下北沢を巡る
ネヴァーエンディング・ストーリー

 

 

自分が暮らす世界を守るために
彼女はどんな考えにも耳を傾ける
誰もが立ち上がる時だ
あなたはそんな風に彼女に伝えたいと
思っていたのでしょう?

彼女が何者かなんてどうでもいいこと
でもあなたは彼女を良くご存知のはず
寡婦達がベールを引きちぎり
慈悲を乞う彼女の叫びが響き渡る

ああ、何て楽しいことだろう!
私も仲間に加わって
歌い踊って祝いましょう
ここは約束の地

レッド・ツェッペリン「祭典の日」より
訳詞協力d安野 玲、小田淳子


 

 下北沢に住もうと決めるのに、迷う理由はなかった。
 バンドをやっていくうえでこんな便利は街は他に無かったし、就職してから住み始めて3年半になる三軒茶屋の街並みは、高速道路と246で分断されていて、どうにも愛着は持てそうになかった。だから会社の同期の人間が住んでいた格安の下北沢の部屋を引き払うと聞いた時は、即座にその後がまとして移り住むことを決めてしまった。ただし、それだけでなく、下北沢という街に呼ばれたような気がしていたのも事実だ。

 大学生活の終わりが迫っていた83年。
 僕の一番親しかった友人は、年明け早々「学生会社でもぶちあげようぜ」と言って接近してきたJだった。当時話題になりつつあったブランドものの衣装で身を包んだ彼は、弁舌にもルックスにも人を巻き込むオーラがあり、瞬く間に多くの仲間を集めてしまった。だが7月の終わり、突然全てを放り出して彼は自殺。僕とさしで飲む時に「本当は詩人になりたいんだよ」と口癖のように言っていたJは、その繊細さの裏返しのような形で、会社を作ると言いだし、世の中に刃向かおうとしていたのだと思う。
 だがその計画は頓挫。残された仲間は、お互いの目を背けるように、バラバラになり、僕はある出版社に就職した。
 そのJが最後に住んでいた街が下北沢だった。

              *
 下北沢に引っ越してきたら生活が変わった。
 なにしろ終電が終わってからも、やっている店はたくさんある。しかもそこで知り合った人間が、隣人の友人だったりするので、近隣の顔見知りが加速的に増えていく。当時務めていた出版社は、月に80時間前後の残業が当然だったが、それでもこの街にいると平日に遊ぶ時間が作れるのは、嬉しい驚きだった。
 当然のごとくバンド関係の知人もどんどん増え、90年の夏には、それがこうじて会社を辞めることになった。下北沢で新たに結成したバンドでJの思い出を歌いながら、原稿料で生活費を補う日々。バンド・ブームの追い風もあり、91年にはとあるレーベルからCDデビュー。ところがバンドは翌年に解散してしまった。

 結局アルバイト気分で始めたライター業が生活の中心となり、それでもまた新しいバンドを始めたりする頃、いきつけになった店が、NEVER NEVER LANDだった。小田急線の踏切の側にある古めかしい建物の二階にあるこの店は、エアコンも無く、壊れたガラス窓の代わりに、なんとビニール・シートが張ってあるという極端に個性的なロック・バーだった。
 NEVER NEVER LANDに通うきっかけは、予備校時代の同級生だった女友達。最初はアルバイトでカウンターに入っていた彼女を冷やかしに行くのが目的だった。だがカメラマン、ライター、庭師など、様々な経験を持つマスター、松崎博さんの人柄の面白さを知ってからは、彼と話すのを楽しみに通うようになった。特に自分が書いた原稿に興奮してしまって寝付きが悪くなった夜などは、店に顔を出して明け方まで話し込むのが当たり前。さらにNEVER NEVER LANDでは、機材は貧弱ながらも、ライヴハウスなどに較べると破格ともいうべき待遇でライヴをやらせてもらったりもするようになった。
              *
 僕がすっかりNEVER NEVER LANDの常連となった頃、Jを囲む仲間の一人だったYが、久々に連絡を取ってきた。やはりJの死に衝撃を受けた彼女は、沖縄、タイと渡った後、カンボジアの大学に留学し古典舞踊を修行しているところだった。たまたま一時帰国した時に、僕が書いた沖縄音楽についての原稿を読んだが、連絡先が分からないため、わざわざレコード会社を経由してコンタクトをはかってきたのだ。
 こうして17年ぶりに再会したYと僕は、それぞれの分かる範囲で当時の仲間に連絡を取り、年に数回のペースで5〜6人で集まっては近況報告をするようになる。集まる場所はもちろん下北沢だ。
 そんな集まりを重ねるうち、YはJが亡くなってから20年の節目に追悼のセレモニーを行おうと提案。Yが日本にいるうちに会場も決めておこうということになり、一同でNEVER NEVER LANDへ押し掛け、体調を崩して寝込んでいた松崎さんを店に呼び出し、翌年の追悼セレモニーへの協力を確約してもらった。
 僕はその前からバンド経験はあったものの、本当に自分の作品だといえる歌を歌うきっかけは、Jを失った痛みだった。そこでそのセレモニーの場では、Jのことを歌った曲を配布したいと考え、当時のバンド仲間の協力を得て、3曲入りのCD「花よ 大地よ 月よ 銀河よ」を自主制作で完成させた。
 そのCDを持って遺族の方々が住む名古屋へご挨拶にうかがったりした後、2003年11月23日、NEVER NEVER LANDにて、Jが遺書代わりに遺した詩のタイトルにちなんで“寿唄〜ほぎうた〜”と銘打ったセレモニーを行うことができた。プログラムの前半は、Yの舞踊、後半は僕の演奏という構成だ。

