■■徒然散歩記 1998■■■■■■■




      9月 1日[バイク]
      9月 2日[ギフト・ショー]
      9月 8日[黒澤明]
      9月21日[麻布十番温泉前]
      9月29日[ムトゥ 踊るマハラジャ]
     10月 3日[寿司]
     10月 4日[SKA]
     10月21日[ミス・マープル]
     10月27日[ナンバー]
     10月31日[湯上がり]
     11月11日[ジャン・マレー]
     11月14日[織田廣喜美術館]


SEPTEMBER 01, 1998

[バイク]

私はバイク乗りだ。
カワサキ、エリミネイター、
250cc、
スポーツアメリカン。

そのかわいいバイクをこの真夏に一ヵ月と少し、
野晒しでほっといてしまった。
今より2週間前に、やっとそのほっといたバイクに再会した。
久方振りに走ってみたら
エンジンの音おかしいよ…。
ってことで、点検&修理に預ける。

そのバイクが本日夕方にすっかり治って戻ってきた。
うれしくて、東京中をぐるぐると、
どこを走っているのかも分からずに走ってしまった。
東京でなくて、北海道にでも走りに行きたかったこの夏。
でも、来年まで持ち越しだ。

バイクはいいよ。
時速60kmや80kmで走っている鉄の塊に、
生身の人間がしがみついているなんていう
気違いじみた行為だから、
それは危険なものなんだけれど、
ちゃんとそれを承知でやっているなら大丈夫。
バイクというのは、とてもフリーな乗り物で、
それは精神的にもってことだ。
暴走族の皆さんなんかは解放しすぎちゃっているんだけど。

でも、自由でいられるってことは、
その代償もたくさんあるということを、覚えとかないとね。
これは、私自身への言葉だ。


SEPTEMBER 02, 1998

[ギフト・ショー]

「第46回東京インターナショナル ギフト・ショー」
に有明の東京ビックサイトまで行ってきた。
友人が出展しているので、その関係で行ったのだが、
この「ギフト・ショー」というのは本来、商談の場所なのだ。
文具、インテリア、服飾、レジャー用品、アクセサリー
疎の他ありとあらゆるモノ
(300万点にのぼる膨大な数の新製品)の商談型見本市。

だからエントランスで身分のチェックを受けて、
名札に『文学座/森』と書かれたものを胸につけて
歩いていたのだが、
(チェック厳しくて、
 つけてないとガードマンにつれていかれる)
「文学座がここで商談するのか?」
ってことで、友人は受けていた。

しかし、そのエントランスでの身分チェックの用紙に、
「会社名」「役職」等書く欄があるのだが、
そこに「職種」というのがあって、
用紙に印刷されてある中から選ぶようになっているんだが、
もちろん私の職種なんて載ってないので、
「その他」のところに「劇団」と書いた。
(それだってチェックしたら、
 おかしいだろってことになるんだろうけどね。
 お姉さん達、
 事務的ですっとばしてくれたからよかったけれど。
 =でもそのお姉さんが名札に
「文学座」って書いてくれたのだけど)

その次の項目が「あなたの会社の主力商品は?」
で、これは困った。
「その他」を選んだとしても、内容をどう書けと・・・
ってことで白紙で渡しましたね。
でも、文学座の主力商品って何だろうね。
そう考えると、案外に深い問いなのかもしれない。


SEPTEMBER 08, 1998

[黒澤明]

「黒澤明」。訃報を知る。
私が最初に覚えた映画監督の名前だ。
小学生のときのことだ。

夜中にないしょで起きていた。
テレビをつけていた。
観るともなしに映画が始まった。
その時代劇は白黒で、
祖父が毎日テレビで観ているものとは全く違っていた。
最後まで観た。
眠くはならなかった。
エンディングの中、最も大きく書かれた名前の人がいた。
それが、映画監督「黒澤明」だった。
作品名『用心棒』

中学1or2年のとき、これまたないしょで夜中起きていた。
ビデオの横に映画のテープが並んでいた。
適当に選んでセットした。
「いのち短し恋せよ乙女」
初めて覚えたのと同じ監督だった。
作品名『生きる』

