■■■AYAの宝塚歌劇 観劇記■■■


宙 組

2002年 7月12日(金)〜8月19日(月)  宝塚大劇場公演

2002年 9月28日(土)〜11月10日(日)  東京宝塚劇場公演

グランド・ロマンス
『鳳凰伝』−カラフとトゥーランドット−



グランド・ショー
ザ・ショー・ストッパー




観劇日:8月1日(木) 2階7列22番

劇場 :宝塚大劇場


HP主人 森(=SUN)筆。

トゥーランドット。
プッチーニ最後のオペラ。

ソレの舞台裏ドキュメント映画やってたなあ。
北京の紫禁城で上演されたモノの。
観てない。
イカン。もう上演終わってしまったんだろうか。

おいといて。

この作品の登場人物にピン、ポン、パンという3人の宮廷人がいる。
はじめてソレを知った時、
あの「ピンポンパン」ってココからかいっっ!
と、そのネーミングのセンス(?)のスゴさに笑った。

それにしても、どーいう経緯でのネーミングなんだ?
それにしても、「子供番組&子供向け」は侮れない。
それにしても、「アラビアン ナイト」文学座ファミリーシアターはグー。

さあ、『こどもの城・青山円形劇場』に観に行こう。
8月7日までさ良い子のみんな。
良い子じゃないみんなもきてね。

おいといて。

今回 宝塚バージョンでは、いません。ピン、ポン、パン。
この役目を盗賊に置き換えているようだ。

しかし「トゥーランドット」という演目が今宝塚で出来たってのは
フサ姫(花總まり)の存在があってこそ。
あってこそなんだが、
このトゥーランドットっていう姫様の極悪非道ぶりといったら!
以下にあらましをざっと。

それはそれは美しい姫様が、昔々中国紫禁城におりました。
名をトゥーランドット。
姫は、列をなす求婚者に3つの謎を出し、全問正解したら結婚を承諾する。
が、一つでも間違えると首をちょん切るという酷いことをやっていました。
姫、負け無し! 首ゴロゴロ。
そこにカラフという 自国を追われた王子が現われ、ついに全問謎を解く。
そうしてそこから物語が展開していく というワケだ。

ワケだが、このカラフっていう王子も酷い。
酷いっていうか すごいバカ。
王国を取り戻すという大きな使命も「おぉっっ、すげぇ美人!」で忘れてしまった。
これでは、やっと息子に再会出来た父王もたまったものではありません。
『泣くなリュー』って・・・なんだそりゃ。
(リューというのは国を追われた父王に仕えている忠実な女奴隷。
 カラフに想いを寄せていて、後にカラフの為に身を犠牲にする。
 今回宝塚ではタマルという名前になっているよう)

で、全問カラフに謎を解かれた姫様は、しかしゴネる。
すごい自分勝手。
ま、ともかくゴネるので、今度はカラフが姫に問題を出す。
「私の名を夜明けまでに当てよ」と。
当てる事が出来たら、自分は殺されてもよい と。
そして『誰も寝てはならぬ』になるのです。

その後、諸々あるのですが、カット。
ともかく「やっぱ”愛”よ”愛”」とトゥーランドットは愛に目覚め、
カラフと結ばれ、民衆大歓呼にて劇終。
となるのです。

なるかい!! この粗筋で!!
と怒る声が聞こえてきそうですが、
ここがオペラのすごいところで、
なるんですよ。
感動的に。

ドラマというのは、粗筋だけじゃない。
オペラだけでなく、舞台ってのは(映画も小説もね)そういうことです。

金子さんも「宝塚トゥーランドット」でのカラフ王子を、

男らしく、自分の信念のまま悩むことなく突き進んでいく、
漫画も真っ青のスーパーヒーローだ。


と書いてます。
きっと そうなんでしょう。
粗筋だけだと「バカ王子」になってしまいますが、
粗筋だけでは 何も伝わらない と。
そういうことです。
強引ですが、概ねあっているような・・・。

特に、オペラ、ミュージカル、バレエ、能、歌舞伎、宝塚 はそうです。
行間がすごいんです。
行間が命。
行間に歌ったり踊ったり舞ったり見栄きったりしてますから。
なんだそりゃ。

