カンボジア
天女の生きている国、戦争のあった国
 

 

第2回 地方選挙

 今日(2月3日)は地方選挙。カンボジアでは、1975年に、ポルポト政権が誕生して以降、初めての地方選挙らしい。
 前々から、皆に、「選挙の日は、鍵を閉めて、家の中にいなさい」といわれていたが、多少人通りは少ないものの、それほど変わった事はなさそう。
何日か前に、市場が一斉に閉まったので、「うわ、いよいよ暴動でも起きるのか」と心配になったが、「市場に蚊の薬をまく」という政府の言葉も、あながち嘘ではなかったようだ。

 現在、カンボジアの主要な党は、軍事力、権力を握るフンセン首相の人民党、ラナリット王子率いるフンシンペック党、そして人権と民主主義をうたい労働者運動も組織するサムレンシー党の三党だ。
 私は英字新聞を読んで、いつも、サムレンシー氏が、汚職にまみれたフンセン首相と戦い、デモクラシーを推進しているように思っていたが、私にとって一番身近な人の意見は違った。

 私の踊りの先生(女性)は現在51歳、かつて王宮にいた踊り子だ。王宮内の踊りの学校を卒業し、ちょうど一人前の踊り手として踊り始め結婚したばかりの、25歳から30歳までを、ポルポト政権下で農作業をして過ごしたという。
 ご主人とのなれ初めは、王宮の隣が学校で、そこの学生だった彼と知り合うようになったらしい。本当はご主人が学校を卒業してから結婚するつもりだったけれど、政変が起きそうな気配がしたので時機を早めて結婚した、ご主人のご両親は地方に学校を建てるようなお金持ち(昔はそういう事がお金持ちの義務だったらしい)だったが二人ともそれを正直にポルポト政府に話したため殺された、先生のお父さんもポルポト政府に殺された、ポルポト時代は夫婦なのに会う事もできなかった、ポルポト時代が終わった後お互いに再会する事が出来、文化省芸能局に入り踊り手として過ごしたが、年をとったので自分が一線に立って踊る事は退き、数年前芸術大学の教師になった、というのが彼女の人生だ。今年16歳になり大学入学検定試験を今年受験する娘さんが、一人いる。
 あまり詳しくはきけないけれど、先生は、虐殺を免れた、たった1割の舞踊関係者のひとりだ。先生のご主人(この家庭、そして多くのカンボジアの家庭は、「連れ合い」という感じでは無い)は、農業省に勤める、お役人。二人とも、それぞれの仕事の場でそれほど権力を持っているわけではない、したがって、暮らし向きもとても慎ましいが、貧困層というわけではない、という感じだ。

 そんな二人が(私が先生に意見を聞くと、よくご主人が答えてくれる)支持するのは王政党でもなく、民主主義をうたうサムレンシー党でもなく、フンセン首相率いる人民党。
「フンセンは自分たちと一緒に、厳しいポルポト時代を生き抜いてきた。サムレンシーはその時、フランスでエアコンのきいた部屋にいた。ベトナムの力を借りたかもしれないが、実際にポルポト政権を倒したのは人民党だ」というのが彼らの意見。
 サムレンシー氏は、言う事は立派でも、実行が伴ってないじゃないか、ということらしい。彼がたまたま運良くその時海外にいたのか、本当に日和見主義者なのか、私は良く知らないが。
 そして、「でも、フンセン首相だって、立派な家に住んでたり、愛人が彼の奥さんの差し金で暗殺されたといううわさがあったり(近年、芸能界の国民的スターが殺されたのは本当。でも、その理由についてはっきりした証拠はない)あんまり、信用できないんじゃない?」と、きくと「誰もが腐敗している。どれが、いちばんマシかで選ぶ。確かに汚職は深刻な問題だが、フンセン首相率いる人民党は、例えば政府予算の半分ぐらいを自分達のポケットマネーにしてしまっていても、残りの半分は実際に道路を造ったりするのに使っている。自分たち公務員の給料は8万リエル(約20US$)だが、一ヶ月一家4人で暮してゆくには300US$ぐらいかかる。今現在の給料はとても十分とはいえないが、生活を切りつめ、副業で何とかやりくりしている。もし、サムレンシーの言うように、カンボジア政府は腐敗しているので、一切の外国援助を止めてくれというような事になったら、外国援助で成り立っているカンボジア政府は、その8万リエルという給料すら人々に払えなくなってしまうじゃないか。そうしたら、どうやって生活してゆけばいいのか」という答えだった。
 そばから、奥さんの踊りの先生も口を添えた。「そうよ。それに、私達は王宮にいたけれど、皆がその当時から王様を全面的に信頼し、支持していたわけではないわ。もちろん、制度としての王制は支持しているけれど、王様が約束を守ってくれないこともあったから、王様の政治に対しては支持していない人もいたわ」
 私はてっきり、王宮内にいた人は皆王政派だと思っていたので、別の先生にもきいてみた。その先生は、「昔は王政派だったが、あまり政治がよくならないので、フンセン首相率いる人民党に変えた。でも、汚職がひどいので、今度はサムレンシーを支持する」と言っていた。そして、この先生に、「一部ではサムレンシー氏は実行が伴わないと言われていますね」と聞いてみると、「別にずっと、彼を支持してゆくわけじゃない。後日もっといい人を見つけたら、その人を支持する。誰がマシか、ということで選んでいるだけなの」と、言っていた。

