5月30日 祭、ア〜ンド・パーティ!
 
正午、昨夜演奏してくれたマサが出演する野外ライヴ“風人の祭”を見るために、バイクで石神井公園に到着。今日のマサは出会い系バーベキューアホ音遊楽団と自称する輪というグループのスペシャル・フィーチャリング・ゲストとしての出演である。長尺曲3曲のうち2曲目は、マサの発案によるナンバーで、フロントとして場内を盛り上げる凛々しい姿は実に新鮮で衝撃的だった。マサの計り知れない器のでかさを思い知る。こやつ実は天才(or超弩級のドアホゥ)かも知れぬ。今後彼とステージをやっていく上でも、見ておいて良かった! マサ、今後もよろしく!

 夜は新作『唯一憂歌』を完成させた
KALASの自宅にてアルバム完成記念パーティ。なんと調理師免許を持っているKALASが、素晴らしい手料理を次から次へと振る舞ってくれる。マジうまかったっす。ご馳走様! いつの間にかKALASが眠ってしまった後も宴は延々と続き、ハイになった僕もはしゃぎまくり。顔だけは知っていたものの、初めて話すような方々も多かったのだが、昨日の僕のライヴを見ていただいた方もいる上、なぜかPANTA&HALボックスで盛り上がる方が多かったので、ますますはしゃぐ。



5月29日 汗、涙、そして爆笑
 
多少回復したもののまだ痛む腰をかばいつつ、午後3時に高円寺のアフタービート・スタジオに集合。スタジオの場所を北口と南口間違えていて一瞬慌てる…が近くにあったので、大事にはいたらず。2時間のウォーミング・アップ後、久保昭二、マサといっしょに焼鳥屋で一息入れてから、会場入りして、サウンド・チェック。
 今日の開演は8時で、先攻は山田淳。今回は昨日あったばかりの石毛さん、伊藤孝喜をはじめ、昔のバンド仲間、
“Save the 下北沢”の仲間や宴とりっぷのメンバー、マサとはサルサガムテープをいっしょにやっている永野かおりさんなど、お客さんが大勢来てくれて実にありがたい。雨が心配だったがめでたく快晴。しかしその分うだるような暑さで、普段のステージの4〜5倍の汗を流したような気がする。
 5月4日の体験を実践するべく、久々に「BOYS ON THE EDGE」を盛り込んだ重めの選曲で臨んだが、重いだけでなく、笑いもあるステージにできた気がする。特に久保昭二の絶叫は爆笑もの! この顔合わせならではのノリが嬉しい。お客さんを巻き込んでラストの大合唱には実に励まされた。
 ミスは多かったが、お店のスタッフからは「次はいつに入れます? 仮押さえしちゃいましょうよ」とありがたい言葉をいただくなど、盛り上がりは上々。さ〜て久保、マサ、次はどういう風にしようかね?
 高円寺で店を移しての打ち上げも10名以上で午前2時半頃まで続く盛況。
楽しい〜!!あきれたことにふと気が付くと、腰の痛みはすっかり収まっていた。我ながらなんともゲンキンなヤツである。
 最後は下北沢に戻って、NeverNeverLandの常連、K沢氏とサシで28時のNeverで締め括る。

 それからきょんさん、今回も写真撮影ありがとうございました。さっそく
LIVE WORKS 写真館を更新しておきました。今後もよろしくお願いします。

5月28日 
 
目がさめたら寝違えたようで、腰が痛くて歩くのも辛い状態。明日がライヴなのになってこった。しかし夕方からは新宿にて塚本晃、伊藤孝喜、石毛さんと共に、ミーティングと称する飲み会があるので出席。今日の主役は塚本晃。塚本ファンには近々彼のホームページで、嬉しいニュースが発表されると思うので、楽しみに待ちましょう。

5月27日 
 
下北沢440にてマサ、久保昭二と共に永野かおりがベースで参加している女性シンガー、Angelinaのライヴを見る。だがスタジオの予約時間が迫ったため、途中で失礼してそのまま3人で下北沢ガード・アイランド・スタジオにて5月29日のためのリハ。この3人でのノリの作り方がだいぶはっきり見えてきて、当日が楽しみ。
 寝不足のマサは、そのまま車で帰宅する予定だったが、リハが終わると傍目にも辛そうな状態なので、急遽僕の自宅に泊まり込むことに。

5月26日 
 
代田小学校にて小田急線地下化に関する都、区、小田急電鉄の説明会。詳細は割愛するが実はこの件は、 “Save the 下北沢”の反対する54号線とも関わっている問題なのだ。(詳しく知りたい方は、“Save the 下北沢”のホームページを御覧下さい)
 というわけで開場時間よりちょい早めに有志で集まり、会場前で説明会に訪れた方に
“Save the 下北沢”のフライヤーを配布した後、説明会に出席。
 質疑応答では、工事中に小学校に通うお子さんを持つ方の、交通の安全に関する不安。地下水〜地盤沈下についての不安など、ふだんの僕の視点では気が付かないような切り口からの意見が多数あり、勉強になった。かなり緊迫したやり取りが多く、地域の環境問題の現場をまさに目の当たりにしたという思い。ただし説明する方の姿勢には、工事完成後の下北沢駅の状況についてなど、当然出てくるであろうと思われる質問に対しても、具体的に質問が出てこないとあえて説明しようとはしない。説明会を実施したという既成事実を、より短い時間で作ろうとするかのような印象を受けた。

