タキオンの日                       ことぶきゆうき 二十一世紀半ば、人類はすでに人口二百億を超し、太陽系の移住可能なあらゆる惑星、 衛星に進出し、完全な太陽系の支配者となっていた。 ノストラダムスの予言は大はずれ。世界のごたごたは二十一世紀初頭にはおさまって、 地球はいよいよ単一の国家となり、今ではそのちっぽけな庭で宇宙連合を結成していた。 素粒子物理学の発展により、高い質量を持つ光子である『重光子』(ヴァリフォトン)が 発見され、それにともないそれを粒子としてしっかり受けとめる回折格子、いわゆる『光 子鏡』(フォトンミラー)が開発されることで人類はついに光速の九十九・九八%を手に入 れたのだった。太陽系から外への冒険時代に突入したのだ。 しかしアインシュタインの残していってくれた知恵と課題を克服することは難しく、外 の世界への冒険旅行はむこうみずのスペースマンにのみ許されるところとなったのである。 そうして人類が外の世界に接して、改めて痛感したことは、宇宙が“広い”ことと、光 が“遅い”ことと、アインシュタインが“偉い”ということだった。 地球の上ではいま だに科学者達が九・八一m/s2 の重力加速度のもとで新たな物理法則を見いだそうとは いずり回っていた。その試みは地球の衛星軌道上でも行われていたが、地球から離れれば 離れるほど彼等の研究熱はさめていった。人類はまだ、母なる地球から乳ばなれしたばか りの赤子同然なのだ。 さて今日、昔のアメリカ合衆国、今でいう地球国北アメリカ州の、ニューメキシコ県の はるか上空に直径二十kmほどの巨大な『加速器』が浮かんでいた。そのドーナツは金星か ら持ってきた白金−イリジウム系の超伝導セラミックの塊で、様々な素粒子物理の実験の 行えるホールと、研究員達が長期生活のできる居住区をそなえた宇宙ステーションにもな っていた。名前を『神の門』(バビロン)といった。 『バビロン』は県立ロスアラモス科学研究所が国の援助を受けて完成させた、タキオン 粒子発生実験用陽子加速器である。超伝導技術とSDIの粒子ビーム技術は素粒子物理学 を大きく飛躍させた。宇宙に進出していった科学者の研究成果もそれに一役買っていた。 近年、タイタンにある小さな研究所が『タキオン』を発見したという報告を行ってから タキオン・ブームが巻き起こった。宇宙線と粒子加速の研究を行っていたところ、それは 偶然に発見された。 陽子を約六百億電子ボルトにまで加速したところへある宇宙線(π中間子の一種)が入 りこんだところ、何らかの共振現象が起こり、加速器内の陽子のエネルギーのが10の32乗 電子ボルトを超えて陽子崩壊を起こしたにもかかわらず、エネルギーの測定値が低下せず むしろ上昇したため、その陽電子、あるいは未知の素粒子は光速を越えたことになる。 というものだった。 その後あちこちで追実験が行われた。これこそタキオンであるという所もあれば、測定 器に問題があるとか、ひいては理論そのものもデタラメである、という所まであらわれる しまつだった。もめにもめた結果、50G電子ボルト以上に加速した陽電子(素粒子)に、 それに唯一同調する宇宙線などでさらに高いエネルギーを持つ素粒子をうわのせしてやる と、エネルギーの低かったほうの粒子が崩壊を起こし、高いほうの粒子もさらに高いエネ ルギーを増した粒子になるという現象が起こることまでは認められた。はたして、その粒 子が本当に光速を超えた『タキオン』であるかはわからなかったため、この現象が『タキ オン効果』と名付けられるにとどまった。しかし理論的には、これが二次的、三次的に繰 り返されるならば、最終的には光速を基準点として無限大に加速可能な粒子が誕生するこ とになる。それが真に『タキオン』と呼ばれる粒子であった。