なぜ『もてない男』は駄目な本なのか?


鈴木力氏がダサコン2向けのネタ振りとして(?)俺の「俺の『もてない男』に対する意見!ってゆうか罵倒」に対する反論をいただいたのでそれに刺激されてそれに対する反論を書いてみた。4月に本書読了後、「原稿用紙2千枚くらい悪口が書ける」と豪語したその思いが今ここに復活してしまった感じである。

鈴木力氏による、 それでも僕は小谷野を読む――『もてない男』に対するu-ki氏の論難を駁す―― に対する回答・反撃というよりはむしろもう一度、『もてない男』という本とその作者について気に障ったことの洗い出しのようになってしまった。
鈴木力氏の意図する回答になっていなかったら申し訳ないが、これが今の俺の精一杯である。許されたい。
あと急いで書いたHTMLで非常にきたないです。レイアウトもべたで段落の頭にブランクを入れないいつものスタイルなので見苦しいかと思いますが御了承ください。

ですます調の語り掛けモードは鈴木力氏向けの文章ですが、主張というか、パッション全開になってる場合は一般向けの魂の叫びになっています。俺の新たなエッセイの一部と思っていただいて結構です。(って、つくずく文章下手だね)
文体がムチャクチャなのをガマンしていただいて何とか俺の云いたいことを汲み取っていただきたいと思います。



最初の1点目、「超人思想とルサンチマンの矛盾」について
うーむ、なるほど。こりゃ一本とられたなぁ。きちんと読み解くとこうなるか。などと感心してしまった。自分の文章の頭の悪さを指摘された格好ですな。したがってあまり激しく抵抗はしません。というか、この点には重きを置きません。

2点目、「僕には友達がいなぁい」であるが、この部分の指摘は自分でも矛盾があるというか、敵を攻撃する刃で自分も切ってるな、という自覚があった箇所である。
ただ、俺が小谷野氏の立場であったなら、出版物にそのような内容のことをわざわざ記述しない、ということですな。苦しくも、それを攻撃するに当たって「俺もそうだけどな」と書かざるを得なかったのは同じ土俵の上にいることを示すためと、俺の性格上それを隠して攻撃できなかったことが原因。で、俺がここを修正というか、カットしなかったのはwebだから、という思いもあった。出版とwebはイコールではないか、という話もあるが、ま、それは別の話。
「友達が少ないことをすぐ口にして自己憐憫にひたりたがる」行為を非難しているのであって、友達付き合いの形式の「広く浅くのタイプ」が正で「狭く深いタイプ」を否定しているわけではないということです。いや、ホントにいるんですってば「僕は友達いないですから」って卑屈な態度で口にする奴が。それと同じ匂いを感じた、ということです。

しかし、この2点は俺の書いた文章のしかもさして重要でないパートへの指摘であり、この2点の誤りを俺が認めたところで
――要するに、問題とする恋愛のレベルがまるでちがうのである。
u-ki氏の言葉は小谷野にとってすでに過去のもの、破棄されたものだ。この点は、もっと真剣に読みとられ、考えられていい部分だと僕は思う。
には結びつかないのではないか、と思う。

さて、鈴木力氏の文面だけ見ていると、こちらの読みこぼしや文章理論の不備だけが目立ってなんだか申し訳ないなぁ、という気分にすらなってくるが、胸に手を当ててみる。
「もてない男」=小谷野氏の文章はそんな擁護を受けるに値する文章だったろうか?この俺が読了後に即刻別文章にて怒りをアップするくらい激しく攻撃されて然るべき、女々しさというか「不正を肯定して安住しよう」という姿勢が見え見えの文章ではなかったか?
再読するまでもなく、腹のたった箇所が読後これだけたった今も思い出せるではないか。
というわけで自分に100%非がない、揺るぎない自信を元に反撃させていただこう。もともと論争は得意じゃないんだけど、誰しも譲れない部分というのはある。

