第六章
マタイによる福音書

著者、場所と年代

著者
 福音書にはマタイ、または他の誰かによって書かれたことを示す記述はない。しかしながら、二世紀の終わりごろまでには使徒マタイが著者であるとみなされた。ガウル(現在のフランス)のリヨンの司教イレネウスはこう書いている:「マタイはヘブライ人の間で彼らの言語で書かれた福音書を広めた」 現在ではこの報告は二つの点で誤りであると認められている。(1)この福音書は使徒マタイによって書かれたものではないこと、そして(2)ヘブライ語(ヘブライ語でもアラマイ語のいずれか)ではなく、ギリシャ語で書かれ、ギリシャ語で作られた資料を採用していることと考えられている。
 著者は明らかにギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者であり、イエスがヘブライ語聖書にあるメシア的預言を成就したと確信している;イエスがイスラエルへの直接の宣教を指示した(マタイ10:5−6;15:24)としても、ユダヤ人が彼らのメシアを拒絶した時、その宣教は失敗に終わった。今や、キリスト復活後の命令、新しい(あるいは真の?)イスラエルが異邦人たちの間に作られる(マタイ28:19)。マタイはユダヤ人のキリスト者であり、おそらく改宗者で、いくらかラビの訓練を受けていたのかもしれない。可能性として、彼はむしろキリスト者の学者(マタイ13:51−52)であり、復活と遅延した(第二の)再臨の間の時間を聖なる時間としてみている:教会の時代、イエスの教えとイエスへの従順の時、キリストが世の終わりまで常に人々と共にある時(マタイ28:20b)である。

著作の場所
 明らかにマタイ福音書の著者はギリシャ語を話す地域に住んでおり、ギリシャ語を話すキリスト者たち、その多くはユダヤ出身者のために書いた。この書物はおそらくパレスティナでは書かれていない。多くの学者はこの書物をシリア起源としている。この書物が書かれた場所としてシリアのアンティオキアとする学者もおり、これを指示する証拠が存在する。この書物はアンティオキアで早くから広まり好まれた。アンティオキアの司教(イグナティウス)による証拠を有しており、二世紀の初頭、アンティオキアではすでにこの福音書は知られていた。

著作の年代
 もし、マタイ22:7「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」がエルサレム滅亡への言及であれば、一般的にそう考えられているように、マタイの福音書は紀元後70年(エルサレム滅亡の年)に書かれたものでなければならない。紀元後100年以降とする起源の年代に関しては、上に述べたようにイグナティウス司教(110−115)がこの福音書をすでに知っていたという事実により排除される。したがって、年代に関しては70年から100年の間に限られるように思われる。85年から90年の間がもっとも妥当なところである(Tremmel)。


マタイ福音書のアウトライン
多様な意見
 多くの学者はこの第一福音書が五つの書物に分けられるとする古典的な立場を維持している。五つの書物はそれぞれマタイの講話の一つを紹介する物語の部分で構成される:山上の説教(マタイ5:1−7:29)、宣教講話(マタイ10:1−42)、たとえ話講話(マタイ13:1−52)、共同体講話(マタイ18:1−35)、世の終わり講話(マタイ24:1−25:46)。これら五つの講話はプロローグ(マタイ1:1−2:23)とエピローグ(マタイ26:1−28:20)の間に置かれている。他の学者は幼年物語、受難と復活物語はプロローグとエピローグにそれぞれ単に還元できないと考えている。彼らはむしろ五書の構成の総合的な部分として、モーセの予表論を主張する(例えば、マタイはモーセ五書の模倣で五つに分割している)。
 しかしながら、この見方は学者たちの間ではあまり支持されていない。事実、マタイ11章と12章(これは厳密には講話的セクションとは言えない)と13章のたとえ話の記述との対応のみが確かである。その他の部分は疑問の余地がある。マタイ8章から9章における十の奇跡収集はその後に続く宣教講話(10章)とよりも山上の説教の続きとしてより深い文学的関係がある。ほとんどの学者はこの非常に単純な見方を見捨てている。彼らはむしろ福音書の真の構成に関する見方を与えくれるあらゆる種の表示を模索している。

アウトライン
 プロローグ(1:1−2:23)
T.ユダヤ人はイエスを信じることを拒む(3:1−13:58)
イエスの宣教の準備(3:1−4:11)
A.イエスの力ある言葉と業(4:12−9:34)
B.イエスは弟子たちを宣教に送る(9:35−10:42)
C.選択決定:イエスにつくか反対するか(11:1−13:58)
U.移行的セクション:パンのセクション(14:1−16:12)
V.教会のセクション(16:13−20:16)
W.エルサレムへ、エルサレムで(20:17−25:46)
X.受難と復活(26:1−28:20)

マタイ福音書を読む

マタイ28:16−20:マタイ福音書の鍵

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 マタイに関する最近の多くの研究はマタイ28:16−20、福音書のまさに最後のペリコペがマタイ福音書の鍵となるべきだと考えられている。これには二つの理由がある。第一に、このテキストはマタイの基本的なキリスト論的、また、教会論的肯定を含んでいること。第二に、この箇所は福音書の前の箇所で一つもしくは幾つかすでに見出される句や考えを含んでおり、マタイ28:16−20で最終的な説明を加えている。この二つの理由で、このテキストは福音書全体を理解する真の鍵を含んでいるのである。

