死ねない男                       ことぶきゆうき 「…エイミー…エイミー…」 老人はうわ言のようにその名を連呼した。 「おじいさん、しっかり。私がわかるかい」 老人は弱っていたが意識はしっかりしていた。男の姿はしっかりと彼の目に入っていた が、それよりもなおくっきりと浮かび上がる人影に老人の注意は注がれていた。 「…若いの…エイミーを、もっとそばに呼んでくれぬか」 私はその言葉に少し戸惑っ た。老人の指している人物は実像ではなく、老人が油絵の具でキャンバスに作り出した美 しい虚像だったから。 老人は惚けているわけではなかった。病魔に犯され、ここ数日間、現実と虚空の境が狭 まっているだけだった。 私はためらいがちにイーゼルの背に手をまわすと、少し浮かせて老人の方へキャンバス の中の女性を近付けてやった。 痩せ細り、まるで骨格だけのような身体の中でひきつる 腱筋の動きから、老人がその身を起こし、点滴を打たれたその腕を伸ばし、その指先で、 キャンバスに鱗のようにのせられた色彩のひとつひとつを確かめたがっているのがわかる。 しかし、激しく消耗された老人の肉体はもはや指一本動かすことさえ許さなかった。そ の声も蚊の羽音よりも微かなものになっていた。 「ふ、…神は…この老人から最後の一筆をふるう力すら奪ってしまったらしいの…」 己の無力さを知って老人は涙を流し始めた。 今、老人の身に着実に『死』が訪れようとしていた。 * * * 死という事柄が、生ある物に対する最も明確な答えなら、私はすでにその答えを得てし まったのか。 私は死んでいる。 正確にいうならば、私の体は死んでいる。私が目を瞑り、ジッと横たわっているならば 私の身体はまさに死体なのである。きっとどんな名医でもそう診断することだろう。 私の肉体は永遠に朽ちることがない。その代わり生きているという状態でもないのだ。 今の私に残ったものは、色の無い視覚と人の声だけ聞こえる聴覚。それと指先に残る微 かな触覚だった。そして、他人の心の動きを読み取る精神の触手。目を瞑っても働き続け る思考。それだけだった。 思考と感覚のみが生きている私。 これは『生きている』という状態ではないのか。 だが、冷たく、脈打つものなく、息吹すらないこの身体を『生きている』ともいえない だろう。 では、私にとって死とは一体何事なのだろう。 目標。 そう、目標ではある。望むところのものが目標と呼べるのならば、死はまさに私にとっ てのそれである。 人間は生まれた瞬間、死に向かって生きている。スタートの存在が、同時にゴールの存 在を意味するように、生き物はこの世に生まれた瞬間、死に直面する。 ゴールというのは終点ということなのか。それとも結果ということなのか。いずれにせ よ、肉体の滅びを死とするならば私に『死』はありえない。そしてそれならば、その対局 にある『生』という状態もありえない。 ああ、だから− なんといったらよいのだろう。私は、生ける肉体を求める死せる肉塊 なのか、あるいは真の死を求める生ける魂なのか。とにかく、はっきりしているのは、生 きているのか死んでいるのかわからないこの状態から一刻も早く抜け出したいと思ってい る存在であることなのだ。 いつ何時、いかなものに、いかな理由で、いか様な呪いを掛けられたのか。そんなこと は忘れてしまうほどの古より私の苦悩と憂欝は続いているのだ。 人間の魂は一つではいられないようにできているらしい。かつて人間であった私にもそ の魂が宿っているのだ。魂が、別の魂と触れ合いたがるというごく自然な現象を私はひど く憂いた。 この国は狭すぎた。人が人との触れ合いを絶つ――出家隠遁などということは出来そう になかった。