美しいヒトをみつけた。
高校の時から今でも、私の一番のスターだ。
三船敏郎。
作品名『酔いどれ天使』

映画館の大スクリーンで観た。
やっと観ることが出来た。
大学生の私は
「いつ最も人がいなくて、快適に鑑賞出来るだろうか」
と吟味して名古屋の栄の映画館に出かけた。
その迫力の前にはいらぬ危惧だった。
作品名『七人の侍』

演劇を志した。
戯曲をもとにした映画を観た。
今まで出会った中で、最高の翻案だった。
シェイクスピア「マクベス」を、
私はこれ以上に表現出来ないと思った。
今は、越えたいと思う。それが残った者の役目だ。
作品名『蜘蛛巣城』

エンターテイメントだった。
美しかった。
楽しかった
衝撃だった。
人生での”出会い”だった。

彼の作品はフィルムとして、物理的に永久に残る。
しかし、私にとってはフィルムとして残っているのでない。
心として残っているのだ。
私は彼と手段は(彼は映画、私は舞台)違うけれど、
目的は同じだ。
その人の心に残ること。その人の生きる力になること。
それが永遠ということだと、信じている。
彼は私の永遠です。


SEPTEMBER 21, 1998

[麻布十番温泉前]

文学座(=信濃町)からバイクで家までは、
いつもは新宿まで走って
甲州街道(=20号線)を西に向かって環状8号まで走り、
ぶちあたったらそこを南(=左)へ。
これがいつものルートだ。
今日の帰りは変えてみようと思った。

六本木に抜けて、明治通り、渋谷に出て、246を走り、
三軒茶屋を抜けて、世田谷街道、そして環八へ。と思った。
しかし、先ず六本木でつかまった。

裏道大好き人間な私は、
バイクでもすぐ主線道路を外れたがる。
でも徒歩でないので、外れるといってもしれたものだが。
外れて、一通の表示に困って、腹も減って、
うまい具合に蕎麦屋が目の前にあるとくれば、
蕎麦好きを自称する私としては入らねばなるまい。
その蕎麦屋の向かいが「麻布十番温泉」だった。
これで場所は知れるであろう。
ともかく、その古びた風情の鉄筋4階建て程の
温泉がよかった。
温泉というか銭湯。
「六本木にも銭湯はあるんだねえ」ってな感じの。

その蕎麦屋は「更級堀井」という。
もり蕎麦を半ばまで食したところに
「ラストオーダーになりますが」と店主らしき方がいらした。
「あ、結構です」
と言って、「ラスト・オーダー・・・?」ときた。
だいたい蕎麦屋で
閉店間際にいることが初めてなんだと気付いた。
時間は20:30。
この時間に蕎麦屋に行ったのは初めてということだ。
私が蕎麦屋に行くのは14:00くらいが最も多い。
あとは夜中だね。
酒のあとの蕎麦は旨い。
まあ、とにかく「ラスト・オーダー・・・?」である。
似合わないんだよ、蕎麦屋に、この言い回しは。
と思った回り道の今日だった。


SEPTEMBER 29, 1998

[ムトゥ 踊るマハラジャ]

巷で噂のインド娯楽映画。
いやあ、面白かった。
映画館の客席が一体になったね。
エンド・マークに拍手がおこったもの。
これは間違いなく「フィガロの結婚」
(=モーツァルトのオペラ/ボーマルシェ原作)
が下敷きの物語だね。
このことをこれだけ話題になっているのに
誰も言っていないのはどうしてだろう?

この作品は
「ロッキー・ホラー・ピクチャー・ショー」のように
定番になれば、映画館でお祭り騒ぎで楽しむことが出来るものだね。


OCTOBER 03, 1998

[寿司]

近所に「K」っていう店がある。
なんだかかわいがってもらっているBarだ。
ここ数日は仕事で疲れきってて足を運べなかったのだが、
今日は稽古の復習もすませた
3:00AMくらいに覗いてみた。

ちょい一杯のつもりが、1時間ほど過ごすうちに、
近所の寿司やの若い板前さん二人がいらした。
その若い板前さん二人の面構えがまたよかった。
真剣で、真直ぐに
自分の目指す道を見据えている目をしていた。
マスターと二人で
「いい顔をしている」と言い合ったものです。

