新しい革命にむけて



 まえがき


 一九三八年中頃、スペインプロレタリアートは悲劇的な時期を迎えた。彼らの英雄主義と不屈の闘志は反革命粉砕の失敗によって最も恐れていた敗北に直面したことを、認めざるを得なかった。全国労働連合(CNT)とイベリア半島アナキスト連盟(FAI)内部の改良主義者と結託したスターリニスト集団の反革命の策動が国家機密の中枢を支配したのだ。その結果前線に於いても、政府の軍事委員会などの主要なポストを牛耳るスターリニストらの裏切り行為によって、兵士たちは見殺しにされ、戦局は一気に壊滅の道を辿った。Los Amigos de Durruti(「ドウルティの友」グループ)は革命運動が反革命勢力に追いやられた破局の状況分析を基に最後の会議を召集し、革命運動の敗北を最後まで認めず断固戦いぬくこと、そして国際資本主義、国家社会主義、ファシズムとの闘争を継続して行く決意を未来に託すメッセージとしてこれを声明発表することを決議した。このメッセージは四〇年を経た今日こそその意味は深い。一九三八年から得られた教訓が、反革命の血塗られた毒牙の犠牲となった、スペイン労働者階級の惨劇を絶対繰り返させないために、役立つことを我々は願わざるをえない。

Cienfuegos Press
Over the water, Sanday,
Orkney, KW17 2BL, U.K.

"Towards a fresh revolution" 1978年英語版(Paul Sharkey ポール・シャーキー訳)


目次




序文

四十年前


「ドウルティの友」グループは一九三七年初期、へルサ戦線帰りの勝れた同志と支持者により結成された。アナキストたる信条を貫き共和国正規軍への入隊を拒否した彼らは、最終的にカタロニアの州都バルセロナへ赴き、そこの同志と共に創立したのだが、そのシンボルとして選んだのが、あのアナキストの信条にその全生涯を捧げたひとりの理想家ブエナベントゥーラ・ドルティの名であった。彼は行動の人であり、マドリッド戦線でのその英雄的な死は、まさしく英雄的かつ不滅のマドリッドが、人びとの自発的なあのキャッチ・フレーズの中に生き続けていることをよく物語っている。…政府なきマドリッド万歳!≠サして彼の意志を引き継いだ首都マドリッド市民の不屈の闘志は、共和国政府を突き動かして戦いに駆り出し、マドリッドが反乱軍に完全包囲された間も、その精神は守り貫かれた。「ドウルティの友」グループが彼の名を自らのものとしたのは、まさにこの精神であった。同時に、この精神の引き継ぎは、へルサ戦線帰りの闘士たちが(アラゴン戦線のドウルティ連隊と共に)断固として、最後まで闘いぬけ!≠ニいうメッセージの使者となったことでもあった。これらはすべて、レオン出身のアナキスト、ドウルティの、誰も否定できない高潔な行動がそうさせたのであった。彼の葬送に当たリバルセロナは、これまでにない大規模な市民デモによる敬愛を表し、カタロニアのプロレタリアートは一団となって街頭に溢れ、世界中の被抑圧人民のためその生涯を捧げた男に忠誠を誓った。

 我々のグループの背景についてはこれくらいにして、次に我々が出版したこのパンフレットを簡単に説明しておく。「新しい革命に向けて」(原題Hacia una nueva revokucion)が書かれたのは…一九三八年中頃のことだった。この種の小冊子を我々が──あえてこの題名で、しかもスペイン・プロレタリアートが悲劇的な打撃を被っている最中に──書くという行為は、スペインの闘士達に向けて放った希望の叫びと言ってもいい、極めて示唆的な行動であったことを強調しておかねばならない。闘志たちのあの偉大な勇気と行動と不屈の精神にも拘らず、CNTとFAIの一部の卑劣な改良主義者が支持したスターリニスト集団と国家の上層階級全員による反革命を粉砕できなかったために、かつてない恐怖に満ちた敗北に曝されていた。一九三八年という時はまさに敗戦の色濃く、武装したスペインプロレタリアートの弱体化を目的とするスターリンの命令に従い、政府の政策決定レベルで、重要ポストにある者どもの裏切りが繰り返され、その結果前線が次々と壊滅していった頃であった。この悲惨な時期に、我々は「ドウルティの友」グループとしての最後の会議を開き、反革命勢力が仕掛けたこの大惨劇を延々と検討して辿り着いた結論が、どんな壊滅的状況を迎えようと、敗北を最後まで断固認めない決議であった。カタロニア自治政府のラルゴ・カバイエロの悪政──数人のアナキスト活動家が入閣していた──は、後衛部隊の革命士気を蝕み、また中央のネグリン政府──敗走、でなければ投降の政府──は、敗北の上にさらに膨大な犠牲を強いた。このことが我々にこの「新しい革命に向けて」の発表を決断せしめた。世界の資本主義が一九三〇年代の憲兵、すなわち黒シャツ(フアシスト党)や茶シャツ(ナチス党)までも総動員し、一団となってアナキストやCNTの革命大衆が先陣を努めるスペイン労働者階級を抑えつけようとする状況の中で、それは国際資本主義に対する新たな闘いへの、希望と決断を宣言したメッセージでもあった。

