2月28日 梅ヶ丘にて
 モーニング・コールで起こしてくれたM君や“慈愛パワー”の下平らと共に、Mr.ダンディこと木下泰之氏の呼びかけに応じる形で、午前8時から梅ヶ丘のケヤキ攻防戦に参加。ケヤキ問題の詳細については「梅ヶ丘駅前けやきを守る会」のサイトを参照して欲しいが、要するに翌日から始まる区議会で行われると思われていた梅ヶ丘駅前広場のケヤキの扱いについての議論を、急きょ行政がぶっちぎって通告してきた伐採工事への抗議行動が今日の僕らの目的である。梅ヶ丘は下北沢の隣町で、ここも世田谷区が同時多発的に物騒なことをしでかしている現場。

 現地に午前8時に集合しましたが、工事の気配は無かったため、10時半頃まで代表者がテレビの取材などを受けつつ、監視した後、昼食のため一時離脱。この時の現地は平和そのものだった。


 昼食の途中で“慈愛パワー”の下平が区役所に電話して、「今日、工事をするのではないか」と問いただすと、「そんな予定はない」という返事。ところがその後、午後1時頃に帰る前に念のため、様子を見たら、なんとケヤキ広場の周りには工事用のバリケードが築かれはじめており、中にはショベルカーまで!

 こうした事態を予期して監視していた木下さんは、すでにメガホンを持って広場に入り込み、猛然と抗議活動している。おそらくこれまでにも瞬間の振る舞いに生き方が問われるような突発的な状況にたびたび遭遇し、決然とした行動を繰り返してきたであろう彼の姿は、あまりにも気高く美しい。

 立入禁止とは書いてあるものの制止する人間がいないのを幸いに、僕らも慌ててその中に突入。携帯で仲間を呼び戻すうちに、警備や工事の関係者、行政の人間などは増えていき、工事用のバリケードをどんどん作っていく。

 抗議のために集まった人々は、行政が作っているバリケードの中からメガホンでのスピーチ、この日の現場で生まれた歌を合唱するなどの行動を展開。その周囲を約60名もの警備や行政担当者が取りまき、さらに広場の前にどんどん溜まる通りがたりの人々に対して、抗議のフライヤーを配ったり、署名を集めたりする者も多数いてゴチャマゼとなり、とても現在の東京とは思えない騒然たる状況が約3時間にわたって続く。この様子は午後6時頃にフジテレビのニュースとして全国ネットで放送された。
 ちなみに
「梅ヶ丘駅前けやきを守る会」の代表の橋本さんは、クラシック系の声楽家で、現場で生まれた歌とは、彼女が選んだ賛美歌のメロディに、午前中に集まった人達の意見を出し合い、歌詞を付けたもの。音節数を調整する部分では、僕もアイデアを出させてもらった(笑)。

バリケードの中から

バリケードの外から


 最初にも軽く触れたが、今回のケヤキの処置については、
「梅ヶ丘駅前けやきを守る会」の方が中心となって、区議会に監査請求書を提出。有効請求人570名の連署があり、当初は翌日3月1日から始まる区議会でその検討がなされるものと思われていた。しかし世田谷区はその議会が始まる前日に、工事開始の既成事実を作ってしまおうとしている。
 僕は梅ヶ丘ではなく、下北沢の住人だということもあり、でしゃばった行動はなるべく控えようと思っていた。しかしこうした手続きの不条理さを知ると、頭に血がのぼってしまい、ほんのちょっとだがメガホンを持って「議会は何のためにあるんですか、行政は誰のためにあるんですか」と声をあげてしまった。黙っていたら次に下北沢も同じようにやられてしまう。
 午後4時過ぎ、行政の様子からみてケヤキ伐採の準備は進めているものの、今日中の伐採は時間的に無いと判断し、バリケードから退出した。この日の模様は午後6時頃にフジテレビにて放映された。


退去間際、「ケヤキの歌」で行政に対峙する橋本さんと木下さん



2月27日 
 引っ越し後初めて新居を訪れてくれた石毛さんと“Save the 下北沢”のメンバーで、プチ引っ越し祝い。外へ繰り出したところで野口顕君と合流。フェイヴァリットで歓談の後、再び自宅にて、ブルースビンボーズと安全地帯のDVD鑑賞会。

2月26日 
 “Save the 下北沢”の街頭署名中に、新たな仲間としてM君か参加。前から参加する方法を探していたところに、昨日のイベントが良い機会になったようで嬉しい限り。しかもその後の定例会議、鳥博での打ち上げを経て、“慈愛パワー”の下平、木村ティコ、Mr.タッドと共にNeverNeverLandでの二次会にも参加して、“Save the 下北沢”の主要な顔ぶれとはほとんど知り合ってしまうというする勢いの良さ。2/28、3/12の行動にも参加してくれるとのことでおおいに盛り上がる。
 Mr.タッドは今週二回目の宿泊。

2月25日 
 まずは原稿と格闘。ぴあで打ち合わせの後、木村ティコと待ち合わせて、タウンホールで開催される元気印ミーティングに出席。“Save the 下北沢”のアピール役を務める。今までじっくり話したことはないが、スマッシュの日高正博さん、大久保青志さん、保坂展人さんなど、じすでに面識のある人多数。参加者のうち多くの方が積極的に署名に応じて下さった。二次会はみん亭。またしても今後長く関わることになりそうな方々と知り合う。
 23時半に自宅に戻り、原稿と格闘。崩壊した棚の修復などもあって、30時就寝。