演出という「人を選ぶような仕事」をしていると、
いやがおうでも会う人を知らずのうちに
値踏みしてしまうところがある。
そんななかでの、ひさびさのクリアーな出会いでした。

「こういう若い人を育てようとする
寿司やは捨てたもんじゃない
とマスターは言っていたが本当にそのとおり。
舞台という「虚」の世界にいて、
こんな「実」の「いい顔」に出会うと、
「実には負ける。でも負けたほうがいいんだ」
と改めて思ってしまう今日であった。

そして今は朝の6時。
数時間後にオーケストラ(現在はオペラの演出助手)の練習です。
起きれるのか森さゆ里。


OCTOBER 04, 1998

[SKA]

その昔、8年くらいかな?。
私が愛知県立芸術大学の学生だった頃、
名古屋の今池に「カラード」(「カラーズ」か?)
っていう期間限定のクラブがあった。

入場料1000円で手の甲にスタンプ押してくれて、
その日は出入り自由。
(というか、日にち変更線はいつもまたいだけど)
そのクラブと同じ敷地内(これも同じく期間限定)
にシシカバブだの蛸焼きだのの屋台村があって、
そこで腹ごしらえをして、また踊れってのだ。

そこは曜日によって音楽のジャンルを替えていた。
だから「SKA」の火曜日に集まる奴らってのは
そのうち決まってきたもんだ。
意外にその中に同じ芸大の奴もいたりなんかして。
なんだかその頃を思い出したのさ。


OCTOBER 21, 1998

[ミス・マープル]

アガサ・クリスティの生んだ名探偵、
ミス・マープルを演じていた
ジョーン・ヒクソンさんが亡くなった。
92歳。合掌。

私は、アガサの生んだ探偵なら、
マープルよりもポアロが好きだ。
探偵のなかで最も好きです。
二番目はミス・マープルだけれど。

ホームズはねえ、
種明かしの段になって
読者の知らない事実ってのが出てくるから、
推理としてフェアじゃない。
なんて思ってしまうのだよ。
ホームズは推理小説ってより冒険小説っていうほうが
あたっていると思うぞ。

ポアロ役者は、
なんといってもTVシリーズの
デイビット・スーシェのポアロが最高です。
一番原作のポアロにちかい。というかそのもの。
ポアロの物語は映画にいろいろなっているけれど、
TVシリーズのほうがいいと私は思うぞ。
映画「オリエント急行殺人事件」は素晴しいけれど。
ポアロのものは全て読んでいる。
お気に入りは・・・絞れないけれど
「オリエント急行殺人事件」「三幕の殺人」ってとこかな。


OCTOBER 27, 1998

[ナンバー]

文学座からのバイクでの帰り道、
信号で止まると、しばらく私の後ろを走っていたバイクが
横に並んで止まった。

B「岐阜ですか? どこです?」
S「!? あ、ナンバーですか。大垣です。そちらは?」
B「岐阜市です」
S「それでしばらく後ろをずっとついてきてたんですね」
B「懐かしくて」
S「いませんからね、岐阜ナンバー」
B「初めてですよ」
S「私も自分以外では見たことないです」
信号が青になった。
B「バイク、気をつけて乗ってください」
S「そちらも」

そうして各々に走っていったのだ。
バイク野郎達は連帯感がある。
一人の乗り物だから余計なんだろう。
「こいつと自分は通じるところがある」
と思えるものをバイクってのは持っている。

私の、そのままにしておいた岐阜のナンバープレートが、
誰かの何かになっているのだね。
声をかけてきたバイク便の彼以外にも、
懐かしがっている誰かがいるんだろう。
岐阜を離れて、もう10年以上になる。
名古屋、大阪ときて東京にいる。
意識的ではないつもりだったが、ナンバーは岐阜のままだ。
生まれ育ったところは原点だ。
岐阜はいいとこだよ。


OCTOBER 31, 1998

[湯上がり]

夜、バイクで多摩川まで行こうと思い立った。
環状八号まで出て、1キロも行かないうちに
「環状っていうくらいだから、道なりに行くと、
 ここに戻ってこれるんじゃないか」
と思いついて、走ってみることにした。
しばらく走って信号で止まると、隣に銭湯があった。
「(案内を読んで)23:30までってことは、
 あと30分あるな」
ってことで、すぐ寄り道。

