仔 猫                       ことぶきゆうき この頃、昔のことばかり考えている。明日どころか今日をどう生きるかさえ僕の頭の中 にはない。 昔、という表現は適切でないかもしれない。「十年ひと昔」という言葉はあるが、七、 八年前のことを昔と呼ぶのはふさわしくないのではないか。十年といえば二十歳を過ぎた 僕の人生の半分ということになる。たったそれぽっちしか生きていない僕の人生で、その 過去を指すのに「昔」という言葉はやはり大袈裟だろう。以前の僕、とでもいえばいいの だろうか。考えてみれば、「子供の頃は…」なんていういいまわしも妙にそぐわない表現 だと思う。いつから子供をやめて大人になったのかわかっていないのだから、「子供の頃 」はつい昨日までのことをさすのかも知れないのだ。 大学一年の学園祭の最終日、幾人かのクラブのOBにちょっと高級そうなパブに連れて いってもらったことがある。僕は浪人の経験はなかったから、その頃はまだ未成年だった 。当然そんなところに行くのは初めてだったし、酒だってろくに飲んだことはなかった。 酒類はおとそを除けば新入部員歓迎のコンパで初めて飲んだことになるだろうか。まして や見知らぬ女の人にお酌してもらうなんて! 今にして思えばその時の僕の条件というのはすごぶる良いものだった。僕はただ、適当 な間隔で店のステージに立ちカラオケに合わせて好きな曲を大声で気持ち良く歌っていさ えすれば、決して悪酔いしないような高級なウイスキーやブランデーを自分の好きなペー スで飲めてしかも勘定は一銭も払わなくて良かったのだ。まさに特別だった。 そこで働いている女は――違法でなければ――全員年上のはずだった。体の線を強調す る派手な色彩の服を着て、思いきり派手な化粧をした女の人達。化粧の厚い女は僕に母を 思いださせる。厚い化粧をする女は見栄っ張りなだけでなくて、どこか寂しいところがあ って、他人に見てもらいたいのと同じくらい他人に見せたくないところがあって、そして 心にある隙間を埋めるための砥粉がわりに自分の顔に化粧をするのだと思う。それとも自 分の外見を美しく見せようとする努力はもっと女性の本質的なものなのだろうか。だとす れば彼女たちは本当に化粧した自分が美しくなっていると思っているのだろうか。彼女ら は鏡以外のもので自分を見つめたことがあるだろうか。 化粧をしたことはなかったけど、それは僕がいつも着てみたいと思っているピカピカの 西洋の鎧と同じものなんだろう。 剥きだしの心を僕は欲しい。僕の心は隙間の無い鎧を着ている。そのバイザーの幾本か のスリット越しにしか外を見ることができない。そこから垣間見る白塗りの仮面。 僕は彼女達をまじまじと見詰めてやろうなどという気はまるでなかったし、僕の求めて いる剥きだしの心なんてものに出会えるとも思っていなかったから、彼女達と擦り合わせ るべき袖をしまいこんでおいた。僕が薄い水割りのグラスをちびりちびりと半分ほど飲み 下す。するといつのまにか違う女の人がやってきていて僕のグラスにお酒を足してゆく。 僕は「濃いのはだめなので薄くしてください」と頼む。それだけだった。 先輩たちは僕と彼女達の間にそれ以上の接点を求めていろいろと話題を振り撒くのだが 、僕はそのたびにぎくしゃくとし、そして白痴みたいにはにかむ。まるで鎧だ。空の鎧が 人間に受け答えしているようだ。鎧は人間を相手にするようにはできていない。このとき ばかりは鎧が僕の本質であって本当の僕自身は不在であるかのようだった。 − 僕は便利な鎧を持っている。 真なる僕はそんな自嘲的なことを呟いていた。 「ところでリカちゃん、こいついったい幾つに見える?」 