<<『もてない男』最後の反論>>
茶化しているようでもマジメな話

「スレッガーさんかい? 早い、早いよ!」
          ──『めぐりあい・宇宙』より

いよいよ開催を間近に控えたDASACON2の『もてない男』直接対決。
それを前に俺自身、ちょっと論点が見えなくなってきてしまった、というか話の着地点をどこに設定すべきなのかわからなくなってしまったので前回の鈴木力氏のアップ『格好悪いことはなんて格好悪いんだろう――なぜに僕は小谷野を読むか――』に対する反論というよりも問題点の見直しをしてみたいと思う。

『もてない男』の話をしたいのか?それとも一般論として「もてない男」=恋愛下手のための恋愛論を論じたいのか?

前回の『格好悪いことは──』を読んだ時の俺のショックというのは相当なものであった。
「このまま『自由根性戦』(『幕張』(ジャンプコミックス:木多康昭)第9巻79ページ参照)に突入なのか〜?!よっしゃそっちがその気なら俺だって、俺だって、」という具合に頭に血がのぼってほとんど思考停止寸前であった。
これが直接対決会場だったなら、俺はそのままつっぱしっていたことだろう。だが、文章はネット上で固定され、俺はに昼はフツーのサラリーマンとして仮面をかぶっての生活があり、次第に俺は冷静さを取り戻していった。そして疑問に思ったんである。
そう、本として『もてない男』について語りたい、ということではなかったのだろうか?ということである。

そもそも俺の『俺の『もてない男』に対する意見!ってゆうか罵倒』というアップは『もてない男』を読んで、それを読んで感じた不満を「罵倒」と自覚しながら綴ったものであり、無論『もてない男』でとりあつかわれる「もてない男像」=著者自身と感じて徹底的に攻撃し、主として我がSF研の後輩向けに「こうなってはいけない見本。反面教師としてしか読む価値なし」と断言し、ちょろっと最後の方に俺の恋愛観を記述した形になっている。
それを読んだ鈴木力氏の反論『それでも僕は小谷野を読む――『もてない男』に対するu-ki氏の論難を駁す――』で、彼は俺の超人思想とルサンチマンに対する考え方の矛盾、小谷野氏の「友達がいない」発言攻撃の矛盾を指摘しながら、 <なによりも僕が不満を感ずるのは、書評の多くが度しがたい些末主義か、さもなくば恋愛不要論への過剰かつ誤った反応に陥っている点である。どちらも『もてない男』の一部をさも本質であるかのように捉えているという意味では、明白な誤読以外のなにものでもない。>と始まり、<u-ki氏の言葉は小谷野にとってすでに過去のもの、破棄されたものだ。>という展開をしている。
そこで俺が『なぜ『もてない男』は駄目な本なのか?』で、再び『もてない男』中で気に障った部分を一挙に羅列。そして「それでも僕は小谷野を──」の最後のパートへの反撃を展開している。
そしてそれに対する『格好悪いことはなんて格好悪いんだろう――なぜに僕は小谷野を読むか――』で鈴木力氏は<ことは小谷野敦本人/u-kiではなく、u-ki的小谷野敦/鈴木的小谷野敦なのだ。>としてしまっている。ここで話がおかしくなってしまった。
『もてない男』を攻撃する方法として俺がとったのは「もてない男像」=小谷野氏本人として、文章から感じられる著者の人物像を徹底的に否定したんであるが、鈴木力氏はどうも『もてない男』の中の「もてない男像」に自分を重ねることで『もてない男』という本とその著者である小谷野氏を弁護しようという格好になっていると思う。

