生い立ち
志田 まず生い立ちから。えーと、朴さんは1955年の何月生まれですか。
朴保 55年のね、1月24日。
志田 自分の歳のイメージってないでしょ?
朴保 いやー、ないつもりなんだけどね。最近、酒飲んで、残るもんね。飲みすぎるとしっかりのこっちゃう(笑)。
志田 出身は富士市ですよね。いくつぐらいまでいたんですか。
朴保 高校まで。
志田 朴さん、兄弟はお兄さんだけ?
朴保 そうそう、兄貴が一人。
志田 っていうことは、ずっと4人家族で住んでたんですか。
朴保 そうだね。まあ、いっしょに、ウチ、ほら、クルマの解体やってたから、手伝いの人がいたりね。
志田 自分の家が解体工場だったわけ?
朴保 いやいや、工場なんて大それたもんじゃないけど、まあ、クルマは、事故車とかそういうものだよ。古くなったやつとか、そういうのが来て、分解してさ。そのパーツを、モータースに(売る)っていう仕事。
志田 ってことは、従業員の人が、家族の人以外にしょっちゅう自分の家におおぜい来て仕事をしてるっていう……
朴保 おおぜい、って、まあ、いつもいるのはもう一人だけだけどね。まあ、でも、いろんな、モータースの兄ちゃんやらなんやらの連中がいるっていう感じで…
志田 じゃあ、中小企業の社長さんっていうことになるわけだ、お父さんは。
朴保 うーん……企業とまでいうかなぁ。まぁ、なんとか商会…マルトウ商会っていったってな。“マルトウ”っていうのは◯(の中)に藤って書いてマルトウっていうの。
志田 結構手伝ってたりしてたわけ、仕事を?
朴保 そうだねぇ…まあ、小学校の頃からとにかく、まずウチは起きたらね、店を掃除させられるわけ、学校行く前に。水まいて、こう、パッパッと玄関はいて。それから学校行くんだけど、で、学校から帰ってくると、やっぱり、簡単な手伝いみたいなね。まあ、だから、中学のときは作業着来て手伝わされてたね。
志田 それは兄弟いっしょに?
朴保 いっしょに。だから、兄貴なんかはもう、大きいから、16ぐらいになったらすぐ免許取らさされて。クルマとかうごかさなきゃなんないからさ。(だけど)俺は免許取らしてもらえなかったよ(笑)。
志田 なんでだろう。
朴保 いやー、なんか、お前は絶対事故起こす、とか、飛び出して帰ってこないんじゃないかとか(言われて)。
志田 そういう気配はあったんだ?
朴保 まあ、結構逆らってばかりいたからね。家出みたいなこともしたし。
志田 そうすると、お母さんは専業主婦じゃなくて、その、仕事も手伝いつつ、っていう感じだったわけですか。
朴保 おふくろはねぇ、まあ、家事手伝いだね。お客さん来たら接待もするし。難しいクルマのことはわかんないけど、だいたい部品がどこにあるってことはわかってるし。で、まあ、若い人が来るまで待つ、みたいなね。
志田 家の間取りはどんな感じだったんですか。
朴保 家? 家は、来てもらえば分かるけど、まあ、別に、その頃は普通の家だと思ったけど、結構小ぢんまりとした、2階建てのね。
志田 2階建てで、4部屋ぐらいかな、そうすると。
朴保 そうだね。でも、お勝手は広かったんだよね。ほら、やっぱり、働いてる人が飯食ったりするから。でかいテーブルがあってさ、そこで、まあ、こう、台所なんだけど、座れるようにして。あんまり、畳で飯食ったっていう記憶ないんだよな、反対に。なんか、土間みたいになっててさ、大きいテーブルがあってさ、仕事終わるとみんな帰ってきて、おやじはそこでまず酒飲み始めて、こっちは黙って食べて(笑)。
志田 怖いからね。
朴保 そうそうそうそう。
志田 そうすると、その家はお父さんが建てた、っていうか、借地じゃなくて自分の家で?
朴保 もう、自分の家で。買ったんだね。その当時、安かったって言ってたよ。っていうのは、国道1号線(沿い)でさ。
志田 音とかうるさいんだ?
朴保 あーあ、もう、住めるなんていう状態じゃないもんね、うるさくて。だから、それは、もう、すごい安かったみたい。
志田 でも、近所に、たくさん家はあったんでしょ?
朴保 近所は、あんまりなかったよ。まあ、前にガソリン・スタンドがあったかな。あと、全部田んぼで、全部農家だったから、結構離れてて。商売やってたのはウチのところと、前のガソリン・スタンド。あとは、農家だったね。
志田 ってことは、日常的にクルマ使わないと、不便な感じ? 買いものとかも。
朴保 どうだろう。でも、バスがあるから。あと、リアカーで、売りに来るんだよ、野菜とか。あと、ちょっと歩くと八百屋が一軒あったからね。たまにそこに行ったりしてて。あと、自転車でうろうろして。物心ついたときはね。生まれたのは山梨だから。
志田 あ、そうなんですか。
朴保 山梨でね、甲府かな。
志田 それは、当然、お父さんの仕事の関係ですよね?
