■■■AYAの舞台評■■■



宝塚雪組公演

観劇日:1998年10月27日(火)14時(当日券 購入)

劇場 :日本青年館大ホール

    バウ・ミュージカル『凍てついた明日』
          −ボニー&クライド−

        作・演出:荻田浩一


解説=歌劇1998/10月号より。

映画「俺たちに明日はない」でも名高いクライド・バロウと
ボニー・パーカーのフィクションの部分を膨らませ、
ショーアップしたミュージカル。

実力派・香寿たつきが月影瞳を相手役に迎え、
新しいボニー&クライドの伝説に挑戦する作品。



今回の劇評も、金子亜矢さんからです。

これは私、観ました。偶然亜矢さんと同じ日に。
でも夜の部(18:00〜)ですが。

たまたま「今日は何か舞台観に行こうかなあ、ひさしぶりに」と思い、
文学座の事務所でそう言っていたら、
[マグノリアの会](=文学座宝塚愛好会のサブネーム)の、
文学座の制作担当者が
「青年館で演ってますよ。タータン」
と、プログラムを手に持ちながら現れた。

舞台ってのはエンターテイメントだ。と考える私にとって、
宝塚ってのは「あんたたちは凄いよ」
という憧れの舞台を創るカンパニーなんです。
文学座という新劇の老舗とは対局のように世間では思われているかもしれないけれど、同じ舞台という場所を、創造の根本にするということでは同志だ。

観終わった後「よし、元気になった!」と、
劇場の外の世界へ戻っていく力になる。
そういう舞台を創る宝塚(たまに例外はあるけどね)は素敵です。

それが喜劇であれ悲劇であれ、
テンションを上げて観客を送出してあげられる。
それは舞台を創る最低限のラインだ。
もちろん「こんな芝居に金が払えるか!」
という怒りのテンションは別ですけど。

だから、そういう宝塚を愛好する同志が文学座にいるってことを、
私はとてもうれしく思っている。

閑話休題。

というわけで、
「バイクだし、ちょっと様子みてくるかなあ
(文学座は信濃町にあるので、日本青年館は近いのです)」
と、行ってみたら、当日券がいっぱいありました。
で、買ってしまいました。

そういうことで、「観ると思わなかったよ」状態での観劇でした。
でも、作・演出の荻田浩一さんってのは、私にとっては
(東京公演ってこの方初めてだよね)
初の方なので、けっこう観られてよかったかも、
と思って席についたのです。

私は荻田さんの、あと3作品目を期待したい。
きっと「あれもこれもどれも、みんな伝えたいんだあっ!」
という力が抜けて、いい感じになってくれるんじゃないかと思う。
きっと正塚だって、
初めはあんな感じだったんじゃないかと思ってしまうのだよ。
なんて、言ってないでちゃんと劇評書けー森さゆ里。


ってことで、亜矢さんの劇評をどうぞ。



「亜矢の観劇評」

『凍てついた明日』 日本青年館 雪組公演
 観劇日→1998年10月27日(火)14:00公演
 座席→1F E列 9列

 じっくり観られた。疲れた。
これが、観劇後、家に入って頭に浮かんだ言葉であった。 

 始めの、「じっくり」というのは、一つは座席のせいかもしれない。
上の席は青年館のブロックとしては、一番下手で、
目の前にはスピーカーがそびえているので、
体を上演中15度は右へ曲げていなくてはいけないので、
舞台に大集中できていたからだ。
その上、私のさらに端の方は、
雪組ファンで1000Daysの前売り状況まで、
知人の並んでいる方の携帯に聞いてくださって、
本当に真剣な周りの観劇態度に囲まれていたからだと思う。

 しかし、次の「疲れた」理由は、
『エクスカリバー』大好き女の私としては、今年の観劇演目のなかでは、
『蜘蛛女のキス』なみに頭をつかったからだと思う。
根本的に私は「考えるミュージカル」は好きではない。
(例えば、旧音楽座ミュージカル)
この作品は、それぞれの登場人物の心理がよく書かれているので、
殆どの台詞の暗示していること、その裏の意味、などを考えていると、
2時間の公演中ずっと頭を使っていて、息抜きができなかったから
「疲れた」のだと思う。
実は、当日は、夜の公演のチケットの当日券があったので、
もし良かったら、夜の公演もダブルヘッダーして観ようかな…、
と思ったのだが、昼の公演で頭のなかは、グロッキーであった。

 ここから、作品について考えてみたいのだが、
私は荻田氏の作品は初めてである。
台詞重視のところなど、正塚氏のタッチに似ている、とすこし思った。
しかし、決定的に今回の作品には正塚作品と違う点がある、と考える。
それは、「観客に対して救いがない」ということである。

まず、この『凍てついた明日』は、元の話からして、
悲劇で終るのは知っている。
だが、「宝塚」である以上、
そして客がチケット代を払って劇場という非日常的空間に足を踏み入れた時点から、「明日への活力」を与えるのが、宝塚の舞台の使命ではないか、という気持ちが、少なくとも私のなかには、いつもあることに今回は気付かされた。
つまり、客はどこかの歌ではないが
「明日への希望が燃え盛る〜♪」
ようになりたい、という期待を抱いて劇場に行くのではないか、
と私はここで暴論を述べさせていただきたい。
ただ、この『「明日への活力」を与える使命』
がすべての劇団や舞台にあてはまるのかどうかは、
私の観劇が宝塚に集中しているので、断言は差し控えさせていただく。