本当は

鈴木力氏→『もてない男』←u-ki
    支持      攻撃

となるべきであるが、

『もてない男』=小谷野氏←u-ki
            攻撃

俺は『もてない男』を攻撃しているつもりで小谷野氏を攻撃している。

鈴木力氏=『もてない男』→小谷野氏
   同一視         支持

鈴木力氏は『もてない男』への一体感から『格好悪い──』で小谷野氏を支持する事になる。

という状態ですな。ううん、マズイ(--;
<ふつう著者の人格を問題とするのは反則とされているが、>
ということであれば、
<ことは小谷野敦本人/u-kiではなく、u-ki的小谷野敦/鈴木的小谷野敦なのだ。>
という方向にもっていかずにu-ki的『もてない男』/鈴木的『もてない男』にもっていくべきなのではないか。
このままでは『もてない男』を守るために間に入った鈴木力氏を直接、あるいは間接に攻撃する格好になってしまう。
俺としては今になってようやく、<恋愛不要論への過剰かつ誤った反応に陥っている>自分に気が付いたような次第で2つめのアップをもう少しスマートに展開できればよかったのかも、と反省している次第である。
童貞でいることの不安、思い人の心を獲得できない「片思い」の苦しみ、恋愛よりも楽しいことを発見しろ、という視点の面白さなど『もてない男』という本の中で読んで面白く肯定できるパートもある。だが、俺が許せなかったのは『もてない男』中に読み取れる「もてない男像」である。それイコール著者である小谷野氏と断定したのは誤っているかもしれないし、確かに方法としてまずかったかもしれない。だが、そこに確実に「過去の嫌な自分像」を重ねて排撃すべきだ、としているわけである。
では鈴木力氏は『もてない男』のどの部分に「読まれるべき価値」を見いだしているのだろうか?そこが見えてこない。もし『もてない男』という本について、という部分を語りたいのであれば、ちょっと方向修正という形になってしまうが、俺が既に「認めている」部分でもかまわないのでできれば擁護すべきポイントがあれば指摘していただきたい。そうすることで俺も新たな攻撃ポイントの発見があるかもしれないからだ。
『もてない男』の話をするにしては前回の鈴木氏のアップは「小谷野氏の擁護」を全面に押し出しすぎていて、『もてない男』以外の本からの引用も多くなってしまっていると思う。また<今年の年頭、まさに『もてない男』が書店に並ぶ直前に『男であることの困難』を読んだのがきっかけだった。/一読して、これはたいへんな書物であると直覚した。それとほとんど前後するような具合で『もてない男』が出版され、直覚は確信にかわった。>ということだが『もてない男』が彼の抱えている「ぼんやりとしたもの」=恋愛という問題の「補助線」になったということだが、それはどうやら鈴木力氏にはとって役に立つ、あるいは読む価値のある本だ、ということなのだろうが俺にはさっぱりどこが良いといっているのかわからなかったんである。第三者にしてもそうではなかろうか?
俺は『もてない男』=小谷野氏として語ってしまったわけで、結果として『もてない男』を攻撃するにあたって小谷野氏を攻撃してしまった。その小谷野氏を擁護することが本『もてない男』を擁護するという形式になったのか、鈴木力氏は小谷野氏のほかの著書を頻繁に引用してくる。んが、『もてない男』を読んで感じられた小谷野像を他の著書から感じられる小谷野像で援護されても、ほかの著書を読んでいない俺には理解しろということ自体が無理なのであって、それならば「他の小谷野の著書を読んでみろ!」と薦めるべきであって『もてない男』を読め、ということにつながらないのではないか?
それこそ『もてない男』は<上野千鶴子の発言の矛盾を揶揄した文章>以上の存在なんであろうか?あるいは「もてない男」の愚痴以上のものなんだろうか?
鈴木力氏が小谷野氏の『もてない男』の中の「もてない男像」が「自分にかぶるから」という理由擁護しているんであればそれは他人に薦めるに値しないのではないか。
それともきっかけこそ俺が小谷野氏を攻撃したことではあるが、この際『もてない男』という本はどうでもよく、小谷野氏の著書を媒体にしてもっと一般的な「もてない男像」を突き詰め、「恋愛論」について語りたいのであろうか?
まずはこの点をはっきりさせていただきたい。

もし本『もてない男』でなく「恋愛論」を語るのであれば、俺は鈴木力氏の全身全霊を全力をもって受け止める覚悟である。
それは恋愛そのものにも似た個人対個人の激しいぶつかりあいになると思われるし、俺としてはおそらく全身全霊をもって叩き伏せることになると思う。かなり辛辣な言葉も飛び出すと思う。その覚悟はしていただきたい。

本当は『格好悪い──』に対する一語一句に対する反論も40文字×200行くらい書いたのだが、とりあえずはこの点について鈴木力氏からの回答があるまでは伏せておくことにする。
しかしその全てを死蔵させるには俺自身、あまりに忍びないので幾つかのパラグラフを<付記>として撒き散らしておくとする。

