ゆうきのスタンドなエッセイ

##漢(おとこ)の戦い


マッハバロン、眠れ眠れ〜 お前の使命を終わらせてあげたい。戦う機械でなくしてあげたーい
勝手な歌だ。オレは問う、戦闘するために生まれてきたロボットはその使命を終えたとき、いったい存在している価値があるのだろうかと。
まったくもって今のオレは戦いが終わってしまったあとの戦闘機械状態なのだった。
本当に死にそうな戦いを終えて、町には平和がやってきてしまったのだ。では、オレはどうすればいいのか?
かつて、オレの人生は戦いに明け暮れていた。
オレはロボジョックスとして戦い、メックウォーリアとして戦い、ヴァーチャロイド乗りとして戦ってきた。そしてオレには自分の限界が見えてきてしまったのだ。オレは現役を退き、いまはただのモーターボーラーくずれとしてひっそりと暮らしている。ケーブルTVでカーリングの中継に心を熱くする。そんな日々だ。
帝王は云った。
「俺は強さの究極を極めたわけではない。単に俺自身の限界を極めたにすぎん!」
ああぁ、あんたは凄いよジャシュガン。俺は自分自身の限界すら極められていないよ。
「人間とは限られた存在だ。『戦い』とは!その限界の中でどこまで自由を獲得できるかあがくもの!」
思うに、最も大きな敵だったのはいつだって自分だった。オレは自分を見失い、ときには不意打ちをくらい、破れ、辛酸をなめてきた。もう自分と戦うのにつかれてしまったのかもしれない。
自分に何ができるのか?何ができないのか?何がしたいのか?何が必要で、何が不要なのか?すっかり五里霧中状態で、何やら考えるのにもつかれてしまっていた。
「究極の問いを発し続けろ!どこまでも高みへ!!」
ノヴァ先生はおっしゃいました。
「我々は何者なのか!人生にどんな意味があるのか!
 何を求めどこへいこうとしてるのか!なぜここにいるのか!」
高校生くらいのとき、血の小便がでるほどそこらへんについては考えたけど、結局答えは何も見つからなかった。大抵の人が一度くらいは真剣に考えるんだろうえけど、皆それぞれの妥協点を見つけて、答えのないまま、日常に忙殺されてゆく。時間は限られており、我々はそこにとどまることを許されないからだ。プラトンの云うとおり、「そんなことは奴隷にでもさせておけ。我々はもっと思弁に時間を裂くべきだ」。
生きるべきか、死ぬべきか、とハムレットの様な自問自答を繰り返し、28年生きてきた、今のオレにある唯一の答えは
「それでも生きていかざるをえない」ということだ。
村上春樹の云うように「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」のだ。だったら生きていかざるを得ない。辛い記憶は薄れ、楽しい記憶もまた平等に薄れて行く。記憶があろうとなかろうと、うれしかろうとかなしかろうと、我々は毎日息をして、食事をとって、糞をして、そして眠るのだ。オナニーが虚しい行為をだと知っても、強姦が犯罪だと知っても、愛がセックスのスパイスにすぎないと知っても、我々は生殖器の機能を殺して生きて行くわけにはいかないのだ。刹那的にホルモン分泌が与えてくれる幸福感で多くの辛いことを薄めて、明日に命をつないでいく以外にないのだ。たとえ凡庸な人生に時間を奪われ、老いてゆくのみだとしても・・・。
レッスン1!
「考えるよりまずは感じることが大切!」
オレは貧弱な子供の大半がそうであるように、行動することの結果を常に考えて、恐れていた。成功すると思ったことの影にはかならず失敗という名の苦い味が隠れている。感じるのはあとからでいい。まずは結果を予想しろ。考えるんだ、と。
そんなのは大間違いだ。我々有機生命体に与えられた活動時間は非常に限られている。宇宙全体が熱死を迎える方が先かもしれない、なんて考えた人もいる。
人間はほっておいても死ぬのだ。だが、生きることは「生きよう」と思わない限り続かない。生きることの意味や自分の存在意義を考える前に目の前の事象を感じることが大切なのだ。感じたことについて考えればいいのだ。
人は誰も黄金の理想を持ち得る。だが、その黄金は経験がもたらしたものでなくてはならないのだ。レオナルド・ダ・ビンチは飛行機械の図面を書いただけだった。リリエンタールは6回骨折したが、実際、空を飛んだ。
君よ、問え。「どんな国を作るつもりですか?」
「鳥が飛ぶ国だ」
君よ、問え。「この世界に望む事は?」
「すべての人が自分の翼で飛ぶことだ」
人には翼がなく、鳥には翼がある。そして人は「もしも翼があったなら」と考えることができる生き物なのだ。そして、飛ぶことができる生き物なのだ。

さぁ、冒険を開始します。>>ALL