朴保 そうそうそうそう。それは、だから、ぼくが生まれてないときはね、飴を作ってたらしいよ。おふくろはそこでアルバイトしてて、そんでなんか、一緒になったみたい。それで、そのあと、パチンコやったんだ、すぐ。で、俺が生まれて。だから、パチンコ屋のガチャガチャした音聞きながら、なんか、がーって寝てたらしいね。
志田 そのパチンコ屋はどこでやってたの?
朴保 甲府でやってた。飴屋も、山梨なのは間違いないんだけど、どこでやってたのかは分かんない。で、ぼくが二つのときに、もう、静岡に来てたのかな。
志田 で、静岡で、◯藤商会を開店したと?
朴保 ◯藤商会はね、その後。結構仕事変えてんだよね。飴屋やって、パチンコ屋でしょ。その後、清水で、ぶどうを山梨から持って来て、直売。駅の前で売ってたらしい。かすかに覚えてるね。でね、くだものの直売を清水の(駅の)前で始めて、それで、住めるところが見つかって、そこへ移ってきたわけよ。そこで、ちょっと、解体屋も始めてたのよ。名前は◯藤だったか…もう、◯藤だったと思うけどね。で、そんなことしてたら、なんか、ちょうど、いいところがあるからって誰かが紹介してくれたみたいで。そこにうまいぐあいに移ったんだよね。それが富士で。富士は、ぼくが、もう、ずっといたからね。
志田 そうすると、お父さんの生活の基盤が安定してきたところで、朴さんが生まれた、って感じ?
朴保 まあ、安定してたかどうかは知らないけど。でも、そんなに、お金に困ったとか、そういう記憶はないから。そのころ、鉄は高かったしね。まあ、仕事は大変だったろうけど。
志田 結構、いい金になるわけだ。実はぼくのおやじって、ぼくが生まれた時なんか、レッド・パージで失業中だったんですよ。
朴保 何で?
志田 レッド・パージ。父親は戦前の共産党員だったからGHQに睨まれたの。
朴保 ああ、ほんとぉ。ああ、そうなんだぁ。そういう影響があるんだ、やっぱ。
志田 だからぼくが生まれたとき、やっと川崎重工っていうところに入って、生活が安定しはじめたってところでね。で、ぼくが小学生のときに、自分で借金して家建てて、やっと持ち家持ったっていう喜びはあったみたい。そういうところで、想像しながら朴さんの話を、聞いてたわけ。
朴保 ああ、なるほど。そうか、大変だったね、それはね。当時なんか、すごかったよね。そういうのは、やっぱ、影響してるよね、ちょっとね。
志田 まあ、いろいろ影響受けてますよね。反発しつつも、どうしても影響はあるよね。
朴保 おれなんかも、おやじが結構そういう話をしてたもん、いつも、共産主義とか。友達が来ると、必ず。まあ、朝鮮語になっちゃうんだけどさ。でも、ところどころ、何話してるか分かるしね、日本語になるしさ。スターリンのこと話したり、レーニンのこと話したり、金日成のこと話したりしてるわけよ。
志田 そうすると、お父さんは、いつごろ日本に来てるんですか。
朴保 日本にね、2回来てるんだよね。一番はじめは10歳ごろ来てるのかな。2回目は、二十歳前。
志田 二十歳前に日本に来て、それからずっと勤めたてたの?
朴保 そうそうそう。
志田 それは、来た、っていうか、連れてこられたって感じ?
朴保 ううん、うちのおやじの場合は…あのー…まあ、おじいさんは土地があって。まあ、やっぱり、戦争でめちゃめちゃになっちゃって。
志田 それは、向こうの、韓国の土地?
朴保 そうそうそう。それで、結局、もう、家族ちりぢりばらばらで。で、お兄さんが、日本に来てたみたいね。そのお兄さんを頼って、密航船に乗って来たのね。 で、途中、下関に着くって予定が、なんかね、その、警備艇に見つかって、もう、やばいから、対馬でみんな降ろすってことになっちゃって、みんな、ちりぢりばらばらで、全部降りたらしいよ。捕まった人もいるだろうし。自分は、なんか知らんけど、もう、腹減って、こりゃあ困ったっていって、海岸でね、ぼーっとしてたら、後ろからポンポンって来たから、うわーって思ったら、「あなた、ちょっと、家へ来なさい」って、かくまってくれて。やっぱり、韓国から来た人がいるんだね。助けられたって言ってた。
志田 それは戦争中ですか?
朴保 そう、戦争中だよ。
志田 それは、大変だよねぇ。戦争中に密航してくるんだから。
朴保 そういう人、結構いるみたいだよ。もちろん、強制労働で連れて来られた人もたくさんいたけれども。国で、仕事もなんにもないし、日本行けばなんとかなるんじゃないかって思って来てる人って。
その当時はさぁ、結局、米とね、(身分証明書を)偽造するための写真だけは持ってけって言われたらしい。だから、写真持ってたもんで、自分が、ある程度お世話になって、でも、これ以上いても危ないから、そろそろ行きなさい、ってことで、身分証明書をもらったんだって、その人から。で、その人は、なくしちゃったって言って、また、もらえたみたいでさ。で、写真をもらった方の身分証明書にくっつけてさ。
二つの名前
志田 で、結局そのあと、お父さんは日本の国籍を取ったんですよね?