5月25日 時空を越えて届くものたち
 
銀座にて70年のライヴの模様を中心に構成した「エルヴィス★オン★ステージ」の試写会。アクションと歌声のインパクトに圧倒される。ロバート・プラントなどへの音楽的影響は知っていたものの、ファッション・センスでデヴィッド・ボウイに与えた影響の大きさには、恥ずかしながら初めて気が付きました。これが34年前。

 その後はぴあに立ち寄ってから、ハヤブサ・ランディングスに行き、
パンタ&HALボックスのサンプルを受け取る。全88ページのブックレットのうち、47ページまでは先月僕が格闘したドキュメント“PANTA&HALの時代”である。
 嬉しい。
 命あるうちにここまで没頭できるような仕事に、ひとつでも多く巡り会いたいものだ。
 ちなみにこれは約四半世紀前の記録。

 そこからさらに三宿のkong tong(世田谷区池尻3-30-10 三旺ビル5F 03-5431-7329)にて、こだま和文の版画、水彩画、ドローイングなどを展示した“Piece of my heart展”(5月25日〜6月6日)のオープニング・レセプションへ。
 以前からこだま和文には渡したいものがあった。というのも僕が『花よ 大地よ 月よ 銀河よ』を捧げた故人は、かつて83年に僕もいっしょにやっていたWapping Wallという雑誌で、こだま和文にインタヴューした後に他界した人物。しかも昨年行った追悼イヴェントでは、小野紫の朗読する故人の残した詩のバックに、僕の選曲でこだま和文の音源を流させてもらったのだ。ここまでの因縁がある彼には、何としても追悼イヴェントの際に制作した故人の遺稿集を収めたパンフレット、追悼イヴェントの模様を収めたDVD、そしてCDを渡しておきたかったのである。
 お祝いの場にはふさわしくないかも知れない…と思いながら恐る恐る差し出し、その因縁を説明する僕に、こだまさんは大喜びで受け取ってくれた。

 よぅ、加藤仁。
 久しぶりに報告させてくれ。
 君のスピリットは、死後21年目にして、また一人届けるべき人に届けることができたよ。

5月24日
 
都市環境建築の福川裕一教授を迎えて “Save the 下北沢”の街歩き&学習会。街歩きではスズナリの近所にある教会に足を踏み入れてビックリ。今まで全然知らなかったが、まるで異国に迷い込んだような不思議な空間が下北沢にはあったのだ。ただしこれも54号線が作られたら消滅してしまうという…。
 その後は有志で飲み歩き。最後は初めて下平氏とサシで語り合う、というよりも酔った勢いで一方的にいろいろ質問したり、自分の話を好き勝手に繰り延べたりというありさまで、いささか気恥ずかしい。
 とはいうものの
“Save the 下北沢”に関わってから、僕は新たに多くの大切な人々と知り合えているという想いを強くする。ありがたいことである。


5月23日 
 
下北沢アンディズ・スタジオにて、マサ、久保昭二と5月29日のためのリハ。なんとか体調も回復して一安心しつつ、予定曲を順調に消化。それぞれとやってきた曲でも、いざこの顔合わせで音を出すとなると、この顔合わせならではの内容になるのが面白い。ようやくライヴ・モードに入れた気分。
 リハ終了後は別のリハに急ぐ久保が帰ってから、大食漢マサと調理バトル。マサが実に手際よく作ってくれた特製炒飯を二人で食べた後、まだ食い足りなさそうなマサに、今度は僕が油ソバを振る舞う。いや〜満喫満喫。

5月22日
 
11時から“Save the 下北沢”のミーティング。その後午後2時から街頭署名活動…の予定だったが、熱が出ているようで悪寒がするため断念。ところが帰宅しようとしたところで、雨のため街頭署名が中止になる。それに変わってDMの準備を行うことになったため、屋内作業ならなんとか、ということで参加。結局トータルで9時間弱の作業となった。来週はライヴ。早く体調を直さねば…。

5月20日 「ブラザーフッド」
 
「シュリ」でその名を広めたカン・ジェギュ監督の「ブラザーフッド」の試写。チャン・ドンゴン、ウォンビンを主役に、朝鮮戦争をテーマにした大作である。会場には余裕を持って行ったのだが、大きな注目を集めている作品にふさわしく、すでに満席。入場を許されるぎりぎり最後の一人として滑り込む。
 あまりにも主人公の強さが現実離れしている点はあるものの、戦争の怖さを実に生々しく描いた力作である。白か黒かでしか物事を問えなくなる狂気に対して、そのどちらにも属さない孤独な独白を連ねることの大切さを噛みしめる。
 後半では映画慣れした人が多い場内にもかかわらず、あちこちで泣いている気配が。僕も決して涙もろくは無いはずなのだが、つい涙を流してしまった。すでに韓国では新記録を次々と樹立。かなりヘヴィな内容だが、これなら日本でもヒットはまず確実に思えた。

