我が瞳、鉄の骸に                       ことぶきゆうき 1 僕は今日、3度目の受験に失敗した。 失意の余り、体中が微熱にうかされたようにけだるかった。それは『脱力』というのと は違っていたと思う。
胃がきりきりと痛んだ。 ふと気がつくと電話ボックスの中にいた。意識とは関係無しに体は、自動的にズボンの ポケットからカードを取り出し、挿入口へそれをつっこむと、受話器を取り綾子の家の電 話番号を押した。 なさけないとは思いつつも、こんな時には女の慰め声が聞きたくなるものだ。 何時しか、僕は何か辛いことがあるたび綾子の所へ電話して愚痴にもならないようなポ ツリポツリという泣き言を並べ立て、彼女の包容力に満ちた言葉とその合間の沈黙とを味 わうようになっていた。それは彼女にとってけっして楽しいことでない事はわかっていた し、3年前の自信に満ち満ちた自分のことを思い起こせば、いかに今の自分が女々しい男 に成り果てたかわかるのだが今の自分はそうせずには――彼女無しにはいつ深みの知れな い深淵めがけごろごろと転がり落ちていってしまうかわからないような状態だったのだ。 「もしもし、高志?…どうしたの」 わかっているはずなのだ、彼女は。 「今日、K大の合格発表だったんだ…今年も駄目だったよ。…全滅だ」 「そう…それで…どうするの?」 「まだわからないよ…」 沈黙。 僕はこの沈黙の優しさを楽しんでしまう。綾子はどうだろう?苦痛に感じているのだろ うか。 そしていつものようにポツポツというやり取りをして、カードのメーターが二つ減った ところで電話を切った。 電話ボックスを出ると冷たい風が頬を打った。冬の風の冷たさを快く感じるだけの余裕 が生まれたことに気がついた。 家に電話することを忘れたのに気がついたのは電車の中だった。 家族は勢揃いしいて、居間に入ってくる僕の顔を見詰めた。そして一度に全員の視線が 集まってしまったことに気が着いて各々がぎこちなく視線をずらした。 おおかた想像はついているのだろう。でも心のどこかには、暗い表情で電話もせずに帰 宅した僕がニヤリと顔を上げ、『ご心配かけました、受かってました』などとうれしさの 余ってのいたずらを試みているのではという期待もあるに違いない。 僕は皆の期待を裏切ってしまう。 「だめだった…」 『どうした?』と誰かが口を切る前に僕は先手を打った。意気消沈とした家族の痛まし いほどの気遣いを疎ましく思うほどすねてはいなかったが、心地好いとも思わなかった。 やがて母はヒステリックにすべりどめの大学をもう一校受けなかったことを責め立ててく るだろうし、けして兄思いでない弟は慰めの言葉一つ掛けないうちにまた僕を無視し始め るだろう。父は夕食後一杯つけながらぐたぐたとあまり身にならない話をしてくれるのだ ろう。僕は家族に対して以前より愛情を感じなくなってきてはいたが、決して嫌いではな かった。 そこは実に帰ってくるにふさわしい『場』であった。二階屋の六畳一間を僕だけの空間 として与えられていたし、家族という社会の最小単位の中に僕をはめ込んでくれるうまい 隙間もあった。 「ミヤオォォ〜ン」 おっと、ピーターの事を忘れていた。今部屋に入ってきたのは僕の最も愛する家族、猫 のピーターである。 ピーターは今でこそ艶やかな毛並みの丸々と太った虎猫であるが一年前孝司が拾ってき たとき、それは薄汚い、今にもくたばりそうなほど貧弱な体つきの小猫だった。その時は 僕の片方の掌に乗っけることができたが、今では両手で抱え上げるのも疲れるほどに肥え ている。 僕は猫の嫌いな人間だった。いや、ひょっとすると今でも嫌いかもしれない。わがまま で、きまぐれで、お高く止まった女のような所がなんとも気に入らない。 ピーターはそんな僕に取り入った唯一の猫だった。こいつは置物のようにガンとして動 かない。そして低いささやき声で『ミャオォォ〜ン』と、同じ発音で鳴くだけ。あとは目 で物を言う。沈黙と冷静の猫なのだ。そして僕が必要に思ったときはちゃんとそばにいて 感情豊かなその二つの大きな眼を僕に向けてくるのだ。 綾子とピーターだけが僕の理解者だと思っていた。 2 K大の合格発表があってから一週間がたった。 僕は駅前の『ロドス』という喫茶店で綾子と会うことになっていた。 彼女のほうから誘っいがかかるとは珍しいな、と思いつつ僕はロドスに向かった。 いつもの一番奥の窓際の席に彼女はいた。 「待った?」 「ううん、十分ぐらい前に来たとこ」 まもなくウエイトレスが僕の注文を取りにきたので、いつものようにマンデリンを頼ん だ。彼女のほうはいつものチョコレートパフェではなくミルクティーだった。 沈黙が続いた。以前の自分ならこんなことはなく気のきいた会話ひとつやふたつポンポ ンとできたものだ。それにしても最近は以前の快活な自分を回顧してばかりだ。 「ねぇ、私たちもう終りにしない?」 聞き流してしまいそうな口調で彼女はいった。 「えっ?」 なさけないけどそれ以上言葉が続かなかった。 「私…今、会社につきあってる人がいるの…。あなた、大切な時期だったでしょ。だから 言い出せないでいたの。…ごめんなさい…」 女なんてーのはほっとけば3週間で新しい男を作れるんだぜ――そんな友人の台詞が頭 をよぎった。 僕は伏し目に淡々と言い訳を続ける彼女の言葉を右の耳から左の耳へ聞き流していた。 女は男と違って現実主義者なのだ。彼女はもう社会人二年目。三浪するような男ではな く自分の会社で出世株の男に鞍替えして当然ではないか。男の二十一と女の二十一では価 値が違う。女は男よりも先に結婚する。彼女ももう結婚を考えて相手を選ばなくてはなら ない時期に来ているんだろう。 