俺の『秘密』意見!

で、ラスト。直子と平介の「秘密」なんだが、俺は「モナちゃんに戻ったんじゃねぇの?」というのが素直な感想。まぁ、最初は平介の言葉を素直に受け取って、直子さんが藻奈美ちゃんのふりをパーフェクトに完遂したのってある意味スゲーぎゃふんオチじゃんと感心したのも事実だが。
「今日から俺はおまえの夫ではない。父親だ。さぁ、おまえもパーフェクトに子供に徹するんだ!」っつてもよぅ、今までだって頑張って藻奈美らしくしようとしたけど、生前の直子さんの雰囲気とかしぐさがにじみでちゃってたわけで、「ちくしょう、平ちゃんがその気ならあたしだってさらにパーフェクトに子役に徹してやるわ!」なんてできんのかい?愛さえあれば?(苦笑)
というわけであれは小説としては直子=藻奈美だと断言してるけど、冷静に見れば平介が勝手に結論付けてるだけ、にも見えるよなぁ。指輪を黙って作り替えたところだけに逆に違和感がある。直子が最後まで藻奈美のフリを完遂するならば、「お父さん、この指輪をお母さんの意志で…」という話をして身に付ければよかったわけで。 でもこれは都合のいい逃げの解釈か。
やはり文章の額面通りに受け取り、藻奈美15才の時の直子が築いた鋼鉄の意志が新しい夫へ嫁ぐ段になってみせた最初で最後のほつれだと捕らえる方が自然で美しいのだろうな。
平介は非常に愚直でイイ人だ。イイ夫が賢い妻にまんまと騙された、という見方をすれば筋は通っている。(平介と直子の力学的な構造は藻奈美の進学の話あたりでハッキリ描かれている。騙す、というのは言葉が悪いが俺が好きな表現なので許されたい)俺の人生経験でいえば、ロマンチストの男が現実主義の女にしたたかに騙されるというのは騙されてる側にとってはとてもシアワセなので、最後に騙されていたことを知ってもけして相手を怨んではいけない。まぁ、これは俺の考えであってフツーは「あの女!よくも!」とか云うのかもしれんけどね。俺はこのパターンしか体験できないけど、世の中には男女逆のケースも存在するわけで騙し騙されは人間の性であり、特に男女関係の場合はいちいち感情を負の側にはもっていけないッスね、俺は。騙されている間、騙してる側の意図がどうあれ、相手の与えてくれる幸福感を味わっていることに変わりがないのだからという理屈。人間、すべてに誠実であろうとすれば離婚だの再婚だのできねぇわけだし。もっといえば、昔好きだった人を忘れることができない人は次の恋愛ができないことになる。人が好きな人と別れるのはなにも死別だけじゃないッスからね。好きな人と一緒になれない事情がありながら、相手が死ぬか別の相手と結婚するのを待つまで一方的に操を立てるというのは一種美徳だけど現実的に考えたらただのアホです。(ああ、なんか書いていてとても悲しくなってきた。そうだよ、俺はアホタレで結構DEATH.)
シチュエーションが異様なだけで、ここに描かれている人間の感情描写はそーいったわけでとてもありふれたごくフツーの状態。愛憎・葛藤・嫉妬、それを変な方向に美化していないので物足りないのだと思う。ありふれたままの描写では俺は感動はしない。村上春樹ぐらいキザったらしく美化してくれてもその方が「感動」はできる。東野圭吾は今回それをやらなかったと俺は思う。
あのラストは捕らえようよっては愛する妻直子の第二の人生を軌道に乗せるためのブースターとして燃え尽きた平介、という見方もできる。藻奈美=直子だと平介が理解した上でそれをやったら「美化」される。でもそれをやったらこの小説最大のストーリー・ギミックが失われるわけで、当然「秘密」というタイトルの小説ではなく別の話になってしまう。作者には実はその選択肢があったのかもしれない。俺はアホなので読者にこのような推測を許す「遊び」(機械部品に与える空間的なゆとりの方のです)がある設計の話よりは誰もが同一の方向に誘導されるカッチリした話の方が好きなのかも、と思った。
最後に。もし直子さんが俺の嫁だったらどうだろう?と考えると、無論、「おまえのような賢い女を妻持って誇りに思う」と答えるだろう。老成してりゃぁね。


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※思い付いたSFネタ

チャールズ・シェフィールドの「遥かなる賭け」は不治の病の妻を「ウラシマ効果」を利用して、医療技術の発達を待って蘇生させようとするも失敗。でも戻ってきた世界があんまり未来だったからクローン再生して娘として復活させる。ゼラズニィの『光の王』なんかも転生(精神を別の肉体に入れ替える)ができる世界なのにカーリーはそれに失敗。ヤマはその失敗で生れ変わった妻を娘として育てることにする。といった具合に探せば同じネタはもっと見つかると思う。
ラスト付近の「コルサコフ症候群」に似たギミックも『タイムトラベラー』収録の「我が内なる廃虚の断章」やSFM98年1月号のヴァーリィの「今日もまたみちたりた日々を」でやられてるネタだ。
こうやって「××と同じだ」とか「××と似ている」といった云われ方はその××を知らずに一生懸命書いた側にとってはとても屈辱的で悲しいことだと自分でもわかっているけど、今回はあえてそれを暴いてみた。俺の中でもやもやした「食い足りなさ」をハッキリさせるためのわがままなプロセスである。許されたい。


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1999.1.15 wrote.