「本家トゥーランドット」はともかく「宝塚トゥーランドット」はどだったでしょう。

ってなことで、金子さんの劇評いってみよう。




グランド・ロマンス
『鳳凰伝』−カラフとトゥーランドット−


脚本・演出:木村信司


<出演者>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

大劇場:宝塚歌劇団宙組71名  (専科)萬あきら、汝鳥 伶
 東宝:宝塚歌劇団宙組71名  (専科)萬あきら、汝鳥 伶


  カラフ(今は滅びた国の王子):和央ようか
 トゥーランドット(中国の王女):花總まり

       バラク(盗賊の頭):水夏希
中国皇帝(トゥーランドットの父):萬あきら
   ティムール王(カラフの父):汝鳥怜
  アミン(アデルマ姫の女官長):出雲綾
       役人(中国の役人):貴柳みどり
   タン(盗賊、バラクの手下):久遠麻耶
   トン(盗賊、バラクの手下):椿火呂花
  アデルマ(コラサン国の王女):ふづき美世
         タマル(奴隷):彩乃かなみ

                          他 宙組組生

<解説>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 「トゥーランドット」は18世紀の劇作家カルロ・ゴッツイ作の寓話劇で、
宝塚歌劇においては白井鉄造が昭和9年に作品化、
昭和27年には春日野八千代の主演によって話題を呼んだ。
今回は21世紀版として、円熟期を迎えた和央ようかと花總まりのコンビを中心とした
宙組に相応しい作品として新たに描かれる。

(ちらしより)


<感想>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 「長々とした大仰な劇だ」

 実は今回は遅まきながら母の日、
ということで母と出かけたのだが、
席は別々だったがS席としては最低の席で、
もう申し訳なくて次の月組を取ってある次第である。
その母はあまり感想を言わない人だが、上のように言った。

金子も「宝塚ミュージカルはオペラもどきと違います」

と言いたかった。
色々言う前に、プログラムの木村先生の言葉を少し長いが引用しておこう。

「まず思ったのは、オペラでもない、ミュージカルでもない、
 宝塚にしか出来ない音楽劇を創造しようということでした。
 この「鳳凰伝」という作品はオペラではありません。
 そして厳密な意味ではミュージカルでもない。
 ある高名な演出家は「ミュージカルでは、役者はまず喋り、
 その感情が高揚してくると歌い、更に感情が高揚してくると踊りだす」と言いました。
 この意味ではミュージカルにとって台詞は、
 音楽を引き出すためのきっかけにすぎない。
 しかしこの作品においては、生徒たちは話すべき時に話し、
 踊るべき時に踊り、歌うべき時に歌います。
 そしてその3つ、台詞と音楽と振付が互いにぶつかりあいながら
 壮大なドラマを描いていく、というのがやりたかった型式です。
 ですから台詞を書く側としては、音楽や振付に負けない鋼のような、
 古典劇のような台詞を創り出そうと努力しました。」

 金子、なんの評論家でもない素人だが、開演前にこれを読んで

「やばいんじゃないの」と思ってしまった。

「音楽劇」は「国民劇」を目指した小林一三氏の理想から
離れているのではじゃないの、と。
宝塚の「芝居」はあくまでも「ミュージカル」であるべきなのだ。
金子のいままで観てきた「音楽劇」というのは、
音楽が劇の途中にその役者たちの感情の吐露をスムーズにするために使われるもので、
最近観たものでは「風狂伝」なんかがそうであろう。
宝塚はあくまでもミュージカルなのだ。
「感情が高揚して歌う」それでいいのではないか、と思う。

例を挙げるならば「琥珀色の雨にぬれて」。
クロードが夜汽車でのシャロンの姿を見ていると、
もう気持ちが抑えられなくなって、幻想の場面となり「♪突然〜本当に〜」とくるのだ。
それに比べて今回は、「♪北京の民よ〜、王子の名前が分かった!その名は愛!」
とそんなこと別に歌わなくてもいいのに、と思える場面が沢山あり、
舞台上にもピンマイクで足りないのか、スタンドマイクまであり、
半分オペラを観ているような気分になった。
また、歌が多いせいかひどく冗長に感じられた。
いつもの宝塚ミュージカルにして、1時間35分でやれんのか、と思ってしまった。
母は、「子供だまし」とさえ言っていた。
2階席の後ろがガラガラに空いていたのはどういう意味だろう。
それを考えて創っていただきたかった。
同じ木村先生なら、絶対「ゼンダ城の虜」と方がいいと思った。
あとは人別に。


