■■■AYAの宝塚歌劇 観劇記■■■


月 組

Musical
THE LAST PARTY
〜S,Fitzgerald´s last day〜
フィッツジェラルド最後の一日




2004年11月13日(土)〜11月22日(月) 宝塚バウホール



金子亜矢さん=観劇

11月14日 と27

劇場:宝塚バウホール



HP主人 森(=SUN)筆。

今回も、金子さん メール投稿劇評 ありがとうございます。

植田景子さんの作・演出作品
宙組公演に続いて、月組公演の投稿劇評です。
観たいなあ。

仕事で数日前に、久しぶりに大阪に行きました。
大阪の夜は、それはそれは愉快な夜でした。

バカ者たちにカンパイ。
Moet et Chandon バンザイ。

ってなことで、金子さんの劇評いってみよう。




Musical
THE LAST PARTY

〜S,Fitzgerald´s last day〜
フィッツジェラルド最後の一日



作・演出/植田景子


<解説>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 第一次大戦後のアメリカに、ロストジェネレーションの象徴として
波乱の人生を送る運命を背負い、夢と挫折の中でひたすら光を追い続けた作家、
スコット・フィッツジェラルドの物語。

 1940年12月21日、ハリウッドのアパートメントの一室。
フィッツジェラルドが心臓発作のため急死。
一夜にして時代の寵児となり、栄光に包まれたローリング20´sの華やかな日々は、
もはや過去の夢となり、経済的にも社会的にも不遇なまま突然に訪れた、
それは淋しすぎる最期だった・・・・。

 クリスマス前、寒さの厳しい朝。
自分の心臓が危険な状態であることを感じつつ、
書きかけの小説の原稿を前にしたスコットは、言い知れぬ感情に襲われる。
彼は知っていたのだろうか?
自分の人生があと数時間で終わるということを・・・・。

 彼の脳裏に人生の様々な光景が浮かんでくる。
激しく生き、そして愛した日々。
華やかな愛と夢に彩られ、そして孤独に満ちた、
フィッツジェラルド人生最後のパーティーの幕が開く。

(ちらしより)


<メインキャスト>(プログラムより抜粋)−−−−−−−−−−−−−−−−−


スコット・フイッツジェラルド
(1920年代のアメリカ文壇に華々しく登場した小説家)
:大空祐飛

ゼルダ・フイッツジェラルド
(スコットの妻。彼の小説のモデルとなるフラッパーガール)
:紫城るい

シーラ・グレアム
(スコットの晩年の愛人・ハリウッドのジャーナリスト)
:五峰亜季

マックスウェル・パーキンズ〔マックス〕
(スクリブナーズ社の編集長。スコットをデビューさせ最後まで真摯に面倒を見る。
 仕事に情熱を燃やす出版界の大物)
:嘉月絵理

アーネスト・ヘミングウェイ
(20世紀を代表する小説家)
:月船さらら

他 月組「THE LAST PARTY」組


<感想>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「『背水の陣』に乾杯」

 この作品のテーマ、悲劇的なストーリー、
そしてそのテーマの外にあるもうひとつの悲劇的な理解のされ方、
といったことはもう宙組で書いたので書かない。
構成・台詞なども宙と変った点は見られなかったので、こちらも書かない。
以下はなるべく宙組版と比較しないで書こうと初めは考えていたのだが、
続演ということで比較せざるを得ないが、これからバウホールは5作、
続演形式が続くので、練習と思って少しの比較は仕方ないとして書く。

 宙組版は観終わったあと、切なくなった、と書いたが、
この月組版は自分のどこかにある精神というものが揺さぶられるような感じがした。

宙組は「早くして成功した人物のそのあとの苦闘の人生」
というのがサブテーマとするなら、
月組は「早くして成功した人たちがその精神力の弱さをすり減らしていく話」
というサブテーマをつけたい。

観終わったあと、
「お前は彼らに比べてどこまで精神が強いか」
という心理テストをさせられたみたいで、とても重苦しい気持ちになった。

宙組が「波乱万丈の人生の悲しさ」ならば、
月組は「精神力の弱い人間の寂しさ」というところか。

どちらがいいとは言いがたいが、
個人的には月組のこの精神論はかなり共感できるところがあった。
DVDを買うというのならどちらを買っても損はしないと思う。
以下は人別に。
(シーラの五峰さんは宙組で書いたので省かせていただく)


 スコットの大空祐飛
CS放送でお稽古の様子を見ていると、
「この人はどういうスタンスでこの役に挑むのだろう」
と少しわからなかったのだが、実際に観劇するとよくわかった。
このスコットは少年のときの夢や希望を抱いたまま、有名小説家になる、
という夢が実現されるので、年齢や扱われ方は大人なのに心は少年のまま繊細なのだ。
そして、彼の小説のスタイルが時代に合わなくなってきても、
絶頂期のままでいたいと思っている。
絶対、生活のため書いて金に苦しむような人生は送りたくない、
かといって日本的に「苦節○年」で流行作家になったわけではないので
「普通の作家」のあり方がわからない、結局現実と心の折り合いが付けられず、
心の弱さから酒におぼれ、現実逃避する、
そういう「心の弱さ」をもった主人公に見えた。

先に宙組で上演され、かなり大和悠河がかっとばしたうえに、
この学年になって初単独主演なので、
大空にとっては「背水の陣」であるような気がしたが、
彼女なりに考えた別のスコットを表現していてよかったと思う。