「大学の後輩なんだけどさ」 先輩たちには馴染みでも僕にとっては初対面の女性がテーブルにやってくるたび、この 質問が繰り返された。 「えっと…そうねえ…」 女性は眉根を寄せて、結構真剣に考え込んでしまう。この表情こそが先輩たちにとって 最高の肴の一つになっているに違いない。 彼女は尋常でない沈黙の思考を経て、恐る恐る自分の導き出した解答を口にする。 「ハタチ…ぐらいかしら?」 くーっ、くくくーっ、、、 押し殺した笑いが一斉に起こる。 困惑の表情のまま苦笑する女の子に、息の落ち着いた先輩がフォローを入れる。 「ハァハァ、…ッあ〜あ。リカちゃん、本当にハタチすぎだと思った?」 その反応にやっと合点がいったように彼女の顔は輝きを取り戻し、 「ひょっとして…未成年なんですか?」 最後の方を囁き声でそういった。やはり、『未成年』という単語がこの場に相応しくな いということを十分にわきまえているのだろう。 「だとしたら…幾つだ?」 今度は先程よりも答えが帰ってくるのはずっと速かった。 「十六!」 小声だが歯切れ良く、きっぱりとそういった。 ドッ!と大爆笑。 「よかったな、十六だってよ。ずいぶん大目に見てもらえたな」 先輩たちはまたしても笑いを噛み殺すのに必死な状態に陥った。 さすがに今度ばかりは女性の方も完全に思索の方向を失ったようで、一人うつむく僕の 方へ顔を寄せ、「ホントはお幾つなんですか」と訊いてきた。 けして卑屈な態度にはでるまい。年齢を訊かれるたびに僕はそう思うことにしている。 いつからそうするようになったのかは忘れてしまったが。 僕は胸を張って言った。 「十九です」 僕が胸を張った分、彼女は目を見張った。 その驚愕の表情もOB連中の嗜好に適ったものだった。 酒の席の下品な笑いの中に僕は居た。 なんとも思わないといったら嘘になるが、癪にさわるようなことはなかった。 ――そうだ。酒の席ではないか。 僕が――十二、三才の――中学生の肉体しか持ち合わせていないという事実は変えよう がなかったし、どうしてそうなったのかも十分わかっている。 KITTEN(仔猫)――そう名付けられた人間延齢プロジェクトがあった。 二十年前に発足したこのプロジェクトの最も早期の被験者に僕は属していた。 「延齢処理された人って初めて見たわ…。お酒なんか飲んじゃって大丈夫なの?」 まるで子供扱いになっていた。肉体は確かに子供のそれと同じ物だが、中身はもう十分 大人だということを忘れている彼女の接客態度に僕は少しだけムッとした。 ――そうだ。わかっているとも。 でも理解するのと受け入れるのとは別だ。 「ほら! 曲、入ったぞ」 お呼びがかかって僕はカラオケ用のステージへ登って行く。 登っては降り、登っては降りる。こうして土曜の夜はふけてゆき、日曜の朝が始まる。 この宴は午前五時まで続けられ、テーブルには店の女が入れ代わり立ち代わりまんべん なくやってくる。 「こんにちは」 いままでの女と同じ様に、だがしかし他の誰にもなかったはつらつさをもった女性がや ってきた。 僕はその女とは初対面だったけど、何か心がざわめくのを感じた。まるで青々と茂る初 夏の芝生が、寝転んだ肌を撫ぜるような感じだ。 「おや、新顔さん?はじめて相手してもらうよね」 「ハイ。アオイです。どうぞよろしく」 好意だったかもしれない。でも今にして思えば、それは『なつかしさ』に似たもっと柔 らかい感情だった。 束の間ぽっとしていた僕の脇腹を横にいた先輩が肘で小突いた。新顔の女性の年齢を尋 ねるのは僕の役割になっていた。「あのー、失礼ですがお幾つですか?」 今度の言葉は僕の意志が少しばかり混ざったものだった。 「…幾つに見えます?」 