朴保 日本の国籍? ――帰化するってことね――帰化は最近なんだよね。で、藤原って名前にいまはなってるんだけど。だから、ぼくもパスポートの名前は藤原になってんだよね。戸籍も最近昔と違うんだよな。前はようするに、父親というのは認めないというか、認知してないんだよね。朴っていう名前で(戸籍に)父親の名前があって、おふくろがある、っていうのは、つい最近の話なんだよな、それも。ここ十年ぐらいかで、変わったんだよね。その前はね、保護者の名前っていうとおふくろの名前しか書けなかったんだよ。
志田 ようするに日本の法律から見ると内縁関係みたいにされちゃうわけだ。
朴保 そうそうそうそう。まあ、結婚式もしてないしなぁ。なんていうか、私生児っていうの、そういう感じ。まあ、おかしいなと思ってたんだけどね、いつも。保護者の名前っていうと、父親の名前書いたことないからね。ああ、そういうことだったんだなって思って。で、ここ十年ぐらいのあいだに見たやつは、自分の名前が朴ジュンレンってあって、父誰々、母誰々、ってなってたけどね。それで、おふくろが亡くなる前に帰化したんだよね。
志田 帰化というのは、審査があるんでしょ?
朴保 そうそうそう。すごいみたいね。いまはずいぶん変わったもんね。だから、やっぱり、普通の日本人よりも、ちょっと良くなければだめなわけよ。極端なこというとクルマを何台持ってるとかね。
志田 ようするに税金をどれくらい収められるかっていうことを見るわけだね。
朴保 そうそうそう。だから、日本で住んでいくうえでいろいろ不便だから、息子たちのことも考えて、将来息子たちが韓国に住むとかね、そういうことがあるならば籍を変える必要はないけれども、そういうことはありえないだろうと自分の中で判断して、日本の、だから、国民になったってことかな。
志田 帰化するってことと日本の国籍を持つってことは一緒ですよね?
朴保 一緒ですね。
志田 だから、日本人であるってことになるわけだよね、法律的に?
朴保 法律的にね。
志田 それはこの10年くらいの話なんだ?
朴保 うん。だから、帰化したのはそれこそ、ここまだ5年ぐらいの話。それまではずっとパク(朴)だったからね。だから、当然ぼくも、なんていうのかな、日本の社会の中、っていいたらおかしいけど、広瀬保(ヒロセ・タモツ)って名前があってさ。オフクロの名前が広瀬なんだよね。オフクロの名前使ってたから、日本の場合はね。ぼくは日本の籍に入ってるから。だけど、どうしても、オヤジの姓でいくと朴って名前になって朴保になって、ってさ。小さいころからそういう風に鍛えられちゃったっていうか、ぱっぱって切り替えちゃってたかな。
志田 家の表札はどうなってたの?
朴保 表札はねぇ、えーと、ぼくの小さい頃は藤原になってたね。で、中学校の頃、覚えてるのは広瀬、っていう。表札なんか別になかったな、内輪だから。
志田 藤原っていう苗字と広瀬っていう苗字のあれは……広瀬っていう苗字はお母さんの苗字なんですよね? 藤原っていう苗字は?
朴保 たまたま、(朴保の父親の)お兄さんが使ってたんだって。で、ずっと、なんか、日本に来たときは藤原で通してた、っていうのがあるみたいね。
志田 ってことは、朴さんは、例えば小学校のときは何て呼ばれてたの?
朴保 小学も中学も友だちは広瀬って言ってたよ。広瀬保。うちの、だから、親父サイドの世界になると朴保になっちゃうんだよね。あるいは朝鮮高校に行ってる友だちとかね。
志田 藤原って苗字はそんなに使ってなかったわけだ?
朴保 使ってなかったね。親父が自分でたまに使うぐらいだからね。
志田 いまは、お父さんが帰化してから藤原って苗字になってるわけね。帰化するときの苗字と思えばいいのかな?
朴保 俺が思うにね、(父親の)お兄さんっていう人は、学校の先生だったわけよ。豊橋の朝鮮学校の。で、北朝鮮に行っちゃって、もう、なくなっちゃったけど。歴史的に藤原って名前は朴と近い、っていうのがあるみたいだけどね。藤原氏は韓国から来たっていうのは分かってるから。藤原鎌足っているじゃない? 「たり」っていうのは日本語では読まないんだよね。だから、それでたぶん藤原って名前を使ってると思うんだけどね。
志田 そうすると、こういう経緯があると、育ってくなかでもさ、例えば俺は自分の親父からね、戦前の共産党は大変だった、みたいな話をさせられたように、朴さんもいろいろ話を聞いてたんじゃないかと思うんだけれども。
朴保 そーだねぇ……だから、まずは、食卓でさ、ぼくが「チョウセン」っていう言葉を出すと、怒られたんだよね。「チョウセンジン」っていう言葉は、それは蔑視した言葉だから、使っちゃいかん、と。だから、まあ、朝鮮語で「チョソンサラム」って言うんだけどね。まあ、韓国の方では「ハングサラム」っていうんだけど、北朝鮮の方は「チョソンサラム」って言う。その頃は、「総連」系と「民団」系っていまでもあるけれども、その頃は金日成はヒーローだから。共産主義で、もう、ユートピアの理想である、と。新潟からみんな、船で行ったわけね。
志田 それは日本から在日の人たちが?
