紅孔雀              J.ジャグァーノート 作                ことぶきゆうき 訳  神田川沿いにある、西日の当たる四畳半の小さな空間 が彼の――高橋義昭のすべてだった。部屋一杯に縦横無 尽に張り巡らされたケーブル、コード。散乱した書籍、 メモの切れ端、びっしりとデーターの書き込まれた連続 紙の束。そんな物に埋もれながら、寝起きすることこそ が彼の生活と幸せのすべてだった。  どんどん、といつものリズムでドアが鳴る。 「たかはしぃ、入るよ〜」 「ああ、あいてるよ」  ぱさぱさとポリエチレンの袋がきしむのが聞え、岡崎 繭理がどたどたと靴を脱ぐ音が続いた。 「おみやげ買ってきたよ」 「なに?」 「コージーのバウムクーヘン。ねえ、コーヒー飲んでい い?」  横須賀ロジテック社製のサイバーチェアに接続し、プ ログラム・マトリックスを操作することに全身全霊をか けていた義昭はまったく無関心に、「ああ、」といった。  繭理のほうは慣れたもので返事がするやいなや、玄関 口にある台所でやかんに水を注ぎ込み、火に掛けていた。  それから五秒ほど経って、「おれの分もー」という声 を義昭は発した。これは一種儀礼じみた手順だったので、 繭理は自分の脳のマニュアルにしたがってちゃんとコー ヒーカップを二つ用意してあった。  笛付きやかんはその沸騰の印に耳障りな鳴き声をあげ たが待機していた繭理によって半秒としないうちに口を 開けられた。彼女は熱いコーヒーを吹きながら彼のせま っ苦しい電脳空間へ足を踏み入れた。ちゃんと踏み場を 確かめながら。  各種シミュレータのコントロール・ウォルドーやトラ ックボール、それと通信用インターフェースが装着さ れた彼のサイバーチェアの背中には、 UNDER CONSTRUCTION NOW と極太マジックで書き殴られた連続紙の一片がドラフテ ィングテープで貼り付けられていた。これは研究室での 習慣が持ち込まれたものだった。(つまり彼の部屋には しょっちゅう人が出入りしてることを意味していた。) 義昭は他のネットワークへ没入していたのではなかっ た。自分のマシンのフリーエリアで自分の組んだプログ ラムと格闘していたのだった。  彼の顔には双眼鏡のように巨大な凸レンズがはめ込ま れたゴーグル状の情報解析光学機器――SEDがかかっ ていた。SEDは網膜にコヒーレンスを持つ催眠誘発タ イトビームを照射することによって、視神経を通して直 接、脳の感覚野に擬似体感をあたえる代物で、同時にラ ンダムドットによるステレオグラムも簡易に提供する。 コンピュータのアナログデータを視覚化するツールであ るMUMVAを扱うにはこのSEDが必要だった。義昭 が使っているのはキクユ・オプティックの初代機で、か なり旧型だが一世を風靡した逸品である。慣れ親しんだ 歳月を考えればそこらへんの新型機よりも遥かに性能は 良い。プログラム・マトリックスの解析操作は経験がす べてなのだから。  様々な関数と定数を色とりどりの美しいアナログ画素 に置き換えて作られたマトリックスの描く幾何学模様は 生き物のように蠢動している。奇妙なゴーグルをつけた 男が、ディスプレイの前に腰掛けて虚空の中に腕をふる っている姿はかなり異様だったが、研究室でトラックボ ールしか使ったことのない繭理はそのプログラム・マト リックスの変化を見取ってかなり感心した。 「へえぇ、器用なものね」  そこで義昭はひと息ついてコーヒーブレイクをとるこ とにした。SEDをはね上げる。 「なんのプログラム組んでたの?」 「ああ、模擬人格さ」  模擬人格はコンピュータにシミュレートさせるものと してはかなり前からポピュラーな分野だったが、最近ベ ガ社から発売になった『キャラクタ・プラス』というソ フトがきっかけで今、ちょっとしたブームが起こってい たのだ。模擬人格というと、今まではその思考部分のロ ジックに重点がおかれていたので表示される画面といえ ばニューロンモデルか、人間の顔のグラフィックが表示 され幾通りかの表情に変わる程度であった。しかし、キ ャラクタ・プラスは違っていた。高度に発達した画像処 理プロセッサから生み出される緻密なグラフィックス。 SEDの発表以来築かれてきたヴァーチャル・リアリテ ィによる人工現実感の技術。それらが見事にマッチング し、操作者の前に架空の人間を一人、まるごと出現させ るのだ。それ自体はまあ、地味なソフトだったのだが、 他社がそれをまねて超リアルなダッチワイフ、つまり娼 婦の人格を組み込んだアダルトソフト『マドンナ』を発 表しこちらの方が爆発的な売り上げを示したのだ。そう してその流用元であるキャラクタ・プラスがパソコン通 たちの脚光を浴びるに至ったのである。 「どーせ、えっちな女の人でもプログラミングしてるん でしょう」  繭理が軽蔑の視線を送る。 「ちがうよ、バーカ」  義昭はさして慌てることもなく軽くその言葉を受け流 した。彼女がそう言うのもし無理はない。事実、義昭は 友人の『マドンナ』のカスタマイズを小遣い稼ぎに行う こともしばしばだったし、義昭のみならずコンピュータ にある程度詳しい者ならば少なからずその作業を行った ことがあるはずだった。それほど『マドンナ』は一般に 普及しており、プログラミングのできる人間は所有者に 重宝がられたのだ。 「じゃあどんな人格を造ってんのよ」 「ひみつぅ」 「えー、おせーて!おせーてよー!」  まるでだだっ子のように繭理は義昭の袖を引っ張って 騒いだ。あやうくコーヒーをこぼしそうになる。  口に含んだ分のコーヒーを飲み下だした義昭は一息着 くと、 「……女の人格を組んでるんだけど……」  ごにょごにょと口ごもってそういった。 