付記その1:ゼロとイチの違い――ゼロは何倍してもゼロ――

<努力不足を指摘した覚えがないって、あなたついさっき
〈俺はその対象(引用者註――好きな女性のこと)にアプローチするのにこの著者がなんらかの努力をしたようには思えないのだ。考える、思う、は苦悩の一部ではあってもなんら努力ではないのだ〉
と書いていたじゃないですか――というようなつっこみは、いまは措く。>
スミマセン。こーゆーの気をつけていたつもりなんですけど、やっぱし苦手なんでしょうね。
努力が足りないというのと、努力してないってーのは違うんです、俺にとっては。(なんかとってつけたようなへ理屈になってますけど)
小谷野氏が頑張ってきた描写があって、「それは努力が足りないからだ」と不足を指摘したつもりはなかった、という意味なんですよ。だってこの人努力してるように見えなかったんだもん、ということです。
で、自己改革に努力は不要なのか、というとこれまたへ理屈ですが、俺はよく「チャレンジ」という言葉を使うんだけれども、自分を変えようとかいつもと変わったことしようっていうのは努力じゃなくて挑戦なんですよ。一方向へのベクトルの積み重ねじゃなくて矢印の方向を曲げてみることを云ってるんですな。方向変えるのにだって努力はいるだろ、といわれるかもしれないけど、例えばコミュニケーションスキルを磨く、というのは努力かもしれないけど、バンジージャンプに挑戦、とかいうのは努力じゃなくてどっちかというと「やる気」の問題でしょ?俺は小谷野氏の「やる気」のなさを攻めているのである。『駄目な本』の中でも「努力をしろ」「方向が間違っている」は連発してるけど、「足りない」とか「もっと頑張ればよかったのに」とは云ってないでしょ。
「足りなかった」ことは指摘していない、と嘲りを含んだつもりで書いたんですけどわかれってほうが無理ですね。つまらんいいわけです。折角省いてくれたのに申し訳ない。


付記その2:俺の失敗と痛み──あるいは「僕たちの弱さがよかった」──

<ことは文章技術の巧拙の問題ではないと僕は考える。なぜならば、文章の端々にu-ki氏の過去の姿が現れているからだ。つまり、氏の「駄目」には――そして「罵倒」にも――乗り越えられるべき過去の自分と乗り越えた現在の自分だけがあって、その中間にあるはずの内的な葛藤が、ごっそり抜け落ちているのである。>
なぜ<葛藤>する必要があるのか。相反する等価なものを持ってこそ葛藤が生じるのである。俺は自分の過去の忌むべき一部についてまったく価値を認めていない。あるのは一方的な否定である。過去の自分の排撃を他人に攻められることはないと思っている。俺と同じような誰かを攻めているのではなく過去の失敗を招いた自分の否定である。
「失敗とは、こうすればうまくいかないという学習ではないか」(by西和彦)
結局は俺も失敗から幾つかのことは学んでいても成功者ではない。つまりまだまだ恋愛下手=「もてない男」であり、「答え」はみつかっていないのだ。
今の俺は恋愛という出口の見えない巨大な迷宮のなかをさまようRPGプレイヤーのようなもので、めちゃくちゃにダンジョンを駆けずり回ってMAPを作製中みたいなもんである。で、幾つかの場所には×印を付けているわけだが、何か別の場所に行ってからそこにくればまた別の意味があるのかもしれない。ただ俺が激しく否定している箇所というのは根拠無く否定しているのではなく必ず自分が通った後であることは間違いが無いし、自信を持って発言の元になった契機や経緯について話すことができる。
そうした、「とりあえずやってみる」戦法というのは非常に効率が悪く、自分と関った他人を不用意に傷付けて終わるだけの行為かもしれない。だが机の前でただ考えているだけよりは得るところが大きいのではないかと思う。
最近読んだブギーポップの新作かどこかで読んだフレーズだと思うが、「失敗を恐れないやつはいない」が無責任に「失敗を恐れずにやってみろ」とか人は言うというようなことが書いてあったように思う。俺だって失敗は怖いがそれでへこたれてはいられないんである。
それはたった一つの理由からである。
時間は待ってはくれない、ということだ。
たった一度きりの人生、眠っていても走っていても平等に時は過ぎてゆき、回復する手段はない。だったら限られた時間の中で俺はあがけるだけあがいてやる、ということだ。

無痛覚な男がここまで大騒ぎするだろうか?

俺は悩んで苦しんでいること、苦しみ続けることを肯定するわけにはいかない。
本当に苦しい人は「なぜ苦しいのか、考えつづけることに意義がある」などという悠長なことは云っていられないのではないか?
そして鈴木力氏は『もてない男』という本が「心に響いた」というがそれが彼の苦しみを和らげてくれたということなのだろうか?彼は今も苦しんでいるのではないか?