5月17日 輸入盤規制問題について
 
いわゆる「著作権法改定に関する意見書」の件ですが、http://copyrights.livedoor.biz/で意見書および賛同者リストを公開中。全米レコード協会と世界レコード制作者協会から「日本政府に対して、楽曲の種別を問わず輸入を制限することを要求する」という意見書が文化庁に送られていたということを考えると、どうもこれは国内だけではなく、外圧も含めた問題のように感じられる。日本国内の文化状況について、国内での決定権が失われるという意味では、忌野清志郎の君が代問題の時にレコード会社の社長の発言に出てきたという「外資系だから云々」というところにも通じていく質の問題ではないだろうか?

 なお署名については
http://sound.jp/stop-rev-crlaw/#shosokuhou
http://jbbs.shitaraba.com/travel/3105/まで。
 上記サイトでは署名用紙をダウンロードできるようになっています。
 またテーマは違いますが、
“Save the 下北沢”もホームページで署名用紙をダウンロードできるようになっておりますので、どうぞよろしく。



5月16日 
 
下北沢アンディズ・スタジオにて、マサ、久保昭二と5月29日のためのリハ。はじめは3時間の予定だったが、きめ細かなアレンジを行ううち結局4時間。二人とも熱心で嬉しい。

 夜は吉祥寺マンダラ2にて、
原みどり主宰の“歌う女ともだちvol.4”。先攻のデジタルラブタブラは、出だしから原みどりのテンションが異常に高い。いつもに較べてMCのテンポも速く、本人のMCで入場前に交通事故にあったとのことで納得。ケガが無いのが幸いだったが、すかさずそれをギャグにするセンスもさすが。ある種の圧迫感もあったが、特に後半はヒリヒリするような説得力に満ちていた。またサポートを含む総勢四名で、ユニットというよりもバンド的な歌心のあるアンサンブルを生み出すようになっていたのも新たな発見だった。
 後攻のハセベノブコとゆかいな音楽隊は、元モダンチョキチョキズのハセベノブコと磯田オサムによる男女デュオ。キッチュな演奏とそれ以上に炸裂しまくった夫婦漫才のようなMCに爆笑。



5月15日 
 
午前11時から“Save the 下北沢”プロジェクトミーティング、それに続いて街頭署名活動。すでに馴染んでくれている人もいるようで、通りがかりでフライヤーの配布を手伝ってくれる人も現れるなど、なかなか快調。署名の集まり方も勢いを増していて良い感じ。

5月13日 
 
下北沢Basement barにてダイナマイトファミリーバンドの出るイヴェント“FIGHT FOR RIGHTS”。“Save the 下北沢”プロジェクトフライヤーの折り込みをお願いしたら、イヴェント中にコメントするようにはからっていただいたので、きゅうきょバンドの転換中に喋らせてもらい、下平氏と共に署名活動。イヴェント中に新しいヴァージョンのフライヤーも届き、ダイナマイトファミリーバンドのメンバーがそれを観客に配ってくれるというひとこまも。どうもありがとう。ダイナマイトファミリーバンドのステージは、客のいじり方に急激な成長が感じられた。他の出演者はレゲエ系の顔ぶれが多かったが、中でもRUDE BONES、POT SHOTなどのメンバーからなるセッション・バンド、V&40の演奏には、圧倒されるものがあった。

5月12日 
 
下北沢屋根裏に出演したあるバンドとの連携で、終演後の店の前で“Save the 下北沢”プロジェクト署名活動。ライヴのMCで言ってくれていたため、誰もが協力的。今回の実働部隊のうち3人で軽く飲んだ後、僕は ぐ に移動して、お店の賛同をいただく。

5月10日 
 
昼はATG時代の「本陣殺人事件」「金閣寺」などでも知られ、6月中旬からポレポレ東中野にて特集上映される高林陽一監督の16年ぶりの新作「愛なくして」の試写会へ。本編に先立ち上映された短編「石が呼ぶ」は、なんと僕が生まれた1961年の作品。43年の時を経ても徹底的に死と向かい合う姿勢が一貫していることに驚かされる。「愛なくして」の登場人物の何人かは自らの死を願う設定だが、ここまでそうしたテーマにこだわり続けることができる高林陽一監督は、かなりのエネルギーの持ち主なのではないだろうか。静的な映像を見ているうちに、こだま和文の音楽を連想した。