鈴木力氏の指摘の1点目の指摘にもからむのであるが、たしかに、ルサンチマンや超人思想がどうとか、さっぱり俺に正しい知識がないとか、俺の書いた文章が内部矛盾を起こしているとかはきっと正しいので反論しない。
だがしかし、果してこの著者である小谷野氏のどこが気にいらないのであろうか、という部分を指摘させていただく。俺の文章の矛盾点を突くために「もてない男」の一部分だけが引用されると、とても「正しく」見えるが、この本一冊を通して見えてくる作者像=俺が攻撃すべき「もてない男」像というのを指摘してみたい。

俺はもてない男のすべてを否定しているわけではない。
ただ、オナニーについて語った本がない、とか処女の苦しみを綴った本がない、とか簡単にいいきっておきながら、引用してくるのは落語とか歌舞伎とかなんだよ。そーゆー本がすでに出回っていることを知ってる身としてはどんどん作者への不信感は募る一方であり、すると論じている内容にも懐疑的になってくるのが自然というものではないか。
「あんた何を根拠にこういってるの?」
「それは俺がそう思ったからだ」
という話になれば俺も作者と同じ土俵の上じゃないか、と思えるのだ。

まえがき

もてない男の定義として「好きな女性から相手にしてもらえない、というような男」であり、「女なら誰でもいい、というようなケダモノはどうでもよかった」p8としている。
「もてるというのはただでセックスができるということだ」 「好きでもない女百人とセックスしてももてるとはいえない」
じゃぁ、なんで世の中には好きでもない女百人と寝ることができる男とたった一人の好きな女と口もきけずにストーカーまがいの行為しかできない男がいるのか、という謎には迫ってくれないんだよね。世の中がそういう仕組みになっています。そういわれて、後者のままでいることに納得できるのか?俺は出来ない。 もう一ついわせていただく。好きな女とセックスができればシアワセなんだろうか? 小谷野氏はシアワセそうだ。俺はそうでないことを知っている。 一緒に食事をすることとさしてかわりのないことなんだよ、セックスは。コミュニケーションの1手段でしかない。学生時代にそういわれた時は「すかしたこといってらぁ、セックスのほうが100倍嬉しいし、100倍親しげじゃん」と思ったものだが、世の中には好きな女とセックスはできても会話ができない人だっているのだ。

第1回童貞論

「恋人を相手に童貞を失える主人公たちはむしろ幸福な部類に属するだろう」p24
頭でっかちだったころの俺も処女だの童貞だの初めての相手だのに必要以上にこだわっていた。ゆえに過去の俺が垣間見える文章その1。

「小説やマンガの世界では、セックスは日常茶飯事化している。だがそういう時代の展開から取り残されてしまった男女というのは確実に存在する」p29
これは最近書いた『ふたりエッチ』の読書日記でもふれたが、とにかくそーゆーことだ。
現実としてセックスは日常茶飯事化している。そしてそれに取り残された人というのもいる。無論、作者も俺も後者である。前者のような世の中を攻撃してもいいが、それが自分のためのプラスにはなりはしない。

第2回自慰論

p64で現代のソープランドよりは徳川期の遊郭の方が男のための文化装置として勝っていると偉そうに書いてあるが、ソープランドに行ったこともない男がなぜそう豪語できるのか?ここでまず作者に対して懐疑的になる。風俗嫌いな友人もたくさんいるので風俗に対して嫌悪感を持つのは許すが、この根拠のない発言に不審を抱く。
金払っての同衾が義務付けられて、「振る」制度がなくなったからか?冗談じゃない。寝ることはできても気持ちが買えないのは一緒だ。懇意になった相手とそうでない客とでは何から何まで違う。キャバクラの制度も似たところがある。3回通って行き着くところへ行けなければまぁ、振られたも同然だけど。それでも通うところが愛でしょ?

