ゆうきのスタンドなエッセイ

##現代SFの基礎体力!


ひょんな事からSFについての思考が何年かぶりに頭の中でぐるぐると回りだした。
こうなったらもう、一段落するまで止まらない。

思いのほか自分の「SF力」が弱まっていることに気が付いてあせりまくる。
――『楽園の泉』のぱくりだっていわれたシェフィールドの作品名が思い出せない!――
で、「SFハンドブック」を引っ張り出して読んでみた。大学3年の時にこいつが出たのは非常にありがたかった。数年毎に改訂が入っていくもんかと思ったがそれはしてくれなかった。ハヤカワSF文庫20周年記念での出版だったんだろうけど、なんとありがたかった事か。ついでに別冊宝島79「SFワンダーランド」に出会えたことも幸いした。(初版は88年。僕が90年に買った時は4版だった)サイバーパンク・ムーヴメント反省会みたいな内容だったけど、この解説書がなければ、僕はギブスンは読まなかったと思う。それぐらい重要な本だった。SFハンドブックが出た翌年、なぜか勢いづいたSF界は水鏡子の「乱れ殺法SF控」(青心社)を世に送り出した。結果的に僕のSF理論武装はこの本で完了する。
「SF力」とはテクニカルライター小田嶋隆がSFマニアを批判するときに使った言葉だと記憶する。「奴等は『SF力』という絶対的な尺度があって俺にはそれが不足しているとぬかしやがる」。で、僕が思うにそーゆー尺度はおたくだのマニアだのの分野には少なからず存在していると思うので好んでこの言葉を使っている。SF力もSFの数をこなさないと絶対に身に付かないもんである。上記に上げたガイドブックは手っ取り早く僕のSF力を「並み」くらいにはあげてくれた。音楽に関してまるで無知な僕が洋楽のCDコーナーにいってもなにがなんだかさっぱりな感じがするけれど、その感覚は(海外)SFを読んだことのない人がハヤカワSF文庫の青背を前にしたときに味わうのとまったく一緒だと思う。ある程度の基礎知識なしには何も始められないものだ。上記のガイドブックたちは僕に何が読んでみたいか、という動機付けをしてくれた貴重な存在だった。
「なぜ山に登るんですか?」
「そこに山があるからだ」
子供の頃はヘンな問答だと思っていたけど、そうなのだ、「山」の存在を知らなければ登ろうという気持ちにはならないものだ、と僕は勝手に解釈した。「欲しい本」や「読みたい本」がなければ古本屋をめぐることはなかったはずなのだ。

##お薦めの本はもう本屋には売っていない!##

サンリオ文庫はなくなってしまったけど、まだまだハヤカワ文庫、創元推理文庫は「探せば」手に入る時期だったので神田の三省堂2Fや書泉1F、古本街は毎週チェックでハヤカワSF、創元のSFで欲しいモノは92年頃にはほとんどなくなってしまった。残ったのは集英社ワールドSF、講談社の世界SF大賞傑作選1〜8、創元の年刊SF傑作選1〜7、それと絶版のサンリオ文庫、ハヤカワの銀背くらいになって、もうよほどのことがないかぎりそれらは手に入らないと思ってあきらめていた。某Sさんのまねをして「欲しい本リスト」とかを持ちあるっていたのもこの頃だ。
大学四年の頃はかなりヒートアップしていて、本屋で早川と創元の目録をもらってかたっぱしから注文、また直接出版社に電話してみたりした。「ベスターの『分解された男』って目録には載ってるんですが?」「在庫はありませんね」というわけで、直接問い合わせて手に入るものがある(古本市で『希少本フェア』とかいってでてくるのがコレ!)ことと、「絶版」と「在庫切れ」は違うということを知ったのだった。(数年後、見事にベスターの作品は新装版が本屋に並ぶことになる)
SF文庫の命は短い。以前SF大会の会場か、SFマガジンの投稿欄で、「SFハンドブックに載っている名作で読みたいモノがたくさんあるのに、本屋に売っていない」とか「シリーズものの間の1冊がどうしても手に入らない」などの愚痴を聞いたことがあり、まったく自分も同じ経験をしていたので同感に思った事がある。出版社(早川)側のいいわけも聞いた事がある。倉庫に売れない在庫を置いておくことは経営上非常につらいのだと。「文庫といっても取り扱い期間の長い雑誌だと思ってくれないと困りますね」
サンリオがなくなって皆が買いに走ったとき、「みんながちゃんと買っていれば」と誰かがいっていたっけ。でも人間て間違いに気付くまではどうしようもない生き物だもんね。攻めちゃいけない。だからといって「これはきっとなくなりそうだから」って賢しい理由で本を物色するほどすれちゃいないしね。(だが、そのようにして某Sさんが買っていた角川文庫の海外SFシリーズはやっぱり消えちゃって、ゼラズニィの死んだ今、<エイリアン・スピードウェイ>シリーズは読めなくなってしまった。痛い)
SFは驚くほどくずの宝庫だ。でもそれはSFだけじゃなく、この世界の98%がくずだって話もあるんだからしかたがない。でも今の日本のSF出版の状況をみると「なんで『名作文学』はいつでも読めるのに『名作SF』は二度と読めないんだ?!」という感触を禁じ得ない。サマセット・モームやトーマス・マンは読めてもヒューゴー賞受賞中・短編が読めないのが今の日本の出版状況なのだ。悔しい思いをしたくないなら毎月SFマガジンを買うしかない。しかしなんともさびしい状況に変わりはない。「これ絶対おもしれーよ!」と他人に薦めたくても自分の本棚から引っこ抜いて貸すことしかできないのだから。
早川と創元ががんばっているのはわかるけど、「年中本屋に置いてあるラインナップ」の基準がなんであるかイマイチわからないとこもある。
なんかいろいろ愚痴ってきたけど、とにかく僕が言いたいのは僕が薦めたいSFの大半が「もう本屋で売ってない本」であることがとっても悔しいってことだ。僕個人ではどうしようもないしカウンター・カルチャーとしてのSFももう時代的にその役目を終えようとしているようだし、これからは周辺文学と希薄なラインを保ちつつ、SF者に気に入られた作品を「SF」と呼んでいくとこになるんだと思う。だからせいぜい昔の「SF」と太鼓判を押された作品群の中から面白いものを拾っていくしかないのかな?なんて悲観的にもなったりしている。