 夜は渋谷のCLUB QUATTROにてbloodthirsty butchers。元ナンバーガールの田渕ひさ子正式加入後に見るのは初めてだったが、吉村秀樹のヴォーカルがパワー・アップしているのが傍目にも良く分かった。それでいて彼の不器用さはそのままで、ヴォーカルもアンサンブルも決してこぎれいなものではない。むしろ不器用で破綻すれすれの作風のまま、全体から醸し出す気配が極めてポジティヴなところに、現在の彼らでなければ放つことのできない境地が示されているように感じた。

5月9日 
 
 
原稿を書くが能率あがらず。ホームページの更新と同時に、この間のごたごたで手つかずになっていた知人へのメール、輸入盤規制問題についての連絡などにようやく着手。輸入盤規制問題については、5月4日におこなわれたシンポジウムのやりとり(http://symposium.seesaa.net/)を見ていただくのが良いと思うが、とにかく日本の音楽文化上での深刻な問題だ。しかも単なる国内の問題とは言えないのがさらにやっかいなところ。全く次から次へととんでもない問題が起きてうんざりするが、僕の周りでもすでに多くの人が、何とかこの問題を広く伝えようとかけずり回っている。心も体もタフにかまえて、できることをやっていくしかない。

5月8日 
 
午後2時〜5時まで駅前にて“Save the 下北沢”プロジェクト街頭署名。先週とは違って、後半は南口でマイクを持ち、目立つのを開き直ってアピールしまくり。地元の知り合い、会社員時代の先輩、業界関係の知人などが通りかかり、中にはギョッとした顔をする人もいたが、みんなノリノリで署名してくれた。

 ミーティングを終えてからは、プロジェクトのメンバーと共にまたもやNeverNeverLandへ。そこに居合わせた
tico moonのお二人と話し込む。不思議で悲しい因縁だが、それを経て親しくなっていくのも何かの縁というものだろう。


5月7日 
 
まず昼は有楽町にて高岡蒼佑主演の映画「コンクリート」の試写会。女子高生コンクリート詰め殺人事件を題材にした衝撃的な作品である。見ていて気分が悪くなるほど陰惨で救いがない。1.事件の関係者も含め、この作品が作られることにより、誰か救われる人はいるのだろうか? 2.あるいは少年の未来への警鐘を訴えるなら、加害者が逮捕されて以降のストーリーも描くべきではないか、3.とはいえそれ以降のストーリーを描くとすると法律の在り方にまで関わる多くの問題に発展し、映画としてまとめるのは困難かも知れない…などと色々な思いが頭をよぎる。
 しかしだからといって、公開した上で作品に対しての批判が行われるならともかく、劇場への嫌がらせにより、予定していたロードショーが中止に追い込まれる現象は、決して肯定できない。どのような嫌がらせがあったのかは僕は具体的には知らないが、作品として公開する自由を認めた上で、きちんと作品の賛否が問われるのが、言論の自由というものではないだろうか。

 さらにこの日は渋谷に移動して試写会をハシゴ。この映画「炎のジプシー・ブラス」は、ルーマニアの片田舎のジプシー・ブラス・バンド、ファンファーレ・チォカリーアが、世界に認知されていくプロセスを綴ったドキュメンタリー。インパクトのある瞬間に気を取られるうちに、ストーリーを見失いそうになる部分はあったが、現地の様子、来日の様子なども生々しく、見ていて元気になる作品だった。

 夜は初台DOORSにて波人。こちらの詳細は
朴保MUSEUMにて。現場での打ち上げに顔を出した後、営業を再開したNeverNeverLandの様子を見に行き、遭遇した山田淳に誘われ、松崎さんの自宅へ初七日のお線香をあげにいく。 

5月6日 
 
渋谷のCLUB QUATTRO。出演はLimited Express(has gone?)、ズボンズ、folk enoughの三組。ライター関係の知り合いが多く、いかにも今後の注目グループ通しの顔合わせという感じ。
 Limited Express(has gone?)は、ノー・ニューヨークやB-52'Sなど、ニューウェイヴのおいしいところを凝縮したようなギター・サウンドで、特にベースのゆかりのキャラクター性が光っていた。ズボンズはファンク・ナンバーのグルーヴが超クール。folk enoughは、腰は低いがかなりの曲者っぽい雰囲気がぷんぷん漂っており、まだまだ秘めたものを持っていそう。どのバンドもきちんと向かい合う感じで聴いている観客も良い感じだった。


5月5日 
 
久保昭二とギターを手にしながら5月29日のライヴのための打ち合わせ。気が優しくて力持ちのこの男はこんな言い方で僕を励ましてくれた。「本当に志田の周りにはいろんなことが起こるよな。でも生きてるって気がするでしょ?」
 ありがとね、久保。確かにそうでも思わなきゃやってられないよな。時々えらくバテちゃうこともあるけどさ。

