_たしかマイトレーヤという名前を新聞が書いた眉目秀麗な若者 が、世間を騒がしてから、75日以上過ぎました。ツバメはいなくても、オウムがないテレビのない日々を、懐かしむ方もいらっしゃると思います。
_アメリカの日本人のアンケートで、一番良かった町の第一位、コロラド州ボールダー(コロラド大学のある町)で、トウルンパというネパールの先生が、タントラへの道という講義をした中に、グル 、カルマなど、懐かしい言葉が並んでいました。
_希代の邪教立川(たてかわ)流・真言密教は、「9世紀にインドで生まれた、後期タントラ密教」の流れ、と言われると、あのテレビは、単なる昔の亡霊の、幻だったのかとも思われます。
2.立川流真言は誰が利用したのか
_東京堂出版日本奇僧怪僧事典に、「邪教立川流を主唱、御醍醐天皇の討幕謀議に加わる」、文観上人の項があります。
_弘法大師、伝教大師のもたらした密教(右道)は、大日経の系統で、その強力な現世利益である、法力の秘法を、平安朝の政治が広くうけいれました。そして、政治は究極的に、相手を倒す強力な呪法を望みました。「公害企業主呪殺祈祷僧団」は、昭和では、顰蹙をかいましたが、政敵を倒す法力は、平安朝では、最も魅力的でありました。
_文観が行った鎌倉幕府討幕の呪法は、内通され、後醍醐天皇と共に流されますが、建武の新政で返り咲き、その後再び、文観は後醍醐天皇に、立川(たてかわ)流・荼吉尼(ダキニ)の秘法を行ったとして、排斥されました。
3.荼吉尼(ダキニ)天とは何か
_ダキニ天を、「仏様の戸籍調べ」( 錦正社刊)という本で調査して見ますと、インドの魔女で、白い狐にのり、人間の肝を食用としていましたが、大日如来の力で折伏されて、仏法を守る諸天の一員になった、ようにあります。
_ダキニ天は、非常に強力な法力の持ち主で、この秘法を授かると、財産や福徳が授かるので、日本においては狐に乗る姿から、豊饒をもたらす稲荷神(豊川稲荷など)として、平安時代以降、広く信仰の対象となりました。
4. 立川(たてかわ)流真言の名はどのようにはじまったか
_「立川の地名」(保坂芳春先生著:立川市教育委員会刊)に、「立川流は、仁寛(にんかん)により開かれたもので、仁寛についてはその伝記があまり明らかでない。永久元年(1113)罪を得て、伊豆の大仁に流され、ここで武蔵立川の陰陽師にあい、彼に秘伝を授けたという。
_また、「武蔵では、他に「立川」という地名が見当たらないので、ここの「立川」(現在の立川市)とみてまちがいないであろう。」とも書かれています。
5. なぜ立川流真言は希代の邪教なのか
_原始仏教は、極端な女性差別であったことが書かれています。
_これは、西洋の黒魔術、インド、チベットの「タントラ」の中の「左道」や「外道」の一派で、密教では「金剛界」の大日如来の持つ男性の原理と、「胎蔵界」の大日如来が持つ女性の原理が交わる所に、生命のエネルギーがあると考え、秘法として密教の中に取り入れられましたが、その実践方法が極端に異様なために、一般世界からは隔絶されており、その中で少し表に出てきたものが、立川流真言でした。
_立川流の、髑髏を本尊に仕立て上げる方法などは、常軌を逸していて、(詳しくは、前出:日本怪僧奇僧事典をお読み下さい)、とても現代的でなく、邪教ではないとはいい切れません。
6. 立川流真言の評価
_立川流真言は、内容が異様であったこと、また弘法大師、伝教大師の伝えた密教が大日経系(右道)であったことで、シャークタ派(金剛頂経系)・「左道」的密教は、日本では、邪教として、とらえられました。(前記:「立川の地名」に、大正新修大蔵経の引用があります)
_しかし、仏教が、インドのヒンズー教と総合した宗教は、ラマ教としてチベットで興隆し、またヒンズー教も、インドで広く信仰されており、「左道」の思想を持つ宗教が、儒教的な、キリスト教的な純潔感を持つ日本で「希代の邪教」と言われるほど、世界で異端視されてはいません。
_大日如来は、マハーカーラ(暗黒の意:大黒_−>_大国;だいこく__日本では神仏習合により大国主命になった)から、日本に来て大国様になったようです。
_仁寛より秘伝を受けた武蔵立川の陰陽師が、立川の地名をとって、立川流とし、真言の一流として広めたものであった。」と書かれています。
_原始仏教教団に、「女性は仏になれない」、という記述があり、男女別にサンガ:教団(仏教の三宝:仏法僧の僧)で生活する、女人禁制の霊場ができました。しかし、その後、男女平等の思想が取り入れられ、仏教が世界宗教として広く発展を遂げる過程で、男女の交わりの持つエネルギー(シャクテイ)を積極的に宗教に取り入れる思想がありました。
_しかし、当時は10人の密僧のうち9人までが立川流とのことで、随分と市井に広まったものでありました。そのころは、鎌倉から室町への移行期であり、社会が異常な宗教を受け入れる時勢であったものと思われます。
_川喜多二郎先生のネパール王国探検記にある、「いたる所にあるラマ経の陀羅尼・呪文(オンマニペドフム