轢く!              J.ジャグァーノート 作                ことぶきゆうき 訳 無彩色の世界に人々は蠢いていた。 ヨーイチ・アカバは『エルドラド』と大きくネオンレーザーで浮き彫りにされた看板を 真下から見詰めなおすと、VRショップに入る決心をした。 彼は『受付け』と書かれたカウンターに歩み寄ると、スキャナー・スロットに右腕をさ しこみ、掌のバーコード・タトゥーをスキャンさせ自分のIDを登録すると、続いて左手 で画面に次々と表示される操作要領にしたがって入会に必要な事項を入力した。 ***赤羽 陽一 様*** 漢字名の登録完了の表示を見て彼は満足した。もちろん、彼の漢字名は新JISの3F コード(First Future Formula)で表記できるものであったが、その名は漢字名を持つ最 後の世代の日本人のモノといって良かった。 続いて今回希望する条件の入力を済ませると、廊下に示される案内表示にしたがって奥 へ奥へと進んでゆく。 たどりついた『個室206号』の扉はLEDをせわしげに明滅させ、彼に装置への没入 を促していた。 脱衣所で服を脱ぎ、首筋と額にあるクロムメタルのジャックを覆うシリコーン・ゴムの カバーをはずすと、彼は高まる興奮と共に個室に身を収め、各感覚伝達装置との接続を果 たした。感覚伝達用の疑似精神伝達ゼリーが個室内に満たされ、彼は羊水の中の胎児のよ うにまったく安らかな感覚世界へと身を委ねていった。 まばたきしようと閉じられた瞼は、次の朝が来るまで開かない。素晴らしい快楽が彼に 与えられるその時まで。 爽やかな朝の国道をヨーイチはオープンカーで疾走していた。 ブリティッシュ・グリーンのノーズコーンをとエナメル質の表皮を持った、アメリカ製 の高級仕様車の基本性能は国産車に比べれば劣る部分の方が多く、操作性もけっして良好 とはいえなかったが、彼にとってはその機械に接して操縦をしているという状況こそが快 感を生み出す根源だったから、そこに問題はなかった。 頬に受ける湿気を多分に含んだ朝の冷たい大気は、はっきりとスピードを体感させ、ヨ ーイチの快感中枢を刺激したが、同時に何か得体の知れない不快感を彼に与えていること も確かだった。 信号で並んだ隣のスポーツカーとゼロヨンごっこを演じたり、大型トラックの幅よせを 受けての緊張感なども、たいそうヨーイチの興奮を高める要因となり、彼は心底このドラ イヴを楽しむことができた。 郊外から市街へ入ると、ちょうど通勤や通学の始まる時間帯になっていて、歩行者が右 左折する車の進行を妨げるようになっていることに気がついた。快適だったドライヴもこ こまでか、と興ざめぎみのヨーイチは心でぼやいた。 彼自身の感知不能な暗い部分で鬱積された欲望はまだ破裂する気配も見せない。 自宅が近付き狭い路地を走ることが多くなっても、早く家に帰って寛ぎたいという欲求 が、彼にアクセルを踏み込ませた。スピードメーターはマイル表示なのにもかかわらず、 制限速度表示と同じような値のところでヴァーミリオンの指針をピリピリと震わせていた。 灰色の居住区の隔壁が、輪郭を歪ませながら背後へと流れて行く。 帰路中の最後の加速可能な道で気の狂ったようにスピードを上げる。 交差点が近付き、左折のためアクセルワイヤを緩めねばならなくなった時、彼はふと、 うんと耳障りでうんと派手な騒音を撒き散らし、流れる車体にカウンターをあてながらコ ーナリングしたいという衝動にかられた。 もう、押さえつけることはできなかった。 交差点に入る寸前、儀礼的に行った目の確認動作は、横断歩道を渡ろうとする黄色いナ イロン帽を被った女の子の姿を捕らえた。 だが、彼の体はプログラムされたように、記憶した高速コーナリングの操作手順を繰り 返していた。 ぎゃぎぎぎいいぃぃっ!! という静寂を耳をつんざくノイズが周囲を満たし、続いて、 ドン! という鈍い音とかすかな衝撃を受けた。 ヨーイチは反射的にブレーキを踏んだ。いっぱいに踏んだ。