キリスト論的肯定
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」という節は、マタイのキリスト論の基本的な主張の一つを表現していると一般的に合意に達している。第三の誘惑(マタイ4:8−10)でイエスが山上に立ち、権威と権力に関しての話がある。この誘惑物語では地上の王国の権力のみに関心があるのとは違い、イエスは今や天と地(宇宙全体上に)の一切の権能を授かっているのである。この権能は父によってイエスに与えられている(神的受動態:神的な行為を敬意を表しつつ間接的に表現する) そのように、マタイ28:18はマタイ11:27「すべてのことは、父からわたしに任されています」で、すでに表現されている考えを再び持ち出している。
 人の子として、イエスは父から「すべてのこと」を任されている。このようにイエスは父のみ旨(例えば救いの計画)が「天に行われるように地にも行われるように」(マタイ6:10;ギリシャ語のマタイ福音書で28:18と全く同じ表現を見出すのはこの箇所のみ)に責任を持つのである。なるほどマタイ28:18で人の子の尊称が明白に述べられていないかもしれないが、マタイのこの構成がダニエル書7:14「(人の子のような者7:13)は権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その当地は滅びることがない」に影響されていることは疑いの余地がない。すなわち、マタイ28:18は、イエスは、父が天と地をあまねくすべての権能を与えた栄光ある人の子なのである。
教会論的肯定
 父から授けられた権能によって、人の子は「すべての民を弟子にさせるために」十一人の弟子たちを送る(マタイ28:16参照)。それゆえマタイにとって、教会とは第一義的に弟子たちを作る弟子たちの共同体なのである。この表現は平等という明確な概念を有している(マタイ18章の共同体の記述、兄弟性に関する記述、またマタイ24:45−51他の僕の担当の僕などの箇所で補強されている)。そこで、教会は(下に見る)古代の契約共同体同様に、彼ら自身の中で、神の前で平等な人々の共同体なのである。このことは教会内においてマタイが権威の役割を無視したり、過小評価しているということを意味するものではない。事実、彼はペトロの役割を強調しており、また、マルコ以上に十二人を強調する(しかしながら一方では野心や権力の乱用に対し繰り返し警告している)。しかし、平等という基本的なものと比べて、すべての地位や権威の区別は疑いもなく正当性を持つ一方、第二次的なものと考えられている。すなわち、権威や組織は、この肯定が基本的な与えられた平等を曖昧にしたり、抹消したりするという範囲まで強調されることは決してありえない(教会に関する話や本ではこの明確な福音の当然のことを公平に扱っていない)。弟子たちはまず第一に洗礼を授けることによって、そうして古い神の民(民族的所属や割礼などに基づく)の選民という考え、さらにまた限界を打ち砕き、また、主に「イスラエルの家の失われた羊」(マタイ10:6;15:24;しかし、マタイ8:5−13も参照)に限定されていたイエスのこの世の宣教の限界を打ち砕き、すべての民を人の子の民のメンバーである教会にするように派遣されている。
 第二に、弟子たちは「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように」彼らを教えることによってすべての民を教会のメンバーにする。一般的にこの「わたしがあなた方に命じておいたすべてのこと」という節は、古い律法(「あなたがたも聞いているとおり、昔の人はこう言った・・・しかしわたしは言っておく・・・」マタイ5:21−22など;申命記6:25と比較せよ)に対してこの弟子になるプログラムが反対することになろうと弟子になるために何をしなければならないかを語っている山上の説教(5:1−7:29)に言及しているものとされている。しかし山上の説教はマタイに見られる五つの講話の第一番目のものである。「わたしが命じておいたことすべて」によってすべての講話が言及されているのかもしれない(マタイ10:1−42;13:1−52;18:1−35;24:1−25:46;下も参照)。
 なぜマタイは彼の福音書のまさに一番最後の節でキリストと教会のことを語ろうと決めたのかと不思議に思う人もいるかもしれない。例えばなぜキリストとその愛の掟ではないのか?この理由として考えられるのは、マタイが旧約聖書の契約の現実の詳細に反対する福音の使信の提示を発展させる意図があるように思われる。

契約のパースペクティブ
 上述したキリスト論的また、教会論的肯定は実際、契約のパースペクティブの中で見られるべきであろう。学者たちの間では一般的合意事項として「わたしはいつもあなた方と共にいる」は、マタイ1:23「・・・インマヌエル(その意味は神は我々と共におられる)」を思い起こす契約の形式である。復活のキリスト、栄光ある人の子は契約を新たにし、「世の終わりまで」続く契約をその民と結ぶのである。この同じパースペクティブはマタイ18:20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしのその中にいるのである」にも見られる。さらにまたマルコの「イエスと弟子たち」をマタイが「弟子と共にいるイエス」に変える例も多くある。
 二つの実在が旧約にかかわっていた:神と契約の民である。神は自分の民を治め、民は自分たちの神を礼拝し、従う。マタイ28:16−20のこの二つの基本的肯定はこのパースペクティブの中で理解されるべきであろう。第一に神の王権と統治は今や具体的に人の子の統治において実現されている(キリスト論的肯定)。そして、第二に、古い神の民は今や人の子の民、教会によって「置き換えられている」(教会論的肯定)
 マタイ28:16−20の基本的な二つの肯定をここまで考えてきたが、ここでわたしたちは、福音書の中でどれだけ多くの節や考えがこれとつながりを持つのか、そしてこの最後の節がそれ以前の箇所に決定的光を浴びせるのかを見ることにしたい。このプロセスでわたしたちはマタイの教会理解のより明快な洞察を得、それが次に進む箇所で彼のキリスト論と深いつながりを持つのかを見る。


