マピヤ・マピタ(おはよう)

マギンダナオ、今この地名を聞くとフィリピンでは誰もが震え上がる。モロ解放前線(MILF)と政府軍との内戦が繰り広げられ、多くの避難民を出している場所だ。もともとミンダナオという名前もこのマギンダナオに由来するらしい。それくらいミンダナオらしい場所なのだ。この場所は回教徒とキリスト教徒が混在する場所で、現在、表向きは回教徒対キリスト教徒の紛争ということになっている。この場所に先日行ってきた。日本の外務省が危険度三を出し、日本人は足を踏み入れてはいけない地域に指定されている。しかし、僕には安全の自信があった。その場所で一生懸命回教徒とキリスト教徒のために働いている一人の司教を知っていたからだ。その司教の名前はロムロ・バリエス。驚いたことに、たまたま僕のセブアノ語の先生の弟で、ここサンイシドロ出身なのだ。それで前から面識があった。彼についてはフィリピンの大手新聞がトップ記事で取り上げられたことがある。まず、その記事から紹介しよう。少し長いが、全文載せることにする。
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司教、戦争の中で平和と愛を見出す(インクワイアラーより、四月十一日、二千一年)
バランシュ・リベラ記者
回教徒の小さな女の子が「ムロイ」と呼ばれるロムロ・バリエス司教のシャツの裾を引っ張った。司教はキダパワンの避難民センターの一つで救援物資を配っていた。司教はその幼い難民を見つめ、何をしてあげられるのかを尋ねた。彼女はバリエス司教がメトロ・マニラから寄付された物資を取り出していたトラックの荷台のダンボールを欲しがった。彼女はセンターに避難を求める幾百人ものお腹を空かせた子どもたちと同じように、水浸しの地面を覆うための空の箱が必要だったのだ。
司教はその子にダンボールをあげた。そして、このことは、もう一度彼自身に過去二十五年間、ミンダナオの紛争地域で彼が一生懸命働いてきたことの理由と報いを与えたのだった。バリエス司教はボホール生まれだがミンダナオで育った。そこで彼は1976年司祭に叙階されて以来ずっと奉仕している。
司教の親しい友人であるピーター・ヘレミヤ神父は、1976年の彼の叙階が、トリポリ協定が調印された同じ年であるという事実に特に言及した。それはバリエスが異なった信仰と政治をもつ人々の中で生きていくことを指し示していたとヘレミヤ神父は語った。その年はまたキダパワンが司教区として認められた年であった。
相違を生じる
ミンダナオに於けるイデオロギーと政治の終わりなき戦いに捉えられている回教徒とキリスト教徒を支援する人々の前で、バリエスが好んで回想するこの小さな女の子の話は、常に驚きとともに、キリスト教徒であれ回教徒であれ、何者かの生活に相違を生じさせるためになされる何度も繰り返される小さな努力なのである。
「私は想像できなかった。空っぽのダンボール箱がこの子どもにそれほどまでに貴重なものであったと言うことが。」と司教は語った。
ミンダナオに於いて最も戦争と貧困の影響を受けた地域の一つであるキダパワンに1997年、バリエスは司教に叙階されて以来、避難民センターから常に目を離さずにいた。まさに彼はそこで、彼が好んでするあの小さな女の子と出会ったのである。
村の人たちは五十歳になるバリエスを、謙遜で、ほとんど目立たない人物と表現する。彼は、戦争の只中で平和を、紛争の只中で愛を、そして、絶望の只中で信仰をという彼の夢を諦めることなく、この地域の「紛争の歴史」を分かち合ってきた。
タバン・ミンダナオ(訳注:Tabang Mindanawセブアノ語で「ミンダナオ援助」の意味)
「邪悪な状況の中にいて、そこから良いものを引き出す彼の能力、それは多くの偏見と憎悪の中で愛を輝かせる能力…我々ができる僅かなことをし続けること…これが彼を偉大な司教にしている」とタバン・ミンダナオでのバリエスの協力者ハワード・ディーとメルリー・メンドーサは語った。
1998年、エル・ニーニョが襲った時、この司教は特に多くの農民たちが飢餓に瀕していた少数民族の共同体に於いて「タバン・ミンダナオ」と呼ばれる救援と医療援助プログラムを促進した。彼は旱魃の被害を受けた作物の中にほとんど何も残されていないものを探し回っていた少数民族の中で医療活動と食料配布に奮走した。