  カラフの和央ようか(タカコ)。
男らしく、自分の信念のまま悩むことなく突き進んでいく、
漫画も真っ青のスーパーヒーローだ。
帰ってよく考えると、

「こんな男いないな」

と思うのだが、舞台では本当にいそうな気にさせるのだから、これはトップの技量だろう。
最近、高音がよく出るようになってきて、歌は安心して聴いていられる。
外見の黒髪のセミロングの髪型や、トゥーランドットを激しくかき抱くところなど、
とにかく格好いい。
この一言に尽きる。

1ファンとしては、柄によくあった役で観ていて嬉しい。
が、なんで衣装6着なのでしょう。
昔、あるトップが「トップは着替える必要もないのに着替える」といっていたが、
もう2着ぐらいは着替えて欲しかった。
とにかく、トップとして円熟期を迎えていることは間違いないだろう。


トゥーランドットの花總まり(ハナちゃん)。
威厳を出すため声がいつもと違って、地声に近い感じだったが、
やはりあの細い、高い声のほうがしっくりくる。
お衣装は素晴らしいのばかりで羨ましい。
ただ、謎解きの処刑の理由は、初めは昔の姫が異国人に辱めを受けたからだ、
といっていたが、実は自分が女帝になっても人民の心を惹きつけられるのだと
父、皇帝に認めさせたかったからだ、というのは余り説得力がない。
どうしても残忍な女にしか理解できない。

それでも、さすがハナちゃん、
最後の自分の行動の空しさに気づいたところは、涙を流していて、
「トゥーランドットも人間なのだ」という表現は流石であった。
歌も高音が細く、高く響いていて、
この台詞がほとんど歌詞となっている音楽劇ではキチンと言いたいことが伝わった。
人物像が理解できない部分は脚本によるのだから仕方ないだろう。


 バラクの水夏希(ミズ)。
なかなか流し目が格好よい、中国皇帝の地位も狙う野心家の盗賊の頭だ。
残念ながら、歌が弱い。
台詞でいうところを歌われると、
2階にいるとなにを言っているのかよく分からないところがある。
歌唱力の向上をお願いしたい。
最後の本当の水で死ぬところは、豪快で良かった。


 アデルマのふづき美世
初めの出はいいのだが、どうしてもカラフに愛されなくて、
段々嫉妬に狂っていくところのプロセスをもう少し丁寧に表現して欲しかった。
特に最後の、タマルを鞭で打ち据えるところなどは迫力不足であった。
歌は「エイジ・オブ・イノセンス」の時より上達しているように思えた。


 タマルの彩乃かなみ
マノンはともかくとして、いつもの元気溌剌娘もいいが、
今回みたいないじらしい役もいい。
子守唄は歌の上手いこの人だから安心して聴けた。
また、最後の自害するシーンも本当にいじらしくて良かった。


 バラクの手下のタンとトンの久遠麻耶椿火呂花
あまり見せ場がなく、特にサヨナラの久遠には役不足に感じた。


 カラフの父の汝鳥怜は少しこの人にしては軽すぎる役のような気がした。


 中国皇帝の萬あきらは、台詞が重々しくて充分地位を示していた。


 驚いたのは、役人の貴柳みどりである。
初め低い声で「♪北京の民よ〜」ときたので、
男役さんかしらと思ったがこの人で
「役者とは化けるものだな」とつくづく感じさせられた。


また、首切り役人の寿つかさもメイクからして子供なら泣きそうで怖かった。





グランド・ショー
ザ・ショー・ストッパー


作・演出 三木章雄

<出演者>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

大劇場:宝塚歌劇団宙組71名  (専科)萬あきら、汝鳥 伶
 東宝:宝塚歌劇団宙組71名  (専科)萬あきら、汝鳥 伶


<解説>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 「ショー・ストッパー」とは、
その素晴らしいパフォーマンスにより、
止まらない拍手でショーを中断させるほどの出来る大スター。
ショーの世界には素晴らしいスター達がその栄光の歴史の中に輝いている。
そんなスターを燦然と輝かせるショーを、
宙組に相応しい大型バージョンとして作り上げる。


<感想>−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「タカコさん、夏の奮闘ショー」
「どこがショー・ストッパーなのですか」