また、それは人類が時間を 物理的に克服し、新しい分野を切り開くことにもつながるのだ。 タキオンは複雑な時間関数を持つ粒子である。例を挙げて説明すると、三十八万km離れ た地点においてある測定器に光を発射したならば、発射一秒後に測定器は反応する。とこ ろがタキオンの場合は、その質量と速度による質量エネルギーの度合いによって、光速を はるかに凌駕した場合、それは従来の物質と違って質量的発散も電化的発散もしないため 、0秒に集束せず、負の時間帯に飛び込むのだ。したがってタキオンを発射した数秒前に 測定器が反応することになるのだ。『過去へ飛ぶ粒子』であるタキオンはアインシュタイ ンの物理の完全に外側にある物質だった。そしてそれは人類の行動範囲を制限していた『 時間』の足枷を外してくれる希望の火だったのである。この夢の物質に世界中の科学者が とびついた。人類が相対性理論の壁を超え、ちょっと旅行に行く気分で別の銀河へ行ける ようになるかもしれないのだ。地球も国力を上げて科学者を支援した。 ロスアラモス化学研究所のロバート・P・クラーク博士もそんな科学者の一人だった。 そして地球は彼の能力を高く買ってくれ、この巨大なドーナツ、『バビロン』を彼に与え たのだった。 そうしてバビロンで幾たびもの実験が行われ、数々の成功と失敗が次第に『タキオン』 という前人未到の力の輪郭を織りなしていった。 ロシア州シベリア郡にある大型加速器中でタキオンと思われる物質が発生したが確認は できなかった。金属片に衝突させようとしたところ、金属片は素粒子もろとも消えてしま ったのだという。 未確認といえどその報告はクラーク達をあせらせるのには十分だった。 二一五九年、八月十五日。その日はやってきた。理論式は完璧だった。後はやるだけだ った。そう、作動スイッチを入れて何分、いや何秒後かにタキオンが発生しなければ失敗 、発生すればクラークは未来永劫の名声を得、人類はまさに光よりも速い翼を得るのだ。 静止軌道上の実験ホールには太陽系全土からこの実験を見守るべく科学者と記者とが集 まってきていた。それらの群衆の前でクラークは成功率八割以上のこの実験のための演説 をぶつのだ。 ――やけにのどが渇く―― 演説が終り、拍手の嵐が彼をおそった。彼はよろよろと臨時にすえつけられた演台を降 りた。予定では三十分後にすべての準備が整い、彼の指がタキオン発生器の始動スイッチ を押すことになるのだ。 カウントダウン−九!八!・・・三!二!一!〇!! 「始動!!」 クラークはできるだけ平静をよそおいつつ指先に全神経を集中し、始動ボタンを押した。 見物人達が息をのむなと同時に、クラークは大きく息を吐いた。 装置の作動が正常であることが次々と告げられる。そしてオペレーターの淡々と実験の 経過を追ってゆく声がこぎみよく響いた。クラークは緊張しつつも目を細め、栄光がゆっ くり近づいてくるのがわかった。 オペレーターの口調が変わった。 「クラーク博士、素粒子が光速の一〇〇%に達したことが確認されました。さらに加速を 続けています。…実験は成功です!」 ワァッ!と歓声と拍手が沸き起こった。研究所員が総立ちになった。ついに人類は夢を、 クラークは名声をこの瞬間に得たのだった。 すべてがつつがなく行われていた。クラーク博士は人人と握手を交わしながら、ほとば しる歓気の中に自らを没していた。記者会見を行う準備がなされた。 席についた老科学者は喜びのうちに、すべてを終えてしまったことの脱力感をすでに感 じはじめていた。自分にはもはや先へ進もうとする力が残されていないことを理解し始め ていたのだ。 自分は人類にアインシュタインの壁を越えさせた。それと同時に次の壁も作った。後は 新しい世代にまかせるだけでよかったのだ。 