 厳密に言えば、イエスは弟子たちにガリラヤへ言及し(マタイ26:32)た。異邦人のガリラヤ(4:15)である。しかし、今や場所を特定され「山」に行くように指示されている。マタイでは「山」は絶対的な意味で使われるのであり、イエスや神が特別な行動のために場所を指定する表現としてや地理的な場所の表現として使われるのでもない。この意味で、山は福音書の多くの重要な箇所で使われている。
 第一に、誘惑物語(マタイ4:8−10;ルカ4:5−7の対応箇所には山はない)に言及しよう。それはマタイ28:16−20(下に見る)を理解する上で決定的に重要な役割を果たしている。
 第二に、マタイが山上の説教(マタイ5:1、ルカ6:17とは対照)の舞台にした山を考える。マタイは言葉において力あるメシアとしてイエスを描いている。マタイ28:20「すべてわたしが命じておいたこと」は確実にこの力ある教え(下に見る)に言及している。
 第三番目には変容の山(マタイ17:1)に言及すべきであろう。「人の子」が主なキリスト論的尊称(マタイ16:13,27,28;17:9,12)であるという文脈でこの場面は描かれている。最初の受難の預言(16:21)を宣言されたばかりで、受難の時のために弟子たちを準備させ、勇気づけるために、彼らはマタイ28:16−20に記されているように復活のキリストのものである権能と栄光を垣間見させられる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17:5)という天からの声の宣言とイエス自身の言葉「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28:18)は非常に密接な関係にある。同じことは「彼に聞け」(17:5)と「すべての民をわたしの弟子にしなさい・・・わたしが命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19a,20a)にも言えることである。マタイの理解において、最後の派遣場面が変容を完成させる。すなわち、復活の光の下でなければ十分には説明されえない(マタイ17:9)のである。
 最後に、水の上を歩くイエス(マタイ14:22−33)の文脈の中で山(14:23)への言及を考えるべきであろう。そこではマタイ28:20b「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」において約束された救いの現存の例を与えられている。そして、イエスをマタイ5:1とパラレルに業において力あるメシア(マタイ15:29−31)として描く山(15:29)を考える。
 まとめとして、重要な任務の場所「山上」はマタイで少なくとも五つの場面によくマッチし明確化するといってもよいかもしれない。マタイ28:16−20の特徴との関係でマタイ4:8と5:1の二つの箇所を下で十分に扱うことにする。