 七月に至る以前のスペインを定義付けるならば、外国諸勢力へ自国経済を売り渡すことによって富を欲しいままにした大地主に牛耳られる暗黒のカソリック教国スペイン、これを打倒しようと試みたスペイン・プロレタリアートの歴史的構図を描くことができる。一五世紀から一九三六年まで幾世代も引き継がれたこの歴史的闘いは、絶対専制に対し自由を、非教化政策に対しては啓蒙開化を前面に打ち起出していた。そしてこの世紀間戦争に常に介在したのがアナキズムとCNTだった。言う迄もなくCNT闘士たちはアルフオンソ十三世(現在国際資本主義がスペイン大衆に押し付けている絶対君主フアン・カルロスの祖父)の専制下、残虐極まる弾圧に曝された。この絶対君主の強制も、実はあの三十年代の三年にも及ぶスペイン・プロレタリアートの抵抗を生んだその崇高な態度が、資本主義勢力側の結束に及ぼす影響を恐れたために採られた措置であるし、実際その恐怖感はワシントン─モスクワおよびポン─パリ─ロンドンの二大枢軸にまで波及していった。

 四〇年後の今、当時我々が熱情と悲嘆に満ちて書き記した事柄の重要さが明らかとなる。かつて三十年代に、武力の劣性と共産党のなりふり構わぬ殺戮政策によって前線と後衛の両方で騙し打ちに会いながらも、スペイン・プロレタリアートが果敢に巨大な騒擾の隊列を進めていったのであれば、それを引き継いだ今日のスペイン・プロレタリアートも、当然偉大な革命への冒険へと再び歩み始めるだろう。獄中の気高き若者世代にこうした希望に溢れた兆候が見て取れる。現に彼らは色々な書物中でも反革命の怒濤の勢いに断固立ち向かった革命者の著書を通して自ら武装しており、その理論的レベルもかつてイベリア半島全域を煌々と照らした社会革命の壮大さに畏怖した人々よりも優れ、まともな評価さえ得ていればヨーロッパ全土のそして世界的な革命の第一歩になり得たはずの社会革命の同時代人よりもよく武装されている。  一九三八年に出版した小冊子の裏書きに、「あらゆる革命は全体主義的である」、と我々は書いた。だが、この表現は、どんな革命も個別的には完結するものである、という意味合いで解釈されねばならない。即ち革命という(歴史的な)一大体系が地上から葬り去られない限り、これら革命を都合主義で分類したり偏見によって評価するのは、全く当を得てない。どうせ革命などしても無駄だという考え方は、話にもならない。スペイン革命は、革命精神と戦争とが切り離された時点から、既に破綻する運命にあった。これは民兵組織の国軍化の布告を例に取ってみてもすぐに分かることだ。またスペイン革命が生き延びる可能性すら当時の国家構造を見れば皆無だった。防衛委員会や地区防衛パトロール組織、それに集産協同体も悉く強制的に解散させられた。これはまさに、カタロニアのプロレタリアートが、革命が一九三六年七月に獲得したものを奪還すべく、翌年五月に突然反撃に出たことへの、国家権力の明らさまな報復行為であった。  
 その五月事件のことはここでも詳細に描かれているが、この五月の教訓は誰の目にも明瞭である。およそ革命というものは一国の境界内に制限されるものではない。新たにスペイン革命が起こり、革命の成功と呼ぶに相応しいものが獲得されたとするなら、それはヨーロッパ全域を巻き込んだ規模でなければならない。今日のヨーロッパは火山の噴火口の崖淵に座しているようなものである。一九三八年の我々のメッセージの後を受けて、新たなヨーロッパ革命のための闘いを進めていかねばならない。あの一九三六年のスペイン革命も一九七四年のポルトガル革命も、ヨーロッパ革命の一つとして位置付けられるように。この二つの革命に共通した敗因は、国家そのものを無傷のまま存続させ、国家機撥が全面崩壊へ向かいつつあるその時に、エセ革命家らによる補強を許してしまったことである。