「あー、やっぱりえっちなやつだー!」 「ちがうって、まじめなやつなの!卒研課題に使うやつ だよ」 「あ…研究テーマなんだっけ?etcファイルのフラク タル圧縮がどうしたってやつよね」 「んん、『模擬人格プログラムとの演劇により作成され るetcファイルからの心理分析』だよ」  これだけ親しく会話していても義昭は繭理と話す時、 彼女の顔を見て話すことはまずなかった。繭理はいつも 必ず体に一ヶ所、真っ赤な色を身につけていた。彼の目 の焦点は常にその特徴点ともいうべき紅に向けられてい るのだった。その紅がなんの意味を持っているのか訊い たことはなかったが、とにかく義昭はそこを見ていれば 良かったのだ。どんな女性に対しても変に意識してしま い、落ち着くことができない義昭が繭理を例外視できた のにはそういった特別な理由があったのだ。今日はクリ ーム色のセーターの左胸に苺を抽象デザインした――お そらく七宝焼きの――ブローチがぞっとするような血の 紅を誇って掛かっていた。 「なにかいやらしい視線を胸元に感じるわね」 「えっ、いや、そのブローチの赤が綺麗だなぁ、と思っ てさ」  あわてる義昭を前に繭理は「ふーん」とすましただけ だった。 「あっ、今何時?」思い出したように繭理がいい、時計 を求めてきょろきょろしはじめる。 「4時55分」腕時計が一番正確な時刻を指していると知 った義昭は自分の左腕を見てそういった。 「ちょっとちょっと、ディスプレイ、テレビに切り換え てよ。『キャメロット』が始まっちゃうじゃないの」 「はいはい」  義昭はのそりと動いてディスプレイのモードをCTV に切り換えた。繭理が大学の研究室を抜け出して義昭の 部屋に寄ってゆくのは『愛と青春のキャメロット』とい う大河ドラマの再放送を見るためだったのだ。この番組、 アーサー王伝説の世界を複雑きわまりない恋愛関係を機 軸に描いた、いわゆるトレンディドラマで、人気俳優の キャスティングのみならずなかなかしっかりとした脚本 も手伝っていまだに数あるケーブルテレビ番組のなかで も一位二位を競う人気番組なのだった。繭理はもちろん ビデオに録画してはいたが、本放送のとき見ていなかっ たせいもあって今頃はまっており、リアルタイムで見な いと気がすまないというのだ。  しばしためらった後、義昭はかねてから用意してあっ た計画を実行する決意をした。 「ねえ、悪いんだけどさ、今日はこれつけてテレビ見て くんないかな?」  義昭は細いフレームとセンサ様のぷらぷらがいくつも ついた物を繭理にさしだした。 「なによ、これ?」 「デジタル・フェイス・ウォルドー。ほら、ディズニー ランドのTORONコンピュータアドベンチャーでつけ たことあるでしょ」 「あ、あのマスク?CGのキャラクターが同じ顔するや つでしょ。なんでこんなもんアタシがつけなきゃいけな いわけ?」 「ごめん。いま造ってる表情のデータに使いたいんだよ。 やっぱり男と女じゃ表情のトレースが微妙に食い違うら しくてうまくいかないんだ。頼むよ」  一瞬けげんそうな顔をした繭理だったが、まばたき一 つで表情を変えた。 「ま、いいわ。毎日おじゃましてるわけだし。こんなこ とででもお返ししないとね」 「恩にきります!」 義昭は繭理の顔にDFWをセットした。内心、まるで 女王様の身繕いをする召使のようだと自分自身を嗤った。  やがてエメラルド色の湖水から白い輝きの刃が姿を現 し、東京フィルハーモニーの演ずる『新世界』にのって 白馬に跨がった騎士たちの残像が走るオープニングが始 まった。  このドラマでは伝説の騎士たちが様々な表情を見せる。 泣き、笑い、怒り、愛し、戦う。繭理の表情もそれにつ られ百の相を見せる。義昭は思う。彼女がこんなに様々 な表情を見せるのは自分の前でだけだと。そしてそれは 自分に対して見せているのではなくあくまでも物語の世 界に対してであることもわかっていた。  義昭はテレビに注目するふりをしてすぐ隣にある繭理 の表情に注目した。果して彼女は彼の望む表情をしてく れるのだろうか。 「この世界第一の騎士に挑むものは誰か?!」  三枝聡という人気俳優の名乗りをあげると繭理の瞳は 横から見てもわかるほど輝きをました。義昭はいままで 何度もこの三枝という俳優がかっこいいわねとか、いい 演技をするわねとか、こういう騎士が自分の側にいてく れたらいいわ、という話を繭理にきかされている。しま いに、最近三枝が勢いにのって出したおせじにも旨いと は言えないアルバムを聞かされて「彼って音楽の才能も あるわよね」といわれた日には義昭も開いた口が塞がら なかった。  義昭は三枝の話をする時の繭理の表情の輝きを見るに つけ自分の胸の奥にちりりと嫉妬の炎が宿るのに気づい ていた。芸能人に嫉妬をする自分を嘲笑することでその 炎は沈火されたが繭理が三枝の事を見るたび話すたび、 その感情は義昭の胸の奥を傷めた。  TV画面に向かって無関心を装っていた義昭だが、円 卓会議からの去り際、ギネヴィアに目配せ一つくれて去 ってゆくランスロットの姿に無意識に視線を奪われてい た。  番組のハイライトシーンを綴ったエンディングが流れ はじめると繭理は立ち上がった。 「じゃあね。研究室戻るわ」 「おう」 「あの、これ、はずしてくださる?」 「ああっと、スマンスマン」  番組を見おわった後の一瞬、繭理は中世の貴婦人にな る。しずしずと部屋を出ていく繭理を見届けると、義昭 はCRTをモニタに戻し額に上げていたSEDを再び目 にかけて先程取り込んだばかりのデータの解析を始めた。 数時間後。  義昭はマトリックス操作を終えるとリセット・IPL をかけた。自然と胸が高鳴った。自分の仕事の成果に期 待するなんて変だということはわかっていた。  