バリエスの教区であるキダパワンは、この災害が終息するまで援助の中心となった。
ヘレミヤ神父はこの司教を「自分の子どもたちが飢えているのを見るのに耐えられない父親」と表現し、そして、タバン・ミンダナオ計画の援助のためにメトロ・マニラにいる善意の人々に恥も外聞もなく近づいたのだった。
それは彼が司祭職に最初に入った時に彼が常に祈ったことであった。彼の写真の下に、あの若い司祭はこう書いた:「あの方は栄え、私は衰えなければならない」(ヨハネ3:30)。「彼の容姿は柔和な人物を表している。」とプエブロス司教はバリエスについて語った。「しかし、この柔和で謙遜な僕はまた、戦争、暴力、衝突や紛争の耐え難い時代を通じて、彼の群れを導いた牧者なのである。」
生涯の召命
モロ戦士と政府軍の絶え間ない戦いは何千家族をも避難センターへ送ることとなった。夜、避難場所として使われたのはほとんど壊れかけた学校だった。ここが、司教が自分の家を見つけた場所であった…そして、生涯の召命を。
彼は職を退かされたジョセフ・エストラーダ大統領の過去の行政、ミンダナオに於ける全面戦争(all-out-war)への痛烈な批評家の一人であった。バリエスはいつでも爆弾が落ちてくるという不安なく、自分たちの家に帰り、生活を立て直したいとどれだけ避難民たちが願っているのかを知っていた。
「彼は、メディアが恐れと偏見の間に捕らえられた住民と戦争の雑音に溢れている一方で、荒れ野で平和を求めて叫ぶ孤独な声となった」とヘレミヤは語った。
「様々な機会が民族的暴力の火を扇いでいる。そして、避難民でさえ爆撃と機銃攻撃の標的となった。」と彼は語った。「我々は戦火の火を止めることができない調停者たちのどうしようもない無力を感じた。」
しかし、どんな騒々しい銃も司教の平和を求める叫びを黙らせることはできなかった。
彼は回教徒とキリスト教徒の指導者らを集めて幾度も会合を重ねた。それは司祭やイマーム(訳注:イスラムの導師)のフォーラムであるウスタズ(USTAZ)として知られるようになり、それより前に始まった司教とウラマス(Ulamas)のフォーラムに似ている。バリエスは、地方レベルで平和プロセスを確保したかったのであり、それには町の人々も参加することができた。
正反対側から集まってくる一方、回教とキリスト教の指導者たちはバリエスの平和への呼びかけを支持し、様々な医療活動や復興努力を開始し、そしてついには、当初不可能だと思われていた連帯という感覚を芽生えさせた。
低姿勢
すべての努力に於いて、バリエスは一度も努力に報いる名声を考えたことはなく、目立たないライフスタイルをとり、少数民族の人々と交わり、新人民軍(National People’s Army)やモロ解放前線(Moro Islamic Liberation Front)のメンバーとでさえ偏見なしに交わることができる。
「人々は尋ねた:バリエス司教は回教徒の司教なのか?それとも、この司教は避難民の司教なのか?」とキダパワン教区の一人のメンバーは語った。
「山岳地帯ある場所で、完全武装した新人民軍部隊が彼に出会って尋ねた『こんなところで司教は何をしているんだ?』と参謀は語った。「彼は新人民軍の司教なのか?」
バリエスは一言も言わなかったが、しかし、ハイメ・シン枢機卿は、彼らのこの司教についてのすべての質問に単純で適切な答えを与えた。
「彼は彼が仕えている人々へ、キリストの生きたしるしとなった司祭の模範なのです。」
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この記事はバリエス司教に焦点を当てたものだが、実際に本人に会って、一緒に避難民センターなどに行ってみると、実に低姿勢で謙虚な司教だ。バリエス司教は、髪の毛がだいぶ不自由だけれども、明るい人柄で、普通我々がイメージする司教とはだいぶ違う。こちらがフィリピンの慣わしで「アメン」(注:フィリピンでは尊敬を表すために相手の右手を取り、それを額に当てる。タガログ語では「マノポ」、セブアノ語では「アメン」と言う)しようとしても、自分から頭をさげてなかなかさせてくれない。「疲れただろう。さ、コーラが良いかい?それともスプライト?あ、ビールも冷えてるよ。」といってやたらと自分で動き回って奉仕する。周りが恐縮するぐらい人懐っこい人柄で、新聞記事にあったように目立たない容姿だ。英語で我々にいろいろと話をしてくれたが、例え話が多いので非常に分かり安い。ただ、時折見せるあの輝いた目は預言者をほうふつさせる。不正義には怒りさえあらわにする。