 他方、ヨーロッパの労働者は、スペインで既に手痛い打撃を受けた国際資本主義に対する徹底的な闘争を、スペイン・プロレタリアートのために闘い貫かねばならない。国際資本主義がスペイン人民に強制している絶対専制政治を打倒するには、 当然全ヨーロッパの団結が不可欠である。社会主義と共産主義との共謀に援けられた資本主義の支配を突き破るため、スペインの革命的労働者と緊密な連合を構築するなら、プロレタリア・スペインは、革命的ヨーロッパのために再び起爆剤となって立ち上がるだろう。

 一九三六年のスペイン革命の大きな衝撃は、ヨーロッパ革命への必然的転化へとは到らなかったものの、ヨーロッパ全土への波及の序曲に、大資本家たちは恐怖に震えた。その結果が──スペイン人民の皆殺しだった!

 敗北の原因をいくつか指摘したが、それは真正なプロレタリア国際主義の準備の必要性を強調したいためであり、実際の力量を備えたヨーロッパ・リバタリアン運動を創出して行く中で、この国際主義を自ら実証していかなければならない。このヨーロッパの若年層のりバタリアン意識は、ファシズムからほんの一歩遠のいた程度に過ぎないが、無駄にはならない、という希望と戸惑いが渾然と我々の内に存在する。いづれにせよ、新たなスペイン革命はその形を整えつつある…今為さねばならないことは全てのヨーロッパ革命をスペイン周辺に動員、組織することである。スペインを革命で包囲するこの周辺革命組織論は、現在この瞬間はもとより、恐怖の余り国際資本主義があの血の海の暴挙に出た三〇年代、テロによる革命者狩りの暗黒の四〇年代、さらに現君主専制下をも耐え、一貫して主張されて来たものである。

 この君主制こそ、ポン─パリ枢軸の追従者、アメリカ憲兵の傭兵ども、それに絶対忘れてはならないソビエト・ロシアの黙殺の、合作の産物なのである。                                                       ハイメ・バリウス
            「 ドルティーの友」