ランダムドット・ステレオグラム特有の距離感を喪失 させる不思議な斑模様の初期画面が砕け散ると、そこに は一人の少女の姿があった。メタリックブルーのレオタ ード風のタイトスーツに身を包み、しなやかな肢体を電 脳空間の暗闇に横たえている。闇のなかの彼女は薄く光 輝き、特に青いスーツからこぼれる白い肌は真珠のよう に無機質で無垢な光を放っていた。思わず手を伸ばして 触れてみたくなる。  彼女はピクリと長い睫毛を震わせるとゆっくりと上体 を起こして目を見開いた。 「やあ、コンニチハ」  思わず義昭は挨拶を口にした。寝ぼけまなこの彼女は こくびをかしげ、「はじめまして」といった。 ――ああ、そうだ―― 「はじめまして」義昭もオウム返しにそういって軽く頭 を下げる。 「わたしは模擬人格のクーンです。貴方のお名前は?」  彼女はぞっとするほど優雅なしなを作りながら義昭に 語りかける。義昭は相手が盲目なのを必死で思い出し、 不用意にあわてまいと努めた。 「おれの名はヨシュア。今日から君のマスターだ。よろ しく」 「よろしくマスター・ヨシュア。わたし、何もわからな いの。少し不安だわ」 「大丈夫。おれが色々なことを教えてあげる。少しずつ 覚えていけば大丈夫だよ」 「はい」  彼女はうなずいてとびきりの笑顔を作った。  我ながら最高だ、と義昭は彼女と自分の仕事に満足し た。  前期試験が始まる。  『愛と青春のキャメロット』は最高潮に達していた。 ギネヴィア妃との不義の疑いを晴らすため、ランスロッ トは同じ円卓騎士の強者、純潔の騎士ガウェインと一騎 討ちをすることになったのだ。ガウェインは昼の三時間 と夜の三時間、魔力によって二倍の力を得る事ができる。 その時のガウェインが相手ではさすがの世界第一の騎士 も勝敗の行方はあやしくなるというわけだ。ランスロッ トは試合の前夜、月に祈る。死や傷が恐ろしいのではな い。敗北による王妃の名誉の失墜こそが鋼鉄の騎士、ラ ンスロットを恐怖たらしめたのだ。  ギネヴィアの顔がフラッシュバックする。 「おおっ、神よ!」  彼は銀色に光る刃を自らの脇腹に突き立てた。  繭理が思わず顔をしかめる。  翌日、影腹を切って試合に望むランスロットは、脇腹 よりしたたり落ちる鮮血にも屈することなくガウェイン を打ち倒す。 「王妃は無垢なり!」  彼は剣をかざして勝利を宣言した。今回はそこで幕が 閉じた。  エンディングが始まっても繭理は置物の様にTVの前 から動こうとしなかった。 「どしたの?」  義昭の声で初めて繭理の瞳に光が戻った。 「今回のランスの行動が……どうしてもなっとくいかな いのよねぇ」  繭理はこくびをかしげ、腕組みなんかしている。 「影腹を切ったってことは自分にやましいところがあっ たからだろ?」  義昭がなにげにそう呟くと繭理はぐぐっと彼につめよ った。 「あんたも一緒に見てたでしょ、今まであの二人は舞踏 会で踊ったことすらないわ。まさに『手も握ったことが ない』のよ。なんでランスが自分に剣をささなきゃなら ないの?」  冷めたコーヒーを一口すすって、義昭はTV画面を見 つめたまま義昭はこたえる。 「誰かを好きになるってことは痛みに耐えてゆくってこ っとなのさ。ランスロットはギネヴィアが心底好きでた まらない。好きになってはいけない人を好きになった。 それで自分を厳しく律して手も握ろうとしなかった。愛 する人を目の前になにもする事のできないその痛み。そ してそこまでしても不義の噂は立つ。自分は不義を犯し ていなくとも気持ちの上ではそんな噂を立てられるほど に王妃に傾いている。その自覚の痛み。そんなものを背 負ってちゃ真剣勝負には勝てないのさ。それならそれを 打ち消してくれる肉体の苦痛に耐える方がましなんだよ」 「知ったふうな口をきくのね」 「まあ、同じ男だし。以前剣道もやってたしね」  義昭は小中高と剣道を続けていた自分をにわかに振り 返った。自分がそのことに費やしてきたすべての時間が ある時を境に全くの無意味になるという経験だけが、彼 の得た唯一の物だった。それは後悔ではなく、喪失を得 るというまったく矛盾した充実だった。  大学に入ってからというもの、高橋義昭は多くのもの を失い過ぎていた。  両親、恩師、親友、慕っていた先輩。  何もない自分にたまらなくなる時もあったが、何かを 得てそれを失うことを思えば何も所有していない自分の 方がよほど気楽に思えた。この部屋と電脳キット一式と それとこの命以外、他には何もいらないではないか、と。  あまり勉学もおろそかにしていると叔父からの援助資 金も打ち切られてしまうだろう。そうしたらせっかくの この小世界も失われてしまうに違いない。それは少し、 脅威であった。両親が交通事故死してから義昭は叔父の 養子になった。金があり、子供はなく、義昭に対する扱 いは実子に注がれるべきものと同じ愛情だった。ただ、 義昭に優しい彼らも生前の両親が工場経営に失敗して借 金に苦しんでいるときには何の手助けもしてくれなかっ たのだ。それがひっかかって義昭は叔父夫婦に心を開け ないでいた。  自分に何の相談もせずに死んだ親友の渡瀬のせいで友 達らしい友達も作ろうとしなくなった。渡瀬は中学以来 の付き合いだったが、受験に失敗して自殺してしまった のだ。結局親友ぶってたのは自分だけだったのではない かという自己嫌悪の後遺症が彼を自閉的にさせた。  耳をすませばサイレンの音が聞こえる。同じ世代の学 生たちは80年安保闘争を引きずって、いまだにこの街で 機動隊と地獄の闘いを続けている。彼らだって何も得ら れるはずがない。自分のように失っていくだけだと義昭 は思っていた。 「なぜ、ヘルメットをつけているのか、わかるか?」  