誘惑物語(マタイ4:1−11)
 山上に立ち、復活したイエスは弟子たちにこう言う「わたしは天と地のすべての権能を授かっている(父によって)」。このことは即座に誘惑物語を想起させる:「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った(マタイ4:8−9)。いずれの箇所でも山上で権力、権能を与えることが話されている。知的な読者であればこの誘惑物語に関して間違いなく多くの疑問を抱くであろう。福音記者は荒れ野での誘惑に関する情報をどこで得たのであろうか?解釈学者たちが提言しているように、イエスが宣教活動の後半で弟子たちに語ったのであれば、我々は第一人称での話を期待する:「わたしは霊に導かれて荒れ野行った・・・」 悪魔との直接の対峙がどの程度本物の誘惑なのであろうか。「誘惑」する者が角と尻尾をもっているのであれば、フィクションや合理化の余地はほとんどない!しばし誘惑物語を離れて、福音書の他の箇所での誘惑への言及を探すとき、誘惑物語でも見出される多くの要素に出くわすことになる。イエスは律法学者やファリサイ派によって誘惑を受ける。イエスを試そう(peizarein=test)として「天からのしるしを見せてほしいと願った」(マタイ16:1;例えば神殿の屋根の端から飛び降りろと言う誘惑と比較)。イエスは弟子たち、特にペトロから誘惑を受ける。ペトロは受難に関する考えに反対して言われる「サタン、引き下がれ!;マタイ4:10と比較。同じ問題を扱っているので実際上同じ言葉が使われている」。そして、十字架の下を通りかかった人々がイエスに対して言った言葉「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ27:40;最初の二つの誘惑と同じ始まり方)このように同じようなリストを集めることができる。
 誘惑物語を理解するためには、洗礼物語(マタイ3:13−17)の直後に誘惑物語が置かれたことに着目することが非常に重要である。洗礼の場面では天からの声がイエスに関して言及し、次のように言う「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)。これらの言葉はイザヤ42:1「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、歓び迎える者を」と詩編2:7「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ」を組み合わせたもので、僕であるメシアとしてイエスを明示する。言い換えれば、イエスの洗礼の場面で、イエスが僕であるメシアとして宣教を成し遂げることが神の意思(天からの声)であることを理解したのだということが我々に告げられる。
 そこで誘惑物語において、我々はこの明示とイエスのそれに答える選択肢が試されることを告げられる。最初の二つの誘惑は「神の子なら・・・」(4:3,6)で始まっている。イエスが僕であるメシアとしての宣教を受諾したことが試される。このことは単に荒れ野での四十日間に起こったことだけではなく、イエスの宣教活動全体、十字架につけられるまで引き続き起こっている。これらの誘惑は人物としての悪魔から来るのではなく、律法学者やファリサイ派、ペトロ、そして十字架の元を通った人々から来るのである。それゆえ、イエスは我々が誘惑されるまさに同じ仕方で誘惑を受けているのである。ヘブライ書4:15に書かれているように「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」ヘブライ人への手紙の著者は明らかに誘惑物語のみについて話しているのではない!
 それゆえ、誘惑物語は単に荒れ野で一度だけ直面した誘惑ではなく、彼の宣教活動全体の中でのすべての誘惑の「要約」のように思われる。これはイエスの宣教の初めに置かれている。それはイエスが具体的に直面する誘惑者が誰であれ、常に同じ力が働いていることを明確にするためである。その上、イエスの洗礼のすぐ後に誘惑物語がおかれる。それは洗礼時のイエスの選択とこれらの誘惑は常に何がしかの関係があるからである。洗礼の場面で、イエスは天からの声によって「子」と呼びかけられ、そして誘惑は「もし神の子なら・・・」と言う言葉で始められる。この物語の具体的な形式はイエスとイスラエルとモーセのパラレルによって決定されている(荒れ野での四十日と四十年;イエスの三つの答えは申命記8:3;6:16;6:13はイスラエルの荒れ野での出来事;マナ、岩からの水、金の子牛)。三つの誘惑はすべて僕であるメシアとしてのイエスの役割の理解、そしてその受諾を目的としている。これらの誘惑は第三番目の権力の誘惑にイエスが直面するところでその頂点を迎える。僕であるメシアのモデルを選択し、彼は事態を自分にとって簡単にしなかった。イエスの周りの人々――反対者、弟子たち、親戚――は可能な代替手段を想起させ続けた。彼らは目的に達するためのより効果的、迅速で、特により痛みの伴わない方法で到達できることを繰り返し述べ続けた。彼はなぜ一般の人々との良好な関係のために何もしなかったのか?最高法院やローマ人に対してなぜ彼はより好条件で臨む努力をしなかったのか?彼らは目的に達すために彼を助けてくれたかもしれない!これはイエスの目的に対する誘惑ではなく、手段に関する誘惑であることに着目すべきである!イエスの全生涯を通じて、権力を利用し、権力者と共にパワーゲームに加わるように誘惑を受けたのである。そうして、イエスは父が彼に与えた目的を実現するのである。この誘惑に対して、イエスは唯一の答え、強調の「否(ノー)」を言ったのである。彼は現実には「死の終わり」になると認識したこの「(ショ)近道(ート)」(カット)を拒否したのである。彼は長くつらい道を選んだ。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2:9)の道を選んだのである。彼は悪魔や悪魔が象徴する何者とでも共謀し権力を掌握することにより自らの目的を目指すことを拒絶したのである。言い換えれば、彼は、権力当局と共に組んで、彼の目標を促進するためにギブアンドテークゲームを始めるのを拒否したのである(ルカ4:6で「この国々の一切の権力と繁栄を与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」)。イエスは僕としての使命を全うし、そのために死んだのである。しかし、神はメシアの生涯を認め、死者の中から復活させた(使徒2:32など参照)。フィリピ書2:9でパウロが続けて言っているように「このため、神はキリストを高く上げ・・・」、マタイ28:18で復活のキリストが、悪魔や悪魔が象徴する何者でも与えられるもの、いやそれ以上のものを父が与えたということを宣言するのである:「天と地のすべての権能」である。しかし、これはイエスが最初の誘惑に「否」を言ったからこそ可能なのである。