この時、僕は余りに自己憐憫の情が強く、自分が彼女を繋ぎ止めていられないような男 に成りさがっていることなどこれっぽっちも気づかず、彼女の半泣きの顔もわざとらしい ものに思えてしまったのだった。 「わかった。もういいよ…。これっきりだ」 僕は目の前に置かれたマンデリンを一気に飲み干すとチェックをひっつまみ、レジへ向 かった。 店を出る時、綾子の漏らす嗚咽がやけに耳障りなものに感じられた。 胃がきりきりと痛んだ。 3 外へ出ると不思議と悲しみは感じなかった。綾子の存在が自分にとってけして小さいも のでないことを知ってはいたが、失ったことを感じることが出来ずにいたのだ。 空虚だ った。 空っぽで価値のない自分がただそこに居るだけだった。 僕はその足でフラリと電車に 乗り込み、気が着くと新宿で降りていた。そして夕暮れの雑踏の中に身を投じた。 さっきから僕の目に映る広告塔があった。三色に変わる電灯で、こう書いてあった。 VOLUNTEER WANT! MAN PLUS PROJECT E.C. ボランティアか、たしかなんとかというSF作家が青年海外協力隊に入っていたことが あったとどこかに書いてあったな。 僕は決して人生に失望していたのではなかったと思う。しかし、自分を充実させてくれ る何かが欲しいとは思っていたに違いない。 僕はフラフラとそのビルに入っていった。そして、もっと英語の勉強をしておくのだっ たと思うことになる。そこは奉仕活動をしようという人間のやってくるところではなかっ たのだ。 「こんにちは」 予想に反して若くてスタイリッシュな受付け嬢がとびきりの営業用スマイルで迎えてく れた。 「こちらへどうぞ」 僕はなかなか素敵な女性だな、などと思いつつ誘導されるままに奥のソファに腰掛けた。 「係の者がくるまで少々お待ちください」 そこに現れたのは横山ノックに似た中年男だった。 「どぅも。学生さんですか?」 「ええ」 「志願なさるおつもりで?」 「いえ、今日はその…話を聞かせてもらおうと思って…具体的にはどんな奉仕活動をする ところなんですか」 「奉仕活動?」 男はおもいきりしかめっつらをした。 「ここをどこだとお思いで?」 面喰らったのは僕のほうだった。 「えっ、ここって奉仕活動グループの事務所じゃないんですか?だって外に『ボランティ ア』って…」 どうやら、僕の短い生涯のうちで最もマヌケな勘違いに男は気がついてくれたようだっ た。 「マン・プラス計画って聞いたことない?」 はて、なんだったかな? 僕の頭は非常に曖昧ながらその言葉を記憶していた。 「ちょっと思い出せないんですが…聞いたことは…」 僕の反応に男は軽く頭を抱えて、もっと宣伝に力を入れておかないからこうなんだとい うようなことをぶつくさと漏らしてから開き直ったように僕に説明し始めた。 マン・プラス・サイボーグ開発計画実行委員会。それがこの事務所の正式な肩書きだっ た。通産省工業技術院の『極限作業用ロボット計画』が実用段階にまで発展したもので、 動力炉・核燃料開発事業団をはじめとする三つの団体、二つの国立研究所、民間企業十社 によって組織されたものだ。 A・R・Tプロジェクトは宇宙、海洋、災害地などにおいて人間に変わって作業するた めのロボットを開発することを目的に一九八三年に発足した。とくに一九九〇年の中東危 機以来、日本の原子力依存度が高まったため、原子力関連作業用ロボットのニーズはここ 数年間に急激に増大した。放射線被曝下での危険作業、原子炉内の保守点検にロボットを 使いたい。しかし、もし原子炉内で暴走したりすれば一大事になるため、高い信頼性と安 全性が要求される。さらに人間作業が行える高性能さも求められ、それが開発を困難にし ているのだった。そこでサイバネティクスにより作業機械と融合した人間――マン・プラ ス・サイボーグ理論が生まれたのだった。 僕は『マン・プラス』なんてのはいかにも奉仕団体の好きそうな協力的なロゴだな、な どと思ってしまったのだが、そうとなると『ボランティア』は『奉仕活動』ではなくて、 『志願者』の意、つまり広告塔の文字は 『志願者求む!――マン・プラス計画実行委員会』 だったのだ。 僕は決して赤面性を持ち合わせてはいなかったがさすがにその時は耳の先まで真っ赤に なった。 そしてさんざんその計画の有意性と志願者不足の問題について聞かされることになった。 そしていつのまにか話は僕にせめて志願者の資格審査だけでも受けていってくれという 懇願に変わっていた。 志願者認定の条件は3つあった。 一、性別は問わないが年齢は20歳以上30歳未満に限る。 二、専用試験においてIQ一二〇以上と認められた者。 三、担当医師が心身ともに健康であると診断した者。 そしてこの三つの条件を満たしてはじめて『志願者』として認められる。志願者になっ たからといって彼等に何の変化が起こるわけではなかった。損もなければ得もない。ただ 、志願者が三十五歳になるまでに不慮の大事故、治癒不能な病状に陥った場合、彼の心臓 停止が確認された後その身はマン・プラス計画実行委員会のものとなる。うまくゆけば彼 は機械製の真新しい体を得て、原子力作業用サイボーグとして生まれ変わり、第二の人生 を社会のために尽くすことができるようになるのだ。 非常に馬鹿げた話だ。一文の得にもならない。『もし、自分が近いうちに死ぬようなこ とがあったら』ということを前提にしているが、そんなことを年中考えている奴が条件一 の年齢層の中に一体何人いるだろうか?さらにいうなら、その死んだ後に得られるのがサ イボーグの体だなんて!子供だって今の技術で作りうるロボットがマンガやアニメのよう な動きをしてくれるとは思わないだろう。それでもサイボーグという響きは僕らの世代に 強力なパワーと永遠に近い命を与えてくれるようなイメージがある。