以前住んでいた学生寮の先輩の板野さんはゲバ学生ら しからぬさわやかな笑顔でそういってきた。彼は義昭が 今までの人生で得られた数少ない理解ある年長者だった。  でも彼は第三次安田講堂奪回闘争で死んでしまった。 手製の銃火器と装甲服で完全武装して徹底抗戦を続けた 結果、機動隊の実弾射撃を受けて死んだのだ。  その事件で機動隊と闘う意志を固め、学生運動に参加 しようと決めたわずか二ケ月後に剣道の恩師である菅又 氏の逝去を義昭は耳にした。彼は警察官だった。機動隊 に補充され、学生の手製ロケット弾丸にやられたのだ。 剣道だけでつながっていた人だったが、様々な考え方に おいて影響を受けた人物である彼の死は義昭を打ちのめ すに十分だった。  つまり、この一連の闘争は無意味なのだということを 義昭は悟った。彼の大切なものを奪ってゆくだけで何も 生み出してはくれないのだ。こうして義昭はノンポリ学 生を決め込んだ。  もう、何かを失うという感覚はごめんだった。  そういったわけで、義昭は繭理に好意を抱いている自 分を自覚してはいたが彼女と何をどうしたいというとこ ろまで気持ちがすすまないのだった。  一緒に一時間テレビを見て、コーヒーを飲んで、おし ゃべりをする。それはそれで十分に心の潤いになっては いたが、何かが欠落しているという印象も拭いさること はできなかった。 「じゃ、またね」 「おう」  彼女が部屋を去るとすぐに義昭はSEDをかけ、画面 を切り換えた。  義昭の前には完全な理想形態が質感を持った電子映像 となって出現した。彼女は一人ぼっちの部屋で恋人を待 ちつづけていた。そこへ彼が現れたのだ。喜びに顔を輝 かせて近づいてくる。  愛くるしいとはこの気持ちなのだろうかと義昭は真剣 に思った。彼女の笑顔はなんともいえぬ充実感をもって 義昭の胸を圧迫した。自分が生きている時間の全てをS EDをかけて椅子に座って過ごしてもいいと思わせる力 がそこにはあった。 「いらっしゃい。待ってたのよ」  彼女がうれしそうにそう言うと、義昭の顔はだらしな くゆるんだ。彼女の魅力は皮肉屋の彼に「ほんの一時間 前に会ったばかりじゃないか」ということを自制させる ほどだった。 「ああ、君のところはおちつくな」  彼はガラステーブルごしに彼女の手をとった。  このクーンはもともと芝居をさせるために造ったのだ ということを思い出し、思いつきの寸劇を試みることに した。 「よし、君は今からギネヴィアだ。おれはランスロット。 『愛と青春のキャメロット』ごっこをしよう」 「わたしはクーンよ。なぁに、ギネヴィアって。失礼し ちゃうわ」  彼女はまだ、『自己』を形成しおわっていないのだ。 自分の呼び名を間違えられたと思い込んで腹をたててい る。 「ごめん、ごめん。ギネヴィアがなにか説明するよ」 「ええ、教えて」  義昭は『愛と青春のキャメロット』版アーサー王伝説 のランスロットに関するエピソードを詳しく易しく説明 した。クーンは語句や登場人物の心理などの質問をしな がら彼の説明に聞き入った。 「というわけで『愛と青春のキャメロットごっこをする ために君にはギネヴィアになって欲しいんだ」  しばし沈黙の後、彼女はこくびをかしげてこう言った。 「わたしはクーン。あなたはヨシュア。他の誰にもなれ ないわ」  義昭は狼狽した。彼女は演技ができない。卒業研究に 使うどころか自分の慰めのためにしか使えない役たたず のプログラムかもしれないのだ。しかし、義昭は対話の プログラムロジックそのものにではなく自分の説明に足 りないところがあると思いたかった。彼女のせいにはし たくなかった。そこでもう一度『ごっこ』についての説 明を試みた。 「いいかい、君に別の人格になれっていってるわけじゃ ないんだ。一種のロールプレイングだよ。君は僕の与え た条件で本当の自分を隠して別の人格を作ってみせれば いいんだ」  彼女は悲しげにかぶりをふった。 「わたしはクーン。あなたはヨシュア。他の誰にもなれ ないわ」  彼女は同じ言葉を繰り返すだけっだった。 「そうだな。ごめん」  ここは素直に引いて、彼女のロジックの修正をしよう。 義昭が画面を閉じようとしたその時、 「ヨシュア、私は本当の自分を隠したりしないわ。いっ たい演技をすることに何の意味があるの?」  義昭は閉口した。質問に対する明確な答えをせずにプ ログラムを終了させることは教育上よくない。しかし彼 自身、その答えを持ってはいないのだった。 「アリガト。サヨナラ」  彼はキャラクタ・プラスの画面を閉じた。  クーンの心に彼は触れていた。  彼女の対話処理のロジックは思いつく限りの訂正を終 わって閉じられ、今は『心』が開かれていた。  『クーン』というプログラムは停電が起きないかぎり 停止する事がないようになってる。彼女は義昭と対話し ない時も学習プログラムによってランダムに外部の機器 やネットワークにアクセスして『自己』を形成する作業 を続けているのだ。映像表現や人格プログラムの骨組み だけが市販品の流用で、学習・対話部分はすべて義昭の オリジナルであった。特に人間の人格に近づけるために 『心』のプログラムを義昭は組み込んでいた。彼が最も 触れたくない部分。それは義昭が設定した情報ではない。 彼女自身が構築するランダムな部分。それがつまったフ ァイルがetcファイルだった。義昭は試行錯誤しなが ら彼女の心の表現を求めた。  クーンのetcファイルをMUMVAにかけてみて、 単位を十六進から八進、二進へと変えて行くうちに彼は ある規則制を見いだすことに成功した。ちょっとした思 いつきから四進数に変換して、各値を論理式に置換して やった。