特に、ほとんど終盤で、幻覚にすら追い詰められて、2回目に主題歌を歌うところは、
初日から2日目だったのに、両目から涙があふれており、
「今まで大空祐飛がこんなに感情を舞台の上であらわにしたことがあっただろうか」
と思った。
その覚えはないな、と思ったとき、
「ああ、ユウヒ(大空)さんは、ここでひとつ演技の壁を破ったな」と確信した。
心理表現の深さが急にできるようになった感じだ。

月組においても、いや、宝塚全体においても、非常に微妙な位置にいる彼女だが、
劇中の「がんばれ、がんばれ小さなキツネ」で終えたいと思う。


   ゼルダの紫城るい
彼女のゼルダは、ちょっと近寄りがたいような美貌をもつゼルダで、
ゼルダ自身、「この美貌があれば、金持ちと結婚して、何不自由なく楽に暮らせる」
となんとなく夢見ていたものの、スコットの登場で、
彼女もまた夢が実現されてしまう。
そして、フッツジェラルド夫人として、スコットに「妻」として
向き合わなければならなくなり、
彼は自分を彼の小説のモデルであり続けることを強制し、
彼女を追い詰めるので、彼女もまた現実との折り合いを
どうつけたらいいのかわからない、もう「死」しか見つからない、でも未遂に終わり、
本当に精神病になってしまう、という「心の弱さ」を持った女性なのである。
だから歌詞にある「私たちは似たもの同士」というところがとてもよくわかった。
二人とも結局は「精神的に弱いもの同士」だったのだ。
月組版はこのいわゆる「精神論」がかなり前面に打ち出されているように感じた。
こういうゼルダを演じられると、
スコットに「あなたを愛しているの!」というところや、
病院で語りかけるところを含めて、
「ゼルダは本当のところは奔放なフラッパーガールではなくて、
繊細で献身的な妻になれる女性だったかもしれない。
フラッパーの姿は弱い心を隠す見せ掛けに過ぎなかったかもしれない」と思えた。

紫城は女役になってからこんな精神的なところを演じる役は初めてだろうが、
宙組の彩乃かなみがやった驕慢的なゼルダとちがったゼルダを表現していて
よかったと思う。
大空とのコンビもなかなかお似合いだった。
観劇前、紫城は元男役なので彩乃より、
より奔放的・本能的・刹那主義のゼルダかと予想していたのだが、
いい意味で裏切られた。


 マックスの嘉月絵理
こちらも宙組と違って、「切れ者」というスタンスで押してきた。
だから、最後の「私もつらいんだ」とスコットからの借金を断るところでは、
本当にもうだめなのだ、という最後の宣言、という感じがした。
彼に断られることでスコットがますます窮地に陥る、ということが良くわかった。


 ヘミングウェイの月船さらら
これだけの実績を持つ人にこの役は役不足かな、と思ったが、
スコットに1度会っただけで軽蔑し、すべて正反対な人物を描いていた。
しかし、彼にとってスコットは「反面教師」であり、スコットがいることで、
彼も持っていた「心の弱さ」を隠せた、という感じがした。
つまり、ヘミングウェイもまた最後は自殺してしまうのだから、
あのような作品を残しつつも、本当はやはり「心の弱さ」があったのではないか、
と考えさせられた。


 なかなか大劇場では扱いにくい、心理的な問いかけを多く持った作品だと思う。
これを観て思ったのは誰にでも心の弱さはある、ということである。
それが多いか少ないか、そしてどう上手く付き合うか、ということである。
これは、フィッツジェラルドの時代だけの話ではなくて、例を挙げると、
「ストレス」という言葉が頻繁に飛び交う現代社会においても
普遍的な問題なのである。
こんなふうに考えるのは金子だけであろうか。
でも、大いに考えさせられた作品であった。


<金子のよしなしごと>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 今回も観劇環境、の話。
とりあげるのは「爆竹拍手」。

まず、爆竹拍手とはなんぞや、であるが、ひたすら大きな拍手を長くする、
あるときは両手を挙げて・・・お分かりですね。
こういう人がそば、ましてや隣に来たら困ります。

正直、これ(AYAの宝塚歌劇 観劇記)を書くのは結構頭使うのです。
私、アホやから。(いきなり大阪弁)
というか、集中が必要なのです。

で、ですね「う〜ん、テーマは○○だな」と感慨深く観ているときに隣で爆竹拍手。
はー、スターのご贔屓でも普通にやっとくれ。

11月10日は梅田コマ『エリザベート』、ハイ、普段使わないチケット額です。
2枚でディナーショーいけるか?でしょ。
隣は帝劇から名古屋、博多、そして大阪と全国制覇で内野トートばかりみるという人。
この人の拍手はひどかった。
長いし、両手がすごく上がるから視界がさえぎられるのです。
休憩時間、なんとさらに隣の人からクレームが来ました。

「あの人、おたくのお連れ?」
「違います!」
「あ、ごめんねえ」
(沈黙)
「(劇場のお姉さんに)いいに行こうかー」

で、私がすたすた。
お姉さんにかくかくしかじか。
すると、
「あー、拍手ですか。おしゃべりならいえるのですが・・・」
打つ手なし。

とうとう、最後まで付き合いました。
あー、勝手に内野さんの投げキッスにノックアウトされて帰ってください。
こういう人が街中でどうどうと携帯電話で話している手合いなのでしょうね。
すこしの心くばりがないのはギズギスした社会でいやなものです。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□劇評■筆者□□□□
金子亜矢
bacew609@jttk.zaq.ne.jp
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