そんな少年の憧れる ようなお題目に引き付けられて志願にくる連中もいるのだろうか?ブリキのおもちゃで、 『永遠の命』もあるまいに。 しかし僕はうまいこと口車に乗せられ、この哀れな中年のために審査ぐらい受けてもい いかなと思い始めた。 成りゆきに身をまかせるというのは得意であったし、認定事項の 一はともかくとして今の自分には二と三の項目をクリアできる自信はゼロに近かったので ある。僕はIQの相場というものを知らなかったけど三浪きめこむような頭はたいして良 くはないだろうと思ってしまっていたし、年がら年中どこか具合のおかしい虚弱な体には 二十年間うんざりしっぱなしだった。ましてや今の僕の精神状態といったら! そんなわけで僕は志願の手続きを一通りしてしまった。担当者に勧められるがまま六枚 の書類に必要事項を書き込み、知能テストを受け、健康診断を受けたのだ。 こうして僕の人生二番目の悲劇が起こった日に一番の悲劇への布石がなされたのである。 家に帰ってからようやく僕は綾子を失ったことを思い出し、ピーターを前においおい泣 きあかした。 ピーターの瞳はいつも通り同情に満ち、優しかった。 4 結局あれからN大の補欠合格の通知がきたのでそこへいくこととなった。N大なんて三 年前には鼻にもかけなかったところだがいたしかたない。青年海外協力隊に入って人生の 一ページに素晴らしい思い出を残そうという道より、僕は就職に四年間の執行猶予をつけ てもらう方を選んだのである。 実は前者の方が僕の短い人生のうちでは遥かに貴重なものになったであろう事を今更に 悔やむ。 さて、大学に入った僕はというと、友達は多いほうでなかったが、寂しくもなく、適度 に楽しい、だが無味乾燥な大学生活を送り、機械科の中では上位の成績でなんとか就職先 も決まり順調に卒業を迎えようとしていた。 でも万事順調かというとやはりそうではなかった。 英語の単位が足りなかったのである。しかしそれも今回受けた再試験で解決するはずだ った。 今日僕は履修結果を知るために教務課に向かっていた。 実をいうと試験の結果には余り自信がなかった。事前に担当講師のところにいって聞い てきた出題傾向とほとんど違っていたからである。 もし落ちていたら…そう思うと動悸は激しくなるわ、胃は吐きそうなくらいきりきり痛 むわでどうしようもなくなってしまうので、僕は楽天家を装うことに努力した。 「すいません、機械科四年八〇六七番の塩浦ですけど…この前の再試の結果が知りたいの ですが」 神経質そうな事務員が僕の差し出した学生証を手に奥のほうの書類束を調べ始めた。 男の指による走査が止まった。こちらへ戻ってくる。 結果は? 「塩浦さん、残念ながら不可です」 男は残念ですということを微塵も表さない鉄面皮でそういい、学生証を突き返してきた。 僕は頭の中が真っ白になっていたが、自動的な動作でそれを受け取ると、とぼとぼとそ の場を立ち去った。 建物の外へ出てしばらくしてからやっと、僕は怒りとも悲しみともつかない感情の奔流 を感じることができた。 なぜだ!どうして?畜生!馬鹿な… そんな物が頭の中をグルグルし始めたとき、痛烈な痛みが胃を襲った。このところこの 発作的な胃の痛みにほとほと困り果てていたところなのだ。先日医者にいって検査を頼ん できたほどだ。胃カメラも飲んだ。心配ごとが消えればなんとかなるかと思っていたがこ んな結果を知らされてはますますおかしくなってしまうに違いない。 僕は食堂で胃薬を飲んでから糞ったれの英語講師のところへ殴り込んでやろうと思った のだが、あまりに胃が痛むので先に医者に行くことにした。 「すぐに入院する必要があるね。準備をしてください」 出し抜けに髭面の爺さまは僕にそういった。 「入院て…あの…そんなに悪いんですか?」 「ああ悪い。潰瘍ができてるといったでしょう、あれが悪い。この間診たときより大きく なっている。手術の必要が出てきたんです」 僕の思考回路は悪いほうへ悪いほうへと動き始めていた。そしてそれは自分の環境をも 悪いほうへと押しやっていくのだった。 「ガンなんですか?」 「潰瘍だといっとるでしょう。学生さんだね、家の人に話すことがあるから近いうちに来 るようにいっといてください。…いや、念を押すようだが君は断じて癌ではないよ。入院 手続きのことで家族の方と相談ごとがあるだけなんだからね」 そんなことをいわれてもそのときの僕に信じろというほうが無理ではないか? 僕は病院からの帰り道、まともに前を見て歩くことができなかった。自分がこの世で一 番不幸な人間に思えた。 だってそうだろう、三浪してやっと入った大学をたった一科目 ――糞ったれな、実際に使うこともないだろう毛唐の言葉――そのために留年だなんて! 親にどんな顔をすればいいのだろう?これ以上経済的な負担はかけられなかったし、第一 に世間体というものがあった。親は、特に母親はそれを自分の信じられないくらいに非常 に気に病むものだということを知っていた。今ただでさえ家庭内がぎくしゃくしていると ころだというのにこんな知らせが入ったらそれこそ火に油を注ぐようなものだ。僕は自分 の愛すべき『場』を自らの手で汚さなければならないことに非常な嫌悪を感じた。そして それに加えてこの胃袋がこともあろうに『癌』であるかもしれないというのだ!癌は早期 発見すれば直る病気だなどと聞かされていても実際自分がそうであるかもしれないとなっ たらその恐怖はこの上ない。僕の世代は『癌こそは不治の病』といわれ続けて育ってきた のだ。唯一の救いはエイズと違って世間体を保って悲劇的に逝けるところであろうか。 確かにそのときの僕に悪いところがあったかもしれない。悪いことが重なって思考が停止 してボケッとしていたかもしれない。 