グッバイ、サマーホリデイズ                       ことぶきゆうき 八月の棘々しい陽射しが僕の表皮にメラニン色素を浮きだたせる前に僕はドーナツショ ップのドアをくぐった。 「いらっしゃいませー」 幸い今日はカウンター前に僕の他に客はいなかった。いつもは午前中のこの時間にも結 構客は来ていて、持ち帰り品の梱包が終るのを待っていたり、注文の品をチョイスするの に余計な気を回し過ぎてショウウインドゥの前を右往左往する姿を少なからず見かけるも のだ。 僕はたいていそんな時は、ドアのそばでカウンターの前が開けるのを待っている。後か ら来たせっかちな客に順を抜かれて当たり前なくらい、静かに。 そして僕はカウンターから厨房にかけて彼女の姿を探す。あるいは彼女が他の客に埋も れてオーダーのおいてけぼりをくわされている僕を発見してくれないかと。 「ご注文の方、お決まりになりましたら、どうぞおっしゃってください」 残念ながら今日僕にオーダーを聞きにきたのは火曜日と金曜日とに入っている、おそら くは夏の間だけの短期アルバイトの女子高生だった。 「フロン三個とアメリカンコーヒー」 僕はぶっきらぼうにそう注文した。目につくところに彼女の姿はなかった。 「コーヒーはアイスでよろしいですか?」 この娘だってけっしてかわいくない方ではないと思う。小さな整った顔にアラレちゃん メガネがチャーミングだ。 「いや、ホットで」 「かしこまりました。少々お待ちください」 そういって眼鏡の店員は僕の注文を揃え始めた。僕は色の濃い新品のブルージーンズの ポケットから財布を抜き出し、支払うべき代金を用意した。釣り銭なしで手に持っておき、 財布はさっさとしまうのが僕の流儀だ。 「ご注文の方繰り返させていただきます。フロンが…」 そんなもの繰り返さなくたって もう十分すぎるほど値段は心得ていた。なんといってもこのセットを注文するのは六月の 終わりにこの店を訪れて以来、五十回は軽く越していただろうから。 僕はトレーを受け取って、いつも使っている席が無人なのを確認してまっすぐそこへ行 き、流れるように座った。この席は隅っこにあって右側にも後ろにも寄り掛かれたし、カ ウンターと厨房が見渡せるような位置にあった。なによりも禁煙席でないのがポイントだ った。 席に落ち着いてまず、コーヒーのいれ具合を見た。熱い湯気を鼻から吸い込んで香りを 確かめ、煙草に舌が焼かれる前に一口、ブラックのままですする。 ――まずまず。いれたてに近いかな。へまもやってない。 僕はやや前かがみになって肘をつくと左手にカップをもって虚ろに厨房からカウンター、 カウンターから厨房へと視線を走らせ始めた。 ――おかしいな、今日はお休みかな? そんな不安と焦燥が僕の脳をチリリと焼き始めたとき、厨房へ彼女が姿を現した。僕は ほっ、と一息ついて、ぐっとコーヒーを飲み下だした。 「すいません、アメリカンコーヒーのおかわりください」 僕の声はけして大きくなかったが、『良く通る声だ』とよくいわれる。店中に響いたの ではないかと思った。 「はいっ、少々お待ちください」 彼女は身支度を十分に整えてこなかった様子で、あわてて制服のエプロンの紐を後ろ手 に結んでいる。カウンターの店員がコーヒーのサーバーの方へ駆け寄ろうとするのを見て 僕はげっ、と思ったが、タイミング良く入口の自動ドアが開いたので僕は胸を撫でおろし た。 彼女がサーバーを持ち、カウンター横の扉を抜けてこちらへくる間、なんともいえない 『どきどき』を楽しむ余裕があった。なにしろ五十回だ。最初の頃のうつむいて縮こまっ ていた頃とは違う。 「おまたせしました」 彼女は僕のカップの受け皿を取り、そこへコポコポとコーヒーを注いだ。本当の味はさ っきより落ちているのだろうが、彼女がいれてくれたものとなるとそこはそれ、またいっ そう違った味わいがある。 