立川の歴史のページです


立川の名前の由来

立川は、平安時代に立川二郎宗恒が当時20戸程度の寒村であったこの地に地頭として来たことから始まるといわれています。そして立川氏が全盛のころには、現在の立川市柴崎町にある普済寺の境内に、立川氏の居館があったと伝えられており、現在の境内に居館跡の遺構があります。立川氏はその後小田原北条氏に仕えて、天正の乱の時に豊臣秀吉に滅ぼされたと伝えられています。

ですから立川の名は、平安のころから鎌倉時代にかけて、武蔵7党の一員であった立川氏が住んだことから、立川の名が残ったわけです。

立川の略史

紀元前6000年頃 大和田遺跡(柴崎町)などに縄文時代の集落ができる
_810年__立川氏が立川村に地頭として来る
_811年___諏訪神社(柴崎町) の建立
1230年頃_立川氏が栄える
1353年__普済寺(柴崎町)の建立
1590年__立川氏が豊臣氏に滅ぼされる
1650年__流泉寺(砂川町)の建立
1654年__玉川上水の建設
1657年__砂川分水の建設
1716年___西砂川の新田開発
1878年__立川第1小学校の前身(独立校舎)の建設
1889年__JR中央線の前身(甲武鉄道) 開通
1893年__多摩地区(当時神奈川県)が東京都に編入
1894年__JR青梅線の前身(青梅鉄道)の開通
1901年__都立立川高校の前身(府立2中)の設立
1922年__立川飛行場の開設
1923年__町制施行立川町となる
1930年__五日市線、南部線の開通
1940年__市制施行立川市となる
1947年__都立短大の前身(立川専門学校)の開設
1948年__都立北多摩高校の前身(立川市立高校)の開設
1955年__砂川闘争始まる
1963年__立川市と砂川町の合併
1968年__西部拝島線の玉川上水―拝島間の開通
1977年__立川基地返還
1983年__昭和記念公園開園
1985年__歴史民族資料館開設


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アップデート:1997年1月12日
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