でもそんなときの僕の体は本当に自動に近く良く動いてくれるのだ。だから横断歩道を 渡るときもちゃんと信号が青になってから歩き出した。 僕の意思と体が再び一致した時、ぼくの感覚器が捕らえたものは避け難いスピードと位 置にある一台のスポーツカーだった。 焦ったり、緊張したり、恐怖する暇もなく僕の体は跳ね飛ばされた。 ドサリという音を立てて僕は地面につっぷした。 悲しいことに意識は明瞭で、内臓はぐちゃくちゃになっていた。 僕はそれまで人間というのはあまりに『痛い』と死ぬもんだと思っていたがそうではな いことを知った。感覚を越えた苦しみが襲ってきた。こういうのを本当に『死ぬほどの苦 しみ』というんだろう。涙が出てきた。 車から若い男が顔を出した。そして降りてくることもなく車を発進させた。 おい…まてよ…そいつぁまてよ…まさか… 涙でぐにゃぐにゃになった視界から車は消えていった。 畜生!轢き逃げかよ!どこまで運のない奴なんだ! 僕は悲しさも惨めさも無く、ただ悔しかった。 まわりに人のいる気配はなかった。 誰かに早く来てもらいたかった。この苦しみから逃れられないことはわかっていたし、 もう助からないという確信もあった。だが、こんなところで一人っきりで死ぬのは嫌だっ た。誰でもいい。誰でもいいから僕のそばに駆け寄ってきて『しっかりしろ』とか『きゃー、 たいへん』とか僕を気遣う言葉を発してほしかった。 世界に無視されて死ぬのだけはごめんだった。 母さん…・綾子…・ピーター… 誰にも見取られない死。 三回の受験の失敗、恋人との別離、家庭不和、留年、胃癌、そして轢き逃げ。まるで人 生の不幸を絵に描いて額縁にいれて飾り立てたようではないか! そんな自嘲的な事を考えながら僕は意識を失っていった。 しかし、僕の短い生涯における最も不幸な出来事はこの後に待ち受けていたのだ。 5 次に僕があったのは、残念ながら極楽ではなく現実の世界だった。 真っ白い部屋――病室のようだと感じた――に僕は…僕の体はやや上体を起こして横た わっているらしかった。 開かれた両目から入ってきた風景の中には二人の男がいた。二 人とも見覚えのない顔だ。 二人の唇が動いている。何を話してるのか聞きたいと思い耳に意識を集中した。 その時、視覚とも、聴覚ともつかない感覚の領域に不思議な情報量が伝達されてきた。 僕の意識はだいぶそれをうるさがったが僕は彼等の会話を聞こうとするのに努力した。 「…こっちを見ているぞ、見えているのか?」 「見えているかも知れませんが、マザーの記録はまだ始まっていませんから記録には残ら ないでしょう。まあ、記録に残って困るようなことは何もありませんが」 「で、いつから動かせるんだ?」 「あらゆるメカの装備は完了しています。あとは生き残った生体部分と機械部分のバラン スの調整、それからマザーと彼の脳とのバランスの調整でしょうな…」 なに?何をいってるんだこいつら? 僕は麻酔をうんとかがされてから目が覚めたときみたいに重い感じのする頭を必死で働 かせようとした。 体を動かしてみたい衝動にかられた。しかし鉛のように体は動かない。腕枕をして全然 感覚がなくなってしまった時に味わう恐怖に似たものを僕は感じていた。 首も動かない。身をよじることもできない。 僕は唯一動く目玉の筋肉を駆使した。 そうしておかしなことに気がつきはじめた。病室にしては広すぎるし、妙な機械が多す ぎた。テレビで見る重体患者の病室にあるよりずっと複雑な機械類があった。 僕は視線 を遠くから近くに戻した。そして自分の体の近くを見るように努力した。 僕の体はベッドにあるのではなかった。歯科医院にあるような椅子に乗せられているら しい。そしてシーツだと思っていたのが白っぽい半透明のビニールシートのようなもので あることに気がついた。その下にうっすらと見えるもの。 その位置にあるのは僕の体の一部であることは紛れもない。その作り物は… おお…、おおおおおぉぉ! なんということだ!僕の体は機械になってしまった! 6 一九九六年三月十八日午後八時三九分六秒。それが僕の心臓死が認められた時間だった。 そしてその次の瞬間、僕が綾子を失った、忘れもしないあの日に書いた六枚の書類が僕 の亡骸をマン・プラス計画実行委員会の自由にさせることを法律的に認めさせた。 彼等は僕の死体から脳とそれを生かすのに必要な生体部品となる器官をとりだし、すぐ さま用意してあった原子力作業用マンプラスサイボーグボディにセットした。 その作業はこれまでに無いくらい万事うまくいき、こうして『プラスボーグ6号』は完 成したのだった。 プラスボーグの1号から5号まではどうしたのかというと、皆途中で異常を起こし十分 な機能テストも行えないままファイルに番号を残すにとどまったということだ。 それか らすると僕は――僕の脳を部品にしたこの機械は会心の作だということだ。なんといって も彼等の計算通りにちゃんと動く! 僕は1号から5号までがどうして動かなかったのかわかる気がする。 彼等は潔く人間として死ぬことが出来た。 そうでなければ気が狂ったのだ。 僕は意地汚く『生』に執着したあげくに、こともあろうか、結構この体が気にいってし まったのだ。 メインフレームと一次装甲はチタンと白金を主体とする超合金で構成され、強化耐熱樹 脂の二次装甲が全体のシルエットを形成している。外見が一般人および僕自身に与える精 神的な影響を考慮し、三次装甲――外皮と呼ぶべきか――は手、及び顔に施されている。 義手や義足に使われている人工皮膚だ。僕の顔は本当は見るに耐えない機械のグロテスク なしゃれこうべなのだろうが、そこには以前の僕に生き写しな世界一精巧なゴムマスクが ついているのだ。 僕の体は擬似筋肉によって駆動する。