時の塵芥、夢の島                       ことぶきゆうき  午後のけだるい雰囲気が漂う教室の中には、熟年の歴史の教師の教科書を読み上げる声 だけが響いていた。室内の黒い学生服はみな机に半ばつっぷしており、顔を伏せずにいる 者は40人中一割程度しか見受けられない。  赤羽陽一はその数少ない、背筋をしゃきっと延ばした側の生徒だった。眠気と戦うこと は英雄的な戦いを陽一に感じさせた。授業中は眠ってもよいという暗黙の了解を無視し続 けることは、彼が他の者とは違った存在であるという証を他ならぬ彼自身に示してくれる のだった。  小室という歴史教師はもう定年も間近で、今まで何回授業を行い、何回生徒が巣立って ゆく様を見届けたかは本人さえも忘れるところであったが、今までの教師生活の中で形式 化され、慣例化されきった彼の授業の進め方は能率的ではあったが面白味や、奇抜さに欠 け、生徒に楽しむ術をけして与えないような、そんな疲弊しきった儀式であった。  ガタン!  教室の中程で誰かが浅い眠りのなかで机を蹴飛ばす音がした。歴史教師は教科書から軽 く目をあげると教室内を一瞥した。その時の彼が見たものは、まさに疲れ切った敗軍の将 が休息場で見るものそのままであったに違いないのだが、彼の心情が敗軍の将のそれと同 じであったかは定かでない。 自ら繰り出した蹴りの反動で目覚めた生徒は虚ろな目で周囲を見回し、状況が何も変化 しないことに安心したのか、再び机に顔を伏せて、今度は軽いいびきを机と顔の間から洩 らし始める始末。  静かな教師の朗読に不協和音が混じり始めた。小室教諭も、さすがにこれではいけない と思ったのだろうか、大きい段落が終わった所で声を休め、視線を教室内へ向け直した。 いびきをかいている生徒の名前を教卓に張りつけてある座席表と照らし合わせると教科書 を朗読していたときとはまるで違った、自信なさげな震えた声でいった。 「おい、タカハシ」  生徒の名が呼ばれると、黒い軍団は一斉に身じろぎをした。目覚めない者も、覚醒の境 界線まで一気に意識が前進する。 「続きを読んでみろ」  指された生徒はぴくりともせず、あまつさえ手にした教科書を取り落とす始末。  それを見た小室はフン、と軽く鼻を鳴らすと思い切り皮肉を込めていった。 「どうしたタカハシ、眠り病か?」  本来なら苦い笑いがざわめきとなって走るのだろうが 、今では違った。ただ、重苦しい 空気が教室中に張り詰めるだけだった。  陽一はことのほか沈痛な思いで歴史教師の吐いた迂闊な冗談を受けとめていた。彼の脳 裏には先週末に亡くした近所の幼なじみの死に顔が浮かんでいたのだった。  その幼なじみ、ノブちゃんとの思い出は本当に幼かった頃のものしかない。あの頃は今 のような漠然とした不安に苛まれ続けることもない、真に幸せな時期だったことを陽一は 束の間、痛感する。 ──ノブちゃんは早かった。小学校入学してすぐに『施設』に入ってしまったのだから…  誰しもいつか永遠に眠って目覚めない時が来る。それが何十年も先か、明日、明後日か は「神のみぞ知る」であって誰にもわからない。こうして机につっぷしている連中の誰か にだって、この次の瞬間にその時が訪れぬとも限らないはずだ。そんな考えが彼の頭のな かで動き始めた。 ──ぜんぜん洒落になってないよ…・  午後の歴史の授業のことがあってから、憤慨とそれに伴う深い憂鬱が陽一を支配してい た。夕闇の中を黒い学生帽と学校指定の艶のない黒い化学繊維のコートをまとって彼は自 転車のペダルをこいだ。通学路に他の生徒の影はなかった。というのも陽一は放課後しば らく図書館に籠もっていたからだった。陽一の住む市の南の外れにある町から同じ高校へ 進学した者は各学年あわせても5、6名であったから6時を過ぎればほとんど会うことは なかったのだ。学校にいる間中、ずっと同じような黒い服の同じ年頃の人間と密集して過 ごしているということがたまらなかった陽一はこうして帰宅の時間をずらし、一時間程度 の孤独をとりとめのない思弁にあてたり、クン、クッ、というペダルの軋みの連続音の中 で瞑想に耽ったりするのだった。  そこで考えることの中には将来の職業についてのこともあった。陽一も三期生であった から、そろそろ自分の進路について決断をくださねばならない時期にきていた。  陽一は星という『理論物理と哲学』の教師に密かに尊敬と憧れを持っていた。