どこか遠い異国の辺鄙な土地で暮らしたいとも思ったが、死人の私がこの狭 い島国を抜け出るためには、世の中結構めんどう臭くなったもので、広く冷たい海に飛び 込んでゆき、土左衞門となってどこか異国の浜に流れ着くしかない。けれど私は溺れると いう感覚が嫌なのでよほどのことが無いかぎりそれを実行しないだろう。 肉体は死んでいるものの、けして健全とはいえない私の魂は生きている。みすぼらしい 服を着たり、道端やベンチに床をとるのは堪え難かった。 私は健全な心身を持ちつつも、生きることに怠惰な畜生のごとき人間を軽い蔑――いや、 むしろ憎しみに近い感情を持って侮蔑した。嫉妬の念がそうさせたのかもしれない。だか ら私は食べる必要も、眠る必要も無い体なのだが人間の生きるための営み――働き、糧を 得、そして休むということを続けていた。 私は今、病院の食堂に勤めて、その近くの安アパートに根城をおいていた。 私が勤め先に病院を選んだのには訳がある。病院にいる患者の大半は――春先の木々の 芽吹きのような生命力の形態を現わしてはいるのだが――生命力に満ちていない。医師や 看護婦たちも多くはまるで死神が実体となったように、死と病のにおいを引きずっている ものだ。それが私にとっては居心地が良い環境だった。そういう環境は私の、生きていな いという、ふとしたら気付かれてしまう不自然さを紛らしてくれるのだった。 そんな私は一人の老人と知り合った。 老人は絵描きだった。 私は昼食時の一番忙しくなる時間帯の前後に三十分づつ休憩を与えられていたのだが、 なにしろ休んだり食べたりするという行為を無理にする必要もなかったので、たいてい人 気のない病院の北側の芝の上に寝転んで陽の光を直視し、微かな痛みに感じいる。これが 私にとっての日光浴だった。 三月のある日から晴れの日は毎日、病院の建物の影にならないところで絵を描くその老 人の姿を見るようになった。 老人の作品は肩まで伸びた美しい巻き毛と、どことなく東洋的な魅力をそなえた顔付き の西洋の女性の肖像画だった。 お互い毎日のように顔を合わせるので自然と会話を交わ すようになっていった。 老人は肝臓を病んで入院してきたのだといった。 「肝の臓が悪いとあってはさぞ体がだるいでしょうに。なにゆえあなたは毎日の様に晴れ た日に外で絵を描かれるのか?」 老人は八月で七十二歳になるといっていたが、恰幅の良いガッシリとした体付きで、椅 子も使わずに背筋をシャンと延ばしてキャンバスに向かっている。いつ来てもそうなので 入院の身を案じて思わずそう尋ねたことがあった。するとフッと優しげな笑みを浮かべ、 ――視線はキャンバスに向けられたまま―― 「自然光でないと色が狂うからの、面倒でもこうして外に来て描いとる」 老人も自分と同じ程度に人付き合いを疎ましく思っている事が察せられて、私は妙に安 心した気持ちで彼に接することができた。 互いに名乗りあうこともなく、ひと月ほどが過ぎていった。 私は自分について語れることが余りにも少なかったから老人の身の上についてあまり詳 しく聞くことができなかったが、老人の妻がずっと以前に――老人が働き盛りの頃――に 亡くなった事、息子夫婦が十年前に交通事故で急死した事、たった一人の肉親であるお孫 さんは医学生で、伯林(ベルリン)に留学している事などを知った。 なるほど、私の知る限り、私以外に老人に近付く者は、遠縁の者と言っている中年の女 が一人と、おそらくは彼の担当のまあるい顔の若い看護婦だけだった。 