  

 こうして僕らは学生時代の仲間が共有する長年の無念な想いに、20年かけてようやくひとつの形を与えることができた。それもまたNEVER NEVER LANDに象徴されるこの街の包容力があったからこそ。これを経て僕は下北沢という街に、ある種の恩義に近い感情を抱くようになった。

              *
 Jのセレモニーが終わった翌12月のある日、僕は松崎さんからある相談を持ちかけられた。実はこの街を真っ二つに引き裂く補助54号線という新規道路の計画が進められており、それを阻止するためのネットワークを作りたいというのだ。地図を見ただけで、これが実現したら街並みは滅茶苦茶なことになると直観。年末の会合に参加することを決めた。

 年も押し迫った12月29日の午後3時からNEVER NEVER LANDで行われたたった5人のミーティング。それが新規道路にストップをかけるための“Save the 下北沢”の立ち上がりとなった。代表は下北沢に住む建築士の金子賢三と歯科医の下平憲治の2名。

 金子はメールの語り口はやけに丁寧だが、直接会うとべらんめい口調。最初はそのギャップに戸惑ったが、草野球に入れ込んでいる様子から、要するに体育会ノリの人懐っこさの現れなのだと納得した。まだ幼い娘の話になるといきなり表情がやわらぐ親バカで、このチームの代表を務めるにも関わらず、「週刊金曜日」という雑誌の存在さえ知らなかったのには、正直言ってかなり驚かされた。だが、いわゆる“プロ市民”的なスレた部分がなく、無垢な郷土愛に突き動かされた彼の美徳は、様々な立場の人が発した言葉を分け隔てなく聞いた後、アイデアとして取り入れていくニュートラルな感覚にある。そのため旗揚げ直後の段階から“Save the 下北沢”には既成の運動組織とは異なる風通しの良さが漂っていた。

 もう一方の代表である下平は、歯科医とは別に日本バックギャモン協会の代表という勝負師でもある。四半世紀前から下北沢の街でひたすら飲み倒してきた自称“Save the 下北沢”の宴会部長で、圧倒的な数の飲み屋の状況を把握。その顔の広さに加え、発作的とも言うべき閃きに満ちた天性の行動力と営業力で、多くのお店に“Save the 下北沢”のチラシを置いてもらったり、ビッグネームの賛同を取り付けてくる。


 二人とも僕とほぼ同世代の40代であるが、いわゆる市民運動の代表というイメージからはほど遠いキャラクターだ。これは下北沢に店を構え、この街の人間模様を熟知している松崎さんが、様々な分野からこの街を守るために力を注いでくれそうな顔ぶれをピックアップした結果だった。
 “Save the 下北沢”というチームの名前は、下北沢という街の特色から、文化的なカラーを強調した動きになっていくことを想定して僕が発案した。
 とはいえ僕は最初から“Save the 下北沢”に深入りするつもりだったわけではない。まずは雑誌の記事で紹介でもしてみようか、というオブザーヴァー的なスタンスを取りつつ様子をうかがっていたというのが、正直なところだ。だが旗揚げの時からのメンバーで、以前公害問題に関わった経験があるという50代の人達も、直で話してみると、まるで偉そうに振る舞う気配が無く、初対面の時から、タメグチのように遠慮のないやり取りを許してくれる懐の深さがあった。そのため集まった顔ぶれになつくような感じで、いつの間にか自分がズケズケものを言いあえる快い場所にちゃっかりいついてしまったといった方が、実感に近いかも知れない。

