子 犬                       ことぶきゆうき  その日もぱさついた24時間営業の牛丼屋の牛飯で、すかすかだった胃袋に張りをもたせ ると、上りの最終電車が通り過ぎる高架下をとぼとぼと部屋に向って歩いていた。もうす っかりこの時間の帰宅には慣れきっていたのか不思議と疲労感はなかった。  同じ東京でもここいら辺は22時を過ぎるとまるでゴーストタウンのようだ。都心の喧騒 に揉まれた昼間を思えばこの人気のなさには一種優しさのようなものさえ感じられる。  コンクリートで固められた回廊にはカツカツという自身の靴音だけが存在感を持ってた。 柱の影と蛍光燈の明かりの作り出す縞模様の中を、飛び跳ねる靴音をまといつかせた自分 が意思とはかかわりのない歩調で進んでいる。こうして歩いている時も頭の中では明日の 仕事の進め方などが無為に渦巻いていることに気づいてはいたが、無理に追い払おうとい う気も起きなかったし、考えをまとめる力もなかった。  部屋につけば眠るだけだ。  乗り捨てられた自転車の群れをかいくぐって脇道へ抜けようとしたとき、かさかさとい う耳慣れぬ物音に辺りをみまわした。自転車置場の柵の隅にあるダンボールからその音は 聞こえていた。  普段なら無視して通り過ぎるところだが、その日は何かが違っていた。と、今では思う。 俺はその箱のところまでいってしまった。  アイスかなにかの名前が青い文字で刷られたそのダンボール箱には白い広告紙の裏に、 「オスです。どなたか親切な方、拾ってあげてください」と書かれたものが貼り付けてあ った。中をのぞけば、黒くて小さな毛の固まりがぷるぷると小さく震えながら時折ごそり とみじろぎしていた。  子犬だ。  驚くほどさめきった気持ちのまま自分の中でそう復唱した。  顔を上げると俺はそのまま脇道のアスファルトへ降り、家路についた。  部屋に入って風呂に湯を注ぎ、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一口飲み下し、ベッド に身を投げ出す。  何も見ずにいれば良かったと、必要以上に後悔した。  違うのだ。  なにもかも違ってしまっている。そのことに気がついて俺は妙にいらだっていた。  風呂がいっぱいになったことを知らせるブザーを聞いて俺はやっとネクタイに手をかけ た。  鼻の下まで湯に沈み脳裏の光景に意識を滑らせてゆく。  いつものメンバーが顔をそろえているから、確か中学2年の時だったと思う。体はまだ できあがっていないが鼻っぱしらだけは一丁前だった俺と仲間たちがそこにいた。他人様 の迷惑になるような悪さはけしてしないが、あたりまえのこともしない愚連隊がそこにい た。  ある日、あるクラスの女の子がダンボール箱を抱えて登校してきた。風紀委員と生活指 導の教諭の目をかいくぐってそれを持ち込める、そんな生徒だった。騒ぎに敏感な我らの 愚連隊が目にしたのは4匹の子犬だった。学校のそばに捨ててあったのだがこの娘以外は 誰も反応しなかったというわけだ。さっそく犬が飼える生徒を探し、教師の目を盗んで一 日中学校内をあたったが、結局3人しか引き取り手は見つからず、斑模様の不愛想な一匹 の飼い主は結局放課後になっても見つからなかった。我々愚連隊も一軒家に住んでいる者 はほとんどいない状況で誰かが引き取ることは無理だった。  誰かが云った。 「しょうがない。近所をあたってこいつの飼い主、見つけてやろうぜ」  そうして俺たちは子犬をつれて大声を張り上げながら近所をまわった。学校の周辺を一 通り歩いてみても、たった一匹の子犬を引き取ってくれる家は見つからなかった。自転車 通学の者は宣伝範囲をもうひとまわり広げて、残りの者は各戸のインターフォンを押して まわった。 「あなたがた、なんの団体?」  そんなこともいわれながら地道に一件一件まわって行くうちに日はすっかり暮れていた。 子犬一匹引き取る余裕がないというこの世界に俺たちはやるせない怒りを募らせていった。 意地になって、この子犬の飼い主が見つかるまでは何時になっても帰らないと誓った。  自転車の部隊がようやく見つけた、犬を欲しがっているという家に行ってブチの子犬を 見せたとき、 「あら、かわいい。大事にさせてもらうわね」  といったおばさんの一言に全員が狂気したのは当然だった。疲労が快感に変わる瞬間が あることを知った。  至極くだらないできごとではあったが何か大切なものがそこには残っているような、そ んな気がする。  俺はあの頃とは違ってしまっていた。もう捨て犬の飼い主を探して町中を歩くことがで きた自分とは何もかも違う。  あの頃は何が理想で何を目標に生きたらいいのかはわからなかったが、それがわかるま でどうやって生きていくかの方針は定まっていた気がする。  床に就いて俺は思った。  