付記その3:格好悪いということ──あるいはオナシスの失態──

AERAMook『恋愛学がわかる。』の中で小谷野氏は
片思いというのは、狂気やナルシズムと紙一重である。p13
と云っている。
彼もときおり、こうした「はっとさせる言葉」とかも吐くので油断はできないのだけど。

文字どおり「通った後には草木一本残らなかった」俺の失恋のルサンチを炸裂させた2大馬鹿同人本『男の詩集』『男の恋愛論』のうち前者から詩を一つ。

 「駄賃」

  子供がお使いの駄賃をねだるように

  僕は告白の見返りが欲しかっただけにちがいない。

  僕がした心の仕事ぶんだけの

  彼女の好意が欲しかったのだ。

この詩に対してではなく、この詩集全体を読んでのある後輩の感想が今でも心に残る。
「そうです。僕はゆうきさんの「失恋のいいわけ」なんか聞きたくなかったんです」
格好悪いことを格好つけて云ってみても、良いことなんて一つもないのだ。


特別付録「目薬の話」
『自由根性戦』
を展開する前にこんなお話を一つ。
今日は「目薬を使いたかったケダモノのはなし」をすることにしよう。(コリバ風に)

ある酒の席にて。
Y:「あーもー、あの娘とやりてーよー、もー気が狂いそうだよー、俺の下半身のS2機関を誰か止めてくれー!アスカじゃなきゃ駄目なんだよー!!」(カクカク)
U:「うるせーよ、腰を振るな!それだったらお前、目薬でも使って酔わせて一発やっちまえよ」
Y:「……よく『目薬』ってゆーけどよー、実際効くのか、あれ」
U:効く!!!(キラン)
Y:「……なぜそこまで断言できる?……使ったな?お前使ったんだな、えっ?!
U:「……な、何を言ってるんですか。噂ですよ、噂。でもねー、かなり確実な噂ですよー。俺が聞いたのはロー○製薬の××。カクテルに2、3滴垂らしたらもー、15分くらいで目玉がくるん、と回ってバタンキューですよ、ええ」(妙に具体的)
Y:「お前絶対使っただろー!くるん、とか妙にリアルすぎるぞ!」(ユサユサ)
U:「うっく、、いやー実は、ほら、なんかちょっとした好奇心、ってやつでさ、自分で試してみたわけ」(こいつが炎のチャレンジャーであることは全世界的に認められていた)
Y:「……そうか、そうだったのか。でも俺も悪魔じゃあるまいしー、まさかそんなもん使ったりしないって」
U:「そりゃそうだ」
だっはっはっはっは。

数年後、別の酒の席にて。
U:「今俺が入れ込んでる飲み屋のねーちゃん、もうすぐ店外デートOKそうなんだよ。もーそーなったら俺は目薬使ってでもヤルね!今度こそホンキなんだよ、俺」
Y:「ったく、そんなことだからお前はシロウトにはまったく相手にされねーんだよ。
……そういえばお前、昔から『目薬』とか言ってんのな。実際効かないだろ、あれ」
U:「何言ってんだよ、効くよ。効く。効きまくり」(目に炎)
Y:「効かねーよ!まったく噂に騙されやがって。そんなもん使って女襲うくらいなら合法ドラッグ鼻から吸ってオナニーしてたほうがましだね」(すげー荒れた態度)
U:「なんだよてめー!俺が嘘つきだってのかよー!俺は正直大臣だぞ!」(口から泡吹きまくり)
Y:「うるせーな、嘘も糞もねーんだよ、効かねーものは効かねーといっとるんじゃ、ボケ!
まさにとっくみあいの喧嘩が始まろうというその瞬間、

N:「いやー、今の目薬ってそーゆー成分、入ってないんだよね
ピタッ。(ザ・ワールド!
ここで突然、一緒に飲んでいた先輩N(薬剤師、妻帯者)が発言。
N:「確かに以前は入ってたんだけどさ、やっぱ製薬会社も悪いって気が付いてさ、同じ効能がある別の成分使ってるんだよね。まーだから、Yの言うこともUの言うことも部分的には正しいよな」
はっはっはっは。

(YとU、しばし互いに見つめあい、視線をそらす)
Y:「う、疑って悪かったな」(ぶわっと滂沱)
U:「いや、どーってことないさ。…俺も今度は地道に攻めようかな、」(遠い目)

カマリ:「うーん、結局今は目薬をお酒に入れても誰も目を回さない、ってことなのかしら?」
コリバ:「それはあまり重要な点ではないぞ。重要なのはYにとっては「目薬が効く」という事実があり、Uには「目薬は効かない」という事実があり、まっこうからぶつかった二人の主張はまったく等価であった、ということだ。だがしかし、真実を知っていたのは目薬なんて必要のないNだけだったというわけさ」
ンデミ:「そうか!やっぱりYもUも目薬を使ったことがあるんだね!」
コリバ:「それは全然重要なことではないぞ。ってゆうか超・自明の理」(もっと賢くなれ、ンデミ!)


1999/8/26.