擬似筋肉は僕の知る限り最も高性能のアクチュエ ータだ。近年になってようやく実用段階になったそうなので詳しいことは知らないが、そ の糸状の高分子を束ねた繊維一本の太さは、5〇〇ミクロン。この繊維はアセトン溶液に つけると縮み、水につければ伸びる。その濃度によって収縮度、反応速度が違う。これが 何本かまとまったものが一つの筋肉繊維となり、さらにそれが束になって一つの人工筋ユ ニットとなる。その繊維の持つ力は人間の筋肉と同じ程度だが、理論的に同じ容積に人間 の筋肉組織の二倍詰め込むことができるので同じ大きさなら人間の倍の力が出せるわけだ 。実際は作動液の循環器(人間でいう血管にあたる)が入るために一・二倍から一・六倍 の集積率だそうだ。それにしても人間と違って擬似筋肉は何時間も全力を維持できるし、 第一に疲れを知らないのだ。寿命は短いらしいけど、僕の中の疲労検知器かマザーの故障 予測装置が異常発生を告げたら、新しいのと交換すればそれで済むことだ。 新しい心臓は擬似筋肉の作動液を特定の濃度にし、特定の箇所に正しい量を送るシステ ムだ。その他の電子装備も含めて電力はバッテリーと新型の第二世代燃料電池パックで供 給される。整備個室で充電が受けられない時はこの電池だけで最大九八時間単独行動が可 能なのだ。 僕の生身の部分は脳と脊髄の一部、肝臓の切れ端と舌、消化器官の短縮した もの、それと二つの眼球だった。 血液は半分が人工のだそうだ。 目は電子の眼があれば十分ではないかとおもったが、人口眼球による入力をメインにす ると脳がストレスに絶えきれなくて卒中を起こし易くなるという理由で生身なのだそうだ。 今も視力は一・二はある。 舌と消化器官のミニチュアは僕の食欲ストレスを発散させるためのもので、脳や肝臓へ の栄養供給はここから行う。異常が起こったときのみ血液に直接点滴する。 生体維持器官は一箇所に収められ、放射線に対して強固な防御措置が取られている。眼 球も放射線シールド加工された特殊マスクを着用することによって守られる。 僕の感覚 は視覚に頼るところが大きくなった。僕の直結の感覚器が舌と眼だけになってしまったか らである。触覚や運動機能はセンサを通してすべて研究所にある巨大なマザーコンピュー タが管理していて、僕の体に埋め込まれた端末がその信号を脳に送り、また脳の思考パル スをマザーに送るという作業をしているのである。 マザーは僕の要求した事に対して応答するのに話しかけたりしてこない。すべて図形化 して僕の脳にあるもう一つの視覚野に信号を送ってくる。つまり僕は実際に目を通して物 を見ながらマザーの送ってくるコンピュータ映像を白昼夢のように意識下で見ているので ある。これは非常に難易度の高い処理なのだそうだが僕はあっさり受け入れることができ た。また場合によってはそっちの画面だけ見ることも可能だったし、肉眼で見た風景に必 要なデータを割り込みさせることもできた。 僕は自分の姿を客観的に見ながら、想像するように操り、中に浮かんでいるような感覚 で機能した。 僕は研究所で皆に大事にされた。僕が優秀な研究材料だったからに違いないが今は自分 が人間でなくなったことをたいして悲観しなくなった。 そして新しい能力を覚えるのは非常に楽しかった。 僕は額の電子銃から発射される電子線による走査によって人には見えないものを見たり 、胸ボックスに収まったパシッシブセンサ群のX線分光器を併用することで成分分析もで きる。サーモグラフも当然のように装備されていた。耳には超指向性高感度マイクロフォ ンがあり、盗み聞きは僕の最も得意とするところとなった。 カプセルに詰まった僕の脳は極めて健康だった。僕の脳は肉体的な苦痛から解放されて いた。そのおかげで精神的な健康も回復されてきたのだろうか。 そういえば僕はマン・プラス・サイボーグの志願者にどうしてなり得たのだろうとふと 整備個室で眠りにつく前に考えてみたりする。 あのときすでに僕の胃はおかしかった気もするし、綾子にふられたショックで精神状態 だってメロメロだったはずだ。あそこの医者はいったい何を診ているのだろう。それとも 人材不足でどんな奴もオールクリアにしていたのだろうか。あの推理クイズみたいな知能 テストもずいぶん妙なものだった覚えがある。 僕の研究と調整はもう十ヶ月近く行われていた。この新しい体も十分に操れるようにな り、こうして過去の余計なことを考える余裕がでてきた。そろそろ僕はこの研究所にカン ヅメになっていることにうんざりしてきたのかもしれない。 僕はもうじき実用試験段階というのに入る。この研究所を出てあちこちの原子炉をまわ るのだそうだ。 その前に僕にその気があれば家族に会いにいっても構わないといわれた。 家族はいったいサイボーグなんてものになってしまった僕のことをどう思っているのだ ろうか?いろいろ考えると不安になってくるところもあったがとりあえず僕は家族に会う ことに決めた。 家族といえばピーターはどうしているだろうか? 僕はなんだか急にピーターのことを思いだし、すごく会いたくなった。ピーターはきっ と機械になった僕のことをわかってくれないだろう。そう思うとなんだかひさしぶりに悲 しいような寂しいような気分になった。 そういえば僕の葬式はやったのだろうか? 7 その日、家族は僕の来訪を知らされていたにもかかわらずその驚きようは大変なもので あった。 幸いだったことは僕の外見で生身の部分が目だけだったということだ。これがもし、生 首が乗っかったサイボーグボディだったら、母は僕を化け物扱いして卒倒してしまったこ とだろう。 状況は複雑怪奇である。十ヶ月前、彼等は僕の遺体――脳を取られ体中あちこち引き裂 かれ再び丁寧に縫合された僕の抜け殻――を引取り葬儀を行い、火葬にし、先祖代々の墓 地に埋葬したのだ。