「お孫さんがそんな遠い異国の地にいなさって、さぞかしお寂しいでしょうに」 するとやはり、フッと優しげな、でも少し悲しげな笑みを浮かべ、 「わしも若い頃は好き放題やりましたからの、孫も好きなようにさせてやるのが良いと思 うて…あれは頭の良い子でしてな、最新の医術を独国で学びたいと申すから行かせてやり ましたよ」 「あなたの体のことは…」 「心配せん程度にごまかして知らせてありますわ」 そう言って、だたひたすらに筆を動かすのだった。 老人は孤独なのだった。 ましてや彼は病んでいるのだ。病んでいる者の精神の衰弱に、孤独は一番の毒であるこ とを知っている私だったから、こんな半死人でも老人の孤独に幾らかの慰めになればと、 うるさがられない程度に老人と交友を保とうと努めた。 ふた月もするといよいよ作品は最終の段階に入ったと見えて絵の中の人物像は実感を現 し、五月の陽射しの中、自ら微かな光を放っているかのように漆黒の背景から浮きだって いた。この絵を見るたび、私の目に芸術を十分に楽しむことができるだけの働きがないこ とを悔いた。むしろ絵を見てすぐ目を閉じたほうが、かつて生きていた時分の感覚を思い 起こして色彩豊かな女性像を感じることができるのだ。 新緑色のシンプルなドレスに、雪のように無垢な白い肌。焼けた真鍮の色に輝く頭髪。 情熱をたたえてはいるが、けして紅色ではない優しい赤の唇。現実ではなく虚構の、夢の 中にのみ存在を許された理想の女性がそこにはいた。おそらく老人の理想の具現がこの絵 なのだろうが、老人以外の男でもこの絵の持つ魅力に引き付けられずにはおられないだろ う。西洋の女性の器量を好ましく思ったことのない私にはそう思えた。 ただ、この絵には決定的な何かが欠けていた。それが芸術品としての価値をこの作品に 与えさせなかった。 初めは背景の一色が、あまりにも闇色に近い、あまりにも現実離れした黒――強いて表 現するなら、まるで死そのもののような黒――であるからかと思ったが、それはそれで、 彼の病と孤独の表れのように感じられ、作品中に老人がしっかりと存在していることがひ しひしとわかってきたので、そうではないと悟ってきた。 そして梅雨に入ると、老人の姿を晴れた日にも見受けなくり、私は老人の病室へと足を 運ぶようになった。 黄疸による肌と目の濁りは色のない視覚にもよくわかった。それは彼の死期が迫ってい る確かな証拠であった。死は私にとってもっとも近いものであったが同時に最も遠い答え であったから、老人に対して死を意識した対応というものをまったくしなかった。私より 彼自身のほうが死について明確な認識を持っていただろうだからそれで良かったのかもし れない。 この頃になると、老人は自慢の孫の話をあまりしなくなった。そのかわり絵に ついては饒舌になり、私の色盲を忘れて、『ここの色はどうか』とか、『この緑は良いと 思わんか』などと絵の評価を求めるようにさえなった。 ある日、老人はこの絵にモデルがいる事を語った。 「エイミーの瞳は美しかった…今でも目を瞑るとあの淡い青色がわしを捕らえて放さんの だよ」 見れば女性の両目は白く塗り潰されていた。旨い青が作れないので消したのだという。 この時私はこの絵に欠けていた最も重要な物が何か悟った。 瞳だ。 背景を覆う『死』の中で、あふれんばかりの生命力にみなぎる肉体がこの絵の人物を現 実の物として感じさせていたのだが、その目は死んでいたのだ。そのことによってこの女 性には完全な『生』が与えられておらず、妙に背景から輪郭の浮いたような絵になってし まっていたのだ。しかし、ここまで完璧な肉体に釣り合う生きた瞳を入れるには…嫌なこ とを言うようだが、老人の魂をその『生』と引き替えに塗り込める以外ないように思われ た。 「エイミーは今もわしの心の中に生きておる。しかし…わしが死んでしまえば、エイミー は死んでしまう。