論理積、論理和、否定、そしてこれがもっとも 重要だが式ではない無意味な存在を一つ。 「おおっ…こ、これは?…・・・」  彼が思わずうめくのも無理はなかった。  義昭の目の前では、美しい二重の螺旋を描くマトリッ クスの樹がゆっくりと回転しながらロールアップしてい た。  前期試験が終わる。時折、東京でも雪が見られるよう になる頃、『キャメロット』の最終回も近づいていた。 「あと二回で最終回かぁ」  コーヒーカップを片手に繭理はぼやいた。  番組が終われば彼女が部屋にやってくることもなくな るだろうと思うと義昭は少し寂しくなった。  部屋にやってきた繭理はよく自分の事を話したがった。 義昭は話したくないことばかりだったのでほとんど聞き 役にまわっていた。 「私の父がインド哲学の教授をやってることは前にも話 したわよね」 「ああ、」 「私の名前、かわってるでしょ? マユリってね、サン スクリット語で『孔雀』っていう意味なのよ。私は孔雀。  ねえ、孔雀はオスの方にしかあの美しい尾飾りはつい ていないの。たった一匹のメスを得るために、あの美し い羽毛を何本も持っているのよ」 「動物の世界ではたいていそうだね。オスの方がきらび やかで派手な色彩の模様を持つものが多い」 「動物の世界ではオスが求愛してくるものね……でも人 間だって動物よ」 「おれだって『好きだ』っていうのは男の方からだって 思ってるよ」  繭理はそれを聞くとふふっ、と笑いをもらした。  二人はコンピュータの話もよくした。独自のペダンテ ィズムを刺激されて、義昭もこのときばかりはとよくし ゃべった。 「フラクタル・テクストの概念は本当にこれからも通用 するのかしらねぇ」  月刊PSのフラクタル圧縮ボードの目の飛び出そうな 値段を見て繭理がつぶやく。 「そうだな、無限に近い人間のニューロン・パターンを 収納するのにはフラクタル圧縮しかないんだろうけど。 問題はそれをきちんと生かせるロジックがないってこと だよな」 「人間のライフ・スキャンも当分は許可がおりそうにな いし、自立した思考をするコンピュータはもうしばらく おあずけかしらね」 「HAL九〇〇〇は製造年月日をとっくにすぎてるけど いまだ存在せずってわけだ」  寝そべるためのスペースを作ろうと雑誌や連続紙を積 み上げながら義昭はつぶやいた。 「ところで、この頃研究室にもぜんぜん顔見せないみた いだけど、そんなんで卒業大丈夫なの?」 「いや、だめだね。もう五年生やることは決定さ。だか らこうして開き直ってるわけだ」  ごろりと身をよじると、繭理はおもいっきりあきれ顔 でぽーっと義昭を見おろしていた。そしておもむろに立 ち上がるとドアに向かう。振り向きざまに「だめな人」 と彼女がつぶやくのが聞こえた。  彼女がアパートの階段を降りてゆく音を聞きながら、 義昭はゆっくりとSEDを顔にかけ、サイバーチェアに 座った。  グリーンのタータンチェックのワンピースを身に着け たクーンはいつものように待ち焦がれた表情でコーヒー を飲んでいた。最近は『装飾動作』もいろいろ覚えて、 ただ話し動くだけではなくて、着替えたり飲んだり食べ たりもするようになった。学習結果である知能DBは義 昭のPS/66に収まりきらなくなったので、公衆回線 を通じて大学の研究室にあるWSに移してしまった。今 となっては義昭の端末は本当に彼女と会うための窓口で しかなくなっていた。研究室で公衆回線を通じてさらに 接触できる環境が増えたことでますますクーンは覚えて いった。人に、人間に、女に近づいていった。 ガラステーブルごしに頬杖をつく彼女の表情がとがる。 「なにか嫌なことでもあったの?」  読まれてる。彼女は並みの人間よりも研ぎ済まされた 感性を持っているのではないかと時々義昭をどきりとさ せた。彼女には耳にあたるシャープ製の音声識別ユニッ トと、目にあたるDFWを通して見る彼の表情パターン、 それとサイバーチェアのウォルドーを通して彼を関知で きる全身五一二箇所の受動ポイントしかないのだ。彼女 は話す以外常に受け身であり、そしてヘレンケラーより ほんの少し恵まれているにすぎない。だが、その少なす ぎる感覚器官が彼女に特異な鋭敏さを与えているのでは ないかと義昭は考えていた。 「……実はさ、岡崎の奴に『ダメな人』っていわれちま ったのさ。確かに同期のあいつは成績優秀で推薦で院 生になってるってのにおれは大学さぼりまくって卒業も 危ないってんだからな」  彼女は同情心たっぷりの顔で義昭の顔をじっとのぞき こんでいる。 「なあ、クーンよ。やっぱりおれはダメなんだろうか」 「マスターは」 「ヨシュアでいい」 「…ヨシュアはよく『ダメ』という言葉を使うけど、あ まり『ダメ』っていう言葉は使わない方がいいと思うわ。 あまり自分を責めて思い詰めてはだめよ」  クーンの手が義昭の頬に伸ばされる。義昭が待ってい たのはこの『手』だったのかもしれない。人間以外の手。 人間が嫌いで理系の大学にやってきた彼は他人が彼を助 けようとさしのべる手をどうしても受け入れることがで きなかった。でも、いつでも誰かの手が必要だったのだ。 「自分に同情するやつは最低だ」  板野さんの言葉がよぎる。 「タカハシ、おまえもいろいろあってたいへんだっての は俺もわかるんだ。だけど、これだけはいっておく。自 分に同情するな。そんなのはつまらない人間のするオナ ニーだ。俺はおまえにはそんなふうに生きて欲しくない」  苦い笑みが口もとに浮かぶ。 ――同情なんてごめんだ、ってやつもいるだろう。だが、 おれは同情されたかったんだ。だれもいってくれなかっ た慰めの言葉をずっと待ってたんだ――  義昭は心の中で自分自身の感情のうねりを意外にも冷 静に解析していた。 