注ぎ終るとカップの取っ手をクルリと右側へ直し、 「ごゆっくりどうぞ」 といって去っていった。 僕はこの『クルリ』が嫌いだった。僕は左利きだ。一月半にもう五十回も来ているのだ から覚えてくれてもいいはずだと思う。でも、こういう店は喫茶店なんかと違ってマニュ アル教育が徹底しているようだからまあ、仕方がないのかもしれない。 僕はテトラポッドの様な格好のドーナツ、『フロン』を一口かじった。こいつは一番安 いのに、突起一個一個をちぎりちぎり食べれば、四倍の時間味わうことができるという素 晴らしい商品だった。味もさっぱりとして好みに適っていたが、いつも山盛り陳列棚に余 っていた。 彼女の名前は小尾さんといった。ネームプレートにはそう書いてあった。 僕は二杯目のコーヒーを彼女に入れてもらい、ゴールデンバットをくゆらせながら、フ ロンをつまみ、厨房やカウンターで一生懸命に働く彼女の後ろ姿をながめているのが好き だった。 ――以前は後ろから自分が眺められているのが好きだったものだが… こうして女の尻を追いかけている自分を意識すると、ついこの間まで保ってきた自分と 後輩の女の子との関係を思い出してしまう。もう終ったことなのに…。 僕はたいして色男ではなかった。恋愛経験もそうあるわけじなかったし、たちが悪いこ とに奥手も奥手だった。その僕が漫画や小説のように、『町で見掛けたかわいいあの娘』 に恋焦がれて毎日のようにドーナツを食べに来ているのだから、自分でも困ったものだと 思う。 僕は一目惚れなんてものは信じないたちだった。外見だけで人を好きになるのは、商品 を気にいったという感情と同じものに他ならないと考えていたからだ。 だが、実際にはそれは違った。僕はここで働く彼女の姿しか知らないくせに彼女に入れ 込んでしまった。高校時代の、あの訳もわからずに女が欲しかった時の様な軽はずみな感 情でないことも重々承知していた。一目惚れは成立することを僕は実感したのだ。 でも、僕は一日に何人となく来る客のうちの一人で、彼女はこの店のアルバイトの一人 で、客と店員という関係は目に見えない氷壁のように冷たく確実に立ちっていた。僕はこ の氷壁をどう崩せばいいのか皆目見当もつかないまま五十回以上も来店し、同じ注文を繰 り返し、彼女におかわりのコーヒーを入れてもらっているのだった。 だが、今日の僕は 胸にある決意をしていた。もう、考えるだけの日々はやめにした。この氷壁を崩すのに、 神の助力を望むのは諦めているのと同じことだと判断した。行動無くして結果はありえな いのだ。 まだあるまだあると思っていた長い長い夏休みは、気がつくともう残りわずかになって いて、やらなければならないことだけ山積みになっていて、いったい自分はこの長い休暇 の間にいったいどれだけのことをしてきただろうと反省を始めてしまうのが常だった。人 生だって同じだ。まだあるまだあると思っていても気がつけば、自分は何をしてきただろ うと後を振り返る日々が待っているだけだ。 「すいません!」 僕は今日、二度目のコーヒーのおかわりを頼んだ。 小尾さん――下の名前はまだ知らない――は再び僕のところへコーヒーを持ってやって きた。 彼女がクルリとカップを回した時に僕は小声で、 「小尾さん、ちょっと」 と声を掛けた。もう止まらない。 彼女は本名を呼ばれて少し戸惑いの色を見せながらも僕に顔を寄せてきた。『なんでし ょう?』そんな言葉が今にも発せられそうな表情だった。 「あの…その…」 ええい!そんなにぐずぐずしてるヒマがあるのか!と僕は自分自身に喝を入れた。 「今日、お店がひけたら…僕につきあってくれないかな」 僕の顔はきっと真っ赤だろう。鏡なんか見なくてもわかるぐらい血がのぼっているのが わかった。 彼女は最初、驚いた様な顔をしていたが徐々に頬が紅潮してゆくのが見て取れた。 そして彼女は右手を僕のカップに延ばすとクルリと取っ手を僕の左側へ回した。 