              *
 ところが2004年4月30日、“Save the 下北沢”の最初のミーティングから丸四ヶ月を経て、いよいよ翌日から街頭での署名活動を始めようというタイミングで松崎さんが亡くなった。一昨年からずっと体調が悪かった原因は、ガンだったのだ。享年54歳。どんどん病が進行していく中で、彼は“Save the 下北沢”のきっかけを作っていたのだ。生前にはそこまでの彼の胸中の想いを察することが出来なかったのが悔やまれた。
 NEVER NEVER LANDでの定例ミーティングを終え、松崎さんのお宅へお線香をあげに行くと、すでに訃報を聞いた馴染みの顔ぶれが大勢訪れている。その後は再びNEVER NEVER LANDに戻り、マスターの思い出話に浸りながら大勢でやけ酒が始まった。そんな中で下平憲治は、松崎さんをおくる葬儀委員長を務めることとなる。お通夜も告別式も故人の遺志を尊重して無宗教。お経の類は一切無しで、その代わりにスピーチと音楽でおくるという。僕はお通夜の場で、彼にちなんだ歌を歌う役を務めることにした。
 翌5月1日、前日の酒がたたってひどい吐き気をこらえながら、葬儀屋との打ち合わせに追われる下平憲治らと共に“Save the 下北沢”初の街頭署名活動。半年前にはまるで想像することすらできなかった展開だった。

*

 松崎さんのお通夜は、ゴールデン・ウィーク真っ盛りの5月4日に行われた。
 この日は大谷レイブンが僕と演奏してくれることになり、二人でリハーサル・スタジオに入ってから、そのままタクシーで代々幡斎場へ向かう。彼は80年代の日本のハード・ロックを好きな者なら誰でも名前を知っている大物ギタリストだ。実は10年以上前にこの街で知り合った時は、ふとしたことから怒鳴りあいになったのだが、いつのまにかこうした場でいっしょに演奏するほど馴染んでいたという間柄である。そんな和解のきっかけも、かつて彼がNEVER NEVER LANDで行なったライヴだった。
 斎場に入るとインスト・グループのticomoonがBGMを奏でている。女性アイリッシュ・ハープと男性アコースティック・ギターによるこの二人も、NEVER NEVER LANDでの定期的な演奏をきっかけに、最近どんどん活躍の場を広げているが、そもそも彼らがデュオで活動するようになったのも、実は松崎さんの発案だった。しかもその後二人は結婚しているのだから、彼らの人生に与えた松崎さんの影響は、なんとも絶大なものがある。

 この日僕が歌うのを選んだのは、今までNEVER NEVER LANDでしか演奏することのなかった曲。ロック・バーでのライヴを締め括るためのご当地ソングだ。隣の部屋からお坊さんのお経が聞こえてくる中、ガチガチに緊張しながら、思いきりたわけた歌詞を歌った。


「BORN TO BE A FOOL」
         作詞d志田歩 作曲d荒武靖

鍵の壊れた 扉を開けて ガラス外れた 窓際座る
きしむ階段 慌てた足音 あいつ遅刻の 木曜日
ボロい店だけど なぜか集うよ
ここは下北 アホでいきましょう

へべれけマスター ビールを追加 
今日もママさん 苦い顔
こんな店だけど 歌になるのさ
ここは下北 アホでいきましょう
ボロい店だけど 愛があるのさ
ここは下北 アホになりましょう

俺のボトルを 空けたのどいつじゃ?
どいつもこいつも
BORN TO BE A FOOL BORN TO BE A FOOL
BORN TO BE ア・ホ〜〜!