陽一はた いていの学生が嫌う様様な必須授業──『歴史と道徳』『社会と情報工学』『倫理と医学』 『心理と文学』など──に興味を持ったが『理論物理と哲学』の授業はピカ一に良いもの だと感じていた。  星は人間の思考が紡ぎだす論理と矛盾がいかにすばらしいものであるか、そしてそれが いかにして実践されるべきかを熱心に、また非常にわかりやすく語った。 「哲学のことを難しい、そして非現実的な学問だと思っている人も多いでしょうが、人間 が人間について考えるということは他の学問にまさって自然に則しているとは思いません か?そして頭のなかで組み立てられた自然原理は人間の手によって再現され、証明され、 生活のなかに反映されてゆく。これが理論物理学のとるべき姿勢なのです」  最初の授業でのこの言葉を聞いたときから彼の関心はこの学問に奪われていた。そして 今では自分もこの学問に一生かかわって行きたいとさえ思うこともしばしばだった。かと いって陽一は教師になりたいとはこれっぽっちも思っていないのだった。 永遠に拡散し、収拾のつかないエントロピーの様に、陽一の考えもただ広がってゆくだ けでまとまろうとはしなかった。拡散してゆくものをまとめるには外部からのエネルギー が必要だ。陽一の頭のなかがまったくの自然で、エントロピーが拡散し続けている宇宙と 同じならば自分一人では考えをまとめることは不可能だ。  外部からの補正を求め、陽一は本屋に向かった。  今世紀は以前に考えられていたような目ざましい、あるいは目立った科学技術の発展は 起こっていなかった。わずかに紙の上での『ガーンズバック多元時空間連続体』や『ホバ ート時間位相』といった時間感覚に関する概論が奇抜だっただけである。もっともそれは N・ウィーナーの『サイバネティクス概論』と同じように、世紀末に花咲くこともあるだ ろう。だがそれらが事実上「空論」であることは誰もが認めているところだった。  『眠り、宇宙、そして人間』          ジェームズ・バラード 著                法水写楽 訳  表紙に藍色のゴチックでそう書かれた本を手にとったとき、ふいに肩をつかまれた。 「よう、アカバ君。久しぶり」  見れば、中学校のクラスメートの東海林だった。 「やあ、ショウジ君。ほんと、久しぶりだな」 「うーん、ざっと十年ぶりくらいかな。ちゃんと起きて学校いってるか?」  彼の陽気さは変わっていないようだった。 「まあね」 「ふぅん。そりゃけっこう。俺はだめだ。遅刻ばっかし」  陽一のそっけない返事に東海林はややがっかりした風であった。 「そういや、オガワのこと聞いたか?」  突然信子のことに触れられ、陽一は動揺した。触れてほしくない所というのは、なぜか 必要以上につつかれてしまう。それというのもなにかにつけ陽一自身がそこに結びつけて しまうからだろう。でもこれもどうしようもないことの一つである。苦い表情を隠せない まま、陽一は応えた。 「……ああ。家が近いからね。通夜と葬式には出席したよ」 「幼い馴染み、ってやつか……」  陽一の苦虫を潰したような表情に東海林は同情した。 「随分前から施設には入っていたんだろ」 「ああ。彼女が十四の時から」 「十四か。じゃあ延齢もまだ受けてなかったな」 「いや、なんとか間にあったさ。延齢はできたけど延命はしなかったのさ」 「うん。そのほうが彼女のためだったよ。俺だって機械に繋がれてまで生きていたくない からな」  陽一もその考えには心のなかで大きく相槌をうった。 「アカバ君は一期5年制だっけ?」  話題の変換にちょっと戸惑う。 「そう。ショウジ君は普通校にいって?」 「今は専門職訓練学校さ。職業考えてる?」 「ぼちぼち。まだあと二年あるから。君は何の専門を?」 「一応、機械系統だよ。宇宙開発の仕事に就きたいと思ってね。知ってるかい?今、地球 規模の外宇宙有人探査計画が持ち上がってるんだぜ。参加したいよなぁ」  将来の希望に顔を輝かす東海林を前にして陽一はなにか気恥ずかしさを覚えた。人生に 対して後ろ向きな自分が何か惨めな気分に襲われた。自分と同じ『世代』の人間には遠い 未来は愚か明日のことすら考える気力がないように思える。皆、新しいものにとりつこう とか、古い体制や慣習を破壊しようとか、昔の映画に見られる現状へのやり場のない怒り とか、そんな物を持っている者は一人もいないのではないかとさえ思わせた。世界全体が 疲れ切った老人のようだった。