キリストのように、教会のように
 しかしながら、ここまで述べられてきたことはイエスのみに当てはまることではない。第一に、マタイ28:16−20でキリスト論と教会論が密接に関係しているということを指摘してきた。第二に、我々は洗礼と誘惑物語を通じて出エジプトと出エジプトの民への引用(引喩)の富を見出す。例えば、洗礼物語の節で「すぐ水の中から上がられた」(マタイ3:16)は「民はヨルダン川から上がって」(ヨシュア4:19、ここではanabeという全く同じ動詞形)への明らかな言及である。誘惑物語では荒れ野での四十日に平行してイスラエルは四十年など。それゆえ、洗礼と誘惑物語はイエスのみに関心をおくものではないと言って良いのである。それらは神の民、教会にも関心を持つものである。
 もしそうであるならば、イエスが権力の誘惑に「否」を言ったのであれば、同じように教会にも同じ誘惑に対して「否」をいうことをイエスは望んでいるといわなければならない。すべての宣教活動を通じてイエスが権力当局と共同戦線を張り、宣教の目的を果たすためにパワーゲームに巻き込まれるように誘惑されたと同じように、この世での神の国の実現を促進するように思える教会のために、一定の利益や特権を得るためにパワーゲームを始めたり、権力当局と取引するというような誘惑を教会も繰り返し受けているのである。しかし、教会がこの誘惑に屈した時はいつでも――地方教会同様普遍的教会レベルでも昔から最近まで教会はその誘惑に屈しなかったなどと誰が敢えて言うだろか――教会はキリストが「否(ノー)」ということを望んでいるところで「然り(イェス)」を言っているのである。それゆえ、これらのイニシアチブは神の祝福を受けるはずがない。そして、「外交的」ベンチャーの即座の利益が良いものに見えたとしても、結局はそれらは神の民の利益のものであるはずがない。
 イエスが僕であるメシアであったのと同じように教会も僕である教会にならなければならない。教会は父に対して根本的に従順であるべきであり、キリストと共に何度も何度も死ぬ覚悟をしなくてはならない。しかしながら、もし教会が、キリストが「否」を言うことを望む場所で「然り」を言うとすれば、教会はその存在とその使命の最も根本的な面で不従順なのである。それゆえ、我々は教会内で権威者が例えば懲戒処分や典礼規定などに関して信者に従順を要求するという奇妙な状況を時々目撃するかもしれない。教会自体がもっと根本的な大事なことに対して不従順でるというのに。教会は「神の側ではなく人間の側」(マタイ16:23、それもペトロに向かって言われる!)に着く誘惑を繰り返し受けているのである。教会が神の僕である教会という神の導きよりも外交的アレンジメントやパワーゲームにより信頼を置く時、教会は「人の側」にいるのである。
 教会の中の人々や団体が他の者よりも間違いなくこの誘惑に屈しやすいとしても、ここで我々が特定の人やグループをさしているのでは全くないことが強調されなければならない。事実、時に教会のすべてのレベルにおいて個人やグループがこの権力の誘惑に屈しているのが容易に目撃される:教皇庁、枢機卿、主任司祭、修道会、信徒組織の指導者など。例えば二、三人の教区の重鎮のモンセニョール、あるいは、修道者の長上などが連続した管理で彼ら自身のための小さな王国(神の国ではなく)を作ってしまったこと誰が知らないというのか。

信仰
 それはすべて信仰の問題である:我々は神が教会に忠実で成長させてくださると信じているのだろうか。あるいは、我々は自身の外交手腕と取引をする権力をより多く信じているのだろうか。教会――僕であるメシアと同じように――は父によって高く上げられ己の使命を全うする。しかし、教会は「死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順」である準備ができている条件でのみ可能なのである。信仰に関するこれらの省察によって、我々の鍵となる節「疑う者もいた」(マタイ28:17b)の特徴を次に考察する。

疑う者――信仰の薄い者
 弟子たちの疑いは、ルカでもヨハネでも同じように、イエスの出現が本人であるか亡霊であるか(ルカ24:37;cf.ヨハネ6:19)という疑いではなく、繰り返し述べられるイエスの訓戒と関連している。「信仰の薄い者たちよ」は三度弟子たちに語られ(マタイ6:30;8:26;16:8)、ペトロに一度語られる(マタイ14:31)。特にマタイ14:31は興味深いパラレルである:「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。この箇所とマタイ28:17のみ、新約聖書において「疑う」の動詞distazeinが見出される。
 「信仰の薄い者」という言葉が常に弟子たちに言われていることは強調されるべきである。つまり、マタイにとっては彼の所属する共同体へ、なのである。事実、ある学者は、マタイの福音書の編纂時、信者たちの信仰の欠如を指し示すものだと指摘している。福音書がそこへ向けて語られた共同体は危機に瀕した共同体であり、思い悩み、信仰の欠如していた共同体なのである(マタイ6:25−30)。それは信仰の薄い共同体であり、そして、特にペトロ個人に向けてもこの訓戒が向けられるという事実は、マタイがこの状況に少なくとも部分的に責任ある共同体でリーダーシップを有していたということを内包している。

薄い信仰
 「薄い信仰」をもっと正確に記述することは可能であろうか。その症状は何であろうか。「信仰の薄い者」という節が使用される四つの例のうち二つは、マタイがほぼ明確に教会を象徴とする舟で、弟子たちとのやり取りに見出される。最初の例では、その時代の状況での嵐の中にいる教会の姿を得ることができる(マタイ8:23−27)。第二の例ではペトロがイエスについていくように招かれるが、彼の信仰の欠如が障害であることが露呈する(マタイ14:28−30、特に28−30)。信仰の欠如とは何か。ペトロが真にイエスに従うことを妨げている障害はなんなのであろうか(マタイ14:31)。この質問によって我々はマタイ16:8をさらに詳しく考察する。そこでは「信仰の薄い者たち」がマタイ福音書で最後に使用される。