オナニー論の最後も好感が持てる。
「他者を「恋愛」のような形で獲得する能力のないものをどうやって救済すればいいのか」p68とか。ただこのオッサン、かっこよく疑問は提示してもそれを解決しようという姿勢がまったくみられないんだよね。ここに不信感が高まる。
恥ずかしいが、カップラーメンによるオナニーの話をもう一度しよう。
「しんどいやら情けないやらで全然オナニーの快楽というものがない」p51
こんなことを書かれてはこの人物の云うことが全然信じられなくて当然ではないか。
初めてセックスをした時のことを既に電子データにしてあるのでそこから引用しよう。
「しんどいやら情けないやらで全然オナニーの方が気持ちいいと思ってしまった」
(u-kiの喪失記より)
初回の失敗からそれ以来しばし俺は「オナニスト」であると豪語し銀座の飲み屋のママにも「困ったちゃん」といわれていたのだった。そうだ、困ったちゃんだよ本当に。
一回チャレンジ、失敗、原因を考える、再チャレンジ、失敗、原因を考える…
というふうにはならずに、
一回チャレンジ、失敗、世間が言うほど俺は気持ち良くない(完)
この構図である。こぉーんなこといってる奴の云うことが信用できるかっつーことですな。下半身の問題はプライドや羞恥心が邪魔して他人に相談しにくいし、正解も見つけづらい。俺の様に下ネタの大好きなおせっかいな上司でもいないと本当のところはわからないことが多いと思う。「俺は東大出だ!」というプライドが彼に疑問を追求する能力を失わせているんだと思う。それを「世の中が悪い」といわれても俺は支持できない。俺は経験主義的な側面が強いのかもしれない。だが、ロジカルでない問題を解くためには経験則しかないと思うのである。
「どっちなんじゃい」p40
童貞の話の終わりがこれである。頭で理解しようとするからこうなる。Aに対してはBであるべきという発想から抜けきれていないではないか。俺達は人間なんだ。同じ行為を「良い」と思う人も「悪い」と思う人もいる。
俺は「どっちなんじゃい」では済ましておかない。「俺は○○だった」という答えを見つけに行く。

第3回恋愛論

口説く。ラヴレター。「これも、その気が少しはある相手に対して実行する意味があって」p79
また断定である。さていよいよ怪しい雲行きだ。

「要するに私は「女は押しの一手」思想を信じて偉い目にあった」p78
といっているが、果して「押しの一手」が通じると云っている多くの人がデマを吹聴し、「相手も少しはその気がないと酷い目にあう」と云っている小谷野氏が正しいのだろうか?その根拠に付いてはやはり語られていない。

「どうして人は自分を恋する異性を愛し返すことができないのだろうか。」p86
死ね、って感じですな。死んで来世でうまくやってくれ。それはあんたの場合であって一般論じゃないでしょ。

で、片思いについて。
「私は向うから近寄ってきたときにのみ女性を好きになっているような気がする。それが別段異性として関心があって近寄ったのではなかったり、私の人格がわかって離れていったりしたあとで私が「片思い」を始めるのである。」p91
そんなの俺だってそうだって。恋愛の射程距離は半径5m以内からだっつーの。それをさも新しいことを発見したように書くなっつーの。
恋愛は一人では出来ない。片思いというのは恋愛感情であって、恋愛の一部ではない、というのが俺の持論だ。ひとり相撲が相撲の仲間ではないのと一緒ですな。
奴は相撲をとってないのに相撲にけちをつけているんである。
好きな女を待ちぶせしたり、知りたいと思っていろいろ行動したりするのは「恋愛」じゃない。わからないことを図書館で調べたりするのと一緒だ。俺はその対象にアプローチするのにこの作者がなんらかの努力をしたようには思えないのだ。考える、思う、は苦悩の一部ではあってもなんら努力ではないのだ。
この作者は「努力」の方向を間違っている。そして俺は俺より若い人に間違った方向に走ってほしくないからこうして騒いでいるわけである。俺自身はもっと若いうちにいろいろやっておけばよかったと後悔している。恋愛にリミットなんてないんだろうけど小谷野氏はもう間違った方向につっぱしっちゃってもう方向修正の余地なし。終わっているんである。
あまつさえ、
「片思いは女の方が体を使って誘惑が出来るから楽だ」p85
なんてー発言をしたりしている。開いた口がふさがらないっつーかもてなくて当然です。
p96で好きになる「条件」を書いているが噴飯ものだ。「話が合って」が入ると「条件」だけじゃなくなるそうで、ここに「こいつ話ができねえな」的匂いがするんである。