2月24日 
 原稿と格闘した後、“Save the 下北沢”関連の代案検討ミーティング。二次会のにしんばにて、チーム内の懸案についてのシヴィアなやり取り。緊迫する場面もあったが、なんとかあるべき方向で決着点が見え、とりあえずホッとする。
 ミーティング終了後、大雪の中でMr.タッドを自宅に迎え、早川義夫を聴きながら、ついつい話し込む。

2月23日 
 午後6時からの久保昭二との新曲の打ち合わせに間に合わせるべく、仕事をおっぽりだして「僕はアンプ」の構成と歌詞の手直し。微妙にあいた時間を利用して、もうひとつ着手していたさらなる新曲もなんとか間に合わせる。しばし打ち合わせの後、当日予約で二人してスタジオに入り、結局3曲の新曲に着手することに。はたしてこのうち何曲を3月24日の“COUNTER VILLAGE Night”のステージで披露することができるだろうか? 

2月22日 
 木村ティコに電話で起こしてもらって、寝不足ながらも正午から信藤三雄さんの豪邸で“Save the 下北沢”関連のミーティング。陽射しがさんさんと照り込み、二匹の大きなイヌがはしゃぎ回る中で、ティータイムのような優雅な気分に浸れるひととき。個人のスキルで売れることとは、こういうことなんだなぁ、と実感。

2月21日 
 ひたすら原稿書き。食事休憩のつもりで外に出たら、結局“Save the 下北沢”のメンバーと出逢ってしまい、ついついミーティングめいた長話に。原稿を仕上げてから起きる自信が全く無かったので、木村ティコにモーニング・コールを頼んでから仕事に復帰。32時就寝。

2月20日 
 午前11時、木村ティコはミスアティコのミーティングに飛び出していった。それを見送ってから僕はレギュラー原稿を片付け、午後1時から“Save the 下北沢”主催の街歩きイヴェントに参加。またここでも今後新たに力になってくれそうな人々との出逢いがあり、嬉しい限り。

 午後5時にイヴェントが終了してからは、NHKホールで佐野元春の“THE SUN TOUR”ファイナル。第1部は初期の楽曲、第2部は『THE SUN』からの楽曲、そしてアンコールで定番の人気ナンバーという構成。圧巻は第2部の終盤を飾る「国のための準備」「太陽」の流れ。大道具を使った演出も含めて、アルバムに込めたメッセージ性がさらに純化されて伝わってきた。音響も第1部の序盤は辛かったが、途中からどんどん良くなっていき、THE HOBO KING BANDのメンバーの演奏の醍醐味を立体的に味わえたのみならず、歌詞もかなり聞き取りやすかったので大満足。
 終演後の乾杯では、久々にお逢いできる人多数。短いが楽しいひとときを過ごすことが出来た。 


2月19日 
 現代思想の編集長と“Save the 下北沢”のメンバーで、原稿についての打ち合わせ。先方の要望とチーム内での調整の結果、なんと僕も原稿を書くことになる。とは言ってもアカデミックな学術論文など、僕に書けるわけもないので、自分が担当するのは物語性を重視したドキュメントのようなものになりそう。一応仮タイトルはベタですが“下北沢を巡るネヴァー・エンディング・ストーリー”とでもしておこう。
 雨のため街頭署名は中止して、ロングラン・ミーティング。そして呑み歩き。3軒ハシゴした後、力つきた木村ティコを収容して28時就寝。


2月17日 
 風邪午後5時からWHAT'S IN?の記事のため、スクービードゥーにインタヴュー。開口一番、ギタリストの松木泰二郎が「TV見ましたよ」と言ってきたので、異例のことながら、本題の取材を始める前に“Save the 下北沢”への賛同をいいただく。ありがとう!

 さらに8時半からは、ぴあのためのスカパラの取材。インタヴューに応えてくれたのは、谷中敦と川上つよし。谷中のエレガントな無頼ぶりはいつもながら、海外ツアーを重ねてバンド自体の地力が高まっているためか、メンバーの中でもかなり温厚なイメージだった川上が、えらくアッパーなキャラになっているのが印象的だった。

 スカパラの取材を終えてから、あらかじめ原稿をメールで送っておいた
ミスアティコの木村編集長にTEL。今日が〆切なので、問題点があったら今晩中に詰めておこうという約束だったのだが、いきなり「四点ほどお伝えしたいことがあるんですが」との言葉にビビリまくり。こりゃ今晩は体力が必要だと観念し、天下一品で餃子定食をかっくらってから自宅に戻り、しばしのやり取りを経て、送った二稿でOKとなる。う〜む、前回よりはだいぶすみやかに入稿できたものの、このスリルは病みつきになりそうじゃ。

2月16日 高円寺三昧
 風邪は大丈夫?とのメールをいただきました。ご心配かけてすいませんでした。もう回復しております。今日は高円寺でラーメン屋たんたん〜稲生座ではしもとはじめのソロ・ライヴ〜ネブラスカというフルコース。ライヴ終了後、途中でKALASと逢えたのも楽しかったが、とにかくはしもとはじめとサシでここまで話し込んだのはそうとうに久しぶり。彼の話を聞いていると本当に人生色々色々だと痛感するが、20年以上の時間をかけて、共感しあえる部分が確実に増えてきていることは、嬉しいとしか言いようがない。ライヴでは「セルリアン・ブルー」は染みました。前にも書いたけど、はしもとはじめのソロは、僕が嫉妬するくらいかっこいいんだぜ!