だからなんとしても死ぬ前に…わしの中で生きているエイミーを絵の中 に移してやらねばならんのだ」 それが老人をキャンバスに向かわせる動力源だった。 「エイミーはわしの恋人だ。わしのたった一人の愛する人物なんじゃよ」 そんな寂しいことを老人は時たま呟いた。 自分の作品の中の女性しか愛せない。なんと寂しい事だろう。でも、悲しみが彩度の強 いどぎつい色なのに対して、寂しさは透明に近い色の美しさを供えている。だから、老人 の愛にはひどく美しい印象さえ受けるのだった。 私はひどく老人の過去に迫ってみたくなった。老人が何者であるかという現在すら知ら ないというのに老人がいつ、いかようにして絵を描く才を身につけたのか、モデルの西洋 女性、『エイミー』との間にいかようないきさつがあったのか、私は知りたいと思うよう になっていた。 やがて老人が寝たきりになって、一週間たった頃、思いがけず、絵の中の彼女との物語 を聞かされることとなったのだ。 「わし…森信太郎は若かった…」 老人の家は古くからの名家で、裕福な環境にあった。彼は長男で家督を継ぐ使命にあっ たが彼には夢があった。 画家になること。それが老人の夢だった。そのことが原因で父親とはしょっちゅう衝突 していた。 彼はやがて父親の望んでいた公務員となるための学校の入試を蹴り、芸術大学を受験し た。この時の大喧嘩で勘当をくらい一握りの餞別――当時としては相当な金額だった―― を受けとって日本を脱し、欧州へ渡り、仏国の芸術学校へ入学した。 ――何時か把璃へ。そう思ってかじっていた仏語がこんなにも早く役立つとは想像もしな かった。 犬小屋のような安アパートに入り、皿洗いをしながらの苦学であった。それでも異国情 緒と祖国ではどこにいてもつきまとっていた得体の知れない拘束感からの解放感とが信太 郎の創作意欲をかきたてた。なにより好きなことに打ち込めるのが嬉しかった。 「わしの勤めていた料亭の女給をしとった娘――それがエイミーじゃった…」 彼女は母と二人暮らし。自分と同じくらい貧しい環境で暮らしていた。 彼女は歌姫になるのが夢だとよく信太郎に話した。自分の歌は自分で作るのだといって 彼に自作の歌を歌って聞かせることもしばしばだった。 何のきっかけがあるじゃなしに、二人は惹かれあい、やがて付き合い始めた。 ある時、彼女は店を続けて休んだ。心配した彼が彼女の家を訪ねると、彼女の母親が病 に倒れていた。 「薬を買うお金がないの…こまったわ…」 「大丈夫、心配するな。薬代ぐらい僕に任せろ」 信太郎は学友に頭を下げて回り工面したものと、自分のわずかな蓄えとをエイミーに託 した。 しかし、その金が尽きる頃になっても彼女の母の容体は好転しなかった。 依然として金欠が問題だった。 「…最近母がうるさいのよ…でもわたしは街角で男を引くようなことは絶対にしたくない …」 「お母さんは君に娼婦になれっていってるのかい?!」 「…てっとりばやくお金が入る仕事なの…」 相談を受けた日より毎夜を信太郎は悶々と過ごした。エイミーの夜が汚れるのが今か今 かと思うと体中が痛んだ。 そんなある日、彼の国許から父危篤の知らせと旅費が送られてきた。旅費は帰ってなお ありあまるものだった。 その金を持って彼はエイミーのもとへ走った。彼女は飛び上がらんばかりに喜んだ。 「嬉しいわ、信太郎。わたしはきれいなままでいられそうよ」 「そうともさ!」 彼女は彼の胸に顔を埋めて、ささやいた。 「ねえ、信太郎。わたしね、歌姫になることの他に、もう一つ夢があるわ」 突然の話題の転換に彼は少し戸惑った。 「?なんだい、」 「それはねぇ…好きな人のお嫁さんになること。そして幸せなカテイを作ること…」 『家庭』のアクセントがおかしかったことを今でもやけにはっきりと覚えている。