そして今、僕そっくりの機械人形が現れ、そこには僕の脳と共に魂が 宿っているというのだ。まさに『鉄の亡霊』である。 そんなわけだから、サイボーグになっても無事に家に帰ってきた僕を父と母は涙を流し て喜んで迎えてくれるのでは、という僕のささやかな期待はあっさり裏切られた。二人と も困惑の色を隠せないで、うわべだけで喜んでくれているようだった。弟の貴志にいたっ ては僕をもの珍しいからくり人形としか扱おうとしなかった。 僕の部屋は存在しなくなっていた。空き部屋が一つ増えていた。それでもそこにはかつ て僕のであったものの残像があった。 僕は家を出たいと思っていた。少なくとも十ヶ月前、人間であった頃は。毎晩のように おこなわれる父と母の陰湿ながなりあいには堪え難いものがあった。小さい頃は仲の良か った弟との間にも兄弟愛なんて物はこれっぽっちも感じなくなっていた。弟は一発でK大 に合格し、僕に尻込みするところが多少あったには違いないが、しだいに僕を蔑むような 態度にでてくるようになっていた。親の期待も次第に僕から弟の方へ移ってゆき僕は幾分 気が軽くなったものの疎外感を禁じ得なかった。 両親の諍いが激しいとき――特にその原因が僕にあったときなどは僕は部屋にいるのも いたたまれなくなり、夜風に当たりに何時間も外をうろつくことがあった。ピーターはそ の深夜の散歩によくつきあってくれたものだ。 今となって、家族は僕なしで完全に一つ の物として成り立っていた。僕の入り込む余地は無かった。僕は完全に家族を失ったのだ ということを知った。きっとそれを知るために今日、家に戻ってきたに違いない。 それを知っていらだっている自分に気がつき、僕は本当は家族を恋しがっていたことを 悟った。 塩浦家の特別ゲストである僕は2時間たっぷりもてなしを受けると重い腰を上げた。 そして玄関を出るとき僕は生身の目玉に思いきり人間の感情のすべてをこめて家族一同 を睨みつけこういった。 「お父さん、お母さん、僕がこの家に戻ってくることは二度と無いでしょう。 死んでしまった僕が本当は死ぬ寸前にいっておかなければならなかったことを今いいます。 二十五年間育ててくださって本当にありがとうございました。親不孝だった僕を許して ください。僕の魂はもうしばらくこっちにあるはずだけどもう何も親孝行はしてあげられ ません。どうか貴志といつまでもお元気で」 機械の作った声で今は亡き息子の言葉を聞かされた両親はポカンとした表情のままだっ た。 「それではごきげんよう」 僕は何かいわんとする母に背を向け、まるで出征するような気分で堂々と自分の家を出 ていった。 「ミヤオォォーン」 ピーターの声がした。僕はその声を聞くまで自分が一番会いたがっていた者を忘れてし まっていた。ピーターは変わり果ててしまった僕に嫌悪の念を持つに違いないと僕は思い 込んでいた。だから会うまいと心のどこかで思っていたのかもしれない。だがその声を聞 いた途端、そんなたがはふっとんでしまった。 「どこだい、ピーター!ボクだよ、帰ってきたんだ」 僕がキリキリ首を回していると、彼は颯爽と現れ、デンと僕の前に立ちはだかった。 僕は両手を差し出したい衝動にかられたが彼を怯えさせたくなかったので必死にこらえ た。 彼の大きな瞳が僕の顔をまじまじと見上げた。 僕に出来るのは僕自身の瞳で彼の視線を受け止めることだけだった。 「ミャォオ〜ン?」(君はご主人さまなのかい?) そうだよピーター。匂いも何もかも違ってしまっているけど僕は僕なんだ。 僕はなるべく生身の体の時、ピーターに振る舞っていた仕種を試みた。 わかってくれ、ピーター! 僕は両手を差し出してしまった。ピーターはそれにややたじろいだが、しばしジッと僕 の目を見詰め直すと、ピョンと僕の懐に飛び込んできた。 「ミャォオオ〜ン!」 ありがとう。ありがとうピーター。 僕の目は十ヶ月ぶりに涙で濡れていた。 8 僕はピーターを研究所に連れて帰った。住み慣れた町と、家族に別れを告げて、唯一の 理解者でをそばに置くことになったのである。 お偉いさんは僕の友人に対していい顔をしなかったが、ピーターは僕と接するあらゆる 人々と仲良くなった。 ピーターは機械になってしまった僕に以前と同じ態度で接してくれた。ぼくは整備個室 の中では、マザーとの意識的な接続を切って眠っているとも起きているともつかない休暇 体勢をとるのだがピーターがきてからはずっと起きて相手をしてやることが多くなった。 『夜ふかし』は脳や生体部分によくないといわれたが、疲れを知らない身なので僕はそ んな忠告は気にもとめなかった。 僕は僕のボディのメンテナンスをやってくれる早坂さんという人と親しくなった。機械 いじりが仕事のこの人が、なぜかこの研究所内で僕のことを一番人間らしく扱ってくれて いる気がした。 彼は僕の代わりにピーターの面倒をよくみてくれて、当のピーターも早坂さんに良くな ついていた。 僕は早坂さんに少しばかり嫉妬を覚えることもあった。 なぜなら、僕はもう以前のよ うにピーターの艶やかな毛並みを撫でてもその感触を味わうことが出来なくなっていたし、 ピーターの体温を感じることもできなくなってしまったからだ。 ピーターの方は燃料電池から作られた温水による作動液が駆け巡っている僕の体の持つ 暖かさが気にいったようで前にもまして擦り寄ってくるが。 僕も最近ではようやく人間並みに扱われるようになり、自由時間には研究所から半径50 km以内ならどこへ行ってもいいようになった。 僕は今、日本中あちこちの原子炉の設備の中に入って電子の目で歪みや亀裂を探したり、 危険な汚染物質を取り扱う仕事をさせられていた。 