「かしこまりました」 そういって会釈すると彼女はさがっていった。 ――『かしこまりました』だって? 僕はしばしきょとんとしていたが取っ手が左側に向いたコーヒーカップに目を止めて、 自分の申し出が通った事を理解した。 「いやっほう!」 立ち上がって叫びたかったが、歓喜の叫びは心の中に止めておいた。 不幸の真っただなかにあっても、嬉しいことはやっぱり嬉しくて、その度合いもいっそ う増すのだということを僕は始めて知った。そうだ。初めてをいっぱい経験しておくのだ。 そうでなくては生きる甲斐がない。 僕は残っていたドーナツを頬張ると、さて、午後六時までの時間をどうしたものかと思 いを巡らせた。 * * * やっと空に朱色が混じってきた頃、再びドーナツショップを訪れた。僕はコーヒーだけ 注文していつもの席に座った。彼女はまだ仕事中だった。 厨房で食器を洗ったり、カウンターで応対する彼女の姿を見るのは楽しかった。一生懸 命に働いている姿にははっとくるものがある。彼女の後ろ姿は台所仕事をする母の後ろ姿 を連想させるからかもしれない。僕は家庭の匂いに飢えていたきらいがある。 時計を見ればもう六時を過ぎようとしている。 彼女は厨房の奥へと消えていった。僕の胸は再びどきどきしてきた。 やがて彼女は一般の客のように正面の自動扉から店内に入ってきた。焦げ茶のフレアス カートに白のブラウス姿の彼女を僕はまじまじと見詰めた。今までは後ろに小さく束ねら れている所しか見たことがない黒髪はほどかれて肩にかかっていた。少しくせっ毛のよう だ。 彼女は真っ直ぐ僕の方を見ている。彼女の顔を正面から見ることはあまりなかった気が する。あんまりまぶしくて視線を逸らしたい衝動にかられたが、それを我慢してしまうと なんともいえない快感が僕を押し包んだ。 「こんにちは…」 僕はなんときりだしたらいかわからずにそんなことをいった。彼女はただ黙って軽く会 釈した。 「座りませんか」 僕が身をのりだそうとすると彼女は向かいの椅子に腰掛けた。 「あの…実に…唐突に…声をかけてしまって、申し訳ない。迷惑じゃありませんでしたか ?」 すると彼女は優しい微笑みを作ってこう答えた。 「迷惑に思っているのでしたら、今ここにこうしていませんわ。お昼に声をかけられた時 点でお断りしてます」 その時の僕はスケベ面していただろうか。少なくとも文字通り鼻 の下をだらしなく延ばして恍惚としていただろうことは疑う余地もない。 「まずはお互いの名前を知る事から始めませんか。僕は佐久間仁といいます。小尾さんは …」 僕は気安くその言葉を口にしてしまったことで、一人で慌てた。彼女は何もかも見通し ているようで、ニコリと微笑むと、 「美桜子です。小尾美桜子といいます」 なんだかお見合いみたいな会話が少し続いた後、僕はドーナツショップから彼女を連れ 出した。彼女をバイト仲間の好機の目にさらしておくわけにはいかないと思ったからだ。 僕らは後日、再び会う約束をして別れた。 今度はきちんとデートコースも考えておこう。夏が終わってしまう前に楽しい思い出を たくさん作っておくのだ。ほとんど義務感に近い感情で自分にそういいきかせていること に気がついて、僕はぼりぼりと頭を掻いた。夏が終わってしまう日の事を考えて鳴いてい るセミやキリギリスがはたしてこの世にいるのだろうか。 * * * 僕らは週に三回づつ、デートをした。二回は彼女のバイトがオフの日に。残りは彼女が バイトを終えるのを待ってから。 たぶん経験不足の僕のセッティングは他人に教えたら笑われそうなものばかりだったが、 彼女もけっこう楽しんでくれている様子だったし、ここ数ヶ月僕の味わってきた陰鬱な気 分をかえりみれば、まさに夢のような日々の連続だった。 映画や水族館、遊園地に始まって、おおよそ僕が女の子と二人で行くものだと思い込ん でいる場所やイヴェントはほとんどこなしたのではないかと思う。