 久保が帰宅してから、この間のいきさつを伝えようと、「BORN TO BE A FOOL」を作曲してくれた
荒武靖に電話。ヤツが書いてくれた曲が、こんな局面で役に立ったよと単純に報告するつもりだった。でも酒が入っていたわけでもないのに、途中からこらえられなくなって号泣してしまった。この数日間に張りつめていたものが一気にほぐれてしまったようだ。荒武とは日頃よく逢うわけでもないのだが、作詞作曲で共作する関係は、僕にとって特別なもののようだ。


5月4日 果てしなく尊い日常
 
午後3時から下北沢のガードアイランド・スタジオで大谷レイブンとリハ。その後、彼を招く形で自宅に戻り、礼服に着替えて喋っているところに、TAKE“skydog”BASCODAが到着。3人でタクシーを拾い、松崎さんのお通夜が行われる代々幡斎場へ。

 今日のお通夜は、故人の遺志を尊重して無宗教で行われる。そこで葬儀委員長の下平氏が、お経の代わりにスピーチや音楽で構成する段取りを整えると聞いていた。というわけで僕らの他にも何組か演奏するのだと思い込んでいたのだが、実はそこで演奏したのは、やはりよくNeverNeverLandで演奏していたアイリッシュ・ハープとアコースティック・ギターのデュオ、
tico moonと僕らだけだった。tico moonはしっとりとしたインストなので、要するに傍若無人なヴォーカルは僕だけ。しかも隣の部屋からは別のお通夜かお葬式であげているお坊さんのお経が聞こえてくる。これにはさすがに一瞬ビビッた。が、ここまで来たら覚悟を決めるしかない。

 そもそも下平氏の話を受けて歌うと言い出したのは自分だし、そこには自分が歌いたいという気持ちよりも、そういう場で歌が求められるのならば、あの歌こそ歌われるべきだという考えがあった。そしてもうひとつ思ったのは、一番悲しいのはご家族の方に決まっているのだから、自分としては悲しいという感情を仰々しくアピールするのではなく、故人への感謝、敬意、追悼という意志の表明を代表して行う役割を務めさせていただくということ。そのために事情を知らない人からは不作法と見られようとも、やるべきことをやるだけだ。故人の親戚の方も多くいらっしゃるので、決して故人を貶めるつもりはないと前置きさせていただいてから棺の方を向き、伏し目がちになりそうなのをこらえ、祭壇に飾られた満面の笑顔の松崎さんの遺影に目線を合わせながら歌った。

BORN TO BE A FOOL  作曲d荒武靖 作詞d志田歩

鍵の壊れた 扉を開けて ガラス外れた 窓際座る
きしむ階段 慌てた足音 あいつ遅刻の 木曜日
ボロい店だけど なぜか集うよ
ここは下北 アホでいきましょう

へべれけマスター ビールを追加 
今日もママさん 苦い顔
こんな店だけど 歌になるのさ
ここは下北 アホでいきましょう
ボロい店だけど 愛があるのさ
ここは下北 アホになりましょう

俺のボトルを 空けたのどいつじゃ?
どいつもこいつも
BORN TO BE A FOOL BORN TO BE A FOOL
BORN TO BE ア・ホ〜〜

 歌詞を見ていただければお分かりのように、本当にこれはある時期のNeverNeverLandの日常をベタに綴っただけ。いわばシャレのつもりで作った詞だった。しかしいざ主がいなくなってしまってみると、そんな冗談が成り立っていた日常が、どれほど尊く貴重なものだったのか、そしてそんな空間を作ることができる人格が、どれほど愛すべきものだったのかということに愕然としてしまう。
 この歌を店で歌った時に「ボロい店で悪かったな!」と突っ込みを入れてくれていた松崎さんは、この日は祭壇の中で笑っているだけだったので、自分で突っ込みを入れた。

 大谷レイブンはそんな僕の意図を丁寧に察してくれ、“下北”のフレーズでコーラスを入れてくれた。大げさなアクション抜きにさりげなく僕の気持ちへの共感を表明してくれた器の大きな名ギタリストにも深く感謝したい。

 
そして松崎さん、本当に今までいろいろとお世話になり、どうもありがとうございました。安らかに眠って下さい。


5月3日 
 
渋谷のCLUB QUATTROにてカーネーション。3時間におよぶ熱演で、20年選手の底力を見せてくれた。終演後はライヴに間に合わなかった友人の編集者Sと待ち合わせて軽く飲み。普段だったら当然帰っているところだろうに、わざわざ待ち合わせるからには何かあるのかなと思ったら、仕事関係で、そうとううんざりすることがあったらしく、顔を見たかったそうな。こんなにドタバタと騒いで荒れてる人間なのに、それでも人を元気づけることができるのか?と思いつつも、そんな風に言ってもらえるのがやけに嬉しかったりもする。 