僕は研究所から出られるようになった代わりに、再び憂欝というか空虚というか、そん な感情に浸ることが多くなってきた。 自分の存在の明確さ、というものに疑問を抱き始めてしまったのだ。 僕は整備個室の中でふと、胸苦しいような感触に襲われるようになり、以前のように夜 風に当たりたくなることがあった。 しかし、実際に外に出てみればどうだ!僕はあの心地良い夜風を感じることが出来なく なっているではないか! それは大変に寂しい事象だった。 人間には何かしら価値がある。どこかの誰かが必要としているならばその人間はいるだ けで価値がある。 僕はどうだ?原子炉の整備には必要な道具であるに違いない。しかし… 年を取ってきたピーターはますます動かなくなってきて、僕から離れなくなってきた。 そうだ。今のところ僕はピーターにとって必要な存在なんだろう。 僕は最近、僕の能力で感じられる自然というのを発見した。それは星を見ることである。 都会の汚れきった大気で霞んでしまう夜空の星を僕の電子の眼は捕えることができた。 本物の目をつむり、僕は他の人には見えない弱々しい輝きの星や無数の流れ星に見入るの だった。 僕は星の見える時間、星の見える場所にいられる時はその行為に身を投じることにした。 耳を済ませば都会では人々が聞き漏らしてしまうような木々や草花のざわめき、風の歌 声を聞くことができた。 そうだ。僕は人とは違う。しかし人に出来ないこともたくさん出来るではないか! 9 ある日、ピーターは血を吐いて死んだ。 僕をおいて逝ってしまった。 僕は唯一にして無二のものを失ってしまったのだ。 早坂さんは老衰だろうと僕に話した。 「老衰で死んだ猫が血を吐くかね?…ピーターはきっと放射能にやられたんだ。ずっと僕 と一緒にいたのがいけないんだ。サーベーメーターで僕自身の被曝量を計測しておくんだ った…」 「何をいってるんだ!そんなことはないよ。君の体は我我が万事管理しているんだ。そん な残留放射能があったら君の面倒を見てる所員は全員被曝してしまうよ」 僕はまた以前のような鬱屈した精神状態になってしまったようだ。 僕は研究所の裏にピーターの墓を作ってやった。 僕の涙腺はもういかれてしまったのだろうか?この世で一番大切なものを失ったという のに一粒の涙も零れ落ちてはこなかった。 僕には本当に何もなくなってしまった。 整備個室に戻った僕は、いつまでもマザーとの接続を切って僕だけの世界に閉じ籠って いたいと願った。 10 その時、マザーの異常警戒アラームがオールレッドになった。 異常は僕の身にあったのではない。地球にあったのだ。 一九九七年八月三十日午後一 時三十二分、関東地方をマグニチュード八・八の大地震が襲ったのだ。 運悪くその時刻に出力試験をやっていて、しかも運悪く破壊が起こってしまった原子炉 があった。 東海村に新しく建造された超安全炉ISERである。 ISERはその名の通り事故が起き、人間が誤った操作をしても大事故に発展しないよ うな安全な防御構造を持っていた。 炉心と蒸気発生器を丸ごと鉄製圧力容器に封じ込め、その容器内を中性子を吸収するボロ ン(ホウ素)水で満たしたものであった。 ところが先程の大地震によってこの圧力容器が――設計ミス、あるいは工事請負業者の 手抜かりによって――支持台座から丸ごとおっこちて瓜のように裂けてしまったのだ! 当然の結果として事故が起きたときに炉心に流入するはずのボロン水は流れ出してしま った。 冷却水のパイプは炉の収まったコンテナのずっと前で破断してしまっていた。電源は制 御室のほうはサブシステムの供給を受けられたが、炉のほうは当然のごとくすべてダウン してしまっていた。制御棒を動かすことは愚か、何一つ動かない状態に陥ってしまったの だ。 戦争が起こって爆撃でも受けないかぎりここまで酷い損害を被ることは有り得なかった。 しかし現にそれは起こってしまったのだ! コンテナに損傷はなかった。だから汚染物質が漏れてくることはしばらくないだろう。 しかしこのままでは冷却水から顔を出した燃料棒が熱を持って溶けだし、コンテナを突き 破ってしまうだろう。 メルトダウン。チャイナシンドロームが今、日本で現実のものになろうとしていた。 事故対策委員会はパニックに近い状況だった。 「くそう、手の打ちようがないとはまさにこの事だな!」 「我々はこのまま手をこまねいているしかないのか!」 「時間は後どれくらい持つのだ?」 「今、冷却水を供給するためのパイプを全力で修復させています。…しかし、それが完了 するには時間がかかりすぎます」 「電気系統は回復の見込みなしか…」 一人がポツリと呟いた。 「一つだけ、一つだけまだ方法があったぞ…」 「それは、なんだ――?」 「マン・プラス。プラスボーグだ!」 こうして事故対策委員会が早急に、そして慎重に審議した結果、日本を核汚染から救え る唯一の手段はこの世界にたった一つしかない原子力用マンプラスサイボーグ、プラスボ ーグ6号と、それを操ることができる唯一の人間の魂――塩浦高志――をおいて他にない という結論に達した。 しかし最愛のものを失ったショックから彼は立ち直ることできないでいた。まさにタイ ミングが悪すぎたのだ。 「なにィ!機能できないとはどういうことだ!」 「自閉症のような症状です。彼の可愛がっていた猫が死んだことがきっかけでしょう。残 念ながら彼を外部からの刺激で機能させることは出来ません。外部から動けなくすること は可能なのですが…」 「有事に役にたたんとは…なんたる浪費の産物だ!」 事故の危険度を表す折れ線グラフは刻一刻と上に伸び続けていた。 外で何が起こっていて、皆が僕に何をさせたがっているのかもわかっていた。 だが僕は行ってやるものか。