2月14日 バレンタイン・キング
 午後2時、下平氏のお供で下北駅前劇場にてパディハウス第1回プロデュース公演「富豪と、嘘と、のぞみ」を観劇。脚本も書いている女性一人と男性二人の三人芝居。開演早々から客演の坂上二郎の慈愛のこもった眼光&オーラに打たれ、同時に1月14日のwhachoを思い出す。それもそのはずで、坂上二郎は昨年9月に脳梗塞で倒れた後、今回の公演が復帰第1弾にあたるのだという。なんというか、姿を見るだけで仏様を拝んでいるようなありがたい気分になる芝居でした。人間って何かを失いかけることによって、言葉にし難いものを身に付けることができる特殊な生き物なのかも知れない。

 そしてその余韻も覚めやらぬまま、午後4時から日本バックギャモン協会会長でもある勝負師、下平氏の仕切りによる
“Save the 下北沢”関係者によるバレンタインまぁじゃん大会。ハンチャン4回のみのタイトな進行で、互いの名誉を賭けての闘いである。囲むのは全員初めての顔ぶれのうえ、うち二人はフリーで鳴らした強者揃いとあって、かなりの苦戦を覚悟して臨んだが、坂上二郎の慈愛パワーのおかげか、トータル・トップでバレンタイン・キングの栄誉を手中にすることができた。
 それにしても演劇に誘ってくれた上、大会を仕切り、しかも僕が親マンを積もった時に「飛びます、飛びます」とは、下平氏の無償奉仕の慈愛パワーも凄すぎ。きっと言葉にし難いものを身に付けたに違いない。


2月12日 
 様々なプロジェクトが並行してるため、今日の“Save the 下北沢”の街頭署名は僕も含めて二名だけで行った。そこに110番通報が入り、警察の方々が、路上占有許可証の提示を求めて登場。風邪でフラフラの仲間の中継により、許可証を提示して活動を継続。二週続けてわざわざ110番に通報するとは、足を引っ張りたがる方ももの好きなものだ。一方で占有許可に必要なお金のことを案じた“Save the 下北沢”支持者の方から路上でカンパをいただき感激。

 署名終了後は様々なプロジェクトを終えた仲間と共にミーティング。打ち上げ後はまたしてもNeverへ。Mr.タッドを迎え、28時就寝。


2月11日 
 風邪全快…ではなく全開、ノドが痛い上、頭も朦朧としているため、原稿に手こずるが、夜になって食欲爆裂。多量のサラダとにんにくまみれのステーキを自炊して、体調の回復をはかる。

2月10日 
 やや風邪気味ながら、“Save the 下北沢”のミーティング。みん亭で食事後、Neverにてミスアティコ御一同様と合流。風邪気味の者多数ながら、店内を圧倒する異常な盛り上がり。30時半、早朝の松屋までハシゴして散開。

2月9日 
 高円寺ShowBoatにて外丸兼次。この日の彼のリズム隊はマサ+永野かおりという4/1の爆裂と同じ編成なのであった。ライヴ終了後、二人に音源などを渡してから下北にとんぼ帰りして、K編集長とBar Ma.Ka.にてミーティング。ふとしたことから話はお店への“Save the 下北沢”のPRへとなり、強力な賛同をいただく。

 その後は独りでNeverへ。なぜか常連さん達と異常に盛り上がってしまい、早朝のカラオケ大会。某女優の演歌のうまさに驚愕。31時就寝。


2月7日 ジャーナリストの矜持
 ドキュメント映画「リトル・バーズ-イラク 戦火の家族たち-」の試写会へ。2003年3月のアメリカによるイラク侵攻直前から、その後の様子を1年半かけて取材した作品。監督の綿井健陽は、当時現地からの中継を続けていたヴィデオ・ジャーナリスト。翻訳には重信メイの名前も。開戦前は日本に好意的だった市民が、爆撃を受けてから監督を罵倒するシーン。3人の子供を失った父親の嘆く姿など、衝撃的な場面の連続である。
 監督が米兵に向かってかなり挑発的な質問をするシーンも印象に残っており、彼自身の感情をむき出しにしているのかと思ったので、上映終了後、場内にいた監督に「取材時はどういうことを心掛けていたんですか?」と訊いたところ、「米兵への質問は、相手の反応をみたいので、あえて挑発的な言葉を選びました」「病院での取材などでの痛ましい場面には、もう慣れているのでハラは座っていました。それでも今回の取材は特にヘヴィでしたが…」との応え。
 
この男、徹底的にプロである。
 
僕がふだんやっているミュージシャンとの取材は、基本的に友好的な雰囲気のものがほとんどだが、取材である以上、視聴者や読者に何を伝えるべきか、ということを最優先にすれば、友好的ではすませられず、非情に徹するべき時も確かにあるだろう。2002年の夏に僕が泣きながら踏み越えようとしたのも、その一線だったはずだ。まぁ僕のことはともかくとして、ゴールデン・ウィークに新宿K's Cinemaなどで公開されるこの映画、より多くの人が見ることを願う。

 そこから秋葉原へ移動してパソコンのメンテのための買い物〜さらに某編集者とおちあい、システム・ディスクを拝借〜ぴあにて資料受け渡し。そして恵比寿のリキッドルームにてROSSOの熱演を堪能。
 帰宅後、ようやくパソコンのトラブルを根本的に解決してから、原稿に着手。31時半就寝。