実際、タキオン通信やタキオン帆船なども完成されていた のだが、外側への探求心を失った人類はついにそれを有効に使わないで終わるかもしれな い。タキオン通信もそれを利用しなければならないほど人類が遠くへ行くことがないだろ うから、やはり有効に使われる機会は来ないだろう。  そう、来ないだろうと決めつけてしまっているのは陽一を含めた大多数の人々であって、 中にはこの東海林のように若々しい希望の火を内に秘めている者もいるのだ。陽一は自分 の希望をえんえんと話し続ける東海林のおかげでなぜだか今度は自分が深い闇の底から救 われてゆくような気持ちになった。  陽一は激しく波うつ自分自身の感情に酔う様な感覚を覚えた。とたんにコーヒーが飲み たくなった。洒落た喫茶店へ、とも思ったがやはり急にファーストフードの植物油の匂い が恋しくなり、近くのハンバーガーショップに寄ることにした。喫茶店の一杯のコーヒー を重んじてはいても、ファーストフードや合成食品の雑な味を欠かす事を口が許さないの だ。  科学関係のコーナーに東海林を残して陽一は本屋を後にした。 「Aセット、ホットコーヒーで」 「かしこまりました」  バーガーとポテトとコーヒーのセットを注文してすぐにトレーの上に投げ出されたミル クと砂糖を見て、ブラックしか飲まない陽一は軽い不満を覚えた。 ──この店はミルクと砂糖が必要でないか、聞いてこないのか。それともこの店員が?  いや、おそらく店員に責任はないだろうと陽一は判断した。こういうところの店員はア ルバイトといえども徹底して店の方針に従っているものだ。会計金額をいわれてしまった 陽一は、ここでミルクと砂糖をつっかえすのも変だなと思いバーコードスキャンを受ける とそのままトレーを持って席についた。  陽一はハンバーガーを食べおえてポテトをつまみながら、ごみ箱へトレーごと自分の食 べた物の包み紙やら食べかすやらをつっこんでゆく人々の一種儀式じみた反復動作をぼん やりと眺めていた。  なんてすごいゴミの量だろう。いったいどれだけのプラスチックが、紙が、鉄が、硝子 が、『夢の島』などという本当に想像もつかない土地へ、毎日毎日何トンも運ばれ、同胞 たちと出会ってゆくのだろう?そこでは長老たちが新参者に古い時代の人間たちの夢を、 希望を、そして現実──暮らしを語り継ぎながら無限点へ向かって静かに栄え続けてゆく。 そんなことを陽一はぼんやりと自分の内側の視界の中に見るのだった。  やがて、立ち上がり、自分のトレーに乗ったミルクパックとコーヒーシュガーをダスト ボックスへ突っ込んだとき、彼は猛烈な吐き気に襲われてその場にしゃがみこんだ。 ──こうして使われることもなくゴミになってゆく製品や口に入ることもなく夢の島に 直行になる食べ物達はいったい毎日どれくらいあるんだ?それが一年間、いや一世代では いったいどれくらいになるんだ?  地球のどこかでは今でもなお、飢えに悲鳴をあげている者たちが大勢いるはずだ。そし てここでは悲鳴をあげることすらできずにその存在価値を失ってゆく──死んでゆく多く の製品達がいる。そんな対応が世界の秩序やバランスそのものと、不可思議な一致をみて いることを陽一は理解しはじめていた。  そして、五時限目の歴史の授業が再び脳裏に甦る。 「おい、タカハシ。いつまで寝てる。起きろ!」  この年寄りの体のどこにそんな力が残っているのかというほどの大声を小室は張り上げ た。陽一が初めて聞く彼の猛りの声。  だが、高橋は起きなかった。  それから以後、彼は永遠に目覚めることはなかった。  昏睡眠症候群(ナーコーマ・シンドローム)。世界中の人間や動物を蝕みつつある宇宙 の衰退の波が自分のすぐ側にも、いや自分自身にも及んでいる印を陽一はまのあたりにし たのだ。  今世紀の初頭、バラード博士によって最初の症例が発表されて以来患者は増え続け、つ いに世界中で昼間も起きている人間は総人口の半分近くにまで落ち込んだ。今世紀の科学 をもってしてもその治療法はまったく見つからず患者は専門の『施設』に収容するのみ。 さらに、『第二世代』中に病が解明される可能性もないといわれていた。まさに終末の病 であった。  施設から派遣されて来た車に高橋がつれていかれる様を陽一は見送っていたのだが、廊 下で教頭にすがって泣き叫ぶ小室教諭の姿はさらに強烈な終末のイメージを陽一の胸に焼 き付けていった。 