観劇日:1996年11月17日(日) 13:30〜 劇場 :紀伊国屋サザンシアター 作:W・シェイクスピア 訳:小田島雄志 演出:木村光一 装置:堀尾幸男 照明:沢田祐二 音楽:上田 亨 効果:三宅雅之 衣装:渡辺園子 舞台監督:内田 宏 配役//ジュリエット:島田歌穂 ロミオ:内野聖陽 キャピュレット:坂口芳貞 キャピュレット夫人:松下砂稚子 ティボルト:相原一夫 ジュリエットの乳母:後藤加代 マーキューシオ:坂井康人 ベンヴォーリオ:中村彰男 去年観劇の舞台なのに、 今年になって「Tokyo劇場」に掲載している・・・。 いかんいかん。 さてと、感想です。 先ず、「どうしたんだっっ、木村光一さん!」 忙しすぎたのか、稽古時間が少なすぎたのか、 とにかく「どうしたんだっっ、木村光一さん!」。 シェイクスピアの作品は、いろいろな置き換えをして演出されることは 普通のことになっている。 それはしかし、無理やりその作品世界を置き換えるのではなく、 よりその作品世界に、現代の我々が、今生きている世界から、 近づいて感じる為のものであらねばならないはずだ。 シェイクスピア作品に限らず、 演出とはそういう仕事だと私は思っている。 木村光一の「ロミオとジュリエット」の世界は、 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を下地においたものとなっている。 確かにそれは現代社会の大きな事件の一つだ。 しかし、それをなぜ「ロミオとジュリエット」なのか。 ラストをあんなにまで書き換えてまでの必要はあるのか。 『紛争』の非条理さはわかる。 それはしかし「ロミオとジュリエット」世界とは別のものだと私には思えた。 今回の演出では、ということである。 [手段]と[目的]が入れ違っているのだ。 「ロミオとジュリエット」を使って「ボスニア」を描こうとした。 反対だ。 「ロミオとジュリエット」を描かなくてはいけないのに。 その「大きなテーマ」に囚われすぎたのか、 特に群衆の処理が整理されていないと感じた。 「混乱」の為に「混乱」しているのでなく、 あれではただの「混乱」だ。 台詞もしかり。 同時に複数が話すのはいい。 しかし、「平田オリザ」氏や「岩松 了」氏等の作品とは違い、 複数のドラマが同一の重みを持つという構成ではないのだから、 その「主軸」をわからせてほしかった。 「ロミオとジュリエット」の物語を知らぬものなど (少なくとも劇場に足を運ぶ方々の中には) いないのだろうが、あれでは物語を知っていないと、 よく分からなくなるのではないか、と思えた。 うわー、むちゃくちゃ辛口やな(なぜ関西弁・・・)仕方ないんです。 だって「ロミオとジュリエット」は私が最も好きな戯曲の一つですし、 木村光一さんは尊敬する演出家のお一人なんですから。 さて、役者の方々。 我が文学座の役者さんいっぱい出演してます。 ロミオ=内野さん。 よくわかんない衣装でしたね。 なんでロミオだけスーツとかシャツ姿なんだろう・・・。 その演出意図がわからなかった。 他は中近東というか、そのへんの感じの砂っぽい衣装なのに。 衣装はおいといて、んー。 ジュリエット=島田歌穂さん。 よかった。 ストレートプレイは初とのことで、 私も「レ・ミゼ」等のミュージカルではよく拝見。 (エポニーヌは素晴しいです) はじめて観たのは8年前の名古屋公演のときですね。 オン・マイ・オウンを歌っているとき、劇場の空気は変わるんです。 ストレートもよかったですねえ。 内野さんファンには申し分けないけれど、 断然ジュリエットが素敵でした。 立ち姿も所作も美しい。 色っぽいし。 若い内野さんは、 その深みにおいて歌穂さんに負けたということだろうか。 ベンヴォーリオ=中村彰男さん。 このあいだの文学座研修科の卒業公演に友情出演してくださった方です。 永遠の好青年の名は貴方のためにある! キャピュレット=坂口芳貞さん。 いい親父を演じてました。 ジュリエットがパリスとの結婚を拒んだときのジュリエットへの罵声の演じ方。 罵声のあと泣き崩れるジュリエットの背中への 「こんなこと言いたくなかったんだけど、 だけどさ、おまえのためを思って言わなきゃいけないんだ! でも、つらいなあ・・・」 という表情 (言葉はありませんよ、表情だけで語っている)。 キャピュレット、いい親父。坂口さん、いい親父。 本当に坂口さんは素敵なひとです。 こないだの研修科の卒業公演「アイスクリームマン」 演出は坂口さんでした。 あんなに楽しい稽古はなかったですね、坂口さん。 役者さん達は好演でした。 演技達者な人達ばかりなので、 あたりまえといえばあたりまえなのですが、 だからこそ「木村さん!」 てな思いになるのです。 それにしても「ロミオとジュリエット」絶対に演りたい作品です。 |