5月2日 
 
午後3時半、実家から下北沢へ戻る。ようやく昨日の黄色い物体を始末。まったく不潔な野郎だぜ。その後は連休明けが〆切になっている原稿と格闘。

5月1日 嘔吐、署名、そして一杯の味噌汁 
 
“Save the 下北沢”プロジェクト最年長の方からの電話で起きる。奥様の体調がすぐれず、署名活動に合流するのが遅れるのを気になさっての丁寧な連絡である。だがこちらは起きてから後、何度も嘔吐。自業自得。セーヴするつもりだったのに、泡盛のロックを8杯も開けた報いである。台所へかけ込み、流しに吐いたつもりだが、気が付けばキッチンはゲロまみれ。寝る前にウコンを飲んだために黄色いスジが…。

 それを始末する気力も沸いてこないので、最低だなと思いつつも、そのままにして集合場所のNeverNeverLandに。部屋をゲロまみれにしたままで、街の美観を云々するのは充分倒錯しているのは承知だけれど、かといってここで遅れたら自己嫌悪は増すばかりだ。それにしても葬儀委員長の下平氏は、葬儀屋さんとの打ち合わせだけでも大変だろうに、今日の署名活動についても辛そうな顔を全く見せない。敬服する。

 午後2時から署名活動開始。にこやかな表情が作れないので、おとなしく看板持ちに徹する。だが昨年の友人の追悼イヴェントを行った時の友人S君が、わざわざ現場に駆けつけ、香典を僕に託し、署名をしてくれた。親御さんがご病気のため、実家に帰るため途中、新幹線に乗る前の貴重な時間を割いて、千葉県から署名現場までやってくる情の熱さに感激。

 全部で4ヶ所を回り、4時間弱で初日の署名活動は終了。反応は上々。でもこれが行政サイドの決断を覆すための、ほんの一歩に過ぎないことも承知しておかなくては。プロジェクトのメンバーと乾杯した時はさすがに一抹の充実感を噛みしめるが、内臓全体で疲弊しきっている感じ。

 その後は、喪服の準備もあって久々に実家へ。電話で29日のライヴについての相談を
久保昭二としていて、つい涙声になってしまいそうになり、詫びる。母親が出してくれたしじみの味噌汁が、全身に染み渡るようにありがたかった。

4月30日 松崎さん逝去 
 
午前10時半、下平氏からの電話でNeverNeverLandのマスター、松崎さんが亡くなったことを伝えられる。にわかには信じられなかったが、他にもメールや電話が来て事実だということを認識せざるを得なくなる。
 だがなぜかその場で僕は、何かにとりつかれたように村上春樹の「海辺のカフカ」の後半を読み続けた。するとそこから以降、主人公の周囲の登場人物が、にわかにバタバタと死んでいく展開に…。不気味な偶然におののきつつ、知人に訃報を伝える。
 午後4時からは、明日から開始する
“Save the 下北沢”プロジェクトの街頭署名活動のためのミーティングを、NeverNeverLandにて。それが終わってから松崎さんの自宅へお線香をあげに行く。

 享年54歳。僕の父親が逝ったのと同じ年齢だ。若すぎる。せめてもの救いは最後に苦しまず、彼が本当に愛していた人と時を過ごすことができたことだろうか。微笑むように安らかなお顔だった。でもねぇ、松崎さん、あなたが呼びかけた
“Save the 下北沢”が、いよいよ明日から街中に打って出るタイミングで逝ってしまうなんて…バトンの渡し方としてはシヴィア過ぎるよ。優しくて厳しくてでたらめに器のでかいあなたらしいけどさ。

 その場に集まった人達と共に再びNeverNeverLandに戻り、故人をしのぶ。そこで葬儀委員長の下平氏から、お通夜の場で歌って欲しいという話を受け、即座にNeverNeverLandでだけ演奏する曲としてきたご当地ソング「BORN TO BE A FOOL」を歌おうと決意。居合わせた大谷レイブンに共演をお願いする。
 だが明日の署名活動に差し障りが無いようにと気を付けていたにもかかわらず、見事に悪酔い。


4月29日 
 
バテまくり。何もする気になれず、村上春樹の「海辺のカフカ」をダラダラ読んでいたら、TAKE“skydog”BASCODAから、「NeverNeverLandで飲んでいるので顔を出さないか」との誘いあり。久々ということもあって盛り上がっていると、ちょうど“Save the 下北沢”プロジェクトの下平氏もやってきて、ひとしきり熱く語り合うことに。
 下平氏はNeverNeverLandのマスターであり、
“Save the 下北沢”の主要メンバーを集めた松崎さんの体調を気にしていた。

4月28日 
 
GbMの取材でカーネーションの直枝政広にデビュー20周年記念のシングル「ANGEL」についてインタヴュー。音楽的には非常に充実している一方で、当初より発売日が遅れて、収録曲を増やすと同時にCDエクストラ仕様にしたりと、奮闘している様子が伝わってきた。頑張って欲しい。

4月27日 
 
渋谷O-WESTにてハシケン。約3時間の熱演。演奏内容は充実していたが、体調が悪かった僕としては、後半の派手目な路線に絞ってくれても問題ない感じ。会場でお逢いした木原さん達に「最近、日記更新してないね〜」と突っ込まれる。すんませ〜ん。