で、とどめの
「私は「知的な才能のある美人」が好きなのである」p93
わはは、そりゃ「私」だけじゃなくてミンナも好きだって!
それに「ファンはいるが」ってなんだよ、つまりはそーゆー人たちは歯牙にもかけないと。俺の相手じゃねぇと。俺にはもっと才色兼備のグレードの高い女じゃないとダメだと、そういうわけかい。あんた何様のつもりだよ!ってことである。
「誰だってよければ人は恋なんてしない」というのは大林宣彦監督作品の言葉だが、それはまったくその通りなんだよ。俺がいかにケダモノだっつっても本当に誰でもいい野獣になれっつてるわけじゃないんだよ。しきい値を下げる努力をしろ、ということなんである。けして妥協じゃない。「しょうがない、これくらいで我慢しとくか」ではない。好きになるための視野というか感覚器をもっと柔軟にしろ、といっているのだ。頭で考えて好きになるというのは記号論だ。ペンティアムの何MHzだから素晴らしい、ベンツだからグッチだから素敵だ、そーゆーのと人に感じる魅力がイコールであってはイカン、といっているんである。だが、最近の頭のいい人はその傾向が強いのではないか?小谷野氏も仮にも東大の人である。その傾向が強いんではないか、と俺はにらんでいる。俺は物を好きになるのに記号を使うように人を好きになることに記号を使ってほしくないのだ。
そりゃー俺はインドで修行して「どんな女でも可能」になる修行をしてきて、今じゃ社内一のケダモノ野郎の地位を不動にしたが、何もそこまでやれといってるわけじゃない。

そもそもケダモノとは、どのような意味なのか。性欲においてケダモノなのか、恋愛においてケダモノなのか。
俺は恋愛至上主義だがSEX至上主義ではない。俺がいう「ケダモノになれ」は小谷野氏のいうケダモノとは違う。最近の若者の相手を選ばないSEXの風潮や風俗通いも相手を選べないわけだから(自由に指名で選べると思っているアナタ!それは違う)ケダモノだといえよう。まぁ、俺もそこまでいくとちょっとなぁ、という気はする。俺が攻撃しているのは頭でっかちで考えが先行しすぎて身動きができなくなってしまう人のことだ。そういう人はもっと思うがままに行動してみろ、という意味で、もっと本能に従え、という意味で「ケダモノ」になれ、といっているんである。
すごく正直な話をするとね、実際脳ばっかり使っていると本能的な行動を要求されるフェーズでフリーズするんだよ!(思い出し泣き)
誰から教わったわけでもないのに自然に……なんてできやしねえんだよ!特にインターネットにブームになる前から接続してるようなインテリジェンスの持ち主どもはっ!!!
「キスをするとき鼻がじゃまにならないかしら」って笑いごとじゃねぇよ!俺はすげー真剣に悩んだもんだよ!(すると聞くとじゃ大違い)その他なぁ、あんなことやそんなこともすごくっ違うんだ。そして誰も親切丁寧にそれを教えてくれちゃくれねぇんだよ!考えながら歩行する人がいないようにな!歩き方の足の制御を思考して言語レベルで語ってくれる奴がいるか?二足歩行ロボットの研究してる連中くらいだろ?あまつさえ障害があったとき転ばないようにしてくれる制御は?もう絶対無理。自転車に乗るとかも近い。自分で乗って転ばないと覚えないんだよ。あまり転ばないうちにすぐ乗れた人も、すごく苦労して乗れる様になった人も、自転車に乗ってからは一緒なんだよ。それをだなぁ、「自転車って、転ぶと痛いし、乗ってもあんまりメリットなさそうだから俺は乗らない」とかいってるのと一緒なんだよ!そのくせ「上り坂は大変そうだねぇ」とかいいつつ「下り坂で楽しやがって!」とかいっている、そーゆー感じ?(下手な例え&暴走スマンです)