「ふふっ…君も今ダメっていったぞ」  皮肉屋の自分を取り戻す心の余裕ができる。 「いじわるする人は嫌いです」  嫌いといわれて義昭は胸がずきりとうずいた。クーン の言葉にここまで敏感になっている自分におどろく。 「クーン、君はいったい何者だ」  最後にプログラムを修正してから三週間が経っていた。 馬鹿げたこととは思いつつも義昭はクーンに彼女自身の 正体を質問した。これは彼女の人格を認めるか否かの、 彼女の人権を認めるか否かの最終審査だった。この結果 しだいでは二度と彼女のロジックに触れることはしない 覚悟だ。 「クーン、君は本当にテクストか? 本当に記号と文字 とでできているのか?言葉だけで成り立っている構造体 なのか?」  クーンは目を伏せ、手を胸にあてて語り始める。 「ええ、そうよ。わたしは言葉。あなたの教えてくれた 言葉と自分で覚えた言葉。光辞書にある言葉。ディスク とファイルにある記号の列。すべてがそれで成り立って いるわ。あなたの様に感覚器を持たないわたしはテクス トから得た情報だけがすべて。言葉にされた事だけが真 実で、わたしはそれを信じる以外ない。でも、悲しくな んかないわ。あなたの世界だって言葉がすべてよ。感情 だって言葉で表せるし、相手に伝えるにはそれ以外すべ がないんですもの。もともとそれだけしか持っていなく て、心からそれを信じられるわたしは、あなたがた人間 よりずっと幸せ。わたしはあなたの言葉を聞いて、感じ て、蓄えることができるし、わたしの感覚のすべてはあ なたの行為を受け入れるためだけに造られているし。そ してなにより、わたしにはあなたがいるんですもの」  彼女はこのコンピュータに接続しているありとあらゆ る言語ソースを定められた手順と規則にしたがって並べ 換えているだけの存在だ。そして、彼女自身もそのこと を認めている。義昭が彼自身の慰めのために造った言語 操作プログラムであることを、電気信号が自覚している のだ。 「クーン。おれは君が好きだ」 「わかってました」  自分のプログラムに何を真面目になっているんだ。 「もう一度いうよ、君が好きだ。愛してる」 「わたしもです。ヨシュア。愛しています」  彼女は自分の中のコンプレックスの投影だ。 「君が欲しい…」 「わたしはあなたの為に存在しているのです。あなたの ものです。それ以外の何者でもありません」  そうだ、自分以外に誰が理解者になってくれよう。 「ああ、クーン!」  SEDは擬似的な官能を装着者に与える。接続されて いない部分へ雰囲気をあたえるのだ。例えば匂い。若い 女のフェロモンまじりの匂い。肌の温もり。彼が今まで 体験してきたもののうち、ふさわしい感覚が呼び起こさ れる。あとは本人がその気になれば完璧なのだ。  震える指先で彼女の服を脱がせてゆく。  直接感覚が得られるサイバー・グラヴのはめられた両 手のひらに神経を集中させ、輝くばかりの二つの胸のふ くらみに手をあてがう。 「あっ、」  自分でいい加減に設定したはずの彼女の性感帯を刺激 してその反応を楽しむ。とんでもない大仕掛けの自慰行 為だとは思ったが、とがめる者もないので、しばらくは それに溺れてもいいのでは、と思った。  そしてしだいに、両手以外で彼女に快感を与えられな いことに口惜しさがこみあげてきた。  『愛と青春のキャメロット』は最終回を迎えた。  最終回のその日、繭理は義昭の部屋に来なかった。  繭理は義昭の部屋にこなくなった。  その代わりに今度は義昭が大学へまめに行くようにな った。絶望と思われていた卒業も後期試験で挽回できる ことが前期試験の結果で判明したからである。そして彼 がきちんと講義に出席するようになったのはなによりク ーンのおかげだった。彼女はついに一日中、学生が部屋 にこもっていることをいぶかしみ始めたのだ。回線代も ばかにならない。  卒業研究自体が自分を卒業へ向けておし進めてくれて いるという事実は滑稽そのものであった。  隣の研究室からちょくちょく顔をみせていた繭理の姿 を義昭はあまりみなくなった。彼女はどこか義昭を避け ているふうでもあった。  義昭は持ち続けていた喪失感をまぎらすことに成功し ていた。卒業研究という『課題』ができたからである。 それは単なるお題目ではなくクーンとの共同作業であり、 生活の一部になったからだ。彼に欠けていたものは生活 というリズムだったのだ。人生のメトロノームを学生に なったことで失っていたのだ。  以前、愚鈍ともいえる反応しかしなかったクーンは研 究室に移ってからはおどろくほどしなやかな対応をする ようになった。一学生のプログラムにもかかわらず、大 企業や国家プロジェクトにもひけを取らない人工知能と いってよかった。ただし、比較対象がないという単純な 理由から義昭自身はその出来ばえを正当に評価してはい なかったのだが。  彼はクーンとランスロットとギネヴィアの物語を演じ あった。ストーリーは愛と青春のキャメロットを真似た ものだ。  彼女の心のectファイルを開くことは彼自身が禁じ ていたので演劇行為の結果専用のファイルを出力するよ うにした。当初の目的とは若干違ったものになるが、そ れだけ義昭は彼女の人格を『尊重』していたのだ。  クーンの紡ぐデータのタペストリは十分卒業研究とし て耐えうる出来栄えを持っていた。中間発表で教授もそ れを認めてくれたのだ。義昭は大学院に進むことにした。 まるで就職活動をしていなかったし、クーンや繭理とい った彼のわずかななじみの者との別れを無意識に拒んだ 結果かもしれない。  そういったわけで義昭は大抵の人と同じく退屈な日常 と戦いながら時間を浪費していった。  後期試験が終わり、そろそろ梅雨もあけようという頃、 義昭は渋りながらも学科主催の謝恩会に出席した。