信太 郎は頬が熱くなるのを感じた。彼女を抱く腕に力がこもった。 二人は口づけを交わした。 彼女は顔を上げるなりこういった。 「信太郎、わたしと南へいきましょうよ。このお金を元手にもっと南の暖かい所…そう、 地中海がいいわ、二人で地中海で暮らすのよ。それがいいわ!」 「お母さんはどうするの?」 彼女はキッと厳しい表情で、 「捨てるわ、そしてあなたもお父さんを捨ててちょうだい!」 「エイミー…」 信太郎はこの恐ろしい台詞を自分がいわせていることを悟って、高ぶる気持ちを彼女の 体に押し付けることで理性を保とうとした。この時、彼にとって彼女は永遠の存在になっ た。 二人で一夜を信太郎の部屋で過ごした翌朝、彼は故郷へと旅だった。旅費以外の金は最 小に押さえたかったのだ。 今にも泣きそうな顔で彼女は彼を見送った。 彼には『必ず帰ってくる、すぐに帰ってくる』としか慰めの言葉のかけようがなかった。 「潤んだあの瞳がわしを見送ってくれた…」 父の最期を見取った彼は当然に家督を継がねばならなかった。遺産相続の確執は激しく、 いやおうなしに信太郎を巻き込んで行き、遠い異国に残してきた女性のことはいつしか忙 殺されていった。 そして、次に彼がエイミーの事を思い起こしたのは彼の縁組が決まったときであった。 汚れきった人間関係の中で、彼女とその歌はあまりにも美しく、まさに夢のようであっ た。そしてその時の彼にとって今在るすべてをなげうって、恋女房と地中海の農園で貧し いながらも幸せな家庭を築くなどということは夢以外の何者でもなくなっていた。 「…結局、わしは自分可愛さに彼女を裏切ったのじゃよ」 その後、彼女の消息はようとして知れなかった。彼も深く彼女を探すことはしなかった のだという…。 私には老人がなぜ、エイミーの元へ帰れなくなったかわからなかったし、エイミーの存 在がなぜ老人にとってこれほど大きいのか皆目わからなかった。 人間は弱い。おのが弱さを補うためにいかなることもしでかさない。そこが醜い。ただ それを痛感する。 生活や死に対する実感を持てない死体の男である私の頭の中には、ただ不可解さだけが ぐるぐると渦巻いていた。 * * * 「エイミー…こ、この絵…わしは…この絵だけは完成させたい…この絵が成るまでは死ん でも死に切れぬ…」 老人の回りの医師や看護婦の動きがいっそう緊張したものになっていった。ついにその 時が近付いている。 老人が発熱し、いよいよ危ないとなった時、私自身の死もそれに共鳴するかのようにそ れが持つ暗い、陰湿な感覚の猛威を私の中でふるい始めた。 私はたえず、いつ自分の身体から死臭が発せられるのではないか、腐り落ちないだろう かという不安におののきながら存在していた。それは一寸先すら見えない濃い霧の中をさ まよい続けているのに等しかった。 そんな時、私は酒に溺れた。まさに痛飲した。 私の飲食した物はもちろん味わうこともできなければ、飲み込む感触すらない。だがな ぜか酒は別なのだった。 胃に染み込むアルコールが、私の死んだ細胞を焼き殺していく。そんな錯覚を起こさせ る痛みが私を襲うのだ。そしてそれは自分の存在を確認させてくれる唯一の痛みだった。 だから時たま、うわばみ以上に酒を飲む日があった。 そして昨日もそんな日の一つであった。 今、病院の者の他に老人の側にいるのは私と、白い瞳のエイミーと、以前何度か見た中 年の女性だけだった。 私はいたたまれなくなり、中年女に問いただす。 「おじいさんのお孫さんはどうしたのです?危篤だと言うことを知っているのですか?」 「連絡はしております。ところが…運悪く、学術講演会に出なくてはいけないとかで、帰 国の予定が少々遅れているのです…本当に困りましたわ…」 早くも涙ぐみ、声をうわぞらせながら女が答えた。 