朴保 そうそうそう。たくさんの人たちが渡っていったのね。(金日成を)信じてね。当時は、南の方っていう運動ははなかったのよ。やっぱり、北朝鮮を支援する、そういう、共産主義的な考え方の人たちがほとんどだったからね。で、もう、自分たちで、学校作ったり銀行作ったり、がんばってたから。で、ぼくなんか、結局、日本の学校へ行ってるんだけれども、夏休みとか冬休みになると、午前中だけね、親父が「(朝鮮)学校に行ってこい」っていうわけ。青年団が迎えに来てさ。で、あるところにみんな、その地区の子どもたちが集められて、民族教育を受けるわけよ。そういうのに参加してたから、やっぱり、一応、言葉もならったんだけどね。
志田 それは、小学校のとき?
朴保 小学校と中学まで。日本の学校に行ってる子どももたくさんいるわけだから夏休みと冬休みに。それと、朝鮮の歴史と、いかに金日成が偉大であるかとか(笑)、それこそ全部教えるわけよ。
志田 朝鮮総連系の人たちですか。
朴保 そうだね。でも、すごく真面目な人たちでさぁ。やっぱり、好感持てたよね、なんか、こう、まっすぐでさぁ、元気が良くて。歌なんかもね、大きな声でうたってさ。そういうのが楽しかったけどね。ずいぶん活気がある人たちだなと思った。で、子どもたちもやっぱり、元気が良くてさ。みんな、こう、差別を受けてたりしてたんだろうね、やっぱりね。「今日、ばかにされた人、手を挙げろ」とかさ。
志田 お父さんは韓国から来たんですよね。
朴保 そう、親父はテグ(出身)だから。大邱って書くんだけど。
志田 ってことは、朴さんのお父さんは、ようするに、韓国のなかで、このままじゃやっていけない、っていうのがあって、日本に来るときは、ある種、故郷を捨てる、みたいなところがあったのかな。それで、北の方の話があって、ある種の理想? 住みやすい世界が作れるかもしれないっていう、理想を見るような思いがあったのかな?
朴保 (父親の)お兄さんはそうだよね。だけど、うちの親父は、ぼくが中学上がるときに、じゃあ、お前は朝鮮学校行くか日本の学校に行くか、どうするか、っていう相談を受けたことがあったんだよね。で、まあ、親父の方から、「お前が行きたい方に行けばいいんだけど、わしが思うには、いまの、朝鮮学校っていうのは総連系で、北の考え方っていうのは、金日成っていう人を神様のように崇めてて、おかしい」と。そんなような感じだから、そんなところにお前は行かない方がいい、って言われて。親父の方が結構、開けてて(?)さ。
で、俺も結構、そういう思想に影響を受けたんだね。片やおふくろは、中学校ごろまでは、天皇陛下みたいなのを崇拝して育っちゃってるから。だから逆におふくろと二人っきりになるとさ、「いや、実は日本はね、神様の国で、戦争に負けたことがなかったんだ」って話を始めたこともあったよね(笑)。だから両極端でさ、いつもなんか、そういうのを感じてたよ。自分では両方とも、なんていうか、うまく理解せざるをえない、っていうか、子どもなりに。
志田 ようするに、夫婦だからっていっても、それぞれの拠って立つ場所はバラバラのところから一緒になったんだ、っていう。
朴保 まあ、別に喧嘩するっていうわけでもないし。それは、ほら、昔の人だし、黙って、ただ、親父についてく、っていう感じで。すごい亭主関白だったからさ。絶対に、もう、逆らうことはなかった、っていう。だから、親父の言うことは絶対だ、って。金日成はダメだ、と言いながら、すごいやっぱり自分は金日成と同じことやってるんじゃねえかな(爆笑)なんて、思ったことあるよ。なんか、怒られてるときに言ったことあったな。
志田 分かる。俺の親父もそうだった。家庭委員会とかわざわざ開いてさ、でも、結論は自分で決めてんの。子どもが何言っても絶対聞かないわけ。これは家庭委員会で決まった事だから、って言ってさ、逆らうと殴られるのね。独裁者だな、と思って。
朴保 (爆笑)
志田 いや、一党独裁ここに極まれり、って感じで。
朴保 じゃあ、うちと似てるね(笑)。まあ、それだけ、良く言えば頑固で、自分の考え方をはっきり持ってる、っていうかね。悪く言えば、もう、考え方が逆に狭い、っていうかさ。そういうところ、あるよね。結構矛盾してるなと思った。
志田 でも、長男じゃないと、多少、風当たりがゆるくなるんじゃない? 普通?