急激なブレーキングのため、 彼はハンドルにつっぷさなければならなかった。 震えながら、ゆっくりと後ろを振り返った。 紺色の小学校の制服に身を包んだ少女が転がっていた。異様にねじれて不自然な姿勢が、 人間とは別の、ただの肉の塊に見せた。 彼は良心の呵責に震えていたわけではなかった。過度の興奮が体を痺れさせていたのだ。 ほてった体の中で、彼は股間に冷たいものを感じていた。それは本来、なまあたたかい はずのものだった。 彼は射精していた。 ヨーイチは満たされた心を押さえきれない様子で、エルドラドを後にした。頬をわずか に緩めて、口笛を吹きながら…。 急加速する情報化社会に対して人々は肉体に欠損、付加を伴う改造を施すことによって 適応することができたが、精神ばかりはそうもいかなかった。 そしてそれは、モヴ・フェチ、デヴ・フェチと呼ばれる人間を大量に生み出すこととな った。 環境は人間を造り、人間は環境の中で育ち、それに適応し、馴染み、愛するようになる。  時として、母のいない子供達が母の愛情を求め、母の愛ある環境を求め、その感情をと めどない暴走へと追いやるのは、けっして彼を取り巻く環境を彼自身が愛していなかった ためではない。彼の環境を劣悪なものにおとしめてしまった、彼の環境を取り巻く環境が いけなかったのだ。肉体の社会的環境への適応はからくも相互の歩み寄りによって解消さ れたが、精神という名の内部環境が外部の精神環境へ適応できないという現象の深刻化は 今、最高点に達しているといってよかった。 モヴ・フェチ――デヴァイス・フェティズムを持つ者で特にモーヴィル・フェティッシ ュ・シンドロームの者――そのなかでも特に男は、たいてい思春期の暴走を押さえ切れず に死ぬ。彼等は人間同志の性交と同じような興奮と快楽を伴って機械に接する。だが、な んといっても絶望的なのは、その高まりの行き着くところ…爆発点、すなわち『絶頂』を けっして得られないことであった。それは結局、『事故る』という形で発散され、至上の 快楽と共に彼等の肉体から魂を引き離した。 ヨーイチ・アカバもかつてはモヴであるという悲劇を背負った子供達の一人であり、そ して今は無事に肉体的に『成人』の烙印を押されて生き延びた大人の一人であった。 彼の母が彼を虚空の彼方よりこの世に呼び戻す絶頂を迎えたとき、その場所は父親の車 の助手席だった。 彼は他の『患者』ほど顕著でない自分の症状を適格に自己診断し、二十歳を迎え、あと 三ヶ月で三十になる。彼はそんな自分の人生に勝利を確信していた。成人したモヴが、精 神発作で自殺する可能性は非常に少なかったのだ。 しかしそんなデータに反して、彼の自動車による暴走行為を行いたいという欲望は以前 にまして強まるきらいがあった。そこで最近、近所の疑似感覚による快楽を売る店――V Rショップに入会する気になったのだ。 VRショップはどんな希望も適えてくれる。アイドルとのセックス、美女を大勢はべら せたハーレムの王などという設定はお手の物だ。だから、普通の人のみならず、異常な性 癖を持った者は皆ここでお好みの快楽をぞんぶんに味わうことで欲求不満を発散するのだ。 当然、モヴやデヴの多くはここに通うこととなる。だが、こんな設備があるにもかかわ らずモヴのほとんどは実際に暴走し、自殺してしまうのだった。だから彼はひとときの快 楽に心を弾ませながらも心の底から幸福になれたわけではなかったのだ。いつ、本当に暴 走して人を殺し、また自らの命を断つかもしれないのだという恐怖が影のように彼につき まとっていたから。 最近、ヨーイチの仕事はうまくいってなかった。いらだちはつのる一方で、営業用のバ ンを運転する手にも思わず力がこもっていた。彼は予定表と腕時計を見比べると、エルド ラドへ向けて車を走らせた。彼は仕事中にそこへを行こうと決意した自分に嫌悪しながら もどうしてよいものか、皆目見当もつかないのだった。すでにVRショップでの体験はた いして気持ちの良いものではなくなっていたが、自分のどこかがやめることも許さなかっ た。 