2月6日 
 またしても不調のパソコンをだましながら、月曜〆切の原稿と格闘。夕方は下北沢GARAGEにてBase Ball BearとBaconの2マン。Baconは音楽性以上にキャラが立っていたが、先攻のBase Ball Bearは楽曲とアンサンブルの力で押してくる感じ。くるり〜フジファブリックの流れからどれくらい自分達だけの味を出せるかがポイントになりそうだが、音の感触とドラマーの佇まいは、かなり僕の好みでした。
 帰宅後は、ひたすらパソコンの調整…。


2月5日 THE SINGER SHOW
 “Save the 下北沢”の街頭署名を終えた後、横浜アリーナにてMISIA。オープニングからユーミン並みのど派手な演出とフィジカルな躍動感に満ちたステージングで人気のほどを納得。序盤は声域の広さもあって、鍛えられたアスリートを見るような気分。だが中盤の日本語詞によるバラード・コーナーは、それ以上に歌としてのエモーショナルな説得力で迫ってくるものがあった。特に宮沢和史の書いた「風のない朝 星のない夜」に続いて披露された玉置浩二作曲の「名前のない空を見上げて」は、演出も含めてライヴ全体の流れのピーク。単なるシングルと言うよりも、この曲を大事に扱おうという意志が伝わってきた。
 英語詞のダンス・ナンバーを歌う彼女は、ある種機能的な声の使い手という感じだが、玉置の楽曲は確かにシンガーとしての彼女のポテンシャルを引き出すのに充分なできだということなのかも知れない。彼女自身も自分の引き出しの多さを、今後どう統合していくのか、まさに分岐点に立っているように見えた。


2月4日 朝刊を待ちながら
 原稿書きまくりつつ、“Save the 下北沢”の業務連絡多々。息抜き代わりに自炊する引きこもり状態。26時に脳内爆裂。「今日はもう仕事したくね〜、でも眠れね〜」ってなことで、玉置浩二の「グライダー」を爆音で聴いてから、久々にひとりでNeverへ。
 するとまるで待ち合わせでもしていたかのように、
“Save the 下北沢”の両代表と遭遇! 「早く朝刊でないかな〜」と言いつつ、40代男三人で親孝行について語り合った後、29時駅前コンビニで日経新聞をゲット。そのまま3人で夜明けのラーメンを食べて、30時散開。
号外

明日土曜、日経朝刊東京欄にご注目下さい。

2月3日 
 午後3時から号外で紹介した行政への要望書提出セレモニー。要望書をまとめたのは、補助54号線の予定地に事務所があるコモン法律事務所の石本伸晃さん。終始爽やかな笑顔を絶やさず、それでいて行政担当者に滔々と意見を伝える立ち居振る舞いが、なんとも頼もしい。彼のホームページの中には、今回提出した要望書もあれば、下北沢のランチ日記もあるので、御覧になって見て下さい。
 しかし僕の方はパソコンのトラブルが発生して四苦八苦。原稿ラッシュの最中に9時間を費やして、なんとか解決することができたが、ヘトヘトじゃ。


2月2日 不破大輔賛同!
 MUSIC MAGAZINEにて渋さ知らズの取材。初めてインタヴューする不破大輔は、ライヴのイメージの無頼な雰囲気はあるものの、想像以上にきれいな目をしたかわいらしいキャラクターだった。インタヴューも前から訊きたかったことをいろいろと訊け、楽しく充実したひととき。
 取材終了後、
“Save the 下北沢”の話をすると、すかさず賛同者として名乗りをあげ、署名もしてくれた。その吉報を手土産に下北沢に戻ってから下北沢フォーラムのミーティングに参加。Motherに移動してハシゴ酒の最中に、次号ミスアティコの原稿の内容などについて、編集長と打ち合わせ。
号外

 下北沢周辺の住民の方々が中心になって、「説明会と市民参加の協議の場を求める要望書」を世田谷区の街づくり課に提出されることになりました。報道関係を含む多くの方の参加をお願いします。
 下北沢で何が起きようとしているのか、行政の対応を見極める良い機会です。
 詳しい経緯は分かりやすくまとめられた
仲俣暁生さんのページをご覧下さい。

2月3日 15:00
北沢タウンホール 1階ロビー
でお逢いしましょう!


2月1日 
 恒例の〆切地獄の最中だが、「現代思想」誌による“Save the 下北沢”の取材。僕自身が以前MUSIC MAGAZINEに書いた原稿が、偶然にもいろいろとシンクロしていることを知り、驚き&興奮。ひょっとしたら、実家のある地域の歴史も調べていくと、“Save the 下北沢”にもリンクする壮大な物語を掘り起こすことができるかも知れない。これはどういう形で作品にするのが良いのだろう?