女は押しの一手だ。これ、今も俺は既婚者の上司なんかにも云われるのだが。多分真実なんだろう。そしてそれを「どう押すのか」は脳で言語に翻訳して他人にはうまく伝えられないことなのだ。それは「体感」して体得するものなのだと思う。俺にも説明はできん。ごちゃごちゃ難しいことを考えないで済む人だって世の中には一杯いる。俺があんまり尊敬していない部類に属する人たちだ。
で、俺はもっと頭のイイ、ナイスでかつナイーヴな、俺の愛すべき連中が恋愛でうまくいかないのはあんまりじゃないか、と思うのだ。(それにそーゆー連しかこの「もてない男」を読んだりしないって!)
で、読んでこの世界に安住されるのがもっとも悔しいので叫んでいるのである。俺からしたらなんら新しいことなんかねぇんである。俺はこの「もてない男」の道を通ってきて今に至っている。したがって、俺が「過去の人」とは笑止。この「もてない男」こそ俺の忌むべき、過去そのものであるといっておこう。
俺が叱咤したいのは、「女にもてたかったら座禅でもしろ!」といわれて悩んだあげくに素直に座禅を組んでしまう、そういう連中なのだ。そうだとも、世の中マニュアルなしでは何もできない人が多くなっているが、マニュアル化できない部分もあるのだ。
頭のいい人は「恋愛はロジックじゃない」ということをなぜかロジカルに認識しようとしない。「口ではそうはいっても何か手順にぬかりがあったはずだ」と思い込んでしまい、役に立たない他人のアドヴァイスを求める。俺は別に恥のない人だったので散々相談しまくったが誰一人俺に正しい解答をしてくれなかった。それで「世の中は俺に正解を教えてくれなかったじゃないか」と怨んでいるのだが、何度も云うけど怨んだって誰一人──自分自身だって救えやしないのだ。正解があれば俺がここで全文掲載してやることろだ。
でも、答えがないのが恋愛であり、いつだって「恋愛はひとり」(byカオルコ)なのだ。

第4回嫉妬・孤独論

ルサンチ決め込む奴等は「寂しい」「孤独」だ。「結婚して孤独から逃れたい」p120
そりゃ俺だって同じだよ。

処女・童貞の苦しみを描いた小説が少ない、ない、p122
この人の情報源が誤ってることを示唆する一文。

弱者の思想=ルサンチマンだということだが、強者がルサンチマン的発想を持つとこう(小谷野氏のように)なるのではないか?彼は充分に強い。恋愛至上主義の世の中で自分の思い描く成功者になれなかっただけで。

第5回愛人論

小谷野は本書のなかで愛と性を分別する方向で文章を綴っている。
俺自身、以前は厳密にそこに線を引いていたのだが、最近の傾向としては切り離さない方がいい、という方向に向いている。つまり小谷野氏の論理は俺にとって過去なのだ。
なぜなら、自然じゃないから。
以前は本当に好きな人とムラムラくる人って完全に別タイプで、好きな人は奥さんに、ムラムラくるひとは愛人にできたらシアワセだなぁ、なんてことを考えて「俺は浮気性なのかもしれん」とか真剣に考えたこともあるのだ。だからこの本で「妾の存在意義」の章があったときは、ほほぅ、と感心したものだ。(あまり取り上げられないところだけど)

第6回強姦・誘惑論

強姦から据え膳からスマートな誘い方の話になり、下心とコミュニケーションスキルの話になる。
強姦と誘惑が同列に来てる時点でスイングパワーのコントロールできないゴルファーと一緒という感じ。要するに女性へのアプローチというのが飛距離の違うクラブでフルスイングで攻めるしかないと思ってるんですな。遠くへ飛ばせるクラブで弱く打つとかそーゆー中間の概念がない。ほんと、練習していただきたい。。
ちなみに「強姦論」の章もあまり着眼されないけれども、「レイプ物」のポルノ小説を一時期専門に攻めていたことのある俺としては全然小谷野氏の論は突っ込みが甘すぎて笑っちゃう感じなのだが。