 朝、最初に書いた先生の家に行くと、人差し指が黒くなっていて「選挙に行ってきた」と嬉しそうだった。入り口で本人確認のため、捺印するのだという。80歳の彼女のお母さん(この方も踊りの先生)も、指が黒くなっていた。日常生活では、おばあさんは少し介助が必要だが、おばあさんが誰に投票したかは先生も知らない、という事だった。
 でも、家の門は普段のように開いておらず、内側から鍵がかけられていて、物物しかった。1997年に、人民党とフンシンペック党との間でちょっとした武力衝突があった時にも、「すぐ逃げられるように荷物を準備しておいた。1975年にポルポトが政権を取った時は、着の身着のままで出て行かされたから」ということだから、今日も一応は逃げる準備をしているのだろう。

 午後7時、原稿を書いていたインターネットカフェ(ポルポト政権後のベビーブーム世代が就職を考える現在、英語等の外国語、パソコン技術は必須の就職条件で、インターネットカフェは大流行だ)を出て家に向かうと、通りがにぎわっていた。夜は強盗等が出て危ないといわれ、夕方6時ぐらいから徐々に人が引き始めるプノンペンで、今日の人込みはお祭りの時のように多かった。休みの日は、ぶらぶら家族で出かけるのが好きなカンボジアの人たちも、今日は家の中にいたので、きっと夕涼みに出てきたのだろう。
 いつも先生の家で夕食を食べているので、今日もそこへご飯を食べに行くと、私の夕食が御弁当箱に詰められ、門に下がっていた。先生も家族総出で、2年ほど前に買った中古の車で、遊びに行ったようだった。
 先生とご主人は、いつも車にかかるガソリン代を計算していて、仕事に行くときはバイクに2人乗りで行くのだが、特別な時だけ車に乗っている。後からきくと、数年前に出来た大賑わいのハンバーガー&アイスクリームショップに行ったのだった。

 第二次大戦後のフランス植民地時代に生まれシハヌーク首相(彼は王様だったが一旦退位して首相になった)時代に平和な青春を過ごし、その後親米派のロンノル将軍政権時代に内乱が始まり、ポルポト政権下の地獄を生き延び(先生とご主人はこの時代を地獄と呼んでいる)、1979年からの社会主義時代、1993年から今日迄続く資本主義時代と数奇な時代を生きてらした先生たち。
 現在、寄せ来る地球規模の資本主義という波に揺られ、私の通う芸術大学、様々な官公庁、そして街のビジネス界で、人々は必死の権力闘争を繰り広げ、お金儲けにやっきになっている。
 彼女は古き良き時代の品のいい穏やかな女性で、芸術大学の中でもその権力闘争から取り残されているように見える。そして「皆、新しい家を建てたりしてるけど、私はお金持ちになれなくてもいいの。お金も欲しいけど、争いに巻き込まれるのはもういや。毎日ご飯が食べられて、夫と娘、母が元気で一緒にいられて、車に乗れて、時々どこかに遊びにゆければそれで幸せなの。それだけなの。子どもが一人だけなので老後は不安だけれど。」といつも言っている。

 電気代も切りつめているように見える彼女の暮らしの中で、明るい門灯の下に私のお弁当箱が下げられていた。私のお弁当箱が「いってらっしゃい」と先生の御家族を送っているようで、私も先生たちの人生にささやかな幸せを祈ったのだった。

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