いやあ、湯上がり後にバイクで走るのが
こんなに気持ちがいいものとは初めて知りました。
季節的にもベストなのだろうけれど。
そういうことで、お薦めです。

なんて言うが、私は普段(というか全く)
銭湯なんてとこに行かないんだけど。

で、道なりに走っていったら
羽田空港まで行ってしまったわけなんだが、
この空港への道路が最高だった。
信号はないし、いい具合にカーブもあるし、
湾岸だから照明もきれいだし。
で、納得して戻ってきた。
しかし、バイクの調子は実は悪い。


NOVEMBER 11, 1998

[ジャン・マレー]

8日、ジャン・マレー氏がカンヌで亡くなった。84歳。
ジャン・コクトーの映画『美女と野獣』『オルフェ』
に出演されていた方だなんて、
今さら書かなくとも周知だろう。

告知された日の夕刊に、以下の二人の言葉が掲載されていた。
1930年代、若きジャン・マレーは、
その美貌で周囲を魅了した。
「私の容姿への賞賛は、私にそれと戦うべきであり、
 それを利用してはならないことを教えてくれた」
と本人は書く。
彼を愛したコクトーは、こんなことも言った。
「人生は、そのあるがままの姿でも生きる価値がある」
以上、朝日夕刊


彼の為にコクトーが創作した戯曲
『双頭の鷲』に次の台詞がある。

「幸福とは傷だらけの言葉です」

私はまだ「幸福」を、
このように熟知するほど人生を生きてはいない。
この台詞を分かりたくもあり、
そのままにもしておきたい気もする。
マレーは「幸福」をどう語って、人生を終えたのだろうか?


NOVEMBER 14, 1998

[織田廣喜美術館]

朝日夕刊(11/14)の「スタイル」というコーナーに、
建築家の安藤忠雄氏の設計した「織田廣喜美術館」について
隈研吾氏の文が掲載されていた。

『人工照明の一切ない美術館が誕生した。
設計者の安藤忠雄は、
依頼を受けたときにすぐ一枚の写真のことを思い起こした。
織田実邸の写真だ。
電気もガスも水道も引かれていないバラックの自宅で、
織田は日のあるうちだけ絵を描いて、
日が暮れたなら寝るという生活を繰り返していたという。
安藤の設計した美術館も、人工の照明はなく、
天井にあけられたトップライトからだけ、
展示室の中に光が差し込んでくる。
だから当然日没時には閉館である。
−省略- 
人間の本質にかかわるような問題だ。
寒いから暖房し、暑いから冷房し、暗いから照明をつける。
そういう生き方自体がここでは問題にされているのである。
−省略−
人間の生き方を見直そうと論じる人は、たまにいるけれど、
見直しを本気で実践してしまうような人は、ほとんどいない。
−以下略−』

また彼(=安藤忠雄)にやられてしまった。
「やられてしまった」というのは
「かなんなぁ、こいつには」ってことさ。

芸大の一年のとき「やっぱりデザインやるならビジュアルよ」
(=県芸では1、2年は基礎科で何でもやって、
  3年から専門を自分で選ぶのさ)
って思ってたとき、安藤忠雄氏の
「光の教会」という建築作品を、
バイト行く途中の本屋で立ち読みした新建築って雑誌で観た。

司祭の立つ祭壇の後ろの壁全体に、
十字架が壁をくりぬくように
コンクリート壁から切り取られて、
そこから外光が差し込んでいる。
たった一枚の写真だけで、あれほど全身が震えたことはない。

「建築をやろう。
 3年からスペースデザインクラスを専攻しよう」と決めた。

彼は建築という、モノに残る仕事をしているが、
こんなことを言っている。

「語り継がれていく。
 言葉として残る残り方がいい。
 そこに永遠なるものを求めたいと願っています」

劇場という「空間」に、私が永遠なるものを求めたのは、
彼が始まりだ。
舞台という空の空間は、建築を設計する為の更地だ。
そういうことでは、私のやっていることは、
今も以前も同じだ。


−タイトルへ戻る−