少し上目使い。 「十九でしょ」 僕は実にはっきりと、声を落として早口に言った。 先輩は僕の見当違いの当て推量を笑ったが、アオイという源氏名をいただいたその女性は あきらかに狼狽の色を隠せないでいた。 しかしコップの中のブランデーをきゅっと一気にあおると、先程までの営業用の表情を 取り戻していた。 「すっご〜い。なんでわかっちゃったんですかァ」 「えっ?アオイちゃんて…十九なの?」 ささやき声で会話が続く。 「ホントにマヅイんで…」 彼女は桜色の口紅の前に人差し指を当てた。 「だから一応、ハタチってことで…よろしくお願いします」 彼女は会釈の真似ごとをした。 「しっかし、おまえ、今回はよく当てたなあ」 先輩方の感嘆は本物で、僕はいかにも照れくさそうに頭を掻いた。 ――なに、すぐわかったさ。 僕は同じ年齢の人間を鋭敏に嗅ぎ当てた。なぜなのかはわからない。僕の女性を見る目 は他のOB連中に比べて遥かに未熟であることは事実だったが、女の子がいかに厚い化粧 をし、濃紺のタイトスカートに身を包んでいようと、同い年であるというその匂いを失う ことはまず無かった。 「はい、『私の彼はヘイバーマン』入りました」 「ほいほい」 ママのお呼びがかかると、ノリの良いコミックソングを歌うべく、三人のOBはステー ジへ登っていった。 曲が始まってまもなく、一人残った真っ赤な顔のOBは、 「ちょっと、トイレ…」 と口の辺りを押さえて洗面所に消えていった。 身内の歌声を聞き、拍手を送っているものの、今このテーブルには僕と女の子の二人に なってしまっているということを意識せざるをえなかった。 拍手もそこそこに、そこには何か気恥ずかしい雰囲気が漂っていた。 「あの…今はどこに住んでいらっしゃるんですか」 雰囲気を崩しにかかったのは心ならずも僕の方だった。 「八王子です。…出身は茨城なんですけどね」 「えっ、茨城ですか。茨城のどこです?」 「結城ですけど」 「結城ですか。ふーん…僕も中学までは筑波だったんです」 「まあ」 同県の人間と言う事が、僕の心にすきを作ったのだろうか。僕は他の女性には見せなか った寛ぎ様で彼女に接していた。流行りのマンガの話などがごく自然にでてきて、会話は ちょっとした盛りあがりをみせた。 「一年前にまでは水戸にいたんですよ」 「へえ。じゃあ東京には仕事の関係で?」 「…そのへんは、うん、…いろいろとありまして…」 なぜだか急に彼女は表情を曇らせた。 そしてふと視線を逸らし、顔を起こして、ステージの方を見やった。僕もつられてステ ージの方に注意が行き、弱っていた拍手に力を込め直した。  パッパッパヤッパ〜!パッパッパヤッパ〜! 歌の方の盛り上がりも絶頂に近いところだった。 「あなたは…最近故郷には帰られましたか?」 「えっ?」 そっぽを向いている時に急に話しかけられて僕の反応は鈍った。 「そうですね…丸々三年は帰ってませんね。父の実家はあるんですが、去年両親も東京に 移ってきましたからね」 彼女は僕のグラスを取ると、頼みもしないのに極薄の水割りを作ってくれた。ゆっくり とプラスティックのスティックをグラスの中で回している。 伏し目だった視線を急に上げて、笑顔を作ると僕にグラスを差し出した。 「あ、ありがとう」 僕はなんだかどぎまぎとそれを受け取る。 「…ひさしぶりに故郷の街へ帰ってみたりすると、見知った建物がなくなって、いきなり ピカピカの建物になってたりして…それがすっごく悲しかったりするんですよね」 それを言われた瞬間、ハッとして彼女の顔を見据え、僕は――心も身体も――石のよう に凝り固まってしまった。僕の乾いた心にぐさりと深く突き刺さるようなことを、あまり にも唐突に、あまりにも簡単に言われてしまったから。 