私の心にかすかにカッと赤いものが閃いた。 「ええんじゃ…幸之介は…キチンと勉強さして…りっぱな…医者にぃぃ…フフッ!」 老人は咳き込んだ。 「もうしゃべらないで!」 私は思わず叫んでいた。老人の手を握る。 白かった。 見れば足先も、やけに白んでいた。老人の身体より徐々に魂がぬけてゆくのが目に見え てわかった。それがなぜか悔しかった。そして私の手を通して伝わってくる老人の死が冷 たい感覚として私を刺激した。 口を縛ったゴム風船が徐々に萎んでゆくように、老人の体は力を失っていった。 医師が脈と呼吸、そして瞳孔の反応を確かめた。 「ご臨終です」 呟くように医師が言った時、激しく病室の扉を開け放つ者があった。 若い男だった。 「ご愁傷さまです」 医師の改めて発した言葉に彼は、信じられないといった様子で目を見開き、首をゆっく りと巡らせ、状況をつかみあぐねているようだった。 老人の孫であることはいわれずとも一目瞭然だった。 「わああぁぁ…・コウちゃん、今よ!いま!…」 女はハンケチを顔に押し付け、幸之介によよよ、と泣きすがった。幸之介はわなわなと 震えながらその場に立ちつくしていた。 心の触手はこの孫の胸中に渦巻く自責と自己嫌悪、そして猛烈な後悔の嵐を感じ取り、 私の感情をたいそう揺さぶった。 「…お孫さんですね…」 彼はしたたる涙もそのままに、下唇をちぎれんばかりに噛み締め、ただコクリとうなづ いた。 「私はおじいさんの友達です。この度は…本当に残念です…」 こんな形式張った言葉で彼の心が微塵もほぐれないのは重重承知のことだが、偽りの涙 すら流せない私には他にどうしようもないのだった。 彼はやがて、嗚咽を必死にこらえながら述懐を始めた。とりとめもなく零れ落ちる涙の ように言葉が口をついて出てくるようである。 「…僕は十二年前に…父と母を同時に事故で亡くしました…その時、救急病院に駆け付け た僕の前にあったのも、父と、母の、亡骸でした…。父は即死でしたが…母は息があって …その時もあと30分早く病院に着いていれば…30分早ければ…母の死に立ち会うことがで きました。 僕は親の死に際を見とれなかったことを、親不孝なことだとずっと思ってきました。そ して…それからずっと僕の面倒を見てくれた、この…このじいちゃんの逝く時は、キチン と見取ろうって、そう思い続けてきたのに…畜生!…」 女の嗚咽がいっそう酷くなる。 「もうすぐ卒業じゃないか…」 それに必要な学術講演会に出ていて帰国が遅れてしまったことを死者に説明したくて彼 の心は慟哭し、同時にそれを放りだせなかった自分のエゴイズムへの呵責に悶えた。 「じいちゃん、もう少し頑張ってくれれば…エイミーさンにも会えたのに…なんで待って てくれなかったんだよォ…」 彼は震えるその手で上着の内ポケットを探ると、一枚の写真を老人だったものの上にそ っと置いた。 なんと、服こそ違え、少々輪郭の丸くなったキャンバスの中のエイミーが、印画紙の上 に焼き付けられていた。 「君…これは?!…」 驚愕の色を隠せないでいる私に、 「じいちゃんは暇なときはいつも彼女のばかり描いていました。ある時は空想画、あると きは風景画の中に彼女の姿を描き続けていました…。そして近年来、肖像画を書き始めた のです。「死ぬ前に一枚、本物を描きたい」それが口癖でした。この絵だって、何十作目 の『エイミー』かしれません。初めは架空の人物かと思っていましたが、実在する人物だ とじいちゃんの友人に聞いたものですから、僕は渡欧期間中に彼女の消息をたどったので す…彼女はだいぶ前に亡くなっていましたが…この写真を…家族の方から譲っていただい たのです」 咽び泣きが始まった。 