1月31日 
 これまで60本ほどしか長編映画が製作されていないという南米ウルグアイの「ウィスキー」の試写。タイトルは日本で写真を撮るときの「チーズ」にあたる笑顔を作るためのキーワード。生真面目な人々の悲喜こもごもを抑制したトーンで綴る静的な作品だった。地味なエンディングには「それで良いのか?」と突っ込みを入れたくなったが、ある種、日常的な達観というか諦観自体が、作品のテーマなのだろう。これはシャイな国民性の反映なのだろうか? ちなみにこの国の映画が、日本で劇場公開されるのは初めてだそうです。ゴールデン・ウィークにシネ・アミューズにてロードショー。

 その後、仕事の資料の受け渡しを終えてから、高円寺に移った
KALASの新居にて引っ越し祝い。バイクゆえ酒が飲めないのは残念だったが、例によって調理師免許を持っている彼の料理で満足満腹。ご馳走様でした!
 27時に帰宅してレギュラー原稿と格闘。といったところで唐突ですが、交通事故には気を付けましょうね、みなさん。


1月30日 藤原ちからの解釈の“力”
 28日に創刊されたミスアティコのスタッフである藤原ちから君が、彼自身の日記で、創刊記念パーティの場で演奏した僕の新曲(曲名募集中)について書いてくれている。
 誉められれば嬉しいのは、イヌでもネコでもシダアユミでもあったりまえ。なので、と〜ぜんはしゃいでいる。いるのだけれど、それにも増して僕が唸らされたのは、彼の解釈の力だった。

 僕自身はあの新曲を書いている時には、「インスピレーションをくれた人々のエネルギーを変換しただけ」と言いたくなるほど、自意識を込めた自覚は薄かった。しかし彼がパーティの場で伝えてくれた言葉は、僕の体験が投影されていながら、僕自身は気が付かずにいた部分を、「なるほど、そうだったのかぁ!」と納得させられるほどの精度で言い当てていた。それはそれで、もちろん嬉しいできごとだ。

 そして僕もまた、ふだんは人の音楽についての文章を書くことを、仕事としている者の一人である。そうした時に僕が使うことが多いのは、作品に投影された作者自身の物語を読み解くというやり方だ。

 しかし
彼自身の日記を読んでいただけば分かると思うが、藤原君がウェブ上で展開した解釈は、彼が見事に見抜いた僕の物語に沿ったものではない。かといって彼自身の物語性を重ね合わせるというものでもない。僕自身の印象で言うなら、そこで連ねられている言葉は、まだ名前も付いていない新曲を、各々の個人史から解き放ち、より広い地平へと送り出しす力を与えてくれるものだった。

 解釈は人の数だけ存在して良い。

 作品に触れた人の解釈は、他者からどう言われようと、その人の中での“正解”であり続けるだろう。しかし作品にとって“幸福な解釈”と“そうでない解釈”は確かに存在する。正直言って僕自身の作品について、雑誌などで書かれた文章を読んだ時、その筆者が応援してくれる“気持ち”に感謝したことはあっても、グサっと刺さってくるような鋭さを感じたことは、今までほとんどなかったと言って良い。
 むしろ鋭さなら、公の文章で連ねられた“解釈”よりも、ファン・メールなどで伝えてくれる“感想”の方に感じることが多いくらいだ。

 そんな中で藤原ちからの解釈は、プライヴェートなコミュニケーションとは違った形で放たれたものである。しかも僕の作品の射程距離を、個々人の物語性とは違う次元にまで伸ばしてくれると言う意味で、僕の作品にとっても僕自身にとっても、あまりにも有り難いものだった。自分の作品に対して、こんな言葉が与えられることがあり得るという可能性に対してすら、僕はこれまでそうとうに懐疑的だったように思う。

 そう思いつつ我が身を振り返った時、僕は思わず冷や汗をかいてしまう。
自分が仕事で書いている文章は、そのような力をきちんと持ち得ているだろうか?

 おそるべし、藤原ちからの解釈の力である。


1月29日 またもBIG NEWS!
 “Save the 下北沢”の街頭署名中に通りかかったある女性が、他のメンバーのところで署名し、「自分の名前を賛同人に加えて」と申し出てくれた後、仲間の間ではどよめきが広がっていった。
 その女性のペンネームは……
よしもとばなな
 僕はまじでかなりのファンだと自認しているので、署名中であるにも関わらず、思わず「やった〜!」と雄叫びをあげてしまった。

 署名終了後の会議もそうした流れを受けて、非常に良い雰囲気で進み、メンバーで食事をしているみん亭で、今度は
橋本はじめと合流。満腹になってからGadisに移動して久々にゆっくり話したが、あいかわらず彼は彼でいつも変化し続けており、そのスピードには驚かされるばかり。
 ちなみに
Q/Cの解散もその変化のひとつだが、昨年7月23日の彼のソロ・ライヴを絶賛した僕としては、何の心配も感じていない。今年はさらにいろいろとお世話になりそうな気配ですし、橋本さん、今までにも増してどうぞよろしくお願いします。

1月28日 ミスアティコ創刊記念パーティの夜
 昼は〆切ラッシュの月末ゆえ原稿に向かう一方で、さらなる新曲のアイデアがまたもやわいてきて並行作業。
 夜は下北沢をテーマにしたフリーペーパー、
ミスアティコの創刊記念パーティにて、ノン・マイク、完全生音で弾き語り演奏。一応ノドを暖めておこうと1時間だけANDY'S STUDIOに入ったところ、お店から“Save the 下北沢”の賛同を得る。そしてふと隣を見ると僕が大好きな某ロック・グループの面々が! 一応、事務所経由の正式な手続きを経るまで名前は伏せておきますが、彼らにもフライヤーを渡したところ、すかさず賛同人としての名乗りをあげてくれた。

 7時からパーティ開始。僕の出番は少年山賊団の2回のライヴの合間に1曲だけという予定だったのだが、結局、お客さんのリクエストに応える形でパーティの締めにもう一度歌わせてもらうことに。
 歌われるべき歌を歌われるべき場に提供する役割を全うできることの悦び。そして共にいるべき人と場を共にできることの恍惚。
 
曲ができてから6日で初お披露目というのは、僕の経験の中では異例のペース。自意識で濁っていない創作は、迷いが少ない分、アウトプットまでのスピードも速い。どうやらこの新曲は、「光の中へ」と並ぶ僕の代表曲になりそう。
 なおこの日にお披露目した新曲の曲名募集へ応募していただいた皆様、ありがとうございます。正式決定は、
3月24日の“COUNTER VILLAGE Night”のステージにて、ということでお楽しみに!

