小説:映画『裸のランチ』を見て                  ことぶきゆうき  デヴィッド・リンチの裸のランチを見た。  久しぶりに見ごたえのある映画だった。  ハッキリ言うけど正常な人間の見るモンじゃない。  こんな映画をずっといやらしいニヤニヤ笑いを浮かべ て見ていた僕は、やっぱり普通の人間ではないらしい。 むしろ外見の醜さを取り除いたマグ・ワンプに近い存在 なのだろう。  スタイル、ストーリー共、全体の印象として感じたイ メージは、まるで押井守が「ディックの『暗闇のスキャ ナー』をオール西洋人キャストで忠実に映画化する」と 大ぼら吹いて作ったようだ、ということ。  僕はこの時点でバロウズの作品を読んだことはなかっ たし、麻薬の常習者だった経験もない。だけど、インタ ーゾーンの世界や作家になりたい男の気持ちや、世界中 の人間が怖いことや、ウイリアム・テルごっこなしには 小説を書けない理由はわかるような気がする。  野田秀樹の演劇もそうなのだが作品全体が痛烈なメタ ファーの集合であってもけして不透明さを感じない場合 がままあり、そういった場合の僕の脳はたえず指圧を受 けているようでまったく気持ちが良く、年がら年中どう しようもない疼痛を発し続けている脊髄に、絶頂時に一 瞬だけ得られるエンドルフィンまじりの神経電流のイン パルスのような快感を、感動に対する実直な反応として 感じてしまうのだ。  クスクス笑いをこらえて、場内に完全に明かりが灯っ てから僕は席を立った。不自然に捩じれた姿勢を長時間 保ったために左膝関節は酷い痛みを発している。歩くと 左の睾丸がひきつれるような痛みが重なった。やはり不 自然に組んだ足の間に挟まれていたそれは愚鈍な主人へ ささやかな抗議をしているようでもあった。  ロビーにたむろする十人位の社会人男女が熱心に映画 の1シーンについて語らっている。社会人で裸のランチ を見て熱っぽい議論ができるなんて、なんと素敵なんだ ろう。  劇場を一歩外に出たところで僕は顔をあげた。  どこから見てもヒッピーにしか見えない若者の何組か のカップル。旧日本軍の軍服に似たカーキ色の服の男。 丸いつばつき帽をかぶってうずくまるブルージーンズの 青年。そんな者たちを背後へ背後へと送り込みながら僕 は歩みを進め、地下の劇場から晴海通りへ出た。  そこは裸のランチのインターゾーンの町そのものだっ た。さきほどの映画館に群がる混沌とした人々と、この ネオンに光り輝く東京中心部は表裏一体どころかまった く同一の場所なのだ。  まっすぐに連なって並ぶ昭和通りの贋のガス灯の明か り。ドブネズミ色の衣服をぴっちりと全身に張りつかせ た浮浪者の老婆。交差点でウインクを続ける赤いエナメ ル質のボディを持ったスポーツカーは街全体が放つネオ ン管からの光子を全面に浴びて本来よりもなお美しい輝 きを保っている。吐く息までもマニキュア色の女たち。 オリーブ色にくすんだ肌の疲弊しきったスーツ姿の男た ち。  この街、この道、行き交うのは空っぽの肉の塊。誰か が「ゼラズニィの『光の王』は完璧な外殻はもっている がそこには内側が欠けている」という指摘を書いていた。 くそくらえだ!何もかもが金ピカで繕って装って、その くせ内側がカラッポなんてこの世界全部がそうじゃない か!お前たち全員、くそったれの日本人とこの日本全体 が魂も心もないセミの脱け殻よりもつまらないものじゃ ないか!お前らは僕の好きなゼラズニィの『光りの王』 がカラッポだと言うくせに、自分の内側がカラッポだと 認めたことはないじゃないか。バラードを見ろ!奴は内 側ばかりで外殻がない。しかし外殻がなけりゃ目に見え ないからしかたなしに外側を繕う。そんな妥協の産物を 作品として僕は読んでいる。いや、読まされている。  僕は作家だ。売れない、しがない作家だ。なぜ作家か というと作家と芸術家だけが自分の内面を結晶にして外 に見えるように変える力を持っているからなんだ。