「ええ、そうですね。そうなんですよね…」 僕はもっと、沢山の感情をこめて賛同の意を現したかったが、実際にできたのは今日一 番のぎこちなさでそんな相槌をうつことだけだった。 気がつくと先輩たちの曲は終わって、店内にひときわ大きな拍手が起こった。僕もあわ てて手を叩く。 その拍手の中、先輩達と入れ代わりにアオイさんは席を離れていった。 新しい女性がやってきて再び僕は下品な空気の中に居た。 その時の僕の頭の中には、故郷から引き離された翌年の帰省時に心に刻み込まれた印象 がまざまざと甦っていた。 たった半年かそこら離れただけで、僕は窒息しそうになっていた。 乾いていた。だが、潤せるものはいったい何かということをわかってはいなかった。新 しい環境は僕にとって馴染めないどころか、毒素を含んでいるようにすら思えたものだ。 JRの駅の改札を抜け、そこから見渡す一連の見慣れた景色の中に僕は一ヶ所だけ新築 の建物があるのを発見した。 それは出来てから幾日も経っていないであろうピカピカの真新しい歯科医院だった。そ の外壁を覆うタイルは自ら光を発しているように白い。確かその場所にあったのは、ろく にかかったこともない接骨医院だったはずだ。 ふと、窓ガラスに反射した自分の顔を見れば、目にはうっすらと涙が滲んでいた。 そう。ろくにかかったこともなく、たいして意識にとどめておくこともなかったその一 角が、数ヵ月前の自分の脳に焼き付けられた情報と食い違っていただけで僕は旧友を失っ たような寂しい気持ちを味わったのだ。 そうして僕は逃げだすように家路を急いだ。 『故郷は遠くに去りて在り』 そんな言葉が繰り返し繰り返し思い浮かんだ。 胸がぎゅっと痛んだ。 「おい、どした?」 その声で僕は我に帰った。 鏡張りの壁に映った僕の目は、涙腺を引き締めようと大きく見開かれ、潤み、充血して いた。 ――帰ろう。 僕を迎えてくれるだろう懐かしい故郷へ。 明日にも帰ろう―― アオイさんが僕に一瞬だけ触れさせていった剥き出しの心は僕の心のかさぶたをはぎ取 っていったのだ。 真なる僕は咽び泣きを始めたが、鎧の僕はかろうじて涙をこらえていた。 ――そうだ。鎧が泣けるわけはない。 冷えきった砂漠の心と血のぬくもりを持った鎧との二人三脚。それが自分。 僕は鏡に向かって苦い嘲笑を作っていた。 結局、鯨の潮みたいに吹き出した郷愁に突き動かされて、僕が故郷への切符をつかんだ のはその日から一ヵ月以上たった冬休みの初日だっだ。 列車が故郷への双六を一マス一マス進んで行くたび、僕は回りの空気が自分に合ったも のへと変質してゆくのを五感以外のところでひしひしと感じることができた。サケが生れ た川に帰ってゆくときもこんな感じなのだろうかとその時は真剣に考えたりしていたのだ からおかしい。 僕はまさに水道水に放り込まれた河魚だった。川の水に戻って心身共に生き返っていた のだから。 故郷の駅に着いたとき、若鮎が水面に跳ねるように僕は列車を飛び出していた。そして、 「おお、我がなつかしのふるさとよ!」 と口にして駅舎の中を早足に進み出した。 数歩と歩かないうちに駅舎が新しくなっていることに気がついた。僕はまず新しくなっ た駅をチェックした。 以前は三つしかなかったホームが今では六つまである。新交通動脈計画による高速列車 停車用のホームが出来たためだ。駅ビルの入り口もまったく賑やかな装いになっており、 僕の足はそちらへ動こうとするのを拒んだ。自分でも驚いたが、時刻表の文字の字体が変 わっていることにすら僕は敏感に反応していた。 駅前の− 東口の景色はまさに目まぐるしいほどに変化していた。 