■■■SUNの舞台評■■■



紙屋町さくらホテル

新国立劇場 中劇場 柿落とし公演

観劇日:1997年11月5日(水)
    18:30〜(1階 16列 64番)

劇場 :新国立劇場中劇場

            作:井上ひさし
           演出:渡辺浩子

           音楽:宇野誠一郎
           美術:堀尾幸男
           衣装:緒方規矩子
           照明:服部 基
           音響:深川定次
           振付:謝 珠栄


新国、中劇場、柿落とし。
素晴しい舞台だった。
終演後、実家の両親に「東京に観にきて」と
新国前のコンビニから電話してしまったくらいだ。

時そして場所
昭和20(1945)年12月19(水)の午後。
東京・巣鴨プリズン。
その7ヵ月前、同年5月15日(火)午後6時から、
2日後の17日(木)午後9時まで。
広島市紙屋町の「紙屋町さくらホテル」

あらすじはちゃんと書き加える。その前に感動を書く。
終戦間近の史実の話しだ。
「舞台の意味とは何か」
「新劇の出生意味は」
現在において新劇に、舞台に関わる者にとっての
(もちろんそれは『観客』という、
 劇場空間に必要不可欠な存在をも含めてのことだ)
応援歌であり、叱咤の作品だった。

本番を数時間後にひかえ、緊張した役者へ丸山定夫は
『緊張を溶くまじない』として以下のことを一気にしゃべる。
なにぶん本当に一気だったので正確ではないが。

「初めてこの劇場に足を運び、初めてこの舞台を観る誰かが、
 それによって人生がかわることもある。
 そんな誰かに対して緊張などしていられるか」

井上ひさし氏はしかし、説教くさくなるなど安っぽくならない。
「そんなに一気にいわれてもわからん」
と役者に言わせ、そして
「宝塚では人という字を手のひらに書いて飲むといいのよ」
「特高では赤という字を踏み込みの前に書いて飲む」
だのと軽い調子にもっていく。

「役者に米がつくれるか、大工が出来るか。
 役者なんて、役立たずで、大事なときに何も出来ないではないか」
との陸軍中佐(そこでは隠しているが)に
「役者は、百姓にも大工にも左官にも何にでもなれる。
 何にでもなれるのは、透明なこころを持っているからだ」
と築地小劇場出身の丸山は言う。

「大事なときに何も出来ない」
あの阪神大震災のときに私が痛烈に抱いた思いだ。
あのとき私は大阪にいた。
ちょうど文学座に来た、その春のあった年のことだ。

あのとき「劇場という世界を私の一生の世界にしよう」
と決めていた私は、大震災という自然の猛威の前に
文字どおり立ち尽くした。

「このときに私は何が出来るのだ」
震災2日目の神戸の国道1号を、
まだ『ボランティア』の文字もメディアになかったときに、
そんな意識もないままに仕事場で聞いたラジオの
「国境なき医師団」の呼びかけに応じて、
必要と自分で判断した物資をリックにいれて、
とりあえず復旧した『西宮北口駅』から東灘小学校まで歩いた。
まだ閉鎖していない国道1号の車道を歩く。
歩道は潰れた家々で埋っている。
しかしその車道も、自転車、逆走する救急車。
空には曝音のヘリコプター。
それはTVでみた戦地だった。

やっと到着した小学校で、最初に言われた言葉は忘れられない。
「被災者の方ですか」

「人を救うのは、人しかいない」
大震災での公共広告のコピーだ。本当にそう思った。

「舞台」というのは必要なものなのか。
自問自答で毎日の報道を見つめた。
安否のわからない同僚が、友人がいる。
私は「必要」なことをしようとしているのか。

答えを出した。
必要なものだ。
「人しかいない」その、そのときの人をつくっているのは、
それまでのことがあってこそだ。
そのときどう出来るかは、それまで、どうしてきたかということだ。
私は、その「それまで」をつくることをしようとしているのだ。
私のつくる世界が「そのとき」「その人」を救う何かになれる。
何かになる。

その「私のつくる世界」は劇場という空間だ。
そう信じている。

11/12までだ。劇場に走れ、日本人。

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