##僕らは未来を生きている##

僕は既にあちこちでいっているんだけど、(ホームパーティーの中だけか?)「我々は既に未来を生きている」わけで、だからSFが面白くなくなった、いや違った、最近書かれるSFが面白くないんだと思う。そう、けしてSFが面白くなくなったわけではない。むしろ、科学的予言がいかに現実のものと異なっていたか、という検証ができて出版された当時の人とは違ったおもしろさで読み進められるんじゃないかと思う。
たとえば!御三家ハインラインの名作、『夏への扉』は57年の作品。古すぎる!でもそれより面白い話しがあんまりでてこないんだからしかたがない。彼の描く2001年の世界(あと3年後だヨ!)は「口述タイプライターはあったが複雑な英語では使い物にならない」なんて言ってんだヨ!某一文字づつずらすとHALになっちゃう会社が売り出してる「Voice Type Dectation」にソックリだね!確か俺の記憶では主人公は「メイドロボ・マルチ」みたいなのを設計開発して大当たり!でも女運がなくてだまされてロリーに走るっていうハインラインの駄目人間さ炸裂!みたいな内容だったと記憶する。どう考えても迷作だ!!
SFガジェット(小道具)については現実のテクノロジーがほとんど追い越してしまっている。実際に負けているのは外宇宙(太陽系の外ではなく、バラードの内的宇宙に対するホントの宇宙)への進出だけだろう。ミール以外に人が常駐する宇宙ステーションもなく、月面には昭和基地規模の有人基地もなく、どっかのジジイが住んでいるスリランカでは学生運動はやっていても軌道エレベータ建設の気配もない。ホンダはプリウスというすばらしい車を発売したが、依然として車は醜い4つのゴムタイヤをはいている。そうなんだよな、大きなモノは依然として思い描いていた「未来」とは違っているくせに記録媒体みたいのははるかに想像を越えてるんだよね。記憶屋ジョニーは10年後、映画にするときは記憶容量の単位を一つ繰り上げなければならなかったしね。ホログラムやホログラフが寵児になっていた70年代とは裏腹に、「光」媒体は進化しなかった。今はネットストリーミング、ATM、QTVR、ポリゴンがそれに替わっているわけだ。
サイバーパンクという言葉通り、過去の人がせっせと苦労して作り上げた未来世界での「変容」は主に電脳空間での技術として拡張されている気がする。インターネットチャットで、スタパがホモのオランダ人のフリをしてみたり、ディアブロなんかで外人にかもられちゃうなんて半分以上「ニューロマンサー」的サイバーパンクを実践してるとおもうんだけどねー。僕らはパソコンという「デッキ」を使ってインターネットという「サイバー・スペース」にダイブしてどこでもドアなんてなしに世界中を飛び回っているわけだ。頭にソケットをつけるかどうかはもはやあんまり重要じゃなくなってしまった。ネット対戦ゲームの世界では既に中世の騎士や魔法使い、果てはロボジョックスにまでなれる。「ネットおかま」になれば僕らは肉体的な欠損を伴わなくても簡単に性転換すらできる世界に生きているんだ。
かくして世界は僕が十数年前に予言してた以下のような通りの世界になった。
こんなふうに思っていたせいで、僕は宇宙探検をしないSFばっかり読んでいた。多分、ノストラダムスの予言でも読むような気持ちだったんじゃないかと思う。未来がどうなるのかを知りたかったのだ。そういったわけで、科学技術の外挿には興味がなかったので自然とハードSFは読まなくなった。でもファンタジーに転ばなかったのはやはり「科学」信望者だったからだと思う。宇宙にはでられない、という一種宗教的な思い込みから(ま、現実にそうなっているわけだけど)スペオペと呼ばれる分野もほとんど読んでいない。光子ロケットか重力制御装置が開発されなければ人類は「地球人」にしかなれないと思っていた。だから異次元に行ったり時間を行き来する話の方が好きだったな。宇宙には宇宙飛行士しか行けないが、異次元や過去や未来には、ひょんなことから自分もいけるかも、という可能性の問題もあったかもしれない。
繰り返し言うが、絢爛豪華ではないけれど、それでもSFが元気だった頃の人が思い描いていた未来(50年代の人々が予想した50年後の世界)に非常に近いラインで僕らは生きている。だから今、古いSFを読んでみるととても面白いとおもうんだよなー。


##というわけで、お薦めのSF第1弾に進む##(98/3/26)


##今すぐ本屋に走れ!お薦めSF第2弾に進む##(98/4/18)


##もう買えない、でも読め!バカSF!お薦め第3弾に進む##(98/5/13)


##わが心のオールタイムベストSF’98に進む##(98/5/24)