司教は我々に、「私も含めてキリスト教徒は回教徒に対して偏見を持っている。自分自身も偏見を持っていた。以前、初めてここに赴任した時、回教徒の地域などを訪問することになるなどとはこれっぽっちも考えていなかった。」「救助活動している人でさえ、彼らが帰らないのはお米が欲しいからだという。我々一人ひとり必ず偏見、バイアスを持っている。それをまず認めた上で、関わっていかなければならない。」と熱っぽく語る。
避難民センターには未だに二千家族以上が住んでいる。一番戦いが激しかった時は、数万家族が避難してきたという。少し落ち着いている現在でさえ、紛争が続いている自分たちの土地には恐怖のためにまだ帰れない。マスコミはあまり華々しい戦火がなくなると、あまりその後の避難民の報道しなくなったため忘れ去られている。
避難民センターを歩いていたとき、一人の五歳ぐらいの女の子がぼろぼろの本を一冊大事そうに抱えていた。覚えたてのマギンダナオ語で「マピヤ・マピタ」(おはよう)と話し掛ける。その子は恥ずかしそうに横を向いた。隣に座ってその本を覗いてみると英語の本だった。回りに集まってきた子どもたちは学校で少しタガログ語を習っているので少しタガログ語が理解できた。タガログ語でこの子は英語が読めるのかと聞くと。「全然」と答える。よく見ると彼女は英語の本の中にある挿絵をずって見ていたのだ。避難民センターの何千人もの子どもたち、戦争に巻き込まれて心のケアが必要な子どもたち、恐らく、その心を少しでも癒したものは、ちっぽけな一冊の英語の本の挿絵だったのかもしれない。それを見て作家の松居友さんは、移動式のミニ図書館を作って、戦争で心に痛手を負った子どもたちに絵本などを見てもらいたいとミニ図書館を計画中だ。
ジェシー神父はバリエス司教の秘書兼事務局長として働いている。彼の車に便乗して行ったので彼の話も聞くことが出来た。彼自身、小さな頃から回教徒を嫌っていた。様々な経験がその感情を育んでいったのだ。しかし、バリエス司教の補佐として一緒に活動するうちに、自分の中のバイアスに気づき、それを克服しようと努力しているという。このあたりには次のような言葉があると言う。「良い回教徒は死んでいる回教徒」恐ろしい言葉だが、キリスト教徒の一つのバイアスの表現だろう。逆に言えば、今生きている回教徒は悪い回教徒という意味だ。ジェシー神父は「今も自分の中にバイアスはある。以前はそれを当然と考えていたが、難民センターで子どもたちと出会い、悲惨な状況にいる人々を見た時、自分の今までの回教徒に対する考えが間違いであり、彼らの人間としての尊厳を大切にしたいと思う。結局は彼らも我々も同じ神の子なのだから。」
難民センターでは、ほとんどセブアノ語は通じない。マギンダナオ語を話している。学校教育のおかげで大人は少しタガログ語を話す程度だ。彼らはある意味で自分たちの土地からほとんど出ることは少ない。だから、キリスト教用語の「教区」という言葉を彼らは当初知らなかった。バリエス司教が援助の手を差し延べてから、「教区」というのは司教や援助者の意味として彼らは理解している。だから、僕も出会う人に言葉としては不自然だが「僕は教区です」と言うと、皆が微笑んでくれた。
バリエス司教は少数民族の援助もしている。司教の話によると、彼らの世界と我々の世界は別世界だという。たとえば、病気になって病院に連れて行くと行っても、キリスト教徒地区にある病院への行き方も知らない。キリスト教徒地区では、病人を見つけたとき、彼らの問題はお金なのだ。お金さえあれば喜んで病院に行く。しかし、彼らの場合、病院が何をするところなのかも知らない。だから、お金をあげるといっても病院に行かない。貧困というのは本当に悲惨だ。多くの子どもたちが文字を読めない。少数民族や貧しい回教徒にとって教育が一番今必要とされている。我々に何ができるだろうか。
ミンダナオの正義と平和のために亡くなった人たちの絵がカテドラルに飾ってある。毎年、彼らの勇気を称え、平和を祈るミサの中で記念される。中にはイタリア人司祭トゥリオ神父の姿もある。彼は少数民族のために尽力した人で、マルコス時代に暗殺され、脳みそを食された。