朴保 そお? 俺のところは全然逆だった。だから、それも、変な、儒教的なところから来てるみたいでさ。何があっても目上は立てなきゃいけない、って言って、二人悪いことするじゃない? で、兄貴が悪いことしたわけよ。で、兄貴がやったことでも、俺が悪くなるわけ。そういう家だったから、屈折しちゃうよね。結構、曲がっちゃったね、それって。
志田 そうか、儒教的な発想っていうのは、そういうところに行くんだ。
朴保 それは、悔しかったよね、すごく。泣くほど悔しかったね。ちくしょう、と思ったけど、何言っても聞く人間じゃないしさ、言えば言うほど殴られるしさ。
志田 あんまり、お父さんは自分の苦労を切々と語るって感じじゃないわけ?
朴保 そういう感じじゃないんだよね。がむしゃらに仕事はしてたからね。保険とかなかったしね。風邪引くと殴られてた。
志田 風邪引くと殴られた(笑)?
朴保 病院行ったら金取られちゃうからさ。風邪引くってことはお前はたるんでる、と。だから、学校、どんなに熱が出ようが行かされてたね。いや、でも、やっぱり、言うこと聞かなかったから風邪引いたとか、そういうのはやっぱり、ほら、ちゃんと食べるものを食べない、野菜を食べないとか、そういうのが蓄積して言ってたと思うんだけど。
志田 でも、保険がなかったっていうことは……法律的にはお母さんの私生児的な形だったわけだよね、当時でいうと。そうすると、お母さんは保険、取れなかったのかな。
朴保 お母さんの方で保険、ねぇ。どうだったかな……保険入ったの、でも、遅かったから、なかったよ、確か、うちは……でもそう言えば中学のときはあったかな。
志田 まあ、日本人でも保険入ってないやつ、いるもんな、俺の知り合いでも。
朴保 いたでしょ、俺たちの頃は? なんでだろう? やっぱり、お金がなかったのかな。
志田 あと、そのための手続きをきちんとすると、いろいろ面倒臭いことが出てくる?
朴保 ああ、それは絶対あったと思うな。だって、元をただしちゃったら、密入国だもんね。それは、堂々と出れないところがあったからね。
ただ、その後、外登法っていうのがあって。外国人登録法。外国人が登録する、って、それを発行して、それを持ってたんだよね。それを持ってたから、(日本という)国を追い出されることはないんだけれども、それを持ってたからといって銀行が金を貸してるとか保険に入れるとか、そういうのはまったく関係ないからね。選挙権ないし。いまだにないでしょ。だから、おかしいんだよね、税金だけは払わされて。
志田 代表なくして課税なし、ってのは基本ですよね。
朴保 参政権がないっていうのはおかしいよね。税金払ってるわけだからね。税金払ってもらうんだけど、国のことには文句出すなよ、と。
志田 あの、工場に働いてる人、出入りする人って、やっぱり韓国とかの方の知り合いの人たちなの? 特にそういう感じじゃない? 特に民族色が強いって感じじゃないんですか。
朴保 やっぱり、そうだよ。日本人は働けなかったね。大体、同胞で、どっかの親戚だとか、知り合いで。で、その(父親の)お兄さんの長男が、ずっと働いてたんだよね。
志田 でも、当時の幼稚園であったりとか、小学校であったりとか、そうするとまた全然人の雰囲気が違うわけだよね? そうでもないんですか。要するに、家の周りの来る人は在日の人ばっかりで、なんだかんだ、会う人みんなそうでしょ? でも、幼稚園行ったり小学校行ったりすると……
朴保 そうだねぇ……まあ、ガキ大将じゃなかったけど、結構いばってた方だから、文句いうやつはあんまりいなかったね。だけど、周りで分かってるやつは分かってたと思うね。やっぱり、ちょっとおかしいな、と。やっぱり、親がさ、親が変な口をきいてたわけじゃない? 子どもから言われたことはないけど、親が「あそこの家はどうのこうの」とか「きたねぇ」とかさ。「○藤のところの息子はあれだな」とか「あいつがやったんじゃねぇか」とかなんとか。悪いことがあるとね。そういう、変な目で見てたことは確かだね。そういうのは今思うと感じるな。子ども同士ではそういうことはね……
志田 ないよね。
朴保 「チョウセンジン」だとか言われたことはないから。
志田 例えば「朝鮮語習ってこい」みたいな時は、朝鮮語が好きかどうかじゃなくて、強制されてるっていいうところで、ちょっと、鬱陶しいな、っていう思いがあったりしました?