 この作品で具体的に言わせていただくと、最後の白いスーツに主役の2人が着替えてきたところで、これぞ宝塚的であるがデュエットダンスでもしてくれたら私の期待はなんとか満たされたのだが。
クライドの「愛している」だけではちょっと弱い。
そう考えると、宝塚で頻出する
「昇天した後の恋人達のデュエットダンス」
というのは、最も分かりやすく、作りやすい
「観客に対する救い」の設定だと思う。
帰り際、一緒に出て来たご婦人が
「もう、これは2度観るのはいいわ」
と仰っていたのは、
私と同じ気持ちを持っておられたからではないだろうか。
主人公のような生き方をしたら、
『凍てついた明日』しか待っていないのですよ、
という教訓ととればいいのかもしれない。
でも、どうしても、この作品を見た後では、
「疲れ」と「脱力感」がおそってくるのだ。

 さて、色々と暴言を吐いた上で、
私のこの作品への点数をつけてみると、
90点である。

つまり、構成、キャストの割り振り、台詞の使い方、
などは緻密に作られていて立派だと思うのに、
根本の「客への救い」がないことで、マイナス10点にしたのだ。

 なんだか、固いことばかり書いたので、
キャストの方に移りたいと思う。

クライドの香寿。
上手いことは、認める。
しかし、一言言わせていただけるなら、
もうすこしプログラムに荻田氏が書いておられる
「静と動が錯綜した個性」が表れたら、と思った。
つまり、緩急のつけ方、がもう少しハッキリしていると、
このクライドの「社会へのやり場のない怒り」と
「常に誰かを求める弱さ」の二面性がよく観客に伝わり、
共感をうることが出来ると思うのだが。
どちらかというと、今回の脚本には
クライドの「弱さ」の方が多く書かれているように感じたのだが、
やはりもっと強盗シーンなどを増やしてクライドの「怒り」つまり、
「動」の部分を強調したら良くなったと思う。

 ボニーの月影。
「やりたかった役」と「歌劇」にあったが、「女」というより、
「人物」をしっかりとらえた演技だった。
「ママにあいたい」という人間としての弱さ、
クライドに対して、
「ダメ!口では愛してると言えても、心まではあげられないわ。
(中略){あてつけがましく、今言ったことを証明するように}
 愛してる、愛してる、愛してる…」
という女の強さの対比がしっかり効いていた。
代表作、といえる役になると思う。

 ジェレミーの安蘭。
私は、テッド役で香寿を追い詰める、という方がいいな、
と始めは思ったが、やはり、最後のボニーとクライドを売ったあたりから、実力発揮で、これも適役かな、と思った。
なによりも、香寿のシブさ、と安蘭のやんちゃさ、がいい対比を舞台に与えていた。
しかし、香寿の持つシブさ、ある意味では「男役らしさ」も早く引き出しのなかに加えて欲しい。

 母親役の専科のお二人(京、矢代)はさすがだ。
ボニーとクライドが、強盗で追われる逃避行の途中、
実家にもどってくるシーンの、
京の「生きていることが大切」という台詞と、
矢代の「電気椅子に座ればいいのね」という台詞は、
見事にこの2人の母親の違いを対比させている。
二人とも的確な演技で、私の左右のとなりの方は、
この実家にもどってくるシーンで泣いておられた。
母親ならば、理解できるのだろうか。
私は、ここで荻田氏の洞察力と、台詞を書く能力の高さを見せつけられた気がした。
ただ、ボニーのママが何をやっているのかまで書いてあれば完璧なのだが。

 ここまで書いてくると、この作品の1つのキーポイントは
「対比」である、ということに気付く。

 さて、後は印象に残ったメンバーから。
まず、何役もこなした風早は雪組の貴重な戦力である。
急に保安官になったり、クライドの兄になったり、
大変だと思うが、声のトーン以外はすべて別の人物に見えた。

そして、従来「ダンスの人」と言われていた、五峰と楓。
五峰は、クライド一家では唯一しっかりした人なのだが、
クライドに家の仕事を手伝うように諭してみたり、
それでも反発されるとひっぱたいて見たりするところは、
きっちりツボがおさえてあった。
『イカロス』から演技の質がぐっとあがった気がするので、
大劇場公演ではもっと使っていただきたい。

楓は、クライドへの思い遣りとともに、
「保安官助手も強盗も紙一重」という、
自分の役に込められているこのメッセージをしっかり伝えていた。
彼女も花組では、もっと使っていただきたい存在だ。
2人ともフィナーレのダンスは、下手側にいると近かったので、
上手いので見入ってしまった。

 あまり、印象に残らなかったのは、
出番が少なかった貴咲と安蘭の恋人役の紺野だ。
貴咲は、出番が少ないのでしょうがないむきもある。
もう少し、クライドとの出会いのシーンや、
どういう育ちの人か書いていただきたかった。
紺野は、どうしても台詞が一本調子である。
髪型ももうひとつであった。
貴咲と紺野の二人は役を変わってもいいかな、と思った。

 さて、長々と書いたが、
とにかく「考えさせられた」作品であった、
ということで感想は終ることにする。
少し、作品が理屈っぽかったせいか、
感想も理屈っぽくなったことはお許し願いたい。



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