「私……教頭先生、私は……いや、私も……いや、いや……」  うずくまる陽一にアルバイトの少女が声をかけたが、陽一は自分の中にこだまする、た ゆたゆとした宇宙の波の音に聞き入っていたので、彼女の声は聞こえていなかった。  だが、弱々しく立ち上がり、まるで夢遊病患者のように自動ドアのほうへよろよろと歩 っていった。  外はすっかり星が降るまでになっていた。  陽一は星空を見上げ、そしてその目を瞑った。  誰もこの宇宙の法則には逆らえない。全ては無限点へ向かって凄まじい勢いで拡散し、 同時に特異点へ向かって収束している。矛盾しているようでも完全に閉じた系。それが宇 宙、この世界。破壊は創造を産み、創造されたものはその瞬間から破壊され始める。未来 は破壊され過去になる。過去は行き場もなくただ横たわってうずたかく積み上がる。時々 気まぐれな人間たちにもて遊ばれるけれどやはりいつかは静かに横たわるのみ。『今』と いう概念はなんと哲学的なのだろう。過去や未来に比べればその存在自体があやしいもの だ。だが、この過去の物でも未来の物でもない一瞬の連続が、維持そのものなのであり未 来を過去に変えるという仕事が行われる唯一無二の領域なのだ。『現在』が時間軸を駆け 抜けて、過去がまき散らされてゆく。空間には乱雑な分子運動がまき散らされてゆく。何 も元に戻りはしない。  思うに、この22世紀というのは過去の人々の巨大な夢の島なのだ。地球人類すべての夢 のかけら──過去という名のゴミ溜めなのだ。あなたもゴミに。私もいつか。  I・フィールドスクリーンのホログラフではなく、向こう側が透けて見えてしまう、20 世紀のホログラフのように、昔の人々は現実のなかで22世紀の滅びを見ていたのかもしれ ない。21世紀よりも未来を描いた物語がいかに少ないかを考えてみばわかろうというもの だ。  眠りに就く何日か前、信子はこんなことを口にした。 「わたし、将来は過激派になるわ。世界中の人間の目を覚まさせてやるの。ヨウちゃん、 もちろんあなたもよ」  思えば、彼女はなんと早熟な十四才だっただろう。世界中の人間に求められている激し さを備え持っていた彼女はなぜあんなに早くに眠りに就いてしまったのだろう。  陽一は、哲学者とか思想家と呼ばれるものになりたかった。だが、生活するという現実 はそれを許してはくれまい。この国は古代のギリシャやローマとは違うのだ。哲学で食っ ていけるとは思えない。だがしかし、自分とていつタカハシやノブちゃんのように眠って 二度と目を覚まさなくなるかしれないのだ。それは昔の人間がかつて死とか寿命という言 葉と観念で表そうとしていた現象と同じことだ。『今』が駆け抜ける時間線のかなたには ゴミとなって横たわる自分の姿が確かに用意されているのだ。 ──だったら、せめて眠る前にできることはやっておこう。  自分にとってのそれは人間について考えること。その未来における意義は今考えてもし かたあるまい。やがては夢の島に横たわるのみなのだから。それでもふと思う。はたして、 ゴミは誰かがほじくり返してくれることを期待していたりするのだろうか。  もうすぐ四十才の誕生日を迎える陽一はもう一つ将来について考えていた。  延齢処置を断る、ということである。眠りを恐れながらもう百年を生きるのは耐えがた い。自然のままに数十年の命のまま、生きて行ければそれでいい。きっと両親は反対する ことだろう。でもその反対とて確固たる信念に基づくものではなくて、古い慣習から抜け 出そうという意思の無さの現れにすぎないし、第一両親には彼がいるが、陽一が眠りにつ いたときそれを守ってくれる者が誰もいないということは往々にしてありえないことでは ないのだ。  ついさっき、東海林との会話のさなか、浮かび上がったノブちゃんの死に顔は彼女が破 壊したがっていた頽廃の気風渦巻くこの世界のサンプルそのものだった。  そんなことを頭に巡らせながら自転車によりかかっていると、大きなあくびが口から出 てきた。  再び目を上げれば、オリオンの三つ星の真ん中が姿を消していることに気がついた。こ うして馴染みの星座がまた一つ姿を変えてゆく。冷たい風が自分内側に秩序をもたらして いったのか、すっかり気分は回復していた。悲しみはなかった。  陽一はしょぼしょぼとしてきた目を擦ると、自転車にまたがり、すっかり暗くなった街 道を家へ向かって走りだした。

1992/10/4 "The Dust of Time in The Dream-Island"

 (『GENESIS vol.17』 初出)