画家 の心がキャンバスと絵の具で結晶するように、彫刻家が ノミで魂を形造るように、作家は己が内側を紙に文章と して結晶させる。そのためには道具が――ワープロが必 要だ。 「君はOASYSを使うのか?」 「親指シフトはいい。日本語タイピングならOASYS に限るよ」 「そうかい?オアシスの味はどうもしつこすぎる。純日 本的すぎるんだよ。僕にとってはね」 「Rupoはいいよ。ルポは……君も一度使ってみたま え!」  そうして無理やり交換されたルポを僕は発作を起こし て床に落としてしまった。  壊してしまった。どうしょう。これじゃ小説が書けな い。生きてゆく力が出ない。どうしよう。どうしよう…。  夢の中ではいつも黄金色に輝いている陰門が僕にやさ しく話しかける。 ――怖がらなくていいのよ――  僕は目に見えないものは信じない。だが、すがりつこ うとはしてしまう。第一、黄金の陰門というぎこちない 響き――それは漢字の『鰻』という文字と同じように僕 を刺激する。テクストとしての知識、知識という感覚。  なんとこの世で最も信頼できないものの一つだろう。 本当の黄金を身につけてもいない僕がどうして『黄金色』 という比喩を形容詞を使えるのだろうか。そういえば黄 金といったら、しごきぬかれた僕の陰茎からほとばしる 栗の花に似た匂いの粘つく体液が飛びだす瞬間に持って いる色だ。夢の中の女性性器とto match!!  きっとバロウズの文章は原書で見れば美しいのだろう。 くそったれな英語の羅列を僕が美しく思うのはその整合 性のなさからだろう。例えば前置詞。twoとto、 forと four、まったくナンセンス!。なぜoneとかfiveとかいう 前置詞がないのだ?ひょっとしてofがoneの代わりでfrom がfiveの代わりなのか?ではtreeはthreeの代わりなのか? おっと、treeは前置詞ではなかった。なんてこったい、 so fuckin'!!  こんなスペルを一瞥しただけでは発音不能なくそった れな言語が世界標準だ。乱れきった26ピースのジグソー パズルが紡ぎだす修飾詞とメタファーの塊が美しい。し かしその美しさを僕以外の誰にも言葉以外では伝えられ ないのだ…。  ハロウィンの前夜祭に左胸に44マグナム弾を打ち込ま れた日本人留学生の脳内に凍りついた呪いの言葉は一体 なんだったのか?Freeze…Freeze…Freeze…。意味はわ からなくとも言葉は彼の肉体と精神を永遠に凍りつかせ た。神の存在に確証はない。しかし言葉が存在するかぎ り意味はある。God,My God!!, God damn you!!,DOG, God,Lord, load…load a gun・・・BANG!! 「ジョーン、ウイリアム・テルごっこをしよう」 そうそう。ジョー、ヘミング・ウェイごっこをしよう。  と、ここまで文語的な思考が脳で築かれた時、僕はハ ッと我にかえり、「脳述タイプライターをくれ!」と口              A D の中で叫んだあと、自分が機械人間だったらよかったの にと悲嘆にくれ、血の通った自分の肉体が鉄の塊になる ところを夢想した。  そして、僕はどんなフラクタル圧縮でも収まりがつか ないはてしなく深い内面を持つ存在で、その共有者がこ の世界のどこにも存在しないことを悟って生に絶望する。  男の平均身長一七五cm、女の身長一六五cmの夜の銀座 で、涙を流すでもなく手の甲で目をこする身長一一〇cm くらいの男の子を見た。  そうだとも。麻薬中毒患者でなくとも、ここがインタ ーゾーンでなく日本の東京でも、人が孤独であることに 違いはない。そして僕はいつでも一人ぼっちなのだ。    この文章をハーラン・エリスンと    我がインターゾーンの住人であった    タッちゃんに捧げる。

1992/9/26 "Impression of A Movie:Naked Lunch."

 (『ぷちジェネシス別冊ウロボロス』 初出)