せめてあの子犬のために祈ろう。きっと明日は幸せになれますようにと祈ろう。それぐ らい心を割いてもいいはずだ。  そうしてベッドサイドのライトのスイッチを切った。  夜はふけ、朝が来て。  子犬が小さく生きていることを目で確かめて、俺は駅へ向った。  中央線に背中から強引にもぐりこみ、圧迫感の中に身をゆだねる。これが俺の生きてい る証拠だ。不快感たっぷりの肉と肉とのおしくらまんじゅう。頭が曇る。  誰かのために生きたかった。誰かの犠牲になって死にたかった。少なくとも自分のため に生き、誰とも関らずに死んでゆくのは嫌だった。そんな人生は自分という系に閉じてし まっているようで耐えられなかった。 「誰だって自分のために生きてるんだぜ。もうちょっと自分を大切にせにゃあいかん」  そう云ってくれた大学の先輩は卒業して二年目の春、自殺してしまった。死ぬ前に一通 の手紙を残して。  彼は自動車に轢かれて死んだのだが、その手紙を見ればそれが事故でなく、巧みに計画 されたものだということがわかるはずだ。そこには死への決意と残された家族へのささや かな頼み事が記してあったように思う。  あったように思う、というのはその手紙が俺の下宿についたのは先輩の通夜に出席した 後のことで、一読して厄介ごとの匂いを感じ取った俺はそれをその場でびりびりに破いて 捨ててしまったからだ。なぜ先輩は最後の手紙を出す相手に俺を選んだのかはいまだにわ からない。なぜこんな俺に、だったのか。  震える子犬の姿はなぜか忘れかけていたそんなことを思い出させた。もはやその先輩の 名字すらすぐには出てこないというのに。  帰り道、蛍光燈の光の中に小さな影の震えを見る。明日はいいことがあるようにと祈る。  次の日も子犬の存在を確認して会社へ向った。雨の日は憂鬱だ。  大学に入った年の瀬、中学時代の同期が自殺したというニュースが偶然にも俺の下宿に まで伝わってきた。そいつは愚連隊のリーダー格だったやつで、俺も密かに尊敬していた 時期があった。  やつは東北新幹線の鉄橋の整備用の階段を登ってそこから飛び降りた。内臓は破裂して めちゃめちゃだったが、顔はまったく綺麗で通夜の時はなぜ死んだのかと誰もが思ったほ どだった。  通夜はほとんど同窓会を思わせるような顔ぶれでなんともいたたまれない気分になった 俺は誰とも口をきかずにその場を去ってしまった。  「やつを尊敬していた」という自分の中にあった確かな事実をもみ消すのに必死になっ たことを覚えている。なぜみんなでふざけて登った新幹線の鉄橋階段からでなければいけ なかったのか。やつが飛んでから地面にへばりつくまでのあいだ何を思っていたのか。一 時期そればかり必死に考えてみたがやはり無駄だった。俺はやつではないのだ。  子犬は不思議と俺の生活の一部になっていた。子犬のための祈りが忘れかけていた何か をうずかせるのだ。  俺の祈りが子犬に明日を与えている。そんな自負があった。  今日は名古屋へ出張だ。俺がいない間もがんばれよ、子犬に挨拶をかまして駅に向う。  予定が狂い、名古屋で一泊した俺は、帰りの新幹線でようやく子犬のことを思った。そ れまで仕事のことで頭がいっぱいで他のことに気をまわす余裕なんてなかったのだ。  口の中の苦い焦燥に、駅に降り立った俺の足は速まった。自転車置場のでっぱった何台 かにひっかかる。  いた。  頬がゆるむ。  だがおかしなことに気がついた。  子犬を覆うあの小さな命のふるえが止んでいたのだ。  しゃがみこみ、手を伸ばし、初めてそれに触れた。  それはダンボールの中で冷たくなっていた。  死。  漢字が頭に浮かんだ。続いて妙な感じが体を走った。  先輩の手紙。  死者は手紙を出せないし、先輩が事故で死んだことでおりる保険金を彼の家族はなによ り必要としているふうだった。俺の行動は正しかったと信じたい。あの手紙はこの世に存 在してはならないし、存在するはずもなかった。  空を飛んだやつ。  よくよく思えば俺は高校でのやつの生活をまるでしらなかったし、死後、自殺の動機す ら耳にしていなかった。いや、きっと俺だけではあるまい。  ざわっと、鳥肌が俺の背を覆った。  だが、次の瞬間には苦い笑みを口にたたえている自分を発見していた。  何をセンチになっているんだ、俺は。もう俺は…  顔を上げ、立ち上がる。  せめて子犬を埋めてやろうかとも思ったが、この街には土の見える場所すらない。冷た いコンクリートとアスファルトの牢獄なのだ。  俺は鞄にさしてあったスポーツ紙をばらして一枚引き抜くと、それをダンボールにかけ て、一番近くのごみ収集所へ運んだ。 「おまえは成功だったな。少なくとも一人の人間に存在を引っかけていったんだからな」  でも、たった一人だ。

1993/6/2 "A Little Dog"

 (『GENESIS vol.18』 初出)