岩か躓きの石か?
 「信仰の薄い者たち」(16:8)という言葉が最後に使用されるのは、フィリポ・カイサリアでのペトロの告白(マタイ16:5−12が13−20の前置き)に先んじるペリコペである。このペリコペは順番に最初の受難予告に先んじている(16:21−23)。ペトロの告白は、福音書の中で教会(エクレシア)が使われる二つの節の一つである(マタイ16:18と18:17で二度)。この文脈の中で、ペトロはイエスが「メシア、生ける神の子です」(16:16)と告白し、イエスそれに答える:「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(16:18)。しかし、その同じペトロが、僕であるメシアとして受難を予告するとそれに対して否定的に反応すると、こう言われる「サタン、引き下がれ!あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)。それゆえ、ペトロは「岩」とも「躓きの石」とも呼ばれている(skandalon,スキャンダル。Cf.この動詞は共同体講話で使用される。マタイ18章)。さて、いつペトロは「岩」と呼ばれるのか。彼がイエスをキリストと告白する時、すなわち、イエスが望むメシア像で彼が告白するという条件のもとメシアと告白する時である。決してペトロが望むメシア像ではない。そして、どのように告白するのか?イエスのメシア性に関して厳粛な陳述をする時であろうか?教会がイエスをキリスト、僕であるメシアとして「告白」する唯一の方法は、僕である教会として彼に従うことによってである。その時、「ペトロ」と教会は「岩」であり、すなわち、神の国の建設のための堅実な基礎なのである。しかし、「ペトロ」と教会が僕であるメシアに従うという重要性を受け入れるのを拒絶し、パワープレイや疑わしい外交のようなものに従事する時はいつでも、「人間の側」におり、躓きの石になるのである。権威と構造がどんな代価を支払ってでも保護され、人々を犠牲にしてさえ、特に小さいものを犠牲にして促進されなければならない最高の商品であるとみなされるようになる時と場に同じことが起こるのである。(下を参照)

聖霊の約束はどうなるのか?
 しかし、それは反対されるかもしれない。キリストは聖霊を教会に送ると約束したのではないか?まさにその通りである。しかし、キリストは、教会が常に即座に聖霊の促しを聞くだろうということは保障しなかった。教会の歴史は、教会が時には長く痛みの伴うプロセスを経てのみ聖霊に真に従ったことを明確に示している(公の追従者が従うずっと以前にバルティマエウスがしばしば聖霊の促しに従った)。イエスが自分で任命し、自分に先立って送った七十人(ルカ10:1;十二人ではない!)に言っていることを想起しよう:「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける」(ルカ10:16、マタイには見られない)。しかし、これらの言葉は七十人に、彼らがキリストによって遣わされ、彼らのではなくキリストの使命を果たすこと、他の人々に彼らが僕であるメシアに従う僕の教会を真に現していることを思い起こさせることを意図しているのである。これがそうでない時、彼らは耳を傾けてもらうことを期待するべきではない。

教会における権威
 教会における権威はそれゆえ、イエスが十二人にゼベダイの子らの出来事の時に明確にしたように非常に特別な類のものである。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:25−28)。これらの言葉の中で、僕であるメシア、イエスは彼に従う者たち、特に、権威者に、僕になるように勧めている。僕である教会の権威は、より効果的な奉仕のための機会として理解され、実践される時にのみ、正しく解釈されるのである。

無力な教会?
 このことすべてが、何か態度を取らないですべての権力を拒絶し、物事をただ起こらせるだけの教会ということになってしまわないか?もちろん、そうではない!第一に、キリストは僕であるメシアであるが、決してこびへつらう存在ではない。彼は、ガリラヤの最高権威者ヘロデをキツネ(ルカ13:32)と呼んだ。彼に尋問する大祭司に対しては「なぜ、わたしに尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい・・・」(ヨハネ18:21)。ピラトの尋問では:「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、他の者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(ヨハネ18:34)そして、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」(ヨハネ19:11)。当時の社会で受け入れられていた方法に対してイエスの独立性、自由性は言うまでもない。イエスは国家的もしくは宗教的権威のいずれによる沈黙の脅かしに屈しない、自由な心の持ち主なのである。時に彼が沈黙したとすれば、それは彼自身がそう選んだからである。そして、事実、これらの沈黙は非常に雄弁であった!僕であるキリストに従う僕である教会もまた沈黙するべきではない。
 第二に、教会は本当に自分を当局のレベルに置いて、彼らのひとりのように振る舞うパワーゲームから身を引くべきである。この意味で教会は根本的に権力を拒絶する。教会の真の力は預言者のもののようであるべきである。ある意味で預言者たちはどんなパワーもどんな強力な支援も持っていなかったのである。しかし、非常にしばしば、国の中で王たちが考慮しなければならなかった唯一の「力」であった。彼らは物凄い倫理的な力を持っていたため、彼らの言葉はいまだに今日でも聞かれるのである。彼らの言葉と態度は力強かった。それは彼らが王のパワーゲームや妥協過程に入るのを根本的に拒絶したからである。教会が切望する唯一の力は預言者的、倫理的力であるべきである。しかし、教会は権力当局のゲームに参加するのを根本的に拒否する限りにおいて、この力を受けるのである。時に教会の言葉がそれほど力を持たず、預言者的でないとすれば、それは、権力のもつれや妥協の継続を十分に避けていなかったという事実によるのである。それゆえ、教会の言葉と立場はあまりにもしばしば曖昧であり堕落したものである。我々は、神の民の真の利益のために奉仕しつつ、沈黙への脅しに屈することなく、「大胆に」(使徒4:20,31等参照)語る教会が必要なのである。