4月24日 佐野元春
 
14時から三田にてMUSIC MAGAZINE6月号の80年代特集のための佐野元春の取材。ちょうどパンタ&HALボックスのブックレットで、70年代後半から80年代初期までの状況を追いかけたところの続編のようなテーマなので、初期のエピックの様子なども訊こうと思っていたところに、その前日に80年のデビュー以来在籍していたエピックから離れることになったというタイミングの妙、巡り合わせの妙に燃える。
 CCCD問題、輸入盤規制問題など、今の音楽状況には様々なややこしくうざったい問題があるが、今回の佐野元春のアクションは、そんな状況に大きな波紋を投げかけることになるだろう。

 下北沢に戻ってからは、
“Save the 下北沢”プロジェクトのミーティング。酒が入るに従って、某デザイナー氏の熱血ぶりが露見。泣くわ、抱きつくわ、しまいには抱きついたまま腰を振り出すといったあんばいで圧倒される。親しみを表現されるのは良いのだけれど、男性に腰を押しつけられてもなぁ…。ちなみに彼はその後自転車で三軒茶屋方面に帰ろうとするのを「本当に大丈夫か?」と念を押した後で別れたのだが、気が付いたら西新宿の植え込みに突っ込んで寝ていたそうな。彼が新しく作った“Save the 下北沢”のフライヤーは、何ともパッショネイトで圧倒されたが、そういうエネルギーを日常的に制御するのも大変そう。やっかいだが素晴らしき業の持ち主である。

4月23日 激動
 
下北沢CLUB Queにて塚本晃の復活ライヴ。塚本はほとんどソロを弾かず、メロディをベースに任せるアンサンブルが斬新。以前からの楽曲もかなりアレンジを改めているものが多かった。それにしても“逃げる場所などどこにも無いのが たったひとつの救いだとしても”とか、“なにひとつ失わずに 生きていけるわけなどないさ”とか、塚本の歌詞は、彼が歌うと何と似合うことか!
 そのリアリティに触れているうちに、僕も5月の選曲を最初のイメージから大分変えようという気にさせられた。「次がある」と思って余裕をかますより、「次があるか無いかは関係ない」ところまで自分を追い込む塚本の姿勢が好きだ。
 打ち上げでも久々にメンバーと話し込んだ後、26時半帰宅。

 そのまま寝ようかと思ったのだが、連絡待ちの取材の連絡が無かったのが気になって一応メール・チェック。すると佐野元春からエピックから独立する趣旨のメールと、編集者から「14時の連絡は行っているか?」とのメールが。何日の14時だか分からず、気になったので27時に電話確認すると、なんと11時間後の話だった。 


4月22日
 
ロバート・アルトマン監督の「バレエ・カンパニー」の試写会。バレエ団の芸術監督役をマルコム・マクダウェルが好演。設定はバレエだが、劇団関係者も見たら身につまされるような内容だった。

4月19日 遂に完成
 
パンタ&HALボックスのブックレット原稿がようやく完成。何とか平和な結末を迎えることができたが、体調悪し。


4月18日 
 
パンタ&HALボックスのブックレットの進行が、こちらの待ちに入ったスキに、下北沢シェルターにて、ZAZEN BOYSとスパルタ・ローカルズ。どちらも見違えるほど逞しくなっていた。打ち上げに顔を出そうかとも思ったのだが、体力の消耗著しく、立っているのも辛くなってきたので、早々に退散。


4月17日 
 
午後1時半からNeverNeverLandにて“Save the 下北沢”プロジェクトのミーティング。その後スタッフと協力のお願いに行った某レコード屋さんにて、MUSIC MAGAZINE5月号を確認。189ページには僕が書いた“Save the 下北沢”プロジェクトの記事が掲載されておりますので、御覧になって下さい。
 夜は新宿にて別件の打ち合わせ。かねてからの知人ということもあって、終電間際まで飲んだあげく、昼間ミーティングをやったNeverNeverLandに。爆睡ならぬ爆酔。


4月12日〜16日 記憶喪失
 
パンタ&HALボックスのブックレットに取りかかっていたのだが、他の原稿もあって異常な多忙状態。いったん終わったところから、トラブルが発生し、逆上した瞬間もあったが、作業は進む。いつ何をしたか日付の感覚もすでに無し。ただし17日・18日はこちらの待ち状態に入るところまで持ち込む。

4月11日 叩き台完成
 
26時半、月曜18時からのパンタのインタヴューを前にパンタ&HALボックスのブックレットの叩き台が完成! やりゃ〜できるじゃん、俺。現在の文字数は原稿用紙にして約120枚。パンタのコメントを盛り込みつつ、これをどれくらいの文字数に抑えるか、注は、見出しは…など、決めなければならないことは多々あるし、世間の動向で気になることも多々あるが、とりあえず27時から飲みに繰り出す…つもりだったが、結局全文に目を通し、手を加えるうちにフラフラとなってダウン。