いつもと同じ手順を踏んで、そして多少のアレンジを加えたストーリーで、また違った タイプの少女を轢き殺した。今度は肉体的には十分成熟してはいるが、あどけなさの残る 女子高生を犯した。轢き殺された少女の肉体は彼に踏み躙られた美しい野生の草花を連想 させる。血の色は自然の花の花弁そのままであり、造花ではけっして得られない嫌悪感と 不思議な精神の高揚を彼に与えるのだ。 だがしかし、肉体的な快感は確かに以前と変わりないにもかかわらず、心の高揚はあき らかに衰えていた。 機械と車と灰色の景色――無機物は彼の求めるすべてを備えており、人間と自然と天然 色はそういった彼の欲求にことごとく干渉し、感情を逆撫でし、たいそう不快で不幸なモ ノへと彼をおとしめた。 彼の問題の根本は、彼が病んでいる心が彼の肉体――有機物に封じ込められているのだ ということに気がついていない、彼自身にあるのだった。 ヨーイチはけだるい体をひきずって、仕事に戻らねばならないことを思って、自分自身 を呪った。 そして…ついに連続する信号待ちは彼の負の精神に理性の殻を突き破らせた。 目の前の横断歩道を横断する歩行者の一人の顔に猛烈な嫌悪感を覚えた彼は信号が青に 変わる前だというのにおもいきりアクセルペダルを踏み込んだ。 駆け足で横断中だったその男は、ヨーイチのバンに押し倒され、車体の下に引き込まれ た。そして加速をしようとするバンの突進を妨げるように道路と車体の間に引っ掛かかっ て摩擦を起こし続けた。 「コノ、ブタガァァッ!」 狂ったような金切り声をあげ、アクセルを踏む右足に腰が浮くほどに力を込め、車体を 蛇行させるように操る。 車体はきしみ、タイヤは悲鳴をあげた。 早くも彼は勃起しており、絶頂に達する寸前だった。 ――まだだ!…まだだ! もっと多くの快楽を貪ろうと、彼の車は歩道に乗り上げた。歩行者はボーリングのピン みたいに左右に跳ね飛ばされた。 そしてヨーイチは悟った。 車で他人を押し潰すのではだめだ。そうではない。自分が車に轢かれなくては。 いや、運転席で潰されるのはどんなに素敵な気分だろう! 彼は出しうる最大の速度で正面の建造物へ衝突した。 精神が肉体から離れる瞬間、彼は明確な、研ぎ澄まされた、純粋な幸福感が自分を包む のを感じた。 彼の死顔は御他聞に漏れず、安らかな笑みを保っていた。 ***回復不能*** メッセージがディスプレイに明滅する。 「死にました。ヘイバーマン・ブロックへの精神退行はおこなわれませんでした。死因は 精神的衝撃による肉体の過度反応。死亡時刻…」 白衣をまとったオペレーターがモニターに表示された実験結果を次々と読み上げていく。 オペレーターのとは別のモニターにはCCDカメラが捕らえた、かつてヨーイチ・アカ バだったものの姿が映しだされていた。 あきらかに失敗だった。実験はまたしても成功せず、被験者がまた一人、犠牲になった。 実験主任の初老の男は結果報告をまとめあげるのもそこそこにモニタールームから退室 した。廊下の灰皿の横でいっぷくつけていると、彼の助手が火を求めてきたので、彼はラ イターを差し出した。 「やれやれだ。VRシミュレイターは肉体への過負荷は防げても精神のそれは防げんのだ からどうしようもないな」 「ごもっとも…。緊急精神退行(ヘイバーマン・ブロック)の理論は本当に正しいのか、な んだかあやしくなってきましたね」 「ああ。…だがね、こいつが成功しないことには毎日毎日何人ものモヴやデヴがここで外 の空気にも触れることもなく死んでゆくことになるんだ。なんとかするさ」 助手は大きく煙を吐き捨てた。 「やってられないっすねぇ…」 他人を傷つける変わりにヨーイチは自らの死を選んだ。 こうして再び虚空の彼方へ、むくわれぬまま帰っていったのだ。 至上の快楽と引き替えの、実質上の安楽死。 果たしてそれしか彼等に道はないのか?

1991/11/8 Judas Juggernaut "Run Over"

 (『電脳同人誌 vol.2』 初出)