朴保 それはなかったけどね。教えている人たちがすごい熱っぽいっていうか。結構、感動的な話をするんだよね。また、その、いろんなさぁ、やっぱり、共産国っていうのもあるしさ、英雄を作りやすい世界ってあるじゃない? そういうのってなんか、すごく、こう、子どもなんていうのはだから洗脳されやすいわけじゃない? そういうのに、入っちゃってたからね。俺なんか、そういうのにちょっと、入っちゃうと入っちゃうから。兄貴の方がクールだったんじゃないかな、そのときはね。でも、今やそういうものを、こう、完全に否定する側にいる訳だからさ。ただその頃は、なんか、そういう、かっこいいとかやっぱりあるじゃない?
志田 朴さんとしては、その、教える側がすごく熱っぽい、っていうのがまずあったわけだよね。それは総連の方?
朴保 そう、朝鮮総連。で、民団っていうのは、在日韓国居留民団。民団っていうのは、韓国側だから、南。学校も、だから、いま、朝鮮高校の問題があるでしょ? 朝鮮高校っていったら、みんな“北系”なの。総連系。民団っていうと、民団の学校なんていうのは、数えるしかないの。
志田 なるほど。じゃあちょっと話を変えて、幼稚園であるとか、小学校であるとかのときに、すごく夢中になったなったものってどんなもの? 例えば、野球であるとかね。
朴保 どっちかっていうとね、そうだな、まあ、外で遊ぶのも好きだったけど、絵を描いたね、よくね。
志田 それは、どういう絵? 水彩?
朴保 鉛筆で。クルマ。クルマばっかりだよ。クルマばっかり見て育ったからだろうね。当時、ミゼットとかさ、三輪車みたいなんだよね。あれが面白くてね、あれを描くのが好きだったね。トヨペット・クラウン、セドリックとかさ。でも交通事故に遭ったんだよ。それからぴたっと、クルマ描かなくなったしさ。
志田 家の前の国道で、渡るときにはねられたって話だよね。事故に遭ったのはいつ頃?
朴保 小学校1年のとき。だから、結構ね、こういう、ノートとかそういうのは、大切にしてたよ。よく描いてさ。だから、おふくろは、広告とか、そういうのの裏で、ノートを作ってくれて。いまでは、こうやって、みんな捨てちゃうでしょ? 絶対取っておくんだよね。
志田 じゃあ、幼稚園でも、お絵描き得意な子ども、みたいな感じだったわけ?
朴保 お絵描き、ってそんな偉そうなもんじゃねえけど、まあ、なんていうの、マンガだね、マンガ描いてた。マンガばっかり描いてると目悪くなるから止めろ、って言われてたけど。目は悪くなったね、やっぱりね。俺がそれで目が悪くなったのかは知らないけど。
志田 そうすると「お前、絵、うまいじゃん?」とか「描いてくれ」とか、友達が言ってくるんじゃない?
朴保 そうそうそうそう。小学校のときね。
志田 で、事故にあったのは小学校1年で、結構長い間入院したの?
朴保 そう、1ヶ月ぐらい入院してた。
志田 そんなに……じゃあ、かなり重い怪我だね。
朴保 だって、もう、ぱっくり切ってさ、いまでもでっかい穴あるよ。
志田 それは、ぶつかったのは、自動車? バイク?
朴保 バイク。だから今でも恐いよ。ガーッと走ってくると。別に、その、バーッとあたったときは、もう、痛くもなんともなかったけどね。気が付いたら、もう、病院のベッドで、こうやって包帯して。
志田 頭だもんねぇ。
朴保 アッタマだもんねぇ(笑)って。
志田 それは、でも、結構記憶に染み付いちゃうよね、恐怖としてね。
「アリラン」とヴェンチャーズ
志田 年中行事ってあるじゃない? 朴さんみたいなところの家庭だと、お母さんの方の知ってる年中行事のあり方と、お父さんの方の年中行事のあり方って、重なる部分もあるだろうけど、違う部分もかなりいろいろあったりしたのかな? 例えば、大晦日から元旦にかけてはどういう過ごし方をしてたんですか。
朴保 まあ、普通の日本の家庭と同じだと思うよ。まあ、みんなと、なんていうの、「紅白歌合戦」見てさ……
志田 年越しそばでも食べて。
朴保 そうそう、それはあったけど。親父は日本の食物も好きだったからさ。もちろん焼肉やキムチも食べるけどさ。まあ、それよりも、行事っていうかね、その、大会があるわけよ、なんとか大会って、独立記念日だとか。革命のなんとかとか、金日成のなんとかとかさ。そういうのは面白かったね。もちろん、学校休んじゃいけない、と。だけど、大体、そういうものっていうのは、土曜日の昼間ぐらいから、日曜日にかけてあるわけだよね。と、大体、例えば清水っていうところへ行くと、大体、静岡中の在日の人が集まってくるわけ。そういう結束固いんだよ、みんなね。で、やっぱり、その、浜で、あるところに陣取っちゃってさ、そういうとこ行ったら、もう、みんなキムチだよ。お好み焼きとかさ。韓国のお好み焼きね。チヂミって言うんだけどさ。もう、わーって、おばさんたちがさ、もう、そのときはやっぱ、民族衣装を着てるわけだからさ。俺なんかもそのときはそういう世界入っちゃうわけだからさ。で、おばさん、みんな、踊り出してさ、チャング叩いて。あれ、やっぱり、衝撃だったよね。で、昔だからPAなんかないんだからさ、なんていうの、一応、マイクロフォンみたいなの、ほら、スピーチ用のさ、こんなちっちゃなマイクなんだけど、ボリュームいっぱいにして、もう、割れてるんだけど、その音がね、今でも、覚えててね。「アリラン」うたってさ。まあ、割れたスピーカーからガンガンに(音が)出てるんだよね。それがなんていうかさ、その、おばさんの声はきれいなんだよ。で、たぶん、生の声っていうのはすごく高くて。で、それを(スピーカーを)通してディストーションしてるわけ。それがね、えらい、いま思うとロックしてたな、っつうかさ。すごかったよね。
志田 それが小学生のとき?