4月10日
 
午後1時半から“Save the 下北沢”プロジェクトのミーティング。オブザーバーの某美形ニュースキャスターの発言で、助けられること多し。その後は国立・地球屋での波人のライヴにも後ろ髪を引かれつつも断念。しかし結局“Save the 下北沢”プロジェクトのメンバーと食事と称しつつも酒を飲んでしまい、24時からパンタ&HALボックスのブックレットに着手。

4月9日 ハッピー・バースデイ、ユーピン
 
パンタ&HALボックスの第一の山場、『マラッカ』を乗り越え、食事をしようと入った店でまんちんと遭遇。ついそのままいっしょにふらふらとGajaへ。そこでライヴを終えたユーピンと合流。すでに日付は変わってしまったが、その場にいるみんなでユーピンの誕生日を祝う。
 さらに途中から5月のライヴでジョイントする山田淳も合流して結局飲み。


4月8日 別件、別件、また別件
 
パンタ&HALボックスのための原稿に集中したいところだが、別件がちらほらと入ってきて苦戦。ある無記名原稿では、情報公開のタイミングが変更のため、せっかく書いた原稿が差し替え…そんな殺生な。しかも資料となるCDが地元で購入できず、バイクで渋谷まで繰り出したりしたので、ブックレットにとりかかれたのは、結局23時。あぁ無情。

4月7日 トランス状態へ突入
 
ようやくレギュラーの仕事に一区切りつけられ、いよいよパンタ&HALボックスのためのドキュメント原稿書き下ろしに着手。間に細々した仕事が入ってくるのを秒殺しつつ、ひたすら書き進める。パンタのインタヴューはまだこれからだが、他のテープ起こしはすでに終わっているので、作業はいたって滑らか。一度こういう状態に入ると、歌詞や曲を書いている時とか、マージャンに没頭している時のように、脳内麻薬が出まくってる。部屋の中は荒れ放題だが、本人はいたって上機嫌でトランスしてる。脳が消費するカロリー量もだいぶ多いようで、食欲も倍増。30時の時点でおよそ3分の1までたどり着いたとおぼしき時点で費やした文字数は、原稿用紙にして33枚。
 このペースで野放図に書き殴っていくと初稿は100枚なんてことにもなりかねないが、
一体そんな重厚長大なブックレットを誰が読むのか? 
 まぁパンタのインタヴューを盛り込むタイミングで、シェイプ・アップに務めることとしよう。


4月5日 
 
昼はひたすらパンタ&HALボックスのためのテープ起こし。

 夜は地元ベースメント・バーに、伊藤孝喜と共に
くらげ率いるダイナマイトファミリーバンドを見に行く。前回見た時に較べてもみるみるうちにバンドとしてパワー・アップしているのが分かる充実のステージで、伊藤孝喜も絶賛。
 だがこの日のライヴの目玉は、元ジャック・ナイフのWAKI YOU。エレアコの弾き語りだったが、機材のトラブルからすかさずシールドを抜き、生音のみで勝負する潔さと、ヴォーカルの説得力に打たれた。特にチンピラが、昔、母親の作ったカレーライスを恋しがるという映画的なストーリー性を感じさせる歌は、染みまくった。
 トリの
MIZZもトム・ウェイツからラテン、スウィング・ロックまで、幅広い音楽性をこなす貪欲さが素晴らしい。オリジナル・ラヴのようなおしゃれな見せ方もできるだろうに、アンコールで憂歌団をもってくる若年寄ぶりも好感度大。

4月4日 
 
予定していた知人の集まりが流れてしまい、ちょいとめげつつもパンタ&HALボックスのためのテープ起こしに奮闘。ライヴの余韻でゴロゴロしていたいのだが、仕事のヤマはいよいよこれから。フゥ。しかしこれも確実に僕がやれて嬉しい仕事なので、あと10日くらいは頑張らねば。

 同時に
5月29日のための選曲などもギターで参加してくれる久保昭二と相談。ちなみにマルチ・プレイヤーである彼は、現在宴とりっぷというバンドのドラマーとしても活動中。宴とりっぷのホームページの中にある彼の日記には、キャラクターが良く出ているので興味のある方はどうぞ。

4月2日
 
HOTコロッケにてアコースティックTeaserのラスト・ライヴ。「終わり」というよりも「新しい始まり」という形で節目を迎えることができたと思う。
 ご来場いただいた皆様、どうもありがとうございました!
 曲名の公募に応じて下さった皆様もありがとうございます。皆様のアイデアを噛みしめた上で、新たに閃くところがあったので、新曲の曲名は「ロックンロール・アスホール」とさせていただきました。会場にいらしていただいたのに景品を渡しそこねてしまった方には、是非お渡ししたいので、お手数ですが連絡をお願いします。


4月1日
 
小岩にて斉藤ケーシン、伊藤孝喜と共にアコースティックTeaserのリハ。同じスタジオでリハ中だったフラワー・ロードのメンバーともばったりと出くわす。