 点数をつけるなら、もう50点!
あー、同じ45分ショーなら、星組の「ラッキー・スター!」のほうが良かった。
悪く言って悪かったな、と思ってしまった。
あの定番並びのショーのほうが良かった。
ここでまた母の弁。

「水のダンス抜群だね」
「平均的になんでも出来るトップのショーより、
 1つ『これは私の売りです』ってものがあるトップのショーのほうが観ていて楽しい」

とのことだ。
後者は、当然タカコのことを指しているのだが、
後でファン心理を捨て去って考えてみるとなるほどそうだな、と思った。

 しかし、宙組はタカコ政権になってからいままで、
いつも専科が出演していたのでそう感じなかったが、
専科がいないと、タカコ→水と順列はなるのですね。
なんか空きすぎの感じがした。
ここは専科から1人いれるとかなんとか組み替えが必要な気がする。
いや、宝塚全体、もう一つ各組の戦力を揃えるために、今、組み替えは必要でしょうね。


<第1章 バース 〜JAZZの誕生〜>

 プロローグもなくていきなり、地味な衣装から始まるのだが、
やはり、プロローグをつけてスパンの衣装登場、からいきたかった。
タカコさんはまだ裏声がでるのだな、と感心していたら、
久しぶりに聴く出雲組長の歌が澄んでいて聴いていて気持ちよかった。
そして、ハナちゃん登場、と相成るのだが、
大変失礼だが、上半身などをみていると、少しお太りあそばされたようである。
(これは、成瀬こうきのディナーショーに行ったとき、同じテーブル全員が口を揃えて言っていた)
金子もすぐ太る体質なので人のことは言えないが。

真ん中のブルースのところの苑、鈴奈、美風のハーモニーは素晴らしかった。
そしてジャズなのだが、あの帽子、なんとかできないのか。
すごくダサい感じがする。
なんか「派手でないなあ」で3分の1が終わってしまった。


<第2章 1889−PARIS>

 タカコさんの出ずっぱり大奮闘シーンであるが、
水とからむところは、男役のなんともいえない色気、みたいなのは感じられなかった。
上級生VS下級生というかんじである。
やはり、ハナちゃんとタンゴを踊っているほうがしっくりくる。
昔の花組のヤン(安寿ミラ)VSミキ(真矢みき)といった絡みではなかった。
やはり、上に書いたように、タカコと水の間にもう1枚スターが必要だと思った。
ファンとしては「タカコさん頑張れ」の一心で、歌うところが終わると、
上着は空けて、ネクタイは緩めて、それとともにピンマイクがだらっと落ちるところなど
ハラハラものであった。
それでも、タカコさんを1ブロック出ずっぱりで長く観られたのだから
ファンとしては幸せというほかない。
金子にとっては水など殆ど観る暇がなかった(笑)


<第3章 グランド・フィナーレ>

 もうフィナーレか、という感じであるが、
まずヴェネチアの水と久遠のデュエットダンスはなかなか雰囲気がよかった。
水の踊りを観ていると、なぜか月組の紫吹淳を思い出した。
ああいう流れを大切にするダンスのように思う。
出雲組長の歌がまた冴えていていい。

 そのあと、「ベサメ・ムーチョ」
(宝塚はこの曲を何回つかうのでしょう)
に乗って全員の総踊りだが、ここでは客席へエネルギーが溢れてきて活気付いていた。
やはり、総踊りというのは、人海戦術を得意とする宝塚の醍醐味だろう。
総踊りのあとすぐにタカコさんの歌があるのだが、
短い時間で息を整えてよく歌えていたと思う。
と、思っていたら、母に「タカコさん、声裏返っていた」と指摘された。
ああ、観る人間が違うとこうも違った印象を受けるものかなあ。

で、最後にやっと大階段でスパンの衣装登場、
となるのだが、いきなり水が降りてきて、はあ、であった。
最後なのだから、久遠が先に降りてきても良いのではないか。
なんか、また宙組の現有戦力のすかすかさを感じてしまった。


 以上、芝居・ショーともに苦言ばかり呈したが、
これもひとえに宝塚を愛するものの一言である。
読んでくださって有難う。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□劇評■筆者□□□□
金子亜矢
bacew609@jttk.zaq.ne.jp
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