膨れ上がったバスターミナル。巨大なデパート。ビジネスホテル。ファーストフードの チェーン店。それらが西日を浴びて輝き、背後の風景を覆い隠すように連なっていた。 小さな土産物屋やこじんまりとしたそば屋、灰色にくすんだタクシー会社の建物はいっ たいどうなってしまったのか。 振り向けば、駅舎自体もそれに連なる駅ビルと共に、大 きく、新しいものに変化していた。増改築などというレベルではない。まったく別の代物 といってよかった。 歩道橋に登って西側の風景を眺めてみた。 イトーヨーカドーの鳩のマークやチサンマンションの『ち』という赤い文字が見えるの は同じであったが、その周囲には朽ちた古城の見張り台のような建設途中のビルの頭と、 巨大な龍の首のような建設用のクレーンとがあちこちに突き出しているのだった。 僕は故郷の余りの変様に、歩道橋の欄干に頬杖をついて、大きな溜め息を漏らした。 駅周辺に蠢く人の数はどう少なく見積もっても以前の倍はあるようだった。 その人々の中をチンドン屋の一行が踊りながら過ぎて行く。 そのラッパの音色は実際 にはすごく小さな音としてしか届いてこなかったのだが、僕の耳には悲しげに、高らかに 鳴り響いて聞こえた。 僕は祖父の家までの十五分間、周囲の変化を見て取りながら人の波を遡っていった。 十分も歩くとさすがに見慣れた景色の割合が強くなった。そんな中、ギョウザ屋だった 場所が派手なピンクの屋根に塗り変わったペットショップに変わっていることを発見した 。 その店先に並べられたの展示用のケージを脇目に僕は道を進んで行く。そこにいた動 物達は… ――EC処理された犬や猫だ。 その猫は一生を子供のまま終えるように遺伝子を調整、再設計されている。誰もが一番 かわいいと思う時の姿に停滞させられているのだ。 金魚鉢で飼うことができるミニクジラにあきたらず、こんなものまでが認可されるよう になってしまった。 そのうち、家の庭先にいるのは仔犬と仔猫、という日がくるのだろう。 エターナル・チャイルズフッド――永遠の幼年期。 人間のエゴが生み出した理想の具現。 彼等こそが僕の同族に思えた。 僕たちに施された処理は彼等に施されているものと基本的にはなんら変わるところがな いのだ。 『仔猫』とはよくいったものだ。自分の子供とペットの区別もつかない馬鹿な親が一組 いると僕のような苦労性の人間が一人育つ。今は総合研究学園都市にいるだけだが、これ からはもっと増えるだろう。事実、僕らの予備軍が試験官の中に五倍以上いるのだ。 住宅街に入って懐かしい祖父の家の青い瓦葺きを見つけた時、ようやく僕は帰ってきた んだなあという実感を持てた。 「おお、よくきたのー」 何の理由もなしに突然訪問したにもかかわらず、祖父母は暖かかく迎えてくれた。老夫 婦にとって僕は掛け替えのないたった一人の孫であったから邪険に扱うはずもない。しか し、僕は成長していない。六年間身長は1cmも伸びてはいない。老人達にとって孫の成長 ぶりというのは楽しみにするところの最たるものではないかと思う。僕も歳をとったらき っと娘や息子、さらにその子供達の成長を生き甲斐の一つに加えていると思う。僕はこれ より三十年間、普通の人間の百分の一の代謝しか行わないことになるのだ。祖父母の命が 尽きるときまでにいったいどれだけの『成長』を見せることができるのだろうか。 僕は祖父母が僕の『処理』が施されるに至って猛烈な反対をしてくれたことを知ったと き、僕はこの二人を唯一の『肉親』と認めたのだった。 僕は両親を憎んでいた。だがそんなことは僕自身にも僕の周囲にも何の改善も施してく れないことをわかっているつもりだったから考えないことにしていた。 