2001年01月01日
題目:2000年最高の思い出


 2000年は、仕事がバタバタしたせいもあり、結局、何処にも遠出できなかったばかりか、「気まぐ
れ日記」ネタになるような馬鹿をやる機会も、ついぞありませんでした。

 かと言って決して平穏無事だった分けではなく、未曾有の大事件に遭遇したりもしたのですが、あ
いにくHP上で語れるような事柄ではないので、それは横に置いときます。(^^;

 そんな2000年でしたが、個人的に最高の思い出となったのが、とある臨時編成バンドのメンバーと
して生まれて初めてライヴをやった事でした。

 それは、1999年10月の、とある休日に掛かってきた1本の電話から始まりました。

「あの〜、Hですけど。お休みのところすみません」

それは会社の後輩の女の子からでした。

「おぅ、珍らしいな。どした?」
「こないだお願いしてた、キーボード(シンセサイザ)をお借りする件なんですけど」
「あぁ、いよいよ要るようになったんか?」
「実はあれ、私の結婚式の二次会で使う予定だったんです」
「え゛!!? Hさん結婚すんの!?」
「そーなんですよぉ」
「いやぁ、そいつはおめでとう。よーやく春が来たってか?」
「ありがとうございますぅ」
「で、式はいつなん?」
「来年の1月です。で、キーボードの話に戻るんですけど。彼が二次会でライヴをやりたいって言い
 出しまして・・・」
「そりゃまたすげぇこと思いついたな。それでキーボードが要る分けね。いーねぇ、生バンドって、
 いいもんだぜ」
「でね、いまメンバーを集めてるとこなんですけど、どうせならキーボードをお借りするより、先輩
 がバンドのメンバーとして出て貰えないかなーと思って」
「は!? 俺がライヴに!!?」
「はい! ぜひ!!」
「まじかい!? でも、俺ぁバンドなんてやったことねぇぞ」
「他のメンバーも寄せ集めなんです。だからバンドの中で先輩だけが浮く事はないと思いますよ」
「それがなぁ、かれこれ5年ばかし弾くのをサボってるもんで、すっかり腕がサビついとるんだわ、
 これが・・・。で、何曲やんの?」
「全部で8曲です」
「は、8曲ぅ!!・・・。う〜〜〜っ、今の俺の腕じゃ、3ヶ月で8曲の練習は無理やろなぁ・・・。
 せいぜい3曲がいいところやな」

 3ヶ月間、べったり練習出来るのなら8曲でもやれない事はなさそうでしたが、ちょうど大きな仕
事を抱え込んだところでもあり、練習する時間が限られてしまうのは目に見えていたので、私は自信
が持てませんでした。

「キーボードが必要なのは、その内4曲だけなんです」
「4曲かぁ・・・、それでも厳しいかも・・・。ちと考えさせてくれんか?」
「いいですけど・・・。とりあえず楽譜だけでも見て貰えませんか?」
「ええよ。また会社の机の上にでも置いといて」

 その頃の私は、自宅から直接、出先へ赴き、定時を過ぎてから会社へ戻るという日々を送っていた
ため、彼女と直接会える機会が余りありませんでした。

 休みが明け、会社に寄った際に、8曲分の楽譜と、曲を収録したテープが入った封筒を受け取り、
自宅へ帰って中身を見ると、演奏曲は、下記の8曲となっていました。

『リコンシーダー・ベイビー』(エリック・クラプトン)
『フーチー・クーチー・マン』(エリック・クラプトン)
『世界中の誰よりもきっと』(中山美穂)
『ら・ら・ら』(大黒摩季)
『宿無し』(ツイスト)
『POISON』(反町隆史)
『真夜中のダンディー』(桑田佳祐)
『離したくはない』(T-BOLAN)

 選曲が少々古いのは、年代のせいです。(ちなみに、Hさんの彼氏とは同年代です(^^;)

 この中でキーボードが必要なのは、クラプトンの2曲と『ら・ら・ら』、それに『POISON』の4曲
との事でした。

 楽譜を見てみると、『POISON』は簡単で問題なし。『ら・ら・ら』は、ほとんどやった事がないシ
ャッフルがやたらとあるのを除けば問題なしでした。

 問題はクラプトンの2曲です。同一アーティストの曲が2曲あると言うだけで、クラプトンが彼氏
のお気に入りである事は明白ですが、いかんせん、私はクラプトンをほとんど聴いた事が無い上に、
ブルース・ピアノをやった経験がまったくありませんでした。

 テープを聴いてみても、クラプトンの曲のピアノは、ブルース独特の "間" の取り方や、やたら速
弾きするフレーズがあったりと、まさに異次元の世界でした。

 これを聴いていささか自信をなくした私は、次の日、Hさんに私なんかより、もっとマシなキーボ
ーディストを探して見てはどうかと尋ねて見ました。

「じゃあ、やれる曲だけでもいいから、やって貰えたら嬉しいんですけど・・・。ちなみに、ボーカ
 ルは、私とKさんがやります」
「え? HさんとKさんがボーカルやんの?」

