カンボジア
天女の生きている国、戦争のあった国
 

 

第1回 借家遍歴

 これを読んでくださるみなさん、こんにちわ。
 今回は連載第一回目ということで、私のプノンペンでの生活拠点、=借家遍歴について、書きたいと思います。

今住んでいるのは、Toul Tom Pong(トウール トム ポング)市場の近く。市場といっても、東南アジアを知らない方にはイメージがわかないかもしれないが、野菜や果物、日用雑貨を売ったり、鶏をさばきながら売ったり、屋台のご飯屋さんがあったりするところが市場である。トタンの屋根の建物の中が仕切られていて、2m四方ぐらいの一画を借りて店がまえをしている小売りの人(女性が多い)に混じって、天秤棒をかついで路上で食べ物を売っている人、野山からとって来たのかパパイヤやバナナを数個だけ売ってる人、物乞いの人(地雷で足をなくした人が多いのがカンボジアの特徴だろうか)そして、市場の外には、バイクの後ろにお客を乗せて走るバイクタクシーや自転車の前の部分にお客を乗せて走るようになっている自転三輪車の運転手さんたちで、ごった返している。
トウール トム ポング市場は、その他オートバイの部品や、骨董品、観光客向けのお土産品等を売っているのが、変わっている所。外人観光客が多く、ちょっとしゃれた感じと、ローカルな感じが入り混じり、清潔感がありながらのどかなところが気に入っている。
ここは、5軒目のアパートというか借り部屋だが、ここに辿り着くまでいろんな所に住んだので、プノンペンの街を紹介しがてら、借家遍歴について書きたいと思う。

カンボジアに初めて来たのは97年2月。その時下見をして、11月に芸大付属の舞踊学校に入学した。
最初の頃は、バックパッカーの間で有名なキャピトルゲストハウスの近くのゲストハウス(1泊5ドル程度でとまれる所)に住んでいたが、下町だったのか川で採れる貝の茹で汁(貝をおやつとして街で売っている)を土ぼこりの道に捨てる(撒く)のが嫌で、すぐ最初の部屋を借りた。
 カンボジア難民として日本に来て日本の大学院を卒業して今はカンボジアにある日系企業で働きながら孤児院を造っているという立派な方を紹介してもらい、その方の家の2階を、97年最初の部屋として借りた。家といっても、庭付き一戸建てを持っているのは、ほんの極一部のお金持ち。それ以外で余裕のある人は長屋形式と言うか、一つの建物のうち、1、2、3階が家の中あるいは外で続いていて、一人の人がすべての階を所有する、と言う形式になっている。各階ごとに別の扉があって別の人が所有しているのではないところが、日本のアパートやマンションと違うところ。そこは、オーストラリア大使館の側で治安は悪くなかったが、近くにカラオケ屋があって(ナイトクラブのようなものらしい)夜8時頃になると、ピストルの音が聞こえる。「どうして?」と大家さんに尋ねたら、きれいなドレスをきてビールを売っているお姉さん達をめぐって「俺の女だ」と争っているらしかった。
そこを1年で出て、日本に一度戻って、99年11月、第2学年に進級したときに、その昔はケネデイ夫妻、近年は小渕元首相も宿泊したという、ホテルロイヤルの近くに2軒目の部屋を借りた。今度は静かできれいで良かったが、家賃が200$と高かった。そして、ホテルロイヤル、私の家のあたり、その先と、1区画ごとに世界が違うのだった。つまり、ホテルの中、周りは外人にとっては古き良きフランス植民地時代のフレンチアジアの世界、私の家の周りはこぎれいな中流家庭の家が並び、その先は、なぜか道に木の棒とビニールで小屋をつくり、ゴミが散乱する小便臭いスラムなのだった。よく、天国と地獄というけれど、こんなに数区画離れただけで世界が変わるなんて、と、とてもびっくりしたのだった。小渕元首相にもぜひ見ていただきたかったが、きっと車で移動してらしてそこまではわからなかっただろう。

 2000年の夏に、「アーテイスト同士で集まろう」とTV局で働くタイ人の友達に誘われたのと、経済的な事情もあって、彼女の家に引っ越したが、なかなか大変だった。3軒目の借り部屋だが、そこは、ポルポト政権によってプノンペンが廃虚になった1975年以前にたてられたのか、建物の3階と4階で70$という格安の古いアパートだった。
 70$の家というのは、カンボジアでは、NGOなどで働く(ということは、ちょっとモダンで金銭的にも自立している)ような独身の人が、2、3人の友達とフラットをシェアしているような感じかな。でも、1階が小さな溶接工場でうるさいし、隣のカンボジア人のおばさんは共有通路でぼろきれを燃やして煮炊きをしているし、雨がふるとベランダから雨水が部屋の中に逆流してくる(家が水平になっていないらしい)。「モンパルナスで暮らしていると思えばいいじゃないですか」と日本人の友達に言われたが、さすがに長くは住めなくて2001年の始めに、4軒目の部屋、120$の大通りに面したアパートに移った。
 そこは、自動車やトラックの音を除けば、まあ静かできれいで良かったのだが、ベランダにおいておいたサンダルを誰かが侵入してとっていった(男の足跡だった。彼女にでも頼まれたのか、売ろうと思ったのだろうか。)で、やっぱり恐くなって信頼できる人の近くに住みたくなり、踊りの先生の近くの今のところに2002年の始めに引っ越した。
 今の家(5軒目)は、下が大家さんで、2階を私が借りている。大きな居間と寝室、そしてダイニングキッチンにしている部屋と2つの浴室(一つは台所用の流しにしている)で100$というのは、中流クラスの家をカンボジア人と同じような値段で借りているのだと思う。といっても、中流クラスというのが最近やっとできてきたかなあ、という感じでプノンペンの人口の1、2割を占める程度だと思うのだが。あるいは、貧困層ではない、というのを中流に入れると3、4割ぐらいになるのかもしれないけど、貧困層が5、6割以上を占めるというのは、確かだろう。
 建物の中に階段があるので居間に扉がなく、下の声、特に子どもの声がうるさいというのが難点だが、ベランダや屋上があるのが気に入っている。カンボジアではやたらに子どもが多く、子ども好きでない私はうるさい、と思う事もしばしばだが、小野リサの歌声をバックにブラジリアンな気分になると、子どもの声も効果音になるから不思議である。
この前政府が、「タイ風の家を造るのは止めよ(なんかカンボジア政府の態度はこんな感じである)」というお触れを出した。経済的に優位なタイの文化がカンボジアに入ってくるのを止めたいらしい。
 「じゃ、カンボジア風の家ってどんな家?」と、アールデコ調の花の浮き彫りと色使い、アプサラ(カンボジアの天女)の浮き彫りがある、タイ製のタイルで造られた家に住む私は思うのであった。
 因みに、屋根に塔を持つ木造のカンボジアの古い家は趣があるが、あまり見かけない。内戦で皆壊されてしまい、新しく造るなら私が住んでいるようなコンクリートの家を造るかららしい。
 こういうところで、戦争というのに突き当るんだなあ、と世間知らずな私は、一つ何かを学んだのだった。


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