ドラマーKOKIのイルサンタバンサ
(日常茶飯事)




第3回 ドラムとの出会い

 こうしてオレの覚束ない文章をさらけ出し始めて3回になる。ロックスターの華麗なる日々ーーーにはほど遠い(やっぱり!?)オレの日常の断片を綴っているけど、みんなはどう思って読んでくれてるんだろ・・・。そう考えるだけで、相変わらずキンチョーしまくってる。

うっ、お腹イタい!

(気を取り直して)
 そんな中でも、これを読んで感想を送ってくれた人たち、心からサンキュー!志田氏がすべて丁寧に知らせてくれてるよん。激励してくれたり賛同してくれたりリクエストくれたりでウレシい限り。面白いよね、こうしてオレが自分のことをアレコレ書くことによってさ、「KOKIっちゅーヤツ、どないな人間やねん!」というのが少しずつみんなに分かってもらえたりするんだろうけど、みんながそれに対して感想やら想いやら返してくれると、逆に今度はオレがみんなの「顔」が見えてきたりするもんね。
 これからもみんなの声を聞かせてちょ。

 さて、チョットこっ恥ずかしいんだけど、今回はオレがドラムに出会った頃の話をしよう。記憶を辿りながらーーー。

 確かオレが小学校3年のある日、5才年上の兄貴がスティックを買って帰ってきた。そう、まずはスティックだけ!である。弟想いの優しい兄貴は(兄貴、聞いてる?)興味津々の弟にもそれを握らせてくれた。握り方なぞ勿論分からない。タカタカトコトコ。「リズム」を感じるだの創るだの、当然これっぽっちも考えてないんだけど、それまでに無いウキウキ感があった。

「た、楽しい・・・」

 それから2年後の小学校5年の時、「兄貴と一緒に使うこと」を条件に、ドラムセットを親に買ってもらうまでに至った。正確に云えば、当時バンドなんぞ組んで遊んでた兄貴のドラムを叩かせていただける「権利」をゲットしたってとこかな。Pearlの一番安いセットだったけど、オレンジ色のボディがまぶしかったよ。んで、まだ限られた音楽しか知らない田舎の少年は、その頃の自身のHERO「ゴダイゴ」を何とかコピーしようと奮闘してました、はい。

 大好きなドラムを思う存分叩くにはどーしたらいいか・・・。

 田舎の少年は、ただドラムを叩きたい一心で、大曲市立大曲中学校へ進学と同時に吹奏楽部に入部した。そう、定期演奏会を開いたりマーチングフェスティバルに出場したり、野球の応援団としても駆り出される吹奏楽部です。所属は当然「パーカッション」へ。

 中学の頃に聴いてた音楽はハード・ロック中心で、レインボー、マイケル・シェンカー、ゲイリー・ムーアなどなど。なのに部活では「宇宙のファンタジー」とか「ジンギスカン」なーんてやっちゃう!

 でもこれ、侮れないのよ。例えば、マーチングの大太鼓を担当した時、大きな音を出そうと頑張ってると、そのうち両手の人差し指に血まめがプックリできてイタいのなんのって!涙目になりながらテーピングして演奏してた。また、2年の時ハンドシンバルをやることになったんだけど、これがチョー難しい!いい音がなかなか出てくんないのさ。「シャーーーン」ていう鋭くも華やかな音をイメージしてるのに、いざ鳴らしてみると「パスッ」だって。ショックで、もう朝練・夜練よ!

 思えばこの頃からオレは「練習オタク」だったかも。「練習」というと人は真面目にとるかもしれないけど、オレにとっては単なる日常なんだけどね。中学のときから、朝に晩に、土日も関係なく練習してた。きっとこれは習性だね。はっはっは。

 普通ライヴの時のドラムセットのポジションは、ステージのセンター奥ってのが多いけど、オレがいた中学の吹奏楽部では、ドラムセットはステージ下手に組まれた。他のパートは、前列からフルート、クラリネット、その後ろにサックス、ホルン、またまた後ろにトランペット、トロンボーン、最後列はユーフォニウム、チューバ・・・ってな記憶がある。ま、当然ドラムは、端っこながらもその姿ゆえ目立つ。ドラム・ソロなんぞやると熱い視線を感じるワケね!(本人の勘違いも!?)

 思えばあの頃、モテたなぁーーー。(遠い目)

 3年生にとって12月の定期演奏会が最後のステージになるんだけど、終わった後、後輩たちが演奏会のパンフレットに3年生のサインをもらうのが恒例だったのね。オレが3年生の時、それはそれは誰よりも長くズラーーーーーーーーーッとサイン待ちの列が出来てたのよ!

 え?本当かって?んじゃ、部長だった小山クンに訊いてみてよ。
 トロンボーンを吹いてた小山クン、懐かしいなぁ。ちょっとプックリしてて人望の厚いヤツだったな。今どーしてんだろ?

 ちなみに、兄貴と一緒に使えと親が買ってくれたオレにとって最初のドラムセットは、大曲中学に置いてきた。卒業するとき既にボロボロだったから「寄付」というにはあまりに迷惑なものだったかもしんない。きっと間もなく「粗大ゴミ」になっただろう。・・・と云いながら、少しはカワイがってくれたかなぁ・・・なぁんて”親心”も実はあります(照)。

 「将来の夢」なんて、廻りの人間と語り合った記憶は全くないけど、その中3の時にはもうオレの中では、プロのドラマーになろうと決めていた。可能性だとか現実問題だとか全く頭になかった。難しい人生の設計なんて立てられないもん、オレ。「プロになるんだ」と、ただフツーに思ってて、東京に出ていくことも当然の流れだった。オレのそうした意志を妨げるものが無く、軽んじる人もいなかったことに感謝してる。

2002年7月    KOKI