 僕がこの歌詞を書いた時は、ただのシャレのつもりだった。しかし、いざ店の主がいなくなってしまってみると、そんな冗談が成り立っていた日常が、どれほど尊く貴重なものだったのか、そんな空間を作ることができる人格が、どれほど愛すべきものだったのかということに愕然としながら歌った。
 NEVER NEVER LANDでこの曲を歌うと、いつもお約束のように「ボロい店で悪かったな!」と突っ込みを入れてくれた松崎博は、この日は祭壇に飾られた写真の中で笑っているだけ。しかたがないので、自分で突っ込みを入れた。

              *
 こうして松崎博からバトンを渡されるようにして、いよいよ対外的にも活動し始めた“Save the 下北沢”は、毎週土曜日のミーティングと街頭での署名活動を中心に動くようになった。音楽や演劇関係の賛同者も増え続け、さらに7月頃からはインターネットを通じてメンバーに参加する人間も増えてきた。

 その顔ぶれは、建築士と歯科医の両代表をはじめ、すでに定年退職した元交通解析員、たまたま下北沢に開いた事務所が54号線の用地にあたっていた弁護士、行政とのやり取りを職業としてきた街づくりの専門家、近隣に住む主婦、自ら作った“Save the 下北沢”のロゴを持ち込むようにして加わってきたデザイナー、雑誌編集者、コピーライター、学生など、職業も世代もさまざまだ。
 ただ“Save the 下北沢”の中心で動いている人達の特徴をあげるなら、いわゆる勤め人が少ないということは指摘できるかも知れない。僕にしてもフリー・ライターとして生計をたてているし、最初に勤め人として加わってきたのは、デザイナーのK君だったが、彼にしてもそれから8ヶ月ほどで事務所を辞め、フリーになっている。その後も“Save the 下北沢”の仲間は増え続けているので、会社員の数も増えてはいるが、やはり下北沢という街には、肩書きに頼らず自分の才覚を頼りに世の中を渡っていこうとする人間がたむろしやすい、という傾向が、いまだに続いているのだろう。
              *
 ニューオーリンズでは、葬式を行う際、墓地から帰ってくる行進でブラス・バンドが演奏するリズムのパターンから、セカンド・ラインと呼ばれる躍動感に満ちた音楽の様式が生まれた。死者への別れのセレモニーという厳粛な場が、音楽の祝祭的な力と親和しているのである。

 9月23日、葬儀委員長でもあった下平憲治のプロデュースにより、北沢タウンホールで行われた追悼イヴェント“松崎さんの会”は、そんな親和力が下北沢でも働いていることの証だった。

 このイヴェントには、NEVER NEVER LANDでアルバイトをしているうちに、松崎さんに歌を気に入られ、店でレーベルを作ってCDを発表した女性シンガー・ソングライターのmiho、60年代末期にデビューしたフォークのベテラン中川五郎、在日二世のプロテスト・ロック・シンガー朴保など、ジャンルも世代も知名度もまちまちな顔ぶれが出演。僕も大谷レイブン、原みどりとのトリオという形で歌わせてもらった。
 和やかな宴会ムードの客席を前に、午後3時から7時まで、4時間にわたって行われたステージでの演奏は、最後は多くの出演ミュージシャンが入り乱れた即興のセッションとなり、大きな盛り上がりのうちに、無事幕を閉じた。

 だがその後の打ち上げの盛り上がりはさらにすさまじかった。
 多くの者はそのまま、20人も入れば満席になってしまうNEVER NEVER LANDに押し掛け、いったい何人の人間がいるのか分からないほどのすし詰め状態。誰が言い出すともなく、足場のない者はテーブルやカウンターの上にのり、爆音でレコードをかけて明け方まで続くダンス・パーティとなった。まさにNEVER NEVER LANDのマスターをおくるにふさわしいバカ騒ぎだ。

 僕は音楽関係の取材を仕事としていることもあって、コンサートの打ち上げに参加する機会は多いが、ここまでテンションの高い宴会は、バスク地方から来日したミュージシャンの打ち上げ以来だった。テロ事件が日常となっている地域の人々の宴会は、楽しめる時にとことん楽しんでおこうという覚悟さえ感じられるもので、非常に驚かされた。だがこの打ち上げに参加することを選んだ人達もまた、今夜のNEVER NEVER LANDという限られた時空間に、ありったけの生命力を爆発させることを望んでいるかのようだった。

 後に故人の奥さんはこの時の様子を「実は床が抜けるんじゃないかとハラハラしていた」と笑いながら語っている。

              *

 11月11日、“Save the 下北沢”の最年長メンバーで交通解析員だったHさんの仕切りにより、新規道路を建設する必要性があるかどうかを確認するための交通量調査が行われた。
 この調査は、スペシャリストとしての立場から何回も行政に意見を提出しながら、ずっと無視されてきたHさんが、道路建設のための裏付けとなるデータすら公表しない行政の態度に業を煮やして提言したもの。体調がすぐれないご家族への配慮もあって、ふだんは会議後の食事会には参加できないHさんだが、この日だけは珍しくヴォランティアで協力してくれた人達をねぎらうための打ち上げにも参加。その時の笑顔からは、今まで行政の冷たい対応に彼が噛みしめてきた無念さが伝わってきた。