ちなみに、Kさんとは、Hさんの後輩の女の子です。

「ええ、そうなんです。こんなチャンスは、めったに無いと思うし、出来れば先輩と一緒にやりたい
 んですけど・・・」

 当初は、面識の無い人たちばかりでバンドをやるものと思っていたのですが、知り合いの女の子が
二人もボーカルをやるとなると話は別です。

 しかも、Hさんの歌声はセミ・プロの域に達しており、それが生バンドをバックに歌うとなると、
それだけでも興味津々です。私にとって状況は急に面白くなって来ました。何だが、俄然、やる気が
沸いて来ました。

「やる! やっちゃろーじゃねぇの。やるとなりゃ、大いに盛り上がろうぜ!」

 と、言う事で、私の初ライヴへの挑戦が始まった分けですが、同時に、仕事で抱えていた大きな物
件をなおざりにする分けにもいかなかったので、少ない余暇の時間から練習する時間を作り出すため、
'99年10月から約半年間のホーム・ページ活動の休止を宣言した次第です。

 まず最初に練習を始めたのは、私が担当する4曲の中で一番カッコ良く聴こえた大黒摩季の『ら・
ら・ら』でした。

 いきなりシャッフルから始まり、曲中もシャッフルがふんだんに登場するこの曲のテープを聴いた
時は、思わず笑い出しそうになってしましました。

 と、言うのも、私はシャッフルが余り得意ではなく、以前、アコースティック・ピアノでシャッフ
ルに挑戦した時などは、鍵盤が重いところに下手なやり方が重なって指を痛めてしまう有様でした。

 ライヴ・ビデオなどでプロのピアニストやキーボーディストのシャッフルを見ると、皆、それぞれ
自分なりのやり方をしており、真似できるようなやつは見つける事が出来ませんでした。

 私のライヴへの道の第1関門は、自分なりのシャッフルのやり方を見つける事から始まりました。
それからの毎日は、平日は帰宅してから1〜2時間程度の練習をし、休日は、ほぼ1日、練習に費や
す日々が続きました。

 何だかんだでシャッフルを含め、1週間程度で『ら・ら・ら』が一通り弾けるようになり、続いて
手を付けた『POISON』は、3日程度で弾けるようになりました。

 残るは最大の課題であるクラプトンの2曲です。ブルース独特の、タイミングの掴みづらい "間"
と、ポップスやロックではお目にかかれないような速弾きに悪戦苦闘させられ、連日、クラプトン好
きのHさんの彼氏を呪いながら練習を続けた結果、1ヶ月半程度で何とか格好が付く程度には弾ける
ようになりました。

 後は、日々、ひたすら練習の繰り返しです。これには、ミス・タッチを減らすと言う意味以外にも、
ステージに上がった際に、心理的にあがって頭が真っ白になってしまっても大丈夫なように、身体に
覚え込ませると言う意味もあります。

 私はライヴの経験こそありませんでしたが、クラシック・ピアノを習っていた頃に、数百人は収容
可能な公会堂を借りて行われるピアノ・スクールの発表会で、50〜60人の観客を前に演奏した経験は
三度ばかしありました。

 その時の経験から、ステージ上でパニクらないためには、頭で考えなくても身体が勝手に演奏出来
るぐらいにまで、ひたすら練習を積むのが一番である事を身に染みて知っていたからです。

 こんな事は、1年を通じてコンスタントに音楽をやっている人たちにとっては、わざわざ口に出し
て語るほどの事でもありませんが、5年もサボっていた私にとっては、至上の課題だったのです。

 そして何と12月25日のクリスマスの日、メンバーを集めての第1回目のセッションが行われました。
集まったメンバーは、Hさんと彼氏(バンマス兼リード・ギター)、Hさんの友達の彼氏(ドラム)、
Hさんの友達の女の子(ピアノ)、それに私の5人で、ベースとサイド・ギター担当の人は、仕事の
都合で来られないとの事でした。

 Hさんの彼氏は(ちと、わがままが入ってはいるものの)非常に気さくな人物で、会ってから2時
間も経たない内にタメ口をきく間柄になっていました。

 彼はギタリストとしてはそこそこの経験があり、何度か、ちょっとしたイベントで臨時編成のバン
ドのメンバーとしてライヴをやった経験があるとの事でした。

 ドラム担当のK君は、所属バンドの無いパートタイムのドラマーで、普段は、仕事の合間に、セミ
・プロ級のアマチュア・バンドからの依頼を受けて、雇われメンバーとしてライヴ活動をやっており、
何とあのバナナ・ホールでのライヴ経験を持つ本格派でした。

 ピアノ担当の(超美形の)女の子は、超多忙な仕事のせいで当日は練習不足の状態でしたが、かつ
ては学校の文化祭でバンドを組んで "プリプリ" の曲でライヴをやった経験があるとの事でした。