マギンダナオ州にある避難所で。

戦争で足を撃たれ負傷。写真を撮って皆に知らせてくれと頼まれた。

この川が重要な交通路となっている。川の向こう側には政府軍が未だに待機している。

作家の松居友さんと避難民の方々。故郷に帰る日を待ちわびている。

バリエス司教がこの避難民キャンプでの教育係りの人たちと話をしているところ。

全員で記念写真。
ハウスオブジョイのあるサンイシドロにももちろん回教徒は住んでいる。ここの市長であるホスティナ・ユーは、回教徒を積極的に支援し、ハウジング計画も実行してフィリピンの中でもモデル地域で見学者も来るほどだ。選挙後、彼女は市長職を去るが、回教徒との緊張関係が続くミンダナオの中で平和維持のために奔走している。先日も隣町のルポンに僕と烏山さん、それに作家の松居友さんが回教徒の集会に招かれた。驚いたことに、そこにはモロ解放前線の将軍もいた。彼らは非常に紳士的で、サンイシドロでのハウスオブジョイの活動に対して感謝を表明した。ハウスオブジョイにはモロ戦士の子どももいる。また、カシンカシン奨学生を回教徒地域からも多数受け入れている。モロ解放前線の最終的な目的は完全独立であるが、特に子どもたちの教育に力を入れたいと考えている。ルポンに回教徒のための学校を建てる計画なども話してくれた。
我々日本人一人ひとりもスピーチをした。烏山さんはハウスオブジョイの活動やそれから派生していったカシンカシン奨学金、また、病気や行き倒れの人々の援助について紹介し、宗教を超えて助け合う心を力説した。スピーチの後は回教徒の代表と固い握手をしたのが印象的だった。松居友さんは、日本の物質的豊かさとそれとは正反対の精神的貧困について語り、自分自身がフィリピンの人々の心に触れて癒されたこと、また、回教徒ともはじめてあって何の違和感もなく友達になれたことを分かち合った。また、難民センターを訪れた時に、戦争でひどい傷を受けた子どもたちにいかに絵本の体験が心を癒すかをも話してくれた。
ホスティナ市長が司会役を務めて友好的な雰囲気の中で会合が進んだ。具体的な援助をどのようにできるのかなどがその後話し合われた。市長の思惑の中には、まだまだ続く可能性がある紛争の中でなるべく回教徒との良い関係を今の内から始めておきたいという気持ちもあったと拝察する。
一般の人から見れば、MILFの中に入っていく日本人は極めて危険だと考えるだろう。我々も当初正直言って恐れは感じた。これも我々が回教徒に対して抱いている一つのバイアスだろう。将軍は僕のスピーチの中でこのバイアスについて触れたことに対して、回教徒はキリスト教徒に対しては偏見を持っていないし、反キリスト教でもない。ただ望んでいるのは完全な独立だということを強調した。確かに我々はミンダナオの歴史をあまり知らない。歴史の教科書でもキリスト教側が書くものと、回教徒側が書くものとで視点や見方が違っているのも確かだ。単に戦争に走るのではなくて、地道な双方からの歴史の研究や話し合いによる解決を切に望む。
もう一つ僕が強調したのは、草の根レベルでの協力体制ということだ。長い平和的解決の道のりの中で、我々の文脈の中で我々にできることから地道にやっていくこと。これは特に子どもたちの教育の援助や相互理解を深める活動などを共に積極的に行うことで深められると思う。
浦和教区(谷大二司教)の「イエスの食卓献金」(金曜日の夕食はイエス様をお招きして食事をする、その分を献金し、アジアの子どもたちのために援助し交流するためのもの)がハウスオブジョイに寄付され、子どもたちの将来のためにミシンや農場の整備にあてられる。同時に、カリガランという回教徒地域に「研修センター」を建設し、地域の回教徒やキリスト教徒、日本から来られた方々との交流の場となることを願っている。こういう地道な友好的活動がミンダナオの平和に貢献すると思う。
来年からキダパワン教区へのミッションの可能性を探りに行ってみようと思っている。