こんなむちゃな遊びの スケジュールによくついてきてくれるな、と彼女に感謝しつつも、人生における楽しい記 念日となる日々をこの夏にすべて詰め込もうとする僕の試みは着々とこなされていった。 「今日さ、僕の部屋にこないか?」 八月の最終日、僕は思い切って彼女にそういった。 下世話な言い方だが、女の子を自分の部屋に連れ込もうという素振りはできれば最後ま で見せたくなかった。でも僕はそれを押さえることが出来なかったのだ。 たぶん、十九の夏が僕を焦らせたのだ。 「ええ、いいわ」 彼女は実にあっさりと僕の誘いを受け入れた。今までの僕の紳士さが信用されたのだろ うか。それとも彼女は疑うことを知らないのだろうか。いずれにせよ、また僕の胸には新 たなどきどきの素が植え込まれたのだ。 僕は六時になると、店の前で彼女を待った。 しばらくして彼女が僕の前に姿を現し、二人は手を握って歩き出した。今の僕の住いへ 向けて…。 僕はドーナツショップから歩いて十分くらいの所にある築十三年の黒ずんだ木造の安ア パートに彼女を導いた。この辺でもめずらしい、旧い建物だった。 彼女はぽかんとしてこの建物を見上げていた。 「おどろいたかい?あんまりボロくて」 「ええ…こういうのってまだあったのねぇ…」 めずらしく彼女がフォローをいれずにボロイということを肯定したのだからよほどの品 だったと思う。 僕は二階の一番すみの部屋のドアを開けた。 「さあ、どうぞ。なにもないけどね」 彼女は部屋を見て目を丸くした。そう、僕の部屋には家具も何も――本当に何もない部 屋だったから。 四畳半の畳の上にはアイロン台みたいな卓袱台と、座布団が一組。天文関係の雑誌と大 学ノートが数冊、隅の方に重ねられているだけだった。 彼女は僕に勧められるまま、座布団に座った。何もない部屋にもかかわらず、きょろき ょろと見回していた。 無理もない。彼女は話し方や物腰からいってどこかいいとこ育ち のお嬢様なのだ。こんな貧乏の極致的な部屋を見せられて戸惑うのもあたりまえだろう。 部屋の中はカーテンを通して照り付ける西日が微妙な照明を作り出していたけれど、僕 は裸電球を灯した。 部屋の中は外に比べればいくぶんひんやりしていたが、人が二人もいればそのうち外と 変わりなくなるだろう。僕はコップを二つ用意すると、さっきコンビニで買ってきたグレ ープフルーツのペットボトルの中身を注いだ。 僕らはあきらかに異様な雰囲気の中にい た。彼女もそれを感じ取っているのだろう。僕の差し出したジュースを彼女は中程まで一 気に飲み下だすと彼女はやっと一息ついたようだった。 「こんななんにもない部屋で…」 僕はこんななんにもない部屋に女の子を誘ってどうするつもりと訊かれたらどうしよう かと思って焦った。この部屋につれてきてどうこうというのではなく、この部屋につれて くることにこそ意義があるのだということをなんとか理解してほしかった。 「退屈じゃないの?テレビも…なんにもなしで…」 彼女は雑誌に手を伸ばそうとしたが、表紙を見て興味をそがれたのか、その手をひっこ めた。 「うん…ゆっくり考え事をするには何もないほうがいいんだよ。テレビやらラジカセやら はかえってじゃまさ。紙と鉛筆と明りさえあれば…」 彼女は僕を見ていたが、急に遠い目をした。僕も彼女を見据えているふりをしつつ、自 分の中に視線を送っていた。 「いったい何を考えているの。話して。それを聞かせるためにここへ呼んだんでしょう?」 「うん…」 僕は語り始めた。 「僕はね、今、家出中なんだ。有り金持って家を飛び出してここでなんとか暮らしてるわ け。大学生っていうのは嘘じゃないけど只今は自主休学中さ」 「アルバイトでもしてるの?」 「いいや。この数ヶ月を――ホント、最低限だけど――不自由なく過ごせるだけの蓄えは あったからね。