 しかしそれから間もなくして世田谷区が発表した地区計画の骨子案からは、補助54号線が単なる道路の建設を狙っているのではなく、駅前に車を流入させる新規道路と連動して下北沢駅周辺の大規模な再開発の前提となっていることが明らかになった。
 要するに広い道路が作られれば、そこに隣接する駅周辺の建物を高層化する法律的な条件がクリアーされるという仕組みである。あらかじめある程度の予想はしていたものの、こうした企みのスケールの大きさに“Save the 下北沢”のメンバーは慄然となった。

 とはいえ、こうした計画の全貌が明らかになったことで、それに異議を唱え、“Save the 下北沢”に協力を申し出る人の数がさらに増すという効果もあった。
 メディアで、下北沢の問題が紹介される機会が加速度的に増えていったのもこの頃からだ。特に11月17日の東京新聞、そして12月19日・TBSテレビの「噂の東京マガジン」は、扱いの大きさも群を抜いており、毎週土曜の街頭でも「“Save the 下北沢”です」というだけで、署名に応じてくれる人が現れるようになった。再開発のスケールの大きさに唖然とする一方、立ち上げから1年で“Save the 下北沢”の主張が、ようやく世に知られてきたと実感するようになったのである。
              *
 こうした街の状況と前後して、僕が88年に下北沢に引っ越して以来、ずっと棲んできた家が、大家の都合により、取り壊されることになった。立ち退きの期限は2005年3月。ただし引っ越しの準備と後かたづけに要する時間を考えると、ライター稼業の身としては、印刷所が締まる年末年始を利用するのが一番無難だ。そんなわけで僕は、2004年の12月に、16年ぶりの引っ越しを行うことにした。
 かなり多くの物件を見て回った結果、昔バンド仲間が住んでいた5階建てのマンションの5階に空き部屋があることを発見し、そこに決めた。値段は相場からするとかなり安い。その代わりエレベーターが無いという条件である。
 場所は今まで棲んでいたところから徒歩2分。ただし荷物は、引っ越しの準備を考えるだけで憂鬱になるほどの量だ。そのため引っ越し作業を業者に頼もうかどうかと悩んでいたところ、夏から“Save the 下北沢”のメンバーとして精力的に関わるようになっていた大学院生の木村和穂から「親戚の車を出すので、全部自分達でやっちゃいましょう!」という申し出があり、僕は業者無しで乗り切ることを決断する。
 引っ越しはクリスマス・シーズンで、おまけに5階建てにもかかわらず階段しかないという悪条件だったが、仲間の力を借りて、なんとか無事乗り切ることができた。手伝ってくれたのは、木村和穂をはじめとする“Save the 下北沢”の仲間やバンド仲間、さらに僕が引っ越しの物件を探すうちに“Save the 下北沢”のサポーターに引っぱり込んでしまった地元の不動産屋のスタッフなど、20代から50代にまでおよぶ約10名だった。

 ただし仕事関係の資料はあらかじめかなり処分しておいたものの、荷物の量は一人暮らしの常識からはかなり外れていた。さすがに引っ越し後、木村からは「もう、死ぬまで引っ越ししないで下さいね!」と冗談交じりで釘を刺されることとなった。

              *
 「単なる道路建設の反対運動ではなく、下北沢の街の人達を繋ぐメディアも作りたい」
 木村和穂がこんなことを言い出したのは、2004年の秋だった。それから彼は、あっという間にスタッフを集め、編集長として2005年1月28日、“下北沢と出会う雑誌”と銘打ったフリーペイパー「ミスアティコ」を創刊する。大学院での研究活動、過密さを増してきた“Save the 下北沢”のスタッフ・ワークに加え、雑誌まで作ってしまう木村のやみくもな行動力に、“Save the 下北沢”の面々は、驚きを通り越して呆れはてた。



 この雑誌の創刊号には僕も原稿を書いているが、全面的な書き直しを2回も命じられたのは、フリーとなってからは初めてのことだった。しかしそれは決して不快な体験ではない。むしろそれほどのエネルギーを持つ編集者と出会い、全力投球のキャッチボールを通じて文章にするまでのやりとりは、甘美と言っても良いくらいだった。