最終回反恋愛論

恋愛以外に人生の楽しみを見つけること。そこに注目したのはいいが、深く掘り下げてくれない。
「恋愛下手」な人間はどうすればいいのか教えてくれない。p177
インテリジェンスで解決できないウイズダムがある、それは恐ろしいことだ。だからといってそこからけつまくって逃げていのだろうか?俺はそれから逃げるな、といっているだけである。この本を読んで「なんだ、逃げてもいいんじゃん」というへ理屈を身につけてほしくないのだ。それは恐ろしく安直なことであり、では苦労してまでも恋愛って素晴らしいのか?ということになるが、それは「簡単ではない。だから素晴らしい」と俺は信じている。
素晴らしいんじゃないか、というのは価値をそこに見いだしていることだ。価値がない、と判断するのはその個人の自由だから、繰り返すようだが恋愛に価値がないと見る向きも俺は認めている。価値がない、と見たのならそこに嫉妬の、恨めしいという目を向けるのはおかしいだろう、と俺はいっているのである。
そして誰もどうすればいいのか教えてくれなかった時、小谷野氏は何か考える以外のことをしたのだろうか?俺には今までの文章からはそれが見えなかった。

「愛という言葉のとらえ方とセックスというものを重要視しすぎるところからくるのだ」p183
そもそも小谷野氏は本当に恋愛と性を切り離して考えているのだろうか?
恋愛の最終目的をセックスや結婚に据えているんじゃなかろうか?それで俺の発言
「いいか、我々が話し合っているのは8番目の手順であって、お前が心配してるのは692番目だ!」
というのが出てくるのだが、ここらへんはどう読みますか?
好きな人とセックスすることを目的にしていながらそれができないってこの人は怒ってるのではないでしょうか?

「セックスなんて考えていません、ただいっぺんでいいから『デート』ってのをしてみたいんです」p186
そうだよ、この気持ちを持ち続けることが大切なんだと俺は叫んでいるわけだ。
しかし、ここで野郎は「第三回恋愛論」に戻ってほしい。とかぬかしていやがるのだ。
おい!お前の書いた第三章読んでデートできるようになるのか?!!!

で、恋愛不要論はp188から190の数頁でちょこちょこっと書いて終わりである。
本当はここに200ページ分くらいつぎ込むべきじゃないのか?というのが俺の思いである。

「近代における「恋愛」が特異だとすれば、それが、恋愛とは誰にでも可能であり、さらにはそれのできないものは不健全だというデマゴギーを流布させた点にある」p193
そうか。ならば著者は恋愛下手=不健全という概念の破壊に全力を尽すべきで、その為に書かれた本が本書のようだが、本人の「覚悟」がぐらついていたんではそれも弱かろう、ただの個人の愚痴の領域を出ていないだろう、ということである。
実際、「恋愛なんかやめておけ」の章なんかの着眼点は良いと思う、と俺も書いているわけで「もてない男論」はもっと面白くなったはずなのだがこの著者の姿勢がすべてをだいなしにしているように思えるのだ。