教え・・・わたしがあなたがたに命じておいたことすべて
 すべての民を弟子にするということは「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」を含む。すなわち、弟子のあり方である。マタイにとっては、これは山上の説教(マタイ5:1−7:29)に明確に見出される。しかし、山上の説教が五つの講話のうちの最初のものであるゆえ、「あなた方に命じておいたことすべて」は五つの講話すべてに言及しているものと思われる。そこでは必ず最後に「イエスが・・・をし終えると・・・」という節がそれぞれ置かれ、それぞれの講話を結び付けている(マタイ7:28;11:1;13:53;19:1;26:1)。これら五つの講話はそれぞれ神の国の異なった側面を扱っている:
1. 山上の説教(マタイ5章〜7章) 神の国の特徴
2. 宣教講話(マタイ10章) 神の国の拡大
3. たとえ話講話(マタイ13章)神の国の神秘あるいは性質
4. 共同体講話(マタイ18章) 神の国の内部構造
5. 終末講話(マタイ24章〜25章) 神の国の完成

山上の説教(マタイ5:1−7:29)
 群衆へのイエスの最初の語り掛けである山上の説教は、神の国の弟子になるのに何を要するかに関する印象的な声明を構成する。多くの解釈者たちは、山上の説教のきわめて多くを要求する特徴の解釈に苦労する。彼らはそれを戒律と考えるが、それにしてもこの非常にきつい戒律がどのようにしてすべての人たちに義務となりえようか。山上の説教の形式、真意、ダイナミズムは厳密な意味で戒律として扱っているのではなく(自分が知っている他の戒律と山上の説教を比べるとよい)、方向づけ、「目標戒律」であるということを明確にするべきである。山上の説教は一セットの命令(規則や規制)ではなく、方向性を示すものである。山上の説教の根本的特長はそれに先んじる天の国の宣言(4:17)の光の下でのみ理解されうるのである。天の国は近づいたという宣言は多くのことを意味しうる。倫理的な用語、関係性の観点からは、イエスは神が最終的に決定的に(終末論的に)、無限、無条件の愛と関心、ゆるしを与えるという中で人類に介入したということを意味する。それによって我々もまた同じ無限、無条件の愛と関心を同胞に向けるようにチャレンジを受けるのである。これが無限、無条件、そしてそれゆえ根本的な山上の説教の要求の特徴の基礎なのである。
 四つの伝統的な至福(貧しい者、飢える者、悲しむ者、迫害される者:「心の貧しい者」など)に他の四つの至福(柔和、憐れみ深い、心の清い、平和を実現する人)を加え、それを内実化し、精神的に意味を与えることによって、マタイは八つの至福を形成し、それらを美徳のリストに入れ、あるいは、神の国の宣言に応答することを望むすべての人々によって実践される姿勢にしたのである(マタイ5:3−12)。共同体全体が(あなたがた)が地の塩、世の光(5:13−16)なのである。弟子たちは以前のすべての義の実践に勝らなければならない(5:20)。それは、「昔の人はこう言った」ことに従って自分たちの生活スタイルをもはやパターン化することなく、今やイエスが命じること(cf. マタイ5:21−48)に従って、言い換えれば、「すべてわたしがあなた方に命じておいたこと」を守ることによってなのである。そして、弟子たちは、善行をするとき、「勝る義」がどのように実践されるべきであるのかが語られる(施し、祈り、断食、;マタイ6:1−18)、富に対する態度(6:19−34)、隣人に対する接し方の諸側面(7:1−12)。最後に、家を建てる人の譬えが、言葉を聞いて行うことの重要性を強調するのである(7:24−27)。

宣教講話(マタイ10:1−42)
 この講話もまたマタイ28:16−20における最終的な説明に含まれている。復活のキリストが最後に語る「すべての民を弟子にしなさい」は、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:5−6)と最初に言われた弟子たちの宣教の一時的な限定を打ち破っている。そして、イエスは自分自身の宣教に関して「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15:24)と言っている。しかし、時折、イエスはこの限定を破っている。例えば、百人隊長の僕をいやし(8:5−13)たり、カナンの女の娘をいやしている(15:21−28)。復活のキリストの最終的な声明の光の下ではひどく狭いマタイ10:5−6と15:24の視野は明らかに、究極的には世界全体への宣教であるべきことの単に一時的な段階でしかないように思われる。マタイ福音書の構成における宣教講話の位置によって、福音記者は我々に弟子の身分とその任務の理解を伝えている。マタイ5章から7章での山上の説教で、福音記者は我々にイエス像を与えてくれる。それは、力ある言葉を持つメシアである。これに続いて次の二章(八章と九章)は主に一連の十の奇跡物語から構成され、
そこで福音記者は、力ある業をもつメシアを提示する。これらの章を通じて、我々は弟子たちがイエスの行いを見、イエスが話したことを聞いているということを想起させられる。さて、マタイの10章において、イエスは弟子たちを「教え、宣べ伝える」ために派遣する。「教える」というのはイエスが山上の説教で話したこととつながっている。しかし、かれらはまた8章と9章とつながる十の奇跡とのつながりで癒すためにも遣わされている。それゆえ、弟子性と宣教は、力ある言葉と業におけるイエスのメシア的活動の延長として復活のキリストによって遣わされていると言う見地からマタイには理解されている。

譬え話講話(マタイ13:1−52)
 この講話は天の国の「神秘」あるいは「秘密」を扱っている。言い換えれば、天の国の本質である。たとえ話は天の国のダイナミックなイメージを伝えている。それらの譬えは種まく人、からし種、パン種、宝、あるいは網と天の国を比較するのではなく、たとえ話全体に描写される行為全体でたとえられる。我々はそれらを「天の国は種を蒔く人のケースのようだ・・・」と理解すべきである。よい麦と毒麦(13:24−30,36−43)と網(13:47−50)のたとえ話の中で、マタイは明らかに教会内での罪と悪の認識を示している(マタイ22:1−14)。マタイは明らかに第一バチカン公会議以降の「完全な社会」(訳注:societas perfecta=教会)の神学をここでは描いていない。罪深さは個々人のキリスト者の生活にのみ見出されるのではなく、教会の構造の中にも見出されるものである。それゆえに両者ともまた「回心」が必要なのである!