朱色の陽の中に庭木に水を撒く祖父を見て、縁側に腰掛けて祖母の入れてくれた熱い煎 茶をすすりつつ僕は思う。 僕は帰ってきた。確かに帰ってきた。 だがどうだ、せっかく決心して恋焦がれた約束の土地に帰ってみれば、そこはもう跡形 もない。過去のある時間に存在した故郷に似せてあるニセモノの風景がアクリル絵の具で 描かれているだけだ。鈍い時の反射光がギラギラと色のきわを引き立てているだけ。やわ らかな水彩画の風景はその下に塗り込められてしまったのか。 おまえの故郷はもうここにはないのだよと無言のうちに諭されてしまった僕にできたこ とといえば、少し色の褪せたフロックコートの襟を立て、そこに背を向けて歩き出すこと だけだった。 「また、昔の事を考えていたのね…」 気がつくと僕の傍らにはリンザがいた。 東京湾をぐるりと取り巻く夕陽に染まる東京湾灌漑計画の城壁を見ながら僕は夢想に耽 っていた。頬は気付かぬうちに濡れていた。僕はそれをあわてて袖で拭った。 「過去にしがみついて生きるのはおよしなさい。私たちには普通の人の倍の人生があるの よ。自分の歩んできた道を振り返るのはもう少し先でもいいんじゃなくて?」 ――君はそうするがいい。 リンザは何かと僕に言い寄ってくるところを除けば東欧系の整った顔立ちを持つ賢い女 なのだが…とにかくうっとおしいのだ。 「君の行く道は輝いているのかい?」 僕は冷たく言い放った。 「僕らは他の人と同じ様な時間を過ごすことはできない。僕らが子供の肉体を持て余して いるうちに世界は恐ろしいスピードで変容してゆく。僕の心は肉体とのギャップにさえつ いて行けずに吐きそうになっている。まして世界との関係を考えたら気が狂いそうだよ。 果たして人間は正しい未来へ辿り着いてくれるのか。この不安を抱えたまま、僕らはその 日その日のつけを次の者達へあけ渡すだけの他の人間の作る社会でもう一世代生きなけれ ばならないんだ。希望の明日を夢見ることは過去の栄光を振り返るよりも愚かしいと僕は 思うね。…少なくとも今の僕にはそう思える」 僕はここまで一気に吐き出した。リンザは目をぱちくりさせていたが、ややあって溜め 息のように呟いた。 「時間に囚われずに、『今』を謳歌できる人が羨ましい…」 そう言われた瞬間、僕は彼 女の顔を見据え石のように凝り固まってしまった。 そう。それは僕がいつも思っていること。 ――そうか、そうだとも。自分だけではない―― アオイさんの言葉は自分が存在することを再確認させてくれた。だからちょっとばかり 余計に心を動かされたのだろうと、僕は理解した。 夕陽に映えるリンザの横顔はいつになく寂しげで、それがなぜだか僕の心をカッカと熱 くした。 そうなのだ。僕が欲しかったのは変わること無く自分を迎え入れてくれる場所ではない。 剥き出しの心を包んでくれる不変の心だったのだ。 僕はリンザの心に触れた気がした。 考えてみればリンザは、この脱出不能の巨大な檻の中で僕と同じと時を過ごしてくれる 数少ない心の一つなのだ。 ――ちょっと調子がよすぎるだろうか…。 僕は苦笑いを鎧の中に秘めておき、リンザに笑顔をまいた。 「リンザ、ドーナツを食べにいこう。おごるよ」 再び彼女は大きな瞳をぱちくりさせた。 「今日のあなた…」 そこで口ごもって、彼女は軽く頭を振った。そして僕に向かって優しく微笑む。 「そうね。…いいわ、いきましょ」 彼女は僕の肘に腕を回した。 僕は少しとまどったけど、精一杯の笑顔を作ってみせた。 この笑顔が真なる僕の作るものそのままになる日を信じつつ、僕はぎくしゃくとドーナ ツショップへ歩き出した。

1991/10/5 "Kitten"

 (『GENESIS vol.16』 初出)