1月27日 
 京橋にてウディ・アレンの新作「さよなら、さよならハリウッド」の試写会へ。奇才の映画監督を主人公にした大人のためのお伽噺といった趣で、アリエネ〜展開も含め、笑わせてもらった。でも彼のプロフィールを知っている人なら、その設定に彼自身の実像とシンクロする部分がけっこうあることが分かるはず。身を挺して笑いにもっていくあたりはさすが。
 それに加えて彼が今年の12月で70歳になるとは驚き! すさまじいバイタリティだ。

 夜は引っ越し準備の功労者である
久保昭二をようやく新居に迎えて、3月24日の“COUNTER VILLAGE Night”新曲、フライヤーなどの打ち合わせ&密談。

1月26日 意見交換会再び
 先週に続いて午後7時よりタウンホールにて行われた世田谷区による下北沢地区計画骨子案についての意見交換会に出席。前半は意見を述べる人が少なかったため、呼び水になればと思って、自分も質問させてもらった。後半に出てきた高層化により日照の心配をなさっている住民の方、54号線建設のため立ち退きを迫られている商店の方の意見がずしりと響いた。終了後は現在使っている“Save the 下北沢”のフライヤーを作成してくれた某デザイナー氏も含むメンバー数人で、フェイバリット〜りゅう へとはしご。テンションは高いのだが、体が疲れていて、途中で一時意識を喪失するが、最後は結局自宅で29時まで某デザイナー氏と安全地帯のDVDを観賞しつつ呑む。おいおい…(以下省略)

1月25日 ♪それでいい〜 それがいい〜♪
 玉置浩二の最新作『今日というこの日を生きていこう』(2/16発売)に感激。
 松井五郎と玉置が、キャッチボールをしながら共に前に向かって走っているような充実感。シングル「愛されたいだけさ」のホーンが醸し出す派手さも、決してあざとくない。
 でも一番のお気に入りはなんといっても「グライダー」。
♪それでいい〜 それがいい〜♪ っと。
 才能があるミュージシャンはたくさんいるけれど、それを効率よく作品として世の中に還元してる好例だ。これからは、悲しいことがあったら、“水の中で泣く”代わりに、この曲を聴くことにしよう。
 目頭をうるませつつ、あ〜んど、こ踊りしつつ、さっそくMUSIC MAGAZINE用のレヴューを書いているところに、先日メールで歌詞を送った「君はアンプ」のデモ音源が、ハッシー@
宴とりっぷから添付ファイルで届く。
 便利な世の中になったものだ。このやり取りのテンポは、僕が今味わっているスピード感にばっちりはまっちょる。


1月24日 曲名公募再び 慈愛パワー再び
 昨日デモを制作した新曲の歌詞をアップ(一番下にあります)。その前の悪ふざけ路線とは打って変わって、直球赤面青春もの(?)になっちゃいました。ところがまたしてもタイトルが決まらな〜い
 ということで、
性懲りもなく曲名を公募します。これぞというものが浮かんだ方はメールして下さい。よろしくです。

 15時、昨日の音源をハッシー@宴とりっぷに送る準備をしていたところ、別のアレンジを思いついてしまい、またもスタジオへ。何かもうひとつカチッとはまると良いものになりそうなのだが…。

 その後、LIVE FREAKで
3月24日の“COUNTER VILLAGE Night”の手売り用チケット受け取り、ぴあで資料の受け取りをすませてから、渋谷のCLUB QUATTROにて、山口洋、古明地洋哉、小谷美沙子の弾き語りジョイント・ライヴに遅刻して参上。
 とにかく圧巻は久々に見た山口洋。やつの手にかかるとギターも民族楽器と化す。でも素晴らしいのは技術以上に人間としての包容力。客のいじり方も絶妙だったが、最後に出た彼のアンコールで、古明地洋哉と小谷美沙子に歌わせ、本人はニコニコとギターを弾く姿に感動しまくり。14日のwhachoの演奏で感じた慈愛パワーがここにも…。かっこよすぎる。
 そういえば山口洋も昨年は本当に大変だったことを思い出す。成長の背景には辛い経験がつきものなのだろうか…、なんてことを彼と喋りたくなって しまい、思わず終演後楽屋に。
 久しぶりに言葉を交わした山口洋の佇まいは、ステージと同じくそこにいるだけで周囲に笑いと安心感をもたらすものだった。彼の方から下北沢の話題に触れてくれたので、最近の事情を伝えると、その場で
“Save the 下北沢”の賛同人になってくれた。ありがとう!