あとがき

ストーカーに対する考えも俺からしたら鼻で笑ってしまうような内容で、異性へのアプローチ方法がわからないのに周囲が急き立てるのでストーカーを産むとか言っているのだがそんなの嘘だ。ストーカーは生れつきストーカーだ。気に入らない人がいたので殺しました、という動機で自然に殺人が犯せる人を病気だというのなら、ストーカー行為に走るひともそりゃ好きだからそうしました、って云ってるなら病気である。そーゆー特殊な例の話をしているわけじゃないのである。
中学生や高校生(早い人じゃ小学生?)の頃、異性を初めて意識して戸惑う。さて、好きになったらしいがこの先どうしよう?これって誰でも通る道だ。
「なんだ、おれはあの娘が好きなのに何もできない。俺はきっと恋愛不全症候群だ。病気で異常なんだ。ってゆうか、恋愛ってこんなに苦しいのにする必要ある?生きるのに必須じゃないじゃん。なんだ、あほらしい。恋愛なんてするだけそんだぜ、けっ」
これが小谷野氏型の思考パターンにである。これって「普通」ですか?「不健康」ではないですか。
「あー、チクショウ。好きなあの娘に何もできないおれは意気地なしだ!」(byオーケン)これがが普通というものだ。
「世の中は俺に恋愛させようとしてるのに、俺はうまくいかない。これは宇宙人の陰謀だ!」というのとあまり変わらない気がする。
俺も嫉妬や羨望を隠さないタイプである。だから、そこを隠さず「怨んでます」という小谷野氏の姿勢にもうなずける部分はある。そこで自分がなぜもてないのか、どうすればもてるようになるのかという努力をせずに、「世の中の恋愛至上主義」を攻撃するのは「俺がこんなに貧乏なのに奴等が儲かっているのはユダヤの陰謀だ」というのと同じくらい間違った思考だと思う。で、やっぱりこの手の思考にたどりつくのは氏の云う通り、「ニーチェ」を読んでいるからじゃないかな、と思うのだ。(ユダヤの陰謀の例えはシャレになってないので。MIBでもニャントロ星人でもいい)実際の超人思想についてはどうでもいい話で、ニーチェ読みは内省に走らず自分以外を攻撃する傾向があるんじゃないかな、という自分の経験に基づく憶測である。

そしてとどめはこの一文。

「妻の誕生日……などと書いてみたいものである、相変わらず」p196
俺は俺の文章の中で恋愛や結婚に見切りをつけて、独身を通す生き方に
「そーゆー道もある」とハッキリ認めているのだが、
とはっきり書いている。じゃぁ、恋愛至上主義に反旗をひるがえした小谷野さん、あんたはどうなの?未練たらたらじゃん。抜け出せてないじゃん、開き直ったふりして理屈こねまわして愚痴ってるだけじゃん、という感じである。

この辺を鈴木力氏はどう読んでいるのでしょうか?彼が恋愛至上主義に囚われているということは否定しないけども擁護すべきだということなんでしょうか?

東大を出ていたって、博士号を取得していたって、恋愛やフェミニズムに関する本を山ほど読んでいたって、ひとは恋に狂うのである。狂ってしまうのである。恐ろしいことだが、これが真実だ。〈誰か異性を好きになる時のドキドキした気持ちの素晴らしさ〉と言って済ませられないときがある。連日のように“痴情がらみ”の事件が起こっているのは、日常レベルのふるまいではおさえられない衝動が当事者を呑みつくしてしまうからではないのか。小谷野の念頭にあるのは、そういう場合をもふくめてなのだ。――要するに、問題とする恋愛のレベルがまるでちがうのである。

恋愛にレベルなんてないです。
過多に摂取しすぎると毒になる快楽物質のようなものであることは確かだ。飲みすぎると毒になるものを「毒だ!危険だ!」といって全面否定してしまって良いものだろうか?そこの良い部分を引き出そうとすることはキケンな思想なんだろうか?
それとも俺の目指す恋愛はふわふわした生ぬるいもので小谷野氏の目指す恋愛は死を賭した真剣なもの、という違いでもあるのだろうか?
恋に重さはある。でもいいかげんでいい恋とそうでない恋なんてのは存在しないと思う。恋はいつだって真剣勝負だろ。(こーゆーのりが体育会系だと?(笑))
そもそも人が恋に狂う恐ろしさ、それをこの本の中で小谷野氏が書いている文章というのは見あたらないんですが、どうなんでしょ?彼もさんざん「うらやましい」とか「恋愛よりも素晴らしいものをみつけろ」とか恋愛自体については肯定的な意見なのでは?そう、自分がうまくいかなかっただけで…