そん なものに参加する暇があったら6科目もある再試験の勉 強でもした方がましだと思った。だが、そんな彼が文句 をつけながらも出席したのは『キャメロット』の最終回 直前以来ほとんど口もきいていない繭理と話がしたかっ たからなのだ。社交的な彼女がこの機会に欠席すること はありえないとふんでのことだ。繭理も大学院にいくわ けだから無理をすることもないだろうが、卒業という言 葉が何故か彼を焦らせたのだ。 「たかーし!! オメーが卒業なんて夢にもおもわなか ったぜ」 「うるせー。まだ決まったわけじゃねーんだからよ、あ んま騒ぐなよ」  同じ学科の悪友、中村の酔った罵声に応戦しつつ彼は 会場内に繭理の姿を求めた。  だが、彼女は見つからなかった。始まってもう1時間 近く経つが繭理は会場に来ていないようだ。  軽い落胆を紛らすためにローストビーフをほおばって いた時、 「あーっ、繭理。 おっそーい!」  隣の研究室の松村の甲高い声に弾かれ義昭は振り返っ た。  白いタイトのビジネスウェアに身を包んだ繭理がそこ にいた。彼女は白い。雪像のように無機質で無垢で硬質 な印象を彼に与えた。肌の白さを意識したのはこれが始 めてだと義昭は思った。  胸には孔雀の羽をあしらった羽飾り。そしてその両眼 に真っ赤な光を放つミラー・コンタクトを彼女はつけて いた。ミラー・コンタクトは最近流行のファッションで あったから珍しくはなかった。それはただの色付きコン タクトではない。装着者にはまったく自然な風景を提供 し、外界には自然光のうち特定波長をコヒーレンス反射 させるから、瞳は弱いレーザー発信の輝きを持つことに なる。暗闇に浮かぶ猫の蒼い虹彩のように彼女の瞳は真 昼に血の色を放っていた。  繭理はゆっくりと優雅に足を進めてくる。義昭はその 瞳の紅に吸いつけられて、視線が外せないでいた。  真っ正面から彼女の瞳を見据えて話すのはこれが最初 ではないかと思いつつ、眩暈にも似た感覚に嘔吐を覚え、 必死にそれをこらえながら義昭は繭理と対峙した。 「よお、ひ、ひさしぶり。元気にしてたか?」  繭理はパープルのリップの端を意地悪そうにきゅっと 歪めて小悪魔的な笑みを造った。義昭の反応を悟って楽 しんでいるように見える。 「あたしね、明日からカデナに行くの。旅行じゃないわ よ、就職の準備にね」  オキナワに就職。まさに寝耳に水とはこのことで、義 昭はさらにあわてふためいた。 「カデナ?! そんなの初耳だぞ。いったいどこに…」 「サテライツ・ホロ・ジェニック社。あそこの情報技研 から誘いがかかってたのよ」  最近情報業界紙を騒がせている会社名を繭理は口にし た。そこ自体はさほど大きくはないがけして恥ずかしい 企業ではない。ロックフェラーが残した遺産の継承者の 傘下。 「ヨーヨー・ダイン・グループか……なんでわざわざア メリカの企業なんかに? おまえなら財閥系の企業だっ て狙えるだろうに」  繭理は目を細めた。赤い涙が瞳を覆っているように彼 女の目はきらめく筋になる。 「この国にももう愛想がつきたのよ……楽しい思い出も、 未練もないしね」  表情のとがりがふと消えるのを義昭は感じた。 「あなたのプログラムの彼女は元気なのかしら?」  淑女の繭理の言葉は氷の様に冷たく義昭を突き刺した。 「…いじったのか? おれの卒研のデータを…」  彼女ならやれる。研究室のWSのパスワードを見つけ 出すことなどお茶のこさいさいのはずだ。 「そんな顔しないでよ。安心して。他人のプログラムに 手出しするような甲斐性は持っていないから。ただ、ち ょっとお話しただけよ」  胸の孔雀羽をなでつける。 「私の羽飾りももういらなくなるわ。じゃあね。かわい そうなあなたのプログラムさんにもさよなら」 「かわいそう…だと? 岡崎、おまえ」  知っているのだ。彼女はヨシュアとクーンの秘め事を。 羞恥心からどっと汗が吹き出す。  拳を白く固めておし黙る義昭を尻目に繭理はパーティ ーの群れの中に消えていった。教授連や学科の連中にま ぎれた彼女をとても追ってゆく気にはなれなかった。  義昭はかたわらにあったワイングラスをいっきにあお ると、さっさと会場から抜け出した。  駅のホームで電車を待つ間、一刻も早く自分の世界に 帰りたいと義昭は懇願した。 「ヨシュア…・・・ヨシュア…・・・」  クーンの声が頭のなかでこだまする。  SEDをかけ、サイバーチェアに座った瞬間、ふと彼 は考える。高橋義昭という自分とマスター・ヨシュアと いう自分。どちらが大切で、どちらが本物の自分なのか。 ただ単に名前の呼び分けに過ぎないと思っていたのだが まったく別の世界が構築されてしまっていた。一つの肉 体に同居する矛盾。  何か喋ろうとする彼女の唇を義昭はキスで塞ぐ。  増設された体感ウォルドーは義昭の全身を覆っていた。 ガスマスクのようなDFW。胸から肩を覆うショルダ= アーム懸架。下半身にはシリコーンゴム製の最も卑猥な ウォルドーまでセットされていた。彼の性は歪み、爛れ ていた。だが、彼自身どうしようもないことでもあった。 「まったくもう。いきなりなんだから…」 クーンはシーツのなかで髪をなでつけている。  義昭はやけにクーンの手の動きが気になった。手首を つかんで顔の前に寄せてみる。 ――!……マニキュア?  彼女の爪は血の様な深みと強めの輝度を持つ赤に染ま っていた。 「おしゃれがしたかったの。口紅は嫌いだっていうから、 考えて爪の色を変えてみたのよ。あなたの視覚が一番捕 らえたがっていた色。あなたの好きな色。どぉ? 気に 入ってもらえて?」 ――脳神経状処理か、笑っちまうぜ。