 帰宅後は朦朧となりつつレギュラー原稿と格闘。


1月23日 
 寝起きにレギュラー原稿10本を書き上げ、新曲の構成を手直し。そのままスタジオを予約して、今回プロデューサー役を引き受けてもらったハッシー@宴とりっぷに送るための弾き語りのデモ・テープを制作。曲名はいまのところ未定。
 その後、自宅に戻る間もないまま、ギターをかついでタウンホールで行われる
下北沢フォーラムのイヴェントに参加。スタッフ不足ゆえ、気が付くとなぜか受け付けを担当しているオレ。う〜ん、もうちょっときれいどころを配置すべきではないでしょうか(苦笑)?
 とはいえイヴェント自体は、学生も含め参加者50名ほどの盛り上がりでかなり良い感じ。下北沢の問題にリンクして以来、出逢う人々がみんな良い感じの人々なのはなぜなのだろう?
 打ち上げは新雪園。二次会は男衆5人でGaja。結局K編集長とは5日連続で呑んでいることになる。でもね、今日デモを作った新曲のイメージは、K編集長からもらったりしているのだから、これで良いのだ!


1月22日 
 昼に来るはずだった原稿の素材を待っていたのだが…来ない。その合間を縫って、データを待ちながら、さらなる新曲の歌詞と曲を同時並行で仕上げる。だがいつもながら楽曲は、もっと練り上げられるのではないか、との疑念が頭から離れないため、曲についてはプロデューサー役を誰かに担ってもらうことにする。
 
“Save the 下北沢”の街頭署名には、そんな事情で若干遅刻して参加。街頭にいる間に参加してくれた新たなコア・メンバーを迎え、定例ミーティングの後、みん亭にて宴会。
 千客万来、暴飲暴食街道邁進。


1月21日 シモキタ・モナムール
 モナレコードで行われた高橋健太郎さんと信藤三雄さんのバースデイ・イヴェント“シモキタ・モナムール”に、“Save the 下北沢”の折り込みをさせていただく。
 リハの合間に自宅へ戻って原稿書き、ア〜ンド、
3月24日の“COUNTER VILLAGE Night”のための連絡業務多々。爆裂兄弟のセットへの原みどりのゲスト参加が決定する。
 開演直前に再びモナレコードに戻ってライヴも拝見。和気あいあいとしたイヴェントの華を飾ったミホミホマコト DE スクーターズ(もりばやしみほ、朝日美穂、川本真琴)は、なんだか吉祥寺三姉妹のごとし。笑い声の絶えない愉快なイヴェントでした。
 業務連絡とご挨拶をすませてから、
“Save the 下北沢”のコア・メンバー3人で古里庵に移動。賛同店に加わっていただいた後、終電を逃したMr.タッドと自宅へ。おいおい…(以下省略)

1月20日 
 午後4時よりMr.ダンディとポスティング。途中から新たに“Save the 下北沢”に加わってくれた下北土着民のサポートを得て、無事終了。タイ料理で一段落してからNeverNeverLandに移動してMr.ダンディの受けた取材に立ち会う。70年代以降の大きな流れを知っていくに連れ、1987年という年が、実は全国的に公共事業関係で大きな分岐点となっていたことを知る。う〜む、ここまでの構造をきちんと伝えるには、まだまだ学習せねば。
 日付が変わる頃、気が付いてみると店内にいるのは
“Save the 下北沢”のメンバーだらけ。おいおい何日連チャンで、似た顔ぶれで呑んでいるんだ?と苦笑しつつ…(以下省略)

1月19日 下北沢地区計画骨子案意見交換会
 午後7時よりタウンホールにて、世田谷区による下北沢地区計画骨子案についての意見交換会。“Save the 下北沢”のメンバー数人で参加したのだが、地域の地権者の人々から出てくる発言が、これまで“Save the 下北沢”で主張してきたポイントと見事にシンクロしていて感動。僕らの意見は、これまで“一部の少数派の意見”などと言われたこともあったが、そんなことを気にすることはなかったのだ! 今回の僕らは様子をうかがう形で発言は控えていたのだが、それでありながら“これならいける!”という高揚感で、胸が高鳴った。今まで積み重ねてきた成果が着々と目に見える形になりつつある。
 終了後は意見交換会でポイントを突いた質問をなさっていた地権者の方を交え、みんな明るい表情で下北沢の将来に向けて乾杯。

 その後、自宅にMr.ダンディとMr.タッドを迎えU2のLD観賞。


1月18日 
 3月24日のイヴェント向けにハッシー@宴とりっぷと共作するための歌詞を作詞。はじめはシリアスものでいくつもりだったが、90分で一気に書き殴った結果、極端なおふざけ路線になってしまった。そもそも仮タイトルが「君はアンプ」ってところから、すでにたがが外れまくっちょる。
 ハッシーごめんよ〜。次は魂削ったものを書くから勘弁しちくり〜。*?{}=)'#$%&%$~$%#"


1月17日 
 久々に試写会へ。見た作品はアルゼンチンのアニメ「火星人メルカーノ」。バッド・テイスト濃厚だが、コミカルかつキッチュなセンスでついつい笑わされてしまうSFだった。監督のフアン・アンティンは'69年生まれ。きついシニシズムから、高い教育水準を持つ一方で、経済不安が高まっている国情が漂ってくる。作品としては楽しめた。
 でもこうしたシニシズムが共有できてしまう今の世の中ってどうよ?
 帰り際に仕事の資料の受け渡しを経て、ライヴのための連絡事項多々。3月24日の次の4月1日のライヴも決定しちゃいました。う〜ん、暴走暴走。今年の春は忙しくなるぞ。


1月16日 
 午前中はレギュラー原稿と格闘。正午過ぎに編集者のbeeswing氏を迎え、一昨日書き直した原稿についての打ち合わせ。「面白い!」とお誉めの言葉をいただき発奮する。