「じいちゃん…エイミーさンは幸せな家庭を作っていたよ…」 私はふと、脇にあるエイミーを見やった。 ――この絵はまるで私のようではないか。中途半端に生き、周囲に死の匂いをはべらせ、 白く濁った虚ろな目で老人を見詰めている… エイミーに生きた瞳を入れてくれる――この絵を生き物にしてくれる――唯一の存在は もう、この世にはいない。 孫も老人も、自己を呵責し、実に誠実に生きていた。しかし、そのような者たちに対し ても神は無慈悲に、機械や法則と同じ用に働いて、その『生』を奪って行く。 弱い。神の前ではまるで、人の『生』とは蛇の生殺しだ。かつて釈尊が嘆いた訳がわか る。 人間は弱い。そして人間ははかない。 でもそこがたまらなく美しく思えるときがある。自分にはそのはかなさが無い故、腐肉 のように汚らしい存在に思える。そして思いを遂げずに逝こうとするこの老人も、その未 練を埃のよう全身に被ってまるで美しくなかった。 老人と、その孫と、エイミーと、そして私の、やりきれない醜悪さが病室中に立ち込め ているようだった。 絶えきれなかった。 なんとかしたかった。 できることは幾つかに限られていた。 私はひざまづき、老人の手を握り、頭を垂れた。 とりあえず今の私にできることといえば、天に向かってつばきを飛ばす――祈るよりし かたがなかった。 この呪われた体を受けて以来、もう二度と口にすることはないと思っていたその名に再 び願いを託そう。この哀れだが、誠実に生きた一人の人間のために。 ――おお、神よ!もしも、もしも本当にその姿があるのなら、もしもその力があるのなら、 この者の僅かの願いを聞入れ賜え。この者を蝕みつつある真の死と、私に巣喰う紛い物の 死を取り換え賜え。おお、神よ!この声が届いているならば! 私の体からかすかな光が漏れる。 ――気づくと… 私は乳色の光の雲の上にいて、この世のすべてを、あたかも目で見るような感覚を以て 感知していた。 老人の白い顔が黄色みを帯びるのがはっきりとわかった。 彼が目を開け、孫を見、口を開き言葉を交わすのを知った。 医師があわてて脈をとる、滑稽さを味わった。 老人はエイミーに命を吹き込めるだけの命を取り戻した。 孫は改めて老人のいまわの際に立ち会う事ができる。 そして…私は… 私はここで、これを味わっている。 夢にまで見た『死』を。 今こそ私は知る。『命』のなんたるかを… ドクン。 けして心臓のものでない鼓動が私の意識を蘇らせる。 まるで心地好い夢から覚めたようだ。 だが、白黒の視界の中に老人と孫の歓喜の声を聞き、私はしばし顔をこわばらせる。 ――なぜ?!…なぜ戻って… どうやら私にとって死とは終点でなく、ただの道標なのらしい。私の『生死』に対する 答えは結局得られなかった。 だが、私に訪れた死が一瞬のものであり、再び同じ憂欝が始まったとき、わかったのだ。 生死は互いに一瞬の夢であると。そして希望のみがそれをこの世にさらけ出す唯一の光 を生むと。 ――なるほど、これか…。これがこの世で私の生きる道か。 屍の、私の頬がゆるむ。 奇跡という言葉がある。言葉はそれ自体が存在であり、真実である。言葉のある限り、 それは存在する。現在という時間に森羅万象という形態で現れるかどうかは別として、 それは存在している。 神も然り。 私を『奇跡』と呼ぶ者もいるかもしれない。 実際そうなのかもしれない。 ――今日もどこかで明日の奇跡を信じる者がいるはずだ。 エイミーの瞳が生ある色に染まるのを見る前に、私は再び果て無き彷徨を始めねばなら なかった。

1991/6/22 "The Man Who is The Undead or Immortal?"

 (『ぷちジェネシス vol.11』 初出)