一日をなるべく思弁にあててすごしていたよ。だけどあんまり暑いんで、 どこかクーラーの効いたいい場所はないかなって思っていたところ、見つけたのが君の勤 めていたお店というわけさ」 ふーん、と唸って彼女はグラスを口に運んだ。 僕はさんざん迷った挙げ句に、あの事を彼女に話すことにした。たとえ彼女を失うこと になってもこの事をわかってもらい、僕の苦しみをわかちあってくれないことには彼女が 僕のそばにいてくれても何の意味も持たないからだ。 僕は手着かずだった僕のコップをあおった。 「おやじは…建築技師なんだ。おやじがここ数年の間に担当した仕事は一体なんだったと 思う?」 唐突な質問に彼女は首をひねっただけだった。 「核シェルターだよ。それも並の大きさじゃない。都市一個分はあるやつさ。親父が現場 で監督したのは一つだけだったけど、たぶん他にも何ヶ所か造られてるはずだっていって たよ。もちろん初めは嘘だと思ったさ。デタント、核軍縮、統合軍設立…核戦争の恐怖は なくなった今の世の中にそんな大規模な避難施設が必要なわけはないからね。でもある時、 僕の頭に一つのうわさが頭をもたげてきた。非常に有名なうわさだよ。『一九九九年にや ってくる恐怖の大王』のことさ」 彼女は髪をかきあげて、視線を落とした。 頼むから僕の前から逃げ出さないでほしい。そう願いつつ僕はしゃべり続けた。 「馬鹿げた話だとは僕も思った。でもおやじの話がうそじゃないとしたら考えられるのは そのうわさだけだった。僕は何かの本で『恐怖の大王』は多弾頭核ミサイル、あるいは巨 大な隕石だというのを読んだことがあった。その隕石、という方に僕は関心を持ったんだ よ。一応天文ファンだったからね」 僕は立ち上がると、部屋の隅に重ねられた天文雑誌と大学ノートをつかんで彼女に開い て見せた。 「この杉本っていう人が一年前に撮影に成功した彗星の写真だよ。こいつは地球すれすれ に飛んでいく軌道を持っている。その軌道の計算はこの号に載っているんだけど…」 僕は別の雑誌を広げて見せた。 「この計算だと、この『メックリンガー彗星』は地球と接近はするけれど、僕らの感覚か らすれば全然見当違いの所を飛んでいくことになる。でも二年前にこの彗星が地球に直撃 する可能性を示唆する記事が別の雑誌に発表されていたんだ」 僕は大学ノートの表紙を開いてみせた。彼女は食いつくような視線をノートに向けてい る。 そこには雑誌の記事のコピー拡大されたものが6ページにわたって張ってあった。 「この記事のデータをもとに計算すると…一九九九年九月一日、つまり明日の十時三十三 分頃、確実に地球と衝突することになる」 はっと彼女は息を飲んだ。僕の口調がいささか芝居がかかったものになっていたのは事 実だが、僕のいっていることがもし事実だとしたら…という恐怖が彼女を襲ったことは間 違いなかった。 「嘘でしょ」 「いや、嘘じゃない。地球の引力が彗星を引きつけるんだ。地球の地表直径を考慮しても ぶつかる可能性の方が大きい」 「でも…もう一つの計算ではぶつからないんでしょう。この記事の信憑性だって…」 「うん…でも…」 僕は声を落としていった。 「ぶつからない計算の方の信憑性だってないんだ。ある日、僕はこの計算をの真実性を調 べる手段がまったくないことに気がついたんだ。突きとめようとしてもどこかで糸がぷつ んと切れる」 立てた膝の中に顔を埋めた。 「二ヶ月前、おやじは家族を集めてこういったよ。『私たちはシェルターに入れる』って さ。場所と構造を知っているおやじと、その家族である僕らには優先権があったんだ。お やじは他言無用といったけど僕は次の日、こういってまわったのさ。『彗星が降ってきて 天変地異が起こるぞ』ってさ…」 膝を抱える手に力がこもる。 「結果は…誰からも相手にされなかった。みんな信じちゃくれなかった。