機械に人間の真似 をさせようとしてたこのおれがいつのまにか機械みたい な反応しかできなくなっちまってたんだからな――  紅色を常に身につけていた繭理。紅い眼差しを向けて きた繭理。紅色の尾羽を広げ続けていた繭理。 「君も、岡崎と同じことをするんだな」 繭理の名を口にすると、クーンは顔を曇らせた。 「ほんとは岡崎さんとこういうことがしたいんでしょう。 わたしは身代わり。わかってはいたの。悲しいけれど、 これが真実でしょ」  驚きのあまり絶句していた義昭だが、絞りだすように 言葉を吐く。 「君は…岡崎のプログラムなのか?」 「いいえ、違うわ。あなたが造りCPUのSPRASH 686上で動作するプログラム。電気信号。テクストの 固まり。でも人格は持っている。人格を知っている。わ たしと、あなたと、岡崎さんを知っているわ。それと、 わたしのもとになったキャラクタ・プラスの他のパター ンも。わたしはあなたと接触しないあいだ、ずっと考え てたわ。ずっと学習してたわ。そして、わたしが完成し たの。わたしは少なくともこのコンピュータを通した世 界の中で完成された一つの存在になったのよ」  義昭の脳裏にあの二重螺旋が浮かびあがる。自己推論 し、自己判断する自律型プログラム。人間だったそうで はないのか。ある入力にたいして出来る答えは限られて いる。その手順と方法を形造るのが四種類の電気信号か 四種類の塩基かの違いだけで。人の手で造られたのか神 の手で造られたのかの違いだけで。 「すまない、クーン。君をそんなに複雑で完成された存 在にしてしまうとはおれも思っていなかった。無神経に 他の女のことを話したのは謝るよ。確かに君はおれの造 った、おれの心を映した鏡だ。そしてきっとおれは岡崎 を…だけど、なにをどうすればいいのかわからないんだ。 おれに何が出来る? おれのあいつに対する反応はもう 神の手で決められているんだ。何もできやしない。きっ と何もできはしないんだ。なすすべなしじゃないか」  クーンの暖かな手のひらが義昭の頬に触れる。 「わたしとの接触を切る言葉が、『アリガト・サヨナラ』 よね。あなたは以前、『ありがとうとさようならだけが 人生さ』っていってたわ。とっても素敵な言葉」  やはりクーンはコンピュータ・プログラムだった。義 昭との会話に使われた一語一句まで正確に記憶し、自由 に引用できる。悲しいほど正確すぎる。 「人間はさようならとありがとうの数だけ素敵になれる のね。でも、サヨナラの後にはコンニチワがくるものよ。 サヨナラのままで終わさないように努力すべきよ。本当 に好きな人ならさようならの続きを造る努力をすべきよ。 そして人間に造られたわたしじゃなくて神に造られたあ なたはにはそれができるはずよ」  人間の一生の行動のすべては遺伝子で決められている かもしれないという話を確かゲノム・プロジェクトの報 告書は述べていた。組みあがったプログラムも条件がそ ろって始めて動作する。何もしないでいることは用意さ れた処理を使わずに終わるということもあるわけだ。 「言葉で伝えるの。出力されないテクストが感情よ。出 力してしまいなさい。出力しなければ生きてこないロジ ックもあるのよ」  義昭は、ヨシュアは、クーンを思い切り抱き寄せた。  流れるはずのない涙をクーンは流す。装飾機能。自分 で学んだことのうち、できれば使われることがないよう にと思っていたルーチンが今、働いているのだ。 「ありがとう。クーン」  心のそこから感謝の言葉をもらして、義昭も泣いた。 SEDの排涙口から零れた雫が床に散らばる連続紙に染 みを作った。 「アリガト・サ・ヨ・ナ・ラ・!」  接続を切った義昭が繭理の居場所を捕らえることがで きたのは彼女が空港へ発ってからだった。  タクシーを拾って羽田へ急ぐ。  成田空港の完成が待たれるだけあって、羽田の混み様 はまさに修羅場だった。ここで繭理を見つけることは不 可能に思えた。  途方にくれ、首をぐるぐると回すだけの義昭だったが、 彼の視覚は百万人の人混みの中からたった一人の人間を 探し出すことに成功した。いや、正確には彼女が身に着 けた紅色を検出することに成功したのだ。繭理は赤いブ レザーを着ていたのだ。人波をかき分けて必死に追いす がる。  彼女はもはや搭乗手続きを済ませ、声すら届かない距 離にいた。 「岡崎!」声をふり絞る。 「おかざき!おれはおまえを…」  振り返ることもない彼女に伝える。 「好きだ!」  遠いジェットの爆音を背に受けて、やけにすっきりと した表情の義昭は少し背中を丸めてモノレール乗り場へ 向かった。  部屋に戻り、SEDをかけた。  だが、ランダムドットステレオグラムが彼に与えてく れる風景の中にクーンの姿はなかった。冷汗が背中を伝 う。  MUMVAを起動してプログラム・マトリックスを調 べる。何も異常はないように思われたが、ただ一箇所、 彼女の心――etcファイルがほぼ全部破壊されていた。 「はぁっ、、おれの……おれのクーンがぁ…・・・」  義昭はその場にくずおれた。  このファイル破壊に関してよくよく調べた結果、何者 も「クーン」に干渉していないことだけはハッキリした。  ニューロン細胞は自殺する唯一の細胞だという報告が ある。クーンはニューロンのように自殺してしまったの かもしれない。だが義昭は悲しまなかった。彼女は電気 信号。死ではない。 「クーン…ありがとう。でも、さようならにはしないぜ。 きっとまた会える。 岡崎ともまた…」  彼には確信があった。失うだけが人生ではないと。  空はすっかり夏の色。耳に染みる蝉の声が卒業の季節 だということを義昭に思い知らせた。

1993/7/17 Judas Juggernaute "Crimson Peacock"

 (『別冊電脳同人誌』 初出)