観劇日:1997年7月31日(木) 舞台稽古/18:30〜 劇場 :PARCO劇場 作:湯元香樹実 脚本:鐘下辰男 演出:鶴橋康夫 出演:奥田瑛二 西田ひかる 久世星佳 藤村志保/ほか 初日前、舞台稽古に行って参りました。 本番同様とはいえ、稽古は稽古ですから、 それでどうこう批評というのはいけないのかもしれませんが、 まあ、どこからかの依頼というあれではないので、 いつも通り、いいたい放題言わせて頂きます。 93年に映画化もされた児童文学。 それを、THE・ガジラの鐘下辰男の脚本での舞台化。 鐘下辰男さんの脚本だということで、 興味を持っての観劇だったわけです。 ま、その前に「久世星佳、退団後初出演」ってのが先に 情報としては知っていたのですけどね。 小学校最後の夏休み、いじめられっ子のタニオカが自殺した。 そのタニオカが通っていた一人暮しの老人(=古香老人/奥田瑛二) の家には、タニオカのメモ(いじめっ子の名前が書かれている)があるという。 そんなうわさを耳にしたいじめっ子の木山と河辺は、 デブの山下を巻き込み、その老人宅に通うようになる。 そこには、タニオカの自殺した理由を探さずにいられない姉 (=エリコ/西田ひかる)、 その祖母であり、老人の昔なじみである老婦人(=藤村志保)。 アルコール中毒の木山の母(=久世星佳)。 が各々の理由によりまた集う。 演出はテレビ・ディレクターで今回初めて舞台を手がける方だという。 映像と舞台との違いは何か。 一つはシーンの切り替えの仕方だ。 そして、それが、映像、舞台の各々の魅力の出し所であるとも思う。 映画に「映像(カメラワークとしての)の魔術師」 という言葉があるのなら、 舞台にも「転換の魔術師」という言葉があってもいい。 一杯舞台(シーン変換のない舞台のこと)はともかく。 舞台には必ず「転換」というものがある。 それを単に「転換なんだから転換すればいいんでしょ」 てなノリで裏方さん達がわらわら出てきて、 わらわら装置や小道具を変えていくというのでは色気がなさすぎる。 そうかといって、 毎回「暗転カットアウト、はい転換」の繰り返しでは芸がなさすぎる。 劇場が立派だから盆をまわして「はい転換」てのもいいが、 観客に見えなければいいのか、といえばそうでもない。 この「夏の庭」での転換は、 盆をまわして「はい転換」。 袖から部屋の装置が出たり引っ込んだりでの「空間移動」。 で、そのときの照明(舞台から客席へのシャワーのようなひかり)が毎回同じ。 単調なんだな。 映像と舞台との違いは何か。 もう一つは演技の仕様だ。 誤解を恐れず言うなら、映像において、 演技の仕様にそれほどの差はない。 しかし、舞台においては、舞台の種類により、 その劇場のサイズにより、作品により、演技の仕様は変わる、 変わらなければいけない。 宝塚で3000人劇場という空間と、 歌劇という形態における演技。 アゴラ劇場(キャパは120人くらいか)での青年団の演技。 違いが出るのは至極当然のことだ。 どっちがいい、悪いでなく。 この「夏の庭」において、その演技の仕様がばらばらだった。 主役4人がそれぞれに華のある方達ばかりなので特にだ。 各々が別の世界の住人のようだった。 これは世界観を舞台上で統一出来なかった演出家の責だ。 さて、役者の話しに移ろう。が、今日はここまで。 |