 この頃になると“Save the 下北沢”では、写真や映像を使ってのイヴェントや、毎月ゲストを招いてのトークなど、だしものを交えた交流会も企画されるようになり、特にイヴェントの準備にかかる頃には、映像制作やイヴェントの運営に熱心な20代の人間もだいぶ増えてきた。
 “Save the 下北沢”には、特に規約があるわけでもないし、互いの行動への強制力もない。それにも関わらず、自由意志で様々な提言がなされ、役割を分担して、情報宣伝やイヴェントなどの様々なプロジェクトが実現していく。しかも共通の関心があるためか、歳が二十上だろうが二十下だろうが、ほとんど年齢差を意識することなく、やりとりが進められる。それがメーリング・リストでのやりとりだけならともかく、直接顔を付き合わせての会議、さらにその後の恒例となっている宴会でもそうなのだ。ちょうど飲み屋の常連同士のような親しさ、とでもいえば良いだろうか。
 それは毎週土曜の定例会議に毎回出席する者だけに限ったことではない。普段はデスク・ワークで協力したり、イヴェントの企画などで牽引していく者も、メーリング・リストでお互いの存在を確認しているため、大勢の人間が集う交流会で久々に会った時などは、ちょうどオフ会のような盛り上がりとなる。



 こうした親密さを持つ“Save the 下北沢”のメンバーの関係性を、少々極端な言い方で現すならば、宴会部長の下平憲治に連れられ、夜な夜な下北沢の街を飲み歩く老若男女と言っても良いような気もする。まさに下北沢の街並みがそうであるように、雑然とした中に共生感が漂う不思議な集団だ。

 しかし現在の都市生活で重要なのは、関わることで生活が豊かに楽しくなっていくこうした共生感ではないだろうか。
 街づくりにおいて、「住み易い街」のイメージにふさわしい人間関係は、治安や防災を考える上でも重要な項目だが、“Save the 下北沢”は、そのように理念的に求めるべき街の条件を、すでに内包しているのかも知れない。どこまでそれを各自の意識で言語化しているかは分からないが、単なる道路建設の反対運動ではなく、この街にふさわしい共生感を創っていこうという気持ちは、メンバーがたいぶ増えた今もなお共有されているように思う。

              *

 NEVER NEVER LANDは、松崎さんの死後も“Save the 下北沢”の拠点であり続けている。フライヤー、署名用紙、看板などは、常に店の奥に保管され、毎週土曜の街頭署名に繰り出す時は、店員に「行ってきます!」と声をかけてから出発するのが慣例だ。
 しかしこのNEVER NEVER LANDの建物も、大家の都合で、立ち退かなければならないことになっていた。まだ松崎さんが元気だった頃から移転先は検討されていたが、なかなか良い物件は見つからない。さらに店のムード・メイカーであったマスターが亡くなった後となっては、残された奥さんが新たな場所で営業を続ける気になるかどうかは、常連客にとっての気がかりでもあった。

 それでもNEVER NEVER LANDが結局移転して営業を続けることになったのは、こうした常連客の思いや、休みの日にはお客として店に遊びに来るほどNEVER NEVER LANDを愛している従業員の気持ちが、奥さんの励みとなってのことだった。
 立ち退き条件の交渉や移転先を決定する上で活躍したのは、下平憲治。今までの店から間近で、新しい大家は、お店が普段お酒を仕入れている酒屋だという絶妙な新築物件が決定打となった。
 そして新生NEVER NEVER LANDの内部の設計担当は、金子賢三。“Save the 下北沢”の代表が二人揃って、NEVER NEVER LAND移転に際して大役を務めたのは、もちろん偶然ではないだろう。

 2005年4月3日、桜の花が咲き誇るのを待ちかねるように下北沢の飲み屋街の花見が緑道で行われたこの日は、移転前のNEVER NEVER LANDの最後の営業日でもあった。そのため花見を終えた人々は、またしてもNEVER NEVER LANDに大集合。松崎博の追悼イヴェントの打ち上げの時のような大騒ぎが、朝方まで続くこととなった。
 その後、NEVER NEVER LANDの引っ越し作業は、“Save the 下北沢”のメンバーも含む常連客のボランティア作業により進められた。
 現在の時点では、“Save the 下北沢”の活動が、具体的に54号線の計画を阻止できるかどうかは、まだ定かではない。しかし松崎博が遺した絆は、2005年の春から新たな店となって実を結ぶ。そして下北沢という街の物語は、決して終わることなく、これからもずっと続いていくのだ。

 

終わり(ネヴァーエンディング)