また僕はどうせ自分にとって一文の得にもならないことを させられるのだ。一体この世界が僕に何をしてくれたというのだ。そうだ何もしてくれな かったではないか。 僕から綾子を奪い、家族を奪い、肉体を奪い、そしてピーターを奪った。僕にはあの世 に持っていけるすばらしい過去の時間というものは何一つない二十余年間だった。このま まこの機械の体で生き長らえてもきっと何一つ良いことなんてありはしないんだ。今の僕 には自らの命を断つということすら許されてはいないのだ。何も僕の思い通りになれとい ってるわけじゃない。なのにこの世界は僕に何一つ――生き甲斐すら与えてくれなかった ではないか。時間と共に奪ってゆくだけだ。すべてを。 呪われろ、こんな世界。みんな 滅びてしまえ。きっと皆が放射能で死んでしまっても僕だけは生きているんだ。 生きている? ふふん、なぜ僕みたいなものが生きているのだ。なぜ一年前のあの時、死んでしまわな かったのだろうか。 人にはそれぞれこの世での役割がある。誰かが必要とする役割だ。誰かって誰だ? 一人一人ばらばらで、自分勝手な沢山の『誰か』。 そうだ。僕はその誰かの一人なのだ。僕の生まれてきたのはピーターの湯たんぽになる ためじゃあない。 僕はピーターや綾子や、そして今まで出会った皆のために生きてるのだ。僕のために生 きているのではない。それは皆にしても同じことではないか! これは、この仕事は僕の生きていることを示して僕の価値を試す唯一の機会ではないの か? 僕はピーターの友人だった。自分の親友のなさけない姿を見たらあの世のピーターは、 『おれが睨みつけてやれないのが残念だ』と思うだろう。そんな思いをさせはしないぞ。 僕は死んだ友のために決心をした。 「マザー、事故処理の方法を説明してくれ」 僕のやらなくてはならない処置は非常に困難なものだった。水蒸気の立ち込める炉心に 侵入し、動作不能になった制御棒を切り離し、燃料集合体の合間に落とし込むのだ。 僕の背中には炉心の中を中釣りになって動くことができるワイヤーシステムとそれに電 力を供給するためのバッテリーパックがつけられ、右腕にはプラズマジェット式の切断機 が装備された。 僕は一人、原子炉の中へ向かっていった。 見ていてくれ、ピーター!… 四方にワイヤーを張り巡らせ、吹き出す蒸気を突き抜け僕は炉心に入り込んだ。 沸騰水炉の灼熱する燃料棒――ISERの中に収められている燃料集合体の数は四百本 あった。僕は引き抜かれた制御棒の基部を切断し始めた。 作業の四分三が終了したところで切断機が熱でいかれてしまった。時間がない。僕は困 惑した。冷却水のパイプはまだ直らないのだろうか? マザーはすぐさま次の方法を指定してきた。 額の電子銃の出力を上げて燃料集合体の外壁の脆い部分に照射、切断するのだ。そして ボロン水に落とす。こいつは僕自身のバッテリーをかなり消耗するが仕方なかった。 僕は燃料集合体一本一本を走査し、歪みの大きいところを破壊していった。 僕の二次装甲は歪み始めていた。今の自分の姿を僕は僕の目では見たくないと思った。 作業ももう終盤という頃、僕の右手のアクチュエータがおかしくなってきた。擬似筋肉 が熱で伸びてきてしまったのだ。作動液の温度による変化はマザーがそれを見越した制御 をしてくれるからいいが、こいつはどうにもならない。人間だったらひっぱたいたりすれ ば動かせるようになるかもしれないが、機械は素直に降伏する。 マザーは僕の全身に故障予告を出してきた。残っているのはあとわずかに数本だった。 僕は逃げ出したいという気持ちがないことはなかったが、僕の仕事を途中で放棄するな んて事は出来なかった。 最後の一つを前に僕の体はレッドシグナルで真っ赤になった。 もってくれ!…あと少し…あと少し…・ 11 「主任!アイサー1号炉をコンクリート密閉するって本当なんですか?!」 「ああ、仕方あるまいよ。まあ、チェルノブイリよりは遥かにましな結末だろう」 「しかし、彼が、彼がまだいるんですよ、炉の中に!」 「いいか、早坂、良く考えても見ろ。炉の中のサイボーグを回収するとなりゃ汚染された 水や物質が付近に流れ出してしまう可能性もあるんだ。しかも作業する人間は高い放射能 にさらされることになる。あのサイボーグに一体いくらかけてるかしらねえがまかり間違 って環境汚染なんてことになってみろ、サイボーグは金かけりゃまた作れるが放射能汚染 されちまった環境はそうはいかねえからな。ま、奴には悪いが多くの人の幸せのためには 小さな犠牲は付き物ってことかな」 そういう問題じゃあないだろう…! 早坂は怒っていた。なにかわからないが悔しかった。 ──彼はいったい何のために…彼はいったい誰のために… やがて、マザーのデータを調べていくうちにメモリーの中に残された彼のメッセージが 発見された。 「僕はやりとげた… 僕はやりとげることができた。それで満足です。 僕はもう動けないし、マザーを通してここがどうなるかも知っています。その処置は賢 明だと考えます。 もうじき生体維持機能が停止して僕は緩やかな死を迎えるでしょう。 僕は幸せになりたかった。こんど生まれてくる時もやっぱり人間がいい。そしてこんど こそ幸せな人生を送ってやろうと思います。 僕の機械の体と一緒に僕の魂はここで眠りにつきます。 だから僕の本当の墓はここのはずです。造花で良いですから僕の眠っているところにせ めて花くらい供えてやってください。 みなさん さようなら。  追伸。早坂さん、暇があったらピーターの墓にも時々花をあげてください…」 マザーのモニター画面には大きく鉛色の薔薇の花束が描かれていた。

1990/9/26 "Eyes in The Iron-Corpse"

 (『GENESIS vol.15』 初出)