 午後二時、beeswing氏と共にタウンホールへ向かい、
“Save the 下北沢”の月例交流会に参加。前半の青木仁さんの講演は、統計やヴィジュアルも駆使した説得力に富んだもので、非常に勉強になると同時に、おおいに励まされる。

 その後はにしんばにて、総勢20名によるロングラン打ち上げ。マツリの準備をしているかのような活気に満ちた場となった。


1月15日 
 レギュラー原稿と格闘。雨のため街頭署名活動が中止となったぶん、原稿を書く時間が生まれて救われる。しかもその後で開始された“Save the 下北沢”の場に、新たな強力な賛同人が登場した。なんとあの信藤三雄さんハイポジのもりばやしみほさんである。スタッフ・ワークについても意欲満々のお二人に、一同すさまじく盛り上がる。

 その後CLUB Queにて
塚本晃ワンマン。金髪になった伊藤孝喜は、ルックスとアクションが未来淳史のごとく見える瞬間があった。アンコールでは久々に聴く塚本バージョンの「満月の夕」。今回は行けなかったけれど、長田神社に集う人達と、音楽で気持ちをつないでくれた。

 その後は打ち上げの片隅でミーティング。
塚本晃宴とりっぷ、志田歩&爆裂兄弟の三者による3月24日のイヴェントの詳細を、すみやかに決定!

 打ち上げ終了後は、塚本晃のライヴでベースを担当している三輪雅也と、ハッシー@
宴とりっぷを新居に招いて、深夜(というよりは早朝)のJAGATARAヴィデオ鑑賞会。30時に散開。 

1月14日 生きてるだけで儲けもの
 2002年、夏のある晩。僕は原稿を書いていく上で特別な経験をした。あまりにも過酷な体験をした人物が、それでも他者と音楽への愛情を無垢に放ち続ける話を取材で聞き、それを形にしている途中、声を上げて号泣しながら、一晩で数十枚の原稿を書き上げたのだ。
 それまでの僕は、正直言って音楽をやる時のテンションと原稿を書く時のテンションのギャップにずっと苛まれ続けていたのだが、その時の自分の身体感覚は、音楽も文章も同じテンションを放つ回路と認めるに充分なものだった。
 つまり音楽で名前を知られるか、原稿で名前を知られるか、ということについて、コンプレックスが消滅した、というか、そんなことは
ど〜でも良くなったのである。
 今日修正していた原稿は、まさにその号泣しながら書き殴った部分。あまりにも生々しすぎるので表現を改めて欲しいという要請に応えて書き直すのは、もっとうんざりするかと思っていたのだが、証言を削った代わりに自分の解釈を延々と連ねることにより、予想以上に充実した手応えを味わうことができた。
 2年半のブランクを経て、作業に着手したとたん、ここまでの集中力が出てくる自分が不思議だ。まだまだこの企画の進行は予断を許さないけれど、とにかく頑張ります。
 そしてこの企画が進行することを応援して下さっているみなさんに、改めて心からの感謝と愛を!

 夜は吉祥寺マンダラ2にて、原みどり主宰の“歌う女ともだちVOL.6”。今回の出演はデジタルラブタブラとかわいしのぶを擁するパンチの効いたブルース。とにかく印象に残ったのは、デジタルラブタブラでパーカッションを担当しているwhacho。つい最近まで彼は心筋梗塞で入院していたのだが、生死にかかわる病を経て心境が改まった部分があるのだろうか。「生きてるだけで儲けものなんだぞ」「パーカッションができるだけで儲けものなんだぞ」といわんばかりの慈しみに満ちた音と表情が素晴らしかった。
 ラストの2バンドによるセッションは、破綻すれすれの際どさだったが、臨機応変に場を仕切る原みどりが凛々しい。これも吉祥寺三姉妹での泥酔ライヴで鍛えた(?)賜物か。

 そして自宅に戻り、3月24日の自分のイヴェントの打ち合わせと並行しつつ、今度はレギュラー原稿と格闘。


1月13日 スイッチ・オン?
 いただきもののカーテンを扉を取り外した押し入れに据えつけ、ほぼ部屋のセッティングも終了。いよいよ長年の課題となっていた単行本企画の修正に着手する。

1月11日 
 下北沢をテーマにした会合で、南口商店街の吉田さんの話を聞く。大勢の意見を束ねる代表という立場から出てくる矛盾もうかがえたが、あまりにも率直な実感を知って面白い部分も多々あった。ただし大事なのは、これから何が出来るかということだ。

1月10日 視ることは肯定すること
 新宿にて藤原新也のポルトガルをテーマにした写真展。“視ることは肯定すること”という言い方が素直に響く。特に墓地の写真の温かい質感から、「東京漂流」の頃の“墓につばをかけるのか。それとも花を盛るのか。”というキツサとはほど遠い境地に彼が到達したことを知る。

1月9日 
 初台ドアーズにて大谷レイブンのマリノ。スタイルは典型的なハード・ロックで、アレンジの元ネタも分かる部分があったが、様式美を越えた説得力があるのはさすが。

1月8日 初“Save the 下北沢”
 “Save the 下北沢”の活動も今日から開始。最初は人数が少なかったが、途中から続々と仲間が現れ、終了後は新年会へ。

1月1日 遂に新年
 あけましておめでとうございます。12月がそういう事情だったので、ようやく元旦にウェブを更新しております。新年のご挨拶、転居の連絡など、大幅に遅れてしまいそうですが、どうかお許し下さい。こんな僕ですが、どうか今年もよろしくお願いします。