朴保 そう、小学校、中学校のときだね。もう、それもぼくは高学年だよ、小学校は。で、その頃だから、俺、もう、バンドやってたし。
志田 え? 小学校からやってたの?
朴保 俺、小学校5年生からやってた。10歳のとき、もう、ドラム叩いてたから。ドラム・セットは持ってなかったけどね。兄貴たちがエレキ・バンドやってて、兄貴がエレキ・ギターを弾いてたから、で「ドラムいねぇから、おまえやれ」っていうことになってさ。
志田 10歳でバンド、っていうと、でも、当時お兄さんは12歳でしょ? どっちにしてもすごい早いよね。
朴保 兄貴が中学1年生。俺が小学校5年生。
志田 当時だと、ヴェンチャーズかなんか?
朴保 そう、ヴェンチャーズ。それから寺内タケシ。これが、もう、最高だったね。
志田 当時だと、エレキ・ギター持ってるだけで不良だ、っていう世界でしょ?
朴保 まさに。もう、近所の人が、「あんな、頭おかしいマネするな」とか。
志田 他のメンバーはお兄さんの同級生かなんかなわけ?
朴保 そうそう。全部同級生。ギターとベースと。まあ、そんで、もうひとりのギターの人がドラムの叩き方を知ってたんだよ、ちょっと。ズンズンタッタ、ズンズンタ、っていうのを。こんだけできればいいからやってみろ、っていって。で、やったらできちゃったんだよ。で「お前やれ」ってことになってさ。兄貴の友だちに言われたから、やるしかねぇな、と思ってさ。なんか、とにかく、仲間入れてもらいたいからさ、それしかないじゃない? それに、かっこいいと思ったし、ドラム・セットも叩きたくて。
志田 でも、ドラム・セットってどこにあったわけ?
朴保 ドラム・セットなんてないよ。あのね、俺が一番初めにドラム・セット叩いたのは中学1年生のとき。セットで叩けたのはね。だから、自分でだから、ドラム缶とね――それ、溶接するのはあったんだよ、うん。で、切ってね。タイヤのホイールでスネアを作ったのかな。自分で作ったの。溶接とかそういうのはできないから、その、頼んでね、慣れてる人に。時間みて、「ちょっと、ここ、繋いでよ」って言って。で、シンバル・スタンドもできたもんな。シンバルなんかないからね、鉄の、こんな、お盆みたいなのに、穴開けて。ガンガンボンガンガンガンガン、みたいなのばっかりだよね(笑)。すごい、いま考えたらパンクだぜ。あれでもう一回録音したいな。で、タムの音っていうのは、やっぱり、なかなか低い音にできなくてね。段ボール、叩いた。
志田 スティックは普通のスティックなの?
朴保 スティックだけは、ほら、安いし買えたからさ。で、いっつも、それからは、もう、授業中でもなんでも、ダダダダダ、ってやったりね。で、中学のときは、今度は自分でバンド作ってさ。兄貴のバンドも手伝ってたけど。
志田 それ、練習場所はどういう場所だったの?
朴保 練習場所はね、だから、家なんだよ。
志田 自分の家? アンプは?
朴保 アンプはね、兄貴が、こんなちっちゃいやつだけど、コロンビアのアンプがあったよ、昔。真空管2本しか入ってないやつ。まあ10ワットぐらいだからね。でも、当時としちゃ持ってるだけでもね、音が「テケテケテケテケ」って鳴るんだからね。
志田 ギターと、なに、ベースとドラム? そうすると3〜4人?
朴保 うん。で、僕と兄貴が音出すときは家で出せるわけ。ただし親父がいないときだよ。おふくろは結構「うるさいな」と言いながらも、音楽好きだったから。オルガンとかアコーディオンとか弾いてたからからね。歌もうまいしね。親に反対されて止めたらしいけど。そういう人だったから。
でも親父は好きじゃなかったわけよ。もう、とにかく、「頭おかしい」と。木刀でさ、ばんばんばんばん、って。それで、あとはどっか、友だちの家で、出せるところがあったんだよね。やっぱりちょっと、金持ちのボンボンみたいなやつがさ。
志田 ベースはどうしたんですか。
朴保 ベースはだから、たまーに、そうだなぁ、だれか持ってきて弾いたことがあったかもしんないけど、家でやるときは、その、中学生のときは、まず……そうだねぇ……家ではあんまり出来なかったね。田んぼに持ってったりね。
志田 どうやって、田んぼでアンプを鳴らすの?