 努力の方向性が間違っていた、あるいは、その情報を入手するソースに偏りがあった、という批判なら成り立つかもしれない。しかし現に若き日の小谷野は、その間違った努力に多大な情熱を消費してしまった。そしてなにも残らなかった。彼にとって重要なのは、間違った方向に情熱を使わされてしまったこと自体なのである。それを「おまえがもてないのは努力が足りないからだ!」と言ったところで有効な批判になるとは思えない。

俺は努力が苦手な人間なので努力不足を指摘した覚えはないです。
方向性が間違っていたことに気が付いたならそれを変えれば良い。自己改革できないところを責めているわけですな。
あまつさえ、自分の努力の方向が誤っていた=間違いを認めているにもかかわらず、自分が悪いのではなく自分をそのような方向に導いた世の中が悪いといってるわけで。これをルサンチマンというのならホントに死んで欲しいです。
誤った情報ソースという意味では、早めに童貞を捨てることがオトコとして価値がある、いつまでも処女で恥ずかしい、こういった風潮を攻撃するのなら話はわかる。だが小谷野氏が否定するのは「恋愛すること」である。それも「自分が恋愛下手なのを肯定するため」である。下手な人が無理をすることはない。だが、好きなことを否定するのはやめて欲しい。

小谷野の文章は、まさにu-ki氏のような「ごちゃごちゃ難しいこと考えてないでアタックするんだよ!」という体育会的ガンバリズムに疑義をさしはさむ点から始まっているのである。

文章が乱暴なので「ごちゃごちゃ難しいこと考えてないでアタックするんだよ!」という風に見られるのかもしれないですが、俺はそんな風には思っていないです。考えすぎて何もしない・できないというのはおかしいのでもう少し動けるように自分を変えてみろ、と言っているだけです。他人にアプローチするまえに自分にアプローチをしろ、と俺は言っているのである。努力しない奴は賞賛に値しないと思っているが攻撃はしていない。自分の「できない」を他人というか環境に転嫁して安心することをやめろ、といっているんである。
「アタック」というのは他人に対するアプローチで得手不得手がある。そもそも、その他人にアプローチすることが苦しいからしないのであって、それが出来るように自分を改革しろと俺はいっているのだ。中学・高校と私立の男子校で育ってきた挙げ句に女子のいない理系の大学に入ってきた男に「おまえ、あの娘がいいのか。それ、アタックしろ、いくじねぇなぁ」なんてことを俺は云わない。俺だってそれがいかにつらいかを知っているからだ。「まずは普通にオンナノコと会話できるようにしようぜ」そういって夜の町へくりだしていって女の子だけのグループに一緒に飲まないかと声をかける、合コンに積極的に参加する、とかを勧めるところだ。そういったことも努力のうちだが、根性のないやつに限って、ナンパだの、バッカじゃねぇの、そこまで飢えてねぇよ、だのと考えてしまって行動できないのだ。(あー、どうもそうでしたね、俺は)テレからくる否定ですな。俺はこれを後悔してるし憎んでいる。そして大切なのは「好きでやってみたい」という気持ちを「うまくいかない」というもどかしさから「実は嫌いである」と思ったり「自分には向いていないのでやらない」というふうに思ったりしないことではないかと思う。
俺が云いたいのはこの点である。

自分は好きな人へのアプローチ方法が間違っていた。それをどう修正しようか、という話にならないのは小谷野氏がハナモチならない高慢チキ野郎だからではないですか?
それでももてない男は支持されるべきなのか、と問いたい。

棚からぼたもちが落ちているのを待っている。隣の芝生をうらやむ。すっぱいブドウはいらない。そういう姿勢には死を!である。
小谷野氏の文章からはそれしか感じられない。もっと潔くすぱっと恋愛や結婚に背を向けていれば文句はなかったんであるが、どうしてもその「切れ味のいいところ」を俺は見つけられなかった。ここだ、という部分があったら指摘していただきたい。


1999/7/27.