教会の刷新を目指して(Ecclesiology)


カトリック教会はゆっくり、そして少しずつしか変わらない。しかし、確実に変わっているとも言える。第二バチカン公会議以降、時のしるしを識別することが求められてきた。時代に敏感な教会が求められている。教会はそもそもその存在理由を自分自身に持つものではない。イエスの姿が全面的に他者の存在であったように教会も他者のための存在であろう。決して自己繁栄が目的なのではない。教会が繁栄するときは同時に他の人々が喜びを見いだしている時である。

第二バチカン公会議以降の教会論の発展を見るとき、そのことがますます意識されてきている。「地方教会」の大切さ、インカルチュレーションの必要性、同時に日本の司教団を中心に教会の刷新運動がナイスという形で進められてきた。二回のナイスを経て、この運動の続きは各教区の取り組みに任せられた形になっているが、未だに何故、ナイスが必要であったのかが理解されず、また、様々な小教区を見ると、未だに「信者の子ども扱い」がなされ、ノアの箱舟的な教会観が拭い切れていないのが実状だ。教会の不動産(それももともと外国からの寄付)をどう維持するか、信徒減少のおり、どう建物を維持していくか、司祭召命が減少しているので、どう配置すればいいかなど、家そのものが壊れかけているときに、天井の雨漏りのためのバケツを幾つ増やすかなどという議論がなされる。そういう発想で教会を「維持管理」しようとしているように見える。そのような教会は本来、教会ではない。「教会堂」という建物の方が中に「集まってくる人」よりも優先されるありさまだ。司祭が減っている原因も深く考えようとしない。一言で言えば、若者には全く魅力のない教会だからである。行けば仕事だけ頼まれ、「我々が青年だった頃」というお決まりの説教を聞かされる。教会には義務は多いが、祝いや喜びが少ない。自主性やビジョンがない。「どうぞ、自分の息子以外の誰かが司祭になって下さいますように」と祈る。現状の司祭を見て、若い人たちが一生涯をかけるだけの価値を見出すだろうか。

上記のような反発心をもって残念ながら教会を離れてしまった青年が実際に多く存在し、彼らは教会との絆を離れ、社会の中でりっぱな役割を果たしている。教会は多くの貴重な人材を破棄しながら、あるいは食いつぶしながら、細々と生きながらえていくのであろうか。現在の教会の年齢層を見ると明らかである。未来がない。未来と夢のないところに人は魅力を感じないし、そこに住むことはできない。ミヒャエル・エンデは「独裁者が一番恐れるもの、それはファンタジーだ」と言う。ファンタジー、夢、ビジョン、人々はそれを求めているし、イエスが寝食を忘れて伝えたのは、まさに神の国のファンタジーであったのではないか。それを伝える器としての教会が何をしているのか、そういう指摘をされても仕方がないように思う。

初めに教会があるのではない。初めに「良い知らせ」があり、それを喜んで聴いた人々が自主的に集まってきてエクレシア(集い)(教会)なのだ。どうも組織論に流されて、組織を改革するための組織を作り、忙しい人がますます忙しくなるという悪循環が続いている。

いっそのこと、活動停止をして、自分たちは一体何なのか、じっくり考えてみたら良いのではないか。行事に追われることなく、会計に頭を悩ますことなく、聖書の言葉と私たちの生活の往復運動をじっくり味わってみる。そこから何かが新しく生まれてくるのではないだろうか。教会維持運営は大切ではあるが、もっと大切なのは、我々は一体何だということである。我々の使命は第一に何のか問うべきである。そんな暇はない、と怒られそうであるが、文字通り忙しさは心を亡くすのだ。社会が忙しく動いているときに、教会が違う価値観を示せないものだろうか。組織が強調され過ぎると共同体が壊される。組織はもちろん大切であるが、現代求められているのは、教会の組織的側面よりも「共同体的側面」であると思う。初めに教会があるということが前提とされるので、(本当は違うのに幻想を見ている)我々が教会になっていくという動きが必要に思える。今の我々は決して神の国の目に見えるしるしにはなってはいない。そうなろうとするところから始めなければならないのではないか。

私たちの教会、小教区、教区、を考えるに当たって、下の記事をご覧いただきたいと思う。特に、最近読んだ本の中で、[dissent]と言う言葉が良く使われていて、良い意味で、教会に必要なものだという主張がなされています。第二バチカン公会議で示された教会は、福音による革新的な方向性を実際に歩み始めたにもかかわらず、反動的な動き、特に根本主義的な動きが教会の歩みを妨げている。組織とは、権威とは、位階とは、福音宣教とは、様々な角度から現代の教会を分析し、批判する姿勢の中に、多く共感する部分があります。「恐れるな。」この言葉で終わる本を読みながら、希望を見出しています。少々読みずらい点はご勘弁を。フィリピンに来てからも「教会論」を主に自分の課題として読んでおります。英文のままの記事もありますが、とてもいい本や記事がありますので、興味のある方は、読んで見てください。Claretian Publicationのホームページへどうぞ。 sukke

意識の転換について(I)ーー歴史的反省点ーー

教会・宣教・キリスト者の生活(アドルフォ・ニコラス)

教会のヴィジョン(パウル・ツーレナー)

小教区の刷新(フィリップ・ミュリオン)

ナイスを神学的にどう理解したらいいのか(小笠原優)

地方教会の使命(小笠原優)

Church :Pilgrim Community of Disciples(Lode L. Wostyn)(英語のみ)

『教会: 弟子たちの巡礼共同体』Church :Pilgrim Community of Disciples(Lode L. Wostyn)の邦訳

(from "The Refounding the Church", G.Arbuckleプレ・バチカンと公会議、その後の教会の一覧表(英語のみ)

Refounding the Church (Case study)(in English)

権威・権力への要求 (Case study)

Refounding the Church (Understanding congregational chaos)

Refounding the Church (修道会の混沌を理解する)


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