 この面子からすると、私だけがライヴの経験が無い事になってしまうのですが、2ヶ月間の練習で
それなりに格好は付けられるだけの自信はあったので、不思議と不安は感じておらず、むしろ初めて
のバンド活動にワクワクしていました。

 練習が始まると、約19年ぶりに聴く生ドラムの大音量に圧倒されそうになりましたが、何とかメン
バーの演奏にも合わせる事が出来、2時間の練習時間は、あっと言う間に過ぎました。

 当日練習した8曲の演奏曲の中で、最もノリの良い『宿無し』の練習の際、この曲は担当外だった
私は、横で休憩していたのですが、ギタリストの彼氏とドラマーのK君の二人がノリノリで演奏をし
ている様を見ている内に、私はその曲が無性にやりたくなり、結局、全8曲のキーボードをやる決心
をこの時、固めました。

 以前、Hさんから渡された楽譜の封筒には、私の担当外の4曲についてはギターの弾き語り用の楽
譜しか入っておらず、キーボード・パートについは、「耳コピして」と書かれている有様でしたが、
とても耳コピして楽譜を起こしている時間が無かったため、独力で楽譜を探し出すハメになりました。

 そして年が明けて1月9日。2回目のセッションが行われました。私は、何とかそれまでに8曲全
部のキーボードを弾けるようにはなっていましたが、当日、集まったメンバーは、Hさんとギタリス
トの彼氏、サイド・ギター担当、ベース担当、男性ボーカル、それに私の6人だけで、ドラムのK君
とピアノ担当、残る女性ボーカルのふたりは欠席と言う有様でした。

 ドラムのいない練習は迫力がなかった上に、当初の予定メンバーがボツになって、急遽、駆り出さ
れたサイド・ギター君は練習不足。同じく、メンバー変更で駆り出されたベーシストさんは、3日前
に楽譜を渡されたばかりと言う始末・・・。

 それに加え、ワガママなギタリストの彼氏が曲の構成を少しイジったため、それに慣れる事が出来
ない内に時間が来てしまい、大いに不安が残る状態で練習を終えるハメになりました。

 当初の予定では、これが最後のセッションであり、次は本番と言う事になっていましたが、全メン
バーが揃った練習を1度もせずに本番をやるのは、いくら何でも無茶苦茶だと言う事になり、急遽、
結婚式の1週間前に、もう1回セッションを行う事になりました。

 そして最終セッションの日。残る女性ボーカルであるKさん、Nさんも含め、ようやく、ほぼ全員
が顔を揃えました。

 たった2時間のセッションでしたが、とにもかくにも、演奏中の "演出" 合わせも含めて、すべて
の練習が終了。多少の不安は残ったものの、いよいよ1週間後に本番です。

 残る1週間、ともかく私は、ひたすら反復練習に時間を費やしました。ライヴの当日、ステージに
立った時、あがり性の私が、どのような心理状態になるかは、私自身にも分かりませんでした。

 そして当日。着て行く "衣装" も問題のひとつでしたが、普段から周囲の人々に「ファッション・
センスがゼロ」と評価を頂戴している私に代わって、ギタリストの彼氏、Hさん、Kさんらが寄って
たかってコーディネートしてくれた "ステージ衣装" である、黒のタートルネック・セーターに茶色
の皮ヴェスト。ぴっちりした焦げ茶色の皮パンツ。かさの高い黒い靴。それに黒のブッシュ・ハット
(?)と言う、いかにも「ロック!」と言った出で立ちで、私は二次会の会場となるホテルへと姿を
現しました。

 披露宴に出ているギタリストの彼氏とHさんを待つ間、他のバンドのメンバーたちと楽器のセッテ
ィングを行いましたが、開催時間までは、音を出す事は禁止されていたため、軽くリハをやると言う
分けにも行きませんでした。

 やがて二人が合流して最終的なセッティングも終わり、後はその時を待つばかりとなりました。ほ
どなく入場が開始され、会社の先輩や同僚、後輩たちがゾロゾロと入って来ましたが、実は、私がバ
ンドのメンバーとして出る事は、HさんとKさん以外には秘密にしていたため、私の尋常ではない格
好を見た会社の連中は一様に目を剥き、「なんや、そのイカれた格好は?」と質問を浴びせて来まし
た。まずは予定通りです。(^^)v

 そして二次会も半ばを過ぎて、いよいよライヴの時が来ました。観客は全部で70人程度。その時、
ステージに立った私は・・・、最っ高に楽しんでいました。

 小学校卒業と共に、それまで習っていたクラシック・ピアノを退役した後、長年のブランクを経て
キーボード(シンセサイザ)で音楽演奏に復帰して以来、ライヴをやる事は私の長年の夢でしたが、
それがほぼ理想的な形で叶えられた1日でした。

 演奏が終わり、観客の拍手喝采の中、バンドのメンバーたちと、ハイ・タッチや握手を交わした時
は、まさに感無量でした。

 これが私にとって2000年最高の思い出です。