなんあり?」という「驚き」が生じるわけです。これが「スタンド使いの惑星」が舞台だったら驚かないわけで、横にいる人が突然それを出す可能性がある、自分も出す可能性がある、(んなわけないのは冷静に考えればわかってるんですけど)そこにぐぐっとくる自分を発見したんです。
アジモフの描く人間そっくりのロボットが大量に徘徊する未来世界には俺は何も魅力が感じない。そこに自分を投影できないからってことです。
ところが「To Heart」というゲームでは高校生が幼なじみと恋愛をするシミュレーションと並列して、家電製品としてのロボットの少女との恋愛が描かれている。おりしもホンダがP2、P3という筑波博で発表された早稲田のワボットの最終進化形態のようなものが現実に動いて、コンピュータや人工知能が加速度的に進化してるときにそんな話をされているわけで、恋愛シミュレーションに家電ロボ子の登場という「驚き」。これはもう俺の「SF」にばしばしっと反応したわけです。(もし、「東鳩」が23世紀の話だったり、『ブギーポップ』が巨大コンピュータ「グロブロー」の構築した世界の話、という前提ならつまらんと歯牙にもかけなかったでしょう)
俺自身、もうだいぶ年取ってきたんで、珍妙なビックリ小説でなくて、ごく普通の大衆小説、つまり人間の描写や「物語」が面白い小説を読んでもある程度楽しめるようになってきたんで、「魔王子」とか「星界の紋章」なんかが楽しめるようになったのかな、と思うし、最近はどこか無理にでも楽しもうとする傾向もなきにしもあらず、で「どこにSFを感じるか」がぼやけてたんですがね。
ホラー(ことにモダンホラー)が恐いのは遠い未来や遠い宇宙でなく、もしかしたら、今の自分にも「その恐いこと」「不思議なこと」が起きる可能性を読者が身近に感じられる、そこに人気の秘密があるのかもしれません。
たぶん、パラサイト・イヴの理屈の部分はけっこう本当の理系の人以外にはどうでもいいことかもしれないんです。ミトコンドリアのかわりに環境ホルモンが水道水に入ってたのが発端だった、とかでもいいんですよ、きっと。
というわけで、俺が求めているものが「現実の延長」であり、ゆえに「過去」とか「歴史改変」とか(時間モノですな)、「生死」とか、「近い未来のテクノロジー演繹」ものばかり。(太陽系が舞台なのはOK。恒星間航行が入るとその他もなんでもありな遠い未来な気がしてしまうので駄目なのかなぁ?)あとは「異次元」(平行世界とか)「ファーストコンタクト」(スタトレじゃないよ)とかですな。おそらく「スペオペ」というジャンル分けにはまらない部分に惹かれているのは明白です。
でも、自分と違う思考・嗜好の人がいるのはあたりまえなわけで、「俺は嫌い」とは云えてもそのジャンル全体や読者を「駄目である」とはいえません。「趣味は違うけど、あの作品のあの部分はぐっときた」くらいの話になっちゃいますけどね。
言葉は難しいです。言葉にすることは「定義」して曖昧さをなくしてしまうことです。
(あれ、これは風野さんの日記にあった言葉かしら?)
しかも、その定義が各々の中で微妙に違っている。その差異を表すのにまた言葉が必要になる。西洋人とちがってなるべくニュアンスとういうか、「口にはせずとも気持ちをわかってほしい」でやってきた我々日本人には難しいことなのかもしれません。西洋の人だってもめもめしてるんだからねぇ。

また説教臭い話ですが、世界を作るにあたって「光あれ!」といった神様ですが、言葉と神様どちらが先にあったんですか?なんて禅問答があるくらい言葉は難しいし、世界平和のためにボランティア活動をしてくれるテレパシストもいないし、我々のだれしもが相手を理解するための多くを言葉によっているわけで、ネット上、紙の上では言葉だけがすべてです。だから言葉こそ神であるけども、その神の力を充分使いこなせない人間が大半なんだから、寛容な心で他人の言葉を解釈していく必要があるんじゃないかなぁ。
『SF』という言葉はそれ自体がそれなりの威力を持った言葉であり、滅びることはないんだろうけど、使い方は難しいなぁ、とつくづく感じるのである。
映画もマンガも小説も、SFとは銘うたないほうが売れるんだろう。でもいまさら『サイファイ』はないよなぁ。
なんか一般にはSFって、受け入れがたい現実を目の前にしたときに、「SFじゃあるまいし」なんて使ったりする。困ったときに頼られる神様みたいな言葉、それがSFなのかもしれない。SFは神様になってしまった。小説「聖書」はそこそこ売れてるみたいだけど、普通の人は神様の説教なんて聞きたくないわけで、だからSFって書くと敬遠されちゃうのかな?などとまた勝手なことを考えてみる。
「神様」とは飛躍しすぎだけど、『理工学書』や『哲学書』に対して一般の人が持つ「難しい、自分とは疎遠なジャンル」という感覚を「SF」は持っているのかもしれない。あるいは「ムー」とか「とんでも本」みたいなうさんくささを持ってるのかもしれない。
とここまで無理な展開をしたところで、俺の駄文はひとまず終わり。

ほんとうはもっと別のことをエッセイとして先に書いてアップしたかったんだけど、例によって勢いでここまで書いてしまったのでまぁ、しかたないですな。
掲示板に載せるには長くなりすぎたので、HTMLにしました。

1998.10.24 wrote.