みんな平和ぼけ で、誰も明日に自分が死ぬことなんて考えられなくなっちまったのさ」 顔をあげると美桜子は悲しげな瞳で僕を見詰めていた。 「確かに僕がおかしいのかもしれない。だから僕は家を飛び出して自分を落ち着けようと 思った。頭を冷やそうと思った。だけど…だけど…」 美桜子は大学ノートをぱらぱらとめくった。びっしりと計算が書き込まれている。僕の ここ数ヶ月の努力の結晶だった。 「何度計算してみても…ぶつかっちまうんだ…」 とうとう僕がすすり泣きを始めると、美桜子は傍らに寄り添って優しく僕の頭をその胸 に抱き寄せた。 「一生アリみたいに地下ですごすんなら、僕はキリギリスになってやるんだ!…そうだと も、自分だけ助かろうなんて思うもんか…」 僕は子供のように美桜子にすがって泣いた。 「いいのよ。もういいのよ…」 部屋の中は西日に紅く染まり始めていた。 * * * あろうことか、僕はその日の朝、いつもよりも寝坊してしまった。十時十分前。時計を 見るなり僕は最後のドーナツを食すべく、いそいそと出支度を始めた。 アパートからドーナツショップへ行く途中の道行く人人の様子はいつもと微妙に違って いるようにも見えたし、また変わりないようにも見えた。 僕は自動ドアの前に立った。 ガーッ。 扉が開くと、そこにはかつて何度も見た、一枚の肖像画の様に彼女が立たずんでいた。 「いらっしゃいませ…」 しゃっきりとしない声で、そういうと彼女は悲しげに微笑んだ。 僕は驚きのあまり、絶句した。 「…ばか!なんでここに…」 自動ドアが閉まりきる寸前のその時、町中に非常警報が響き渡った。 「関東大震災級の大地震が来るってよ」 誰かがそう叫んだ。一瞬にして店内が騒然となる。 いつしか、僕たち二人だけになった店内の時間は止まっていた。ガラス越しに見る外の 様子は総天然色の無声映画だった。その映画をよそに、求めあう二つの心は二人の唇を突 きあわさせていた。 ――昨日… 「いいのよ…。その事、わたしも知っていたから」 美桜子の胸の中で僕は息を飲んだ。 「し…知っていたっ…て?」 「わたしの祖父は先代の首相よ。ただそれだけの理由でわたしたちの一家にも優先権が与 えられたわ…。わたしもあなたとおんなじ。たまらなくなって家を飛び出したのよ」 小尾という総理大臣がいたことは仁の記憶にもあった。 そうだったのだ。二人を引き 合わせたのは同じ境遇にあるという紛れもない真実だったのだ。 僕らは互いをむさぼった。 その行為はたいして楽しいものにならなかった。刹那的で、衝動的で、経験不足の二人 は互いを暖めあう前に肉体が冷えてゆくのを感じるしかなかった。後に残ったのはいっそ う深まった絶望感と悲壮感だけだった。 「君には生き延びて欲しい。どんなことがあっても…」 「そしてあなたは地下に潜った人々を嘲りながら悲劇的に逝くわけね」 「わかってくれよ。僕も今日中に家に帰ってみる。同じシェルターに入れるかもしれない じゃないか」 僕の根気強い説得は彼女を納得させたかにみえた…。 空に舞う大地の破片に太陽は輝きに棘を失い、丸み帯びたものになってゆく。地下に潜 ったアリどもが再び顔を出すまで、世界はしばし静かな冬の時をむかえるのだ。 ズズン、と下っ腹にこたえる衝撃があったのはどれほど時間がたってからの事だろう。  僕が彼女を後ろから見詰めていた頃の背景からカップや皿が床に落ちて大きな音を立て たが、僕らはお互いの相手をするので精一杯だったのでたいして気にも止めなかった。  やがて地上の生き物は皆、永い眠りにつかねばなるまい。だが、もう一度や二度、愛し あうだけの時間はたっぷりあるだろう。 窓の外にむつみあう二羽の小鳥を見た。 ひしと僕は彼女のか細い肩を抱き寄せる。彼女も僕に身を寄せる。 僕の夏は終った。

1991/10/17 "Good-bye,Summer Holidays"

 (習志野SF研『落下星2号』 初出)