朴保 ながーいコードをさ。家は、そういう、長いのが、仕事関係であったから。だけど、もう、ガンガンガンってやってると、切れちゃうわけよ。こんなの田んぼ持ってってやれ、って(親は)初めは言ってたわけよ。で、田んぼ持っていってやったら、音がするんだ、やっぱりね。ジャンジャンジャンジャンって、調子いいなぁ、なんていってやってたら、切れちゃうわけよ。「おかしいなぁ。電気切れたみたいだから見てくるから」って行ったら、(電源が)抜かれてるわけよ。
志田 それ、お父さんが。
朴保 そうそう、もちろん。で、「だいじょぶだいじょうぶ、いま繋いできたから、やるぞ」なんていって、「ワン・ツゥー・スリー・フォー」ってやってさ。で、「あれ、また切りやがった、ちきしょーこのやろー」って、俺はもうムキになって。で、見たら、電源の根元からハサミで切られてんの。こりゃ、もう、だめだ(笑)、あきらめた方がいい、って。じゃあ、どこ行くかな、っていって、友だちの家に行けば、出来たかも知れない。でも、やっぱり、その友だちの家も、やっぱり、同じような状態で出来ないと。で、そんなこと言ってるうちにね、俺が、高校1年生になったときには、もう、ね、仕事がもう一個増えてたんだよ。オガライト工場っていうのを始めてたの。田んぼのど真ん中に。
志田 オガライトっていうのは?
朴保 オガライトってね、こういう、六角形でね、あの、製材所をこうやって、あの、するでしょ? オガ屑って出るじゃない? あれを夜中にダンプで全部積んできて、それをある機械の中に全部入れるわけ。ボイラーの中に入れて、それを回すと、固形の燃料ができるわけ。その頃はまだ、風呂とか使ってたのね、火でやってる(炊いている)家があったから。風呂に使えて、あと、キャンプとか。とにかく、固形燃料で、軽くて長持ちするっていうんで、すごく受けた時代があって。その事務所で(仕事が)終わってから。そのかわり、楽器はいつも、オガ屑っていうか、事務所っていっても、オガ屑がすごいんだ。ドラム・セットもいっつも真っ白でさ。でも、有り難かったよね。いつも、掃除してさ、だから、そこでやってた。
志田 親父さんはそれ、知ってたわけ?
朴保 知ってたよ。
志田 要するに、自分がうるさくなけりゃ、やること自体には反対じゃなかったわけだ?
朴保 いや、反対なんだけど。こんなばかなことやって、って。でも、ほら、別に、人のものを取ったりとか、人をなんか殺したとか、そういうんじゃいないからさ。まあ、そういうんじゃ、別に、まあ、悪い遊びとは違うな、とは思ってたみたいね。自分が好きじゃないけれども、まあ、別に、ね。音楽とは認めてなかったみたいだけどね。
志田 で、当時、例えば、音楽聞く機会って、ラジオが多いとは思うんだけども、例えば朴さんがヴェンチャーズを知ったのとか、LPとか自分の部屋で結構ちゃんと聞けるような感じだったわけ?
朴保 蓄音機が来たのはね、高校生になってからだね。それまではなかった、うちは。
志田 それまでは、そうすると、ラジオ? どうやって知ったの? 例えばヴェンチャーズの……
朴保 ヴェンチャーズのやつはね……中学3年のときだかなぁ、兄貴が買ったんだよ。ちっちゃい、こんな、ポータブルの、スピーカーのちっちゃいのがついてて、78回転もついてるよなさ。針の重いやつでさ。で、その前にね、実はね、テープレコーダーはあったんだよ、家に。これは面白いでしょ。親父はね、自分がスピーチを、民団関係だか総連関係だか知らんけど、委員長みたいなのになってたわけ、地区の。やっぱり、年を取ってきて、だんだん。
志田 お父さん、両方に顔を通じてたんだ。割と珍しいんでしょ、立場としては?
朴保 珍しいよ、それは。で、そのときは、まだ、総連しかなかったと思うけどね。いまは民団の方に入ってるけど。でね、その、自分のスピーチの声を聞きたかったんだな。なかなか、そういう、新しいものは好きなんだよ。テレビも一番早かった。もう、近所は何にもないんだけどさ、テレビはすぐ買って、もう、周りの人はみんな見に来てた。そのときは、嬉しかったね。連中、ばかにしてるようなのがさ、見せてください、って来るわけだからさ。
志田 じゃあ、やっぱり、どちらかっていうと、裕福だったわけじゃないですか? 近所の人たちに比べると?
朴保 近所から見たらね。商売やって、そうだね。周りだって、ほんと、農家だったからさ。当時の農家なんて、大変だった頃だからさ。そのあと、だから、土地売って、みんなお金持ちになった、その前だからさ。
以下パート2に続く
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