共同体講話(マタイ18:1−35)
 教会内の権威に関することに対してすでに述べられた見方からすれば、共同体講話が弟子たちの質問「いったい誰が天の国で一番偉いのでしょうか」(マタイ18:1)が引き金になったということは興味深いことである。明らかにマタイは、教会指導者がいかなるこの世的権威や教会内での名誉職などという考えを持たないことを確認したかったのである。彼らは兄弟の上に自らの位置を置く(マタイ23:9「誰も父と呼ぶな」)べきではない。マタイはこの種の指導が教会内で必要であると感じていた(マタイ18:2−4)。「小さな者」(マタイ18:6,10,14)は子どもたちではなく、影響力もなくシンプルで傷つきやすい人々のことである(マタイ25:40わたしの兄弟であるこの最も小さい者)。そして、「小さな者たち」を躓かせる人々は、それゆえ、小さな子どもたちに悪い習慣を教える大人たちではない(多くの説教で語られる)。それではどのように「小さな者たち」を躓かせるのであろうか。それは誰が一番偉いかを議論することによってである(マタイ18:1参照)。そのような者は「大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである(マタイ18:6)。「小さな者たち」は真の奉仕の態度によってよりも野心によって行動する教会内の誰によってもつまずかされるのである。野心を持つ者は躓きの石(skandalon;マタイ16:23参照)になるのである。野心はキリスト教共同体の兄弟性を傷つける(マタイ18:6−10)。指導者たちはまず第一に司牧的な諸責任に関心を持つべきであり、誰も見失わないように、特に「小さな者たち」を見失わないように責任をもつべきである(マタイ18:11−14)。教会は兄弟の間柄であるべきである(cf.マタイ18:15,21,35に繰り返される)。そこでは和解の役務が突出した場を占めるのである(マタイ18:15−19)。それはイエスがその現存を約束した共同体なのである(マタイ18:20;cf.マタイ28:20「わたしはいつもあなたがたと共にいる」)。人が常に許しを提供する準備をすべきである(マタイ18:21−22)という原則は仲間を許さない負債者の譬えで描かれている(マタイ18:23−35)。教会の指導者は、自分に任された人々が「仲間の僕」(マタイ18:28,31)であり、彼らが近づいてきた時に、自分自身も神によって赦された者であるという事実に気づくべきである。彼は仲間の罪びとを裁き主としてではなく、自分も赦された者として(マタイ6:12)仕えるべきである。

終末論的講話(マタイ24:1−25:46)
 この講話は終末論的な講話(マタイ24:4−31)と七つの再臨のたとえ話で構成され、そのうちの最後の四つ、特に忠実な僕のたとえ話(24:45−51)は特に我々に関心深いものである。「忠実で賢い僕はいったいだれであろうか。主人が帰ってきたとき、いわれたとおりにしていうるのを見られる僕は幸いである?」これらの句は明らかに教会指導者たちに任された司牧的責任のことを語っている。それは言う「主人が帰ってきたとき、司牧的務めで忙しくしているのを見られる教会指導者は幸いである!」しかし、48−49節は明確に「悪い僕」が「主人は遅いと思い」仲間を殴り始めるという権力の乱用の可能性が等しくあることを語っている。主人が帰ってきたとき、「彼らを偽善者たちと同じ目に遭わせる」(24:51)。十人のおとめたちのたとえ(マタイ25:1−13)は全体として弟子たちと教会が時代の変化に対応するべきであることを示している(ここでは再臨の遅延)。タラントンのたとえ(25:14−30)は我々に、一人一人が受け取っているタレントに従って清算しなければならないことを教えている(教会の最大の罪の一つはタレントの無駄遣いである!)そして、羊と山羊のたとえ(25:31−46)は最後の審判の基準を確立する。愛の掟、特に「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者」(25:40)への愛である。

まとめ
 まとめとして、我々は、マタイにとって教会は僕であるメシアに従う僕である教会になるべきである。まさにキリストが権力当局と連携することを拒絶したのと同じように、教会も彼らとのいかなるパワーゲームを始めるべきではない。教会は、神のみ前で基本的に平等である新しい契約の民の共同体、すべての民を弟子にしようとする弟子たちの友愛であるべきである。その中では地位や権威は単に神の民全体、特に「小さな者たち」へのより効果的奉仕をするための機会なのであり組織へのそれではない。教会は共同体になるべきであり、その中では司牧的関心と和解の役務が運営努力や教会法よりも重要な関心事であり、特にイエスが自己同一化する「小さな者たち」(マタイ25:40,45)が究極的な愛の掟の基準なのである。