ボケッと座り込んでいた博士の横に研究所員の一人がかけよってきた。 「博士、大変です!」 「む、どうしたね?」 「制御が効きません」 「なんだって?」クラークの背に冷たいものが走った。「なにがどうしたんだね?」 顔に玉の汗を浮かべた男はその大きな声ではっきりとこう言った。 「タキオンの、タキオンの影響で、このバビロンの軌道が変わりつつあるんです。ところ が、タキオンの制御が、…タキオンの増殖が停止できないんですよ!」 静止軌道上にある巨大な金属のドーナツはじりじりと降下しつつあった。 「いったいどうしたことだ!」 様々なデータをあさり、一つ一つをくいいるように見つめた。 「博士、これは?」 「…うーむ、タキオンが重力に大きく影響している…・いや、タキオン自身が重力エネル ギーを増加させているんだ…」 迂闊だった。クラークは激しく後悔した。人類は重力の謎のすべてを説き明かしてはい なかったのだ。今までの素粒子物理では、弱い相互作用、強い相互作用、電磁的相互作用 の三つについてのみ考えられていた。重力の影響は無視され続けてきたのだ。タキオンが 重力と『第五の力』のなぞを解くカギになってくれると信じられてきた。確かにその通り だったが、これほど率直な影響があるとはだれも予測だにしていなかったのだ。 もはや、機械による加速はおこなわれてない。加速器の中でタキオンがお互いに加速し あっているのだ。無限点へ向かって。 「逆方向の電界には?」 「まったく無視されています」 「なんということだ!」 ありとあらゆる手段が取られ、ありとあらゆる努力がなされたが、すべて無効だった。 未知の怪物は暴れ続けるのを止めなかった。 「金属片による障壁は試したかね?」 「駄目ですよ、もうコンピューターの演算能力限界近くまでエネルギーが増大しているん ですよ。そんな粒子に物質をぶつけたらとんでもない力積の爆発が起こってしまいます」 「そんなことは分かっている。しかしそれは今までの物理学の世界での話だ。タキオンに はあてはまらんかもしれん」 「しかし・・・」 耐えがたい沈黙があった。 「このままだとバビロンはどこに落ちてしまうんだね?」 オペレーターの一人が素早くキーボードを操作するとディスプレイにバビロンの落下軌 道が表示された。 「タキオンによる重力加速度はあくまで予測値ですが……このままだと約三十一分三十八 秒後に北緯32度66分、西経70度02分の地点…大西洋上に落下します」 再び沈黙。 騒がしくなってきた。ブンヤ達が気づき始めたらしい。 「地上に落とすわけにはいくまい。障壁による減速をやってみよう。しくじったとしても 地上に落とすよりは被害が小さくてすむだろう」 それ以外方法はなかった。 「よし、そうと決まればお客さん達を第至急避難させてくれ。君達もデータをまとめて脱 出の準備をするんだ」「わっ、わかりました」 パニックが予想されたが、それに反してたいした混乱は起こらなかった。さすが良識あ る科学者達、といいたいところだが知識人が良識人とは限らず、二、三の例外はあった。 それと何人かの記者の扱いに多少手をやいた。 そして彼らはまさに“緊急”に、バビロンから外におっぽり出された。暴走したタキオ ン――未知なる巨大なエネルギーの怪物の魔の手から逃げおおせるのにどこまでいけばよ いのかはだれも知らなかった。もしかしたら太陽系に安全な場所はないのかもしれなかっ たが、今はとにかくドーナツから離れることが先決だった。 研究所員は全員脱出にかかっていた。 「博士、早くこちらへいらしてください!」 若い研究所員の言葉に老人は静かにかぶりをふった。 「ばかもん、だれかが残ってスイッチを入れにゃならんだろうが」 「博士、その役は私が……」 老人はにっこり笑って、 「もういいんだよ。私はタキオンを作った。人類はタキオンを作ったのだ。見つけたんじ ゃなしにね。私はそれで十分だ。タキオンをこれからどうするかは君たちが決めることで 私の仕事じゃない。それに後始末をつけにゃならんのだよ」 研究所員の目から涙があふれた。彼は黙ってきびすを返した。 それから二十秒後、最後の脱出ポッドが打ち出された。 「さてと、タイミングが問題だな」 大気圏がせまっていた。しかし今すぐ金属障壁を加速しつづけるタキオン流に入れるわ けにはいかない。最後の脱出ポットが十分離れるまでは。 数秒過ぎた。バビロンもだいぶ落下速度がついてきていた。老科学者ロバート・P・ク ラークは最後の実験に取りかかった。 深いため息の後、指がスイッチを入れた。クラークは運命の時を待った。何も起こらな かった。各データが映しだされているディスプレイを見る。金属板挿入の瞬間、ドーナツ 内のエネルギーが少量減っていた。障壁はいくつかのタキオン粒子を止めて、自らの質量 と衝突エネルギーと共に消失してしまったのだ。 ――そうだ、これはきっとシベリアの研究所と同じ現象が起こったに違いない。ただ、唯 一ちがっている点は、あちらは始めてすぐだから防げたが、こっちは防ぎきれないほどの 粒子が加速し、増殖していることだ…。 もはや最後の方法は終わってしまったのだ。バビロンの地上への衝突は避けがたくなっ てしまった。核ミサイルは廃絶されてしまっていた。地上に残るわずかな兵器でこの直径 二十kmのセラミックスのドーナツを迎撃できるだろうか? 加速度がクラーク老人の心臓をきゅっ、と締めた。 大気圏に突入して付属部品の大半がふきとんだ。バビロンはその内に超エネルギーの粒 子を秘めたまま、真っ赤に焼けて落ちていった。 大地が揺れた。バビロンは大西洋に消えていった。 地球が震えた。 バビロンは地面と激しく衝突した。タキオンの星をもかちわらんばかりのエネルギーは だいぶ減っていたが、バビロンの本体と地面をこなごなにして、成層圏までぶち立てるく らいの力は残っていた。その塵がやがて地球の空全体を覆いつくし、地球はこれから永い 冬をむかえることになるはずだった。衝突エネルギーはマントルの動きを活発にして激し く地殻変動を起こした。 その結果、地球を征服していた生き物は死に絶えることになるのである。 生きのびた研究員達は仰天した。バビロンが地上におちてきたことに。そしてあとかた もなく消えてしまったことに。 後の研究でタキオン粒子は電磁的相互作用から離れて重力的作用、時間的相互作用が関 係することが決定付けられた。そして人類がさがしていた『第五の力』とはその時間的な 作用であることも初めて明らかになったのである。 タキオンは時間を遡る粒子である。従ってタキオンの力学は『現在』では観測できない。 衝突が起こったならば、その瞬間に力積は別の時間、別の次元、別の慣性系に移動され、 移動先において反応が起こるのだ。ツングースの爆発はシベリアでの結果であり、二十世 紀前半から半ばにかけてバミューダ諸島沖で飛行機や船舶の遭難が相次いだのも今回の実 験の影響と見る見方が強まっていた。 計算によると、バビロンが地表に達する瞬間に持っていた時間エネルギーはバビロンを 六十五万〜七十五万年前にも運ぶことになるらしい明らかになった。 白亜紀末期、イリジウムの土ぼこりを巻き上げて恐竜の時代を終わらせ、ホ乳動物を切 り開いたのは他でもない人類だったのだ。 ロバート・P・クラークはアインシュタインを越えて人類に“神の火”を与えてくれた プロメテウスだった。あるいは人類をこしらえた鍛冶の神であったと言えるかもしれなか った。

1989/11/6 "Takion Barst"

 (『ぷちジェネシスvol.6』 初出)