新しい革命に向けて  

第一章  スペイン革命への序曲


 スペインを支配していた立憲派と絶対専制派との政権交替の輪番制度は一九二三年、カタロニアの州都で酒癖の悪い一将軍が起こしたクーデターを機に再起不能の崩壊を遂げた。
 このプリモデ・リベラ将軍の独裁は言ってみればそれまでの悪徳行政、植民地利権の独占、官僚的役得、賄賂、特権の乱用、そして官僚階級全体のために仕組まれた暴利機構などの悪政に起因する必然の産物に過ぎない。
  同時にこの一九二三年の軍部クーデターは、ほぼ国家予算の総額に匹敵する利益を植民地から吸い上げてきたわが国が、何故貧困を強いられているのか、という理由の当然の帰結ともいえた。    
 スペインの植民地権力はごろつき山師、外人傭兵、プロの利権政治屋、それに多くの人身売買人などを輩出していた。
 こうした海外植民地での軍官僚階級と大企業資本家による略奪の野望が継続する間は、植民地主義スペインも、その政策を無難に続行させることができたが、植民地政策の破綻が表面化すると共に、これまでほんの一握りの無分別かつ残虐な支配者に支えられていた情勢は、根底から覆されることとなった。    
 一九世紀末には植民地の駐留軍隊は、それまで貪欲に漁っていた利権を剥奪され、後はもうなりふりかまわず血染めのモールを付けたまま武装兵の意気込みも誇りも捨てて、恥じ知らずにもスペイン本国へ帰還せざるを得なかった。
 スペイン民衆は、この時以来、苦難に満ちた問題を抱えることになった。海外のスペイン総督の数千に登る将軍らは、梅毒持ちの君主の庇護のもとに、盗人や殺し屋集団同然の悪業をし尽くしてきたが、もはや植民地住民からの略奪の機会も失い、今度は母国スペイン民衆からの略奪を意図しながら続々と帰還したのだった。
 一方,国家財政は、緊急の出費財源の必要に迫られていた。というのもアルヘシラス議会が、モロッコ国境に対し戦火を開く決定を下したからだ。このためロマノネス伯爵が目を付けていたリフ鉱山が、たちまちスペイン民衆の血と金を吸い上げる地獄の舞台となった。
 結果的にこのモロッコへの危険な賭は、十億ペセタもの国家歳出と、大農園主ロマノネス伯爵らの、不況カルテルによる幾千人もの生命の犠牲を強いた。
 アフ・ラテン山麓のべニ・ブ・イフルル族居住区にある鉄鉱山の利権を巡って起きたこのスペインの大虐殺の中でも、バランコ・デル・ロボとアニュァル地区の悲劇はその最たるものだった。
 もともと軍隊というものは、労働者大衆の首を牛馬のごとく縄で縛って牽き回す、挽き臼のような存在であった。あの忌まわしい国防会議(Defence Junta)を思い起すといい。この会議に、リベラルな気風を吹き込もうとした陰の中心人物、マルケス大佐の一時的な誠意も、ラ・シェルパの枢機卿任命をめぐる謀略の前に排撃され、大佐はモンフィチ要塞に監禁されてしまった。
 リベラ将軍はこれまで述べた忌まわしい過去全ての再来であった。そして何よりもロペス・オチョアの権勢下であったればこそ──もちろんブルジョア階級、大農園主、僧侶、中小金融業者らの消極的援助も得て──彼はその権力をサーベルとともに自由に振りかざすことができたのだ。    
 また彼が元カタロニア最高司令官だった頃の横暴さを示す確かな記録がある。ピカソ査問委員会で、君主アルフオンソ十三世とその代理人シルベストレ将軍の直接関与が明らかな証拠を、彼は乱入に及んだ上破棄するという暴挙に出た。この行為の真意は言う迄もなく明白であるが、これほど明らさまな軍の介入を焦らせたものは、労働者階級の不穏な動きがその背景にあったことは疑いなかった。その無法ぶりと体制の組織的掠奪が蔓延するこのスペインの大地から、母国の悲運の元凶を一掃しようと、労働者階級は準備を始めていた。カタロニアの金融および企業を牛耳る資本家階級は、軍の言うなりにその財源を借しみなく投入し、融資の制限、国内経済の停滞、工場閉鎖、ストライキの挑発などあらん限りの歓喜で、このポーランド型軍政独裁を歓迎していた。
 プリモ・デ・リベラ時代(1923─1929)は、支配階級が懸命に労働者階級の弱体化──それとは裏腹の戦闘的行動をうみだす結果となるが──を狙った時代と規定される。この支配階級側の報復は、以前と変わらぬ劣悪なモラルと横暴さとにより、強固な過去の再制度化をもって武装し、みすぼらしくも尚気高いスペインの屍を容赦なく踏みつけた。    
 その後この太鼓持ち将軍のあとがまに座ったベレンゲルは、さらにアズナールにその地位を奪われていった。この政権交替劇を清算する形で実権を揮ったのがあのロマノネス伯爵だった。軍情報部のスパイである彼こそ、君主制下の実権を自分の元側近のドン・ニセロ・アルカラ・サモラに掌握させ、やはり情報部スパイの宮廷医マラノンを利用しつつ、マウラの息子と共に共和制樹立のシナリオを書いた張本人であった。この共和制はその当初から血なまぐさく恐怖と死臭に満ちた終焉を辿る運命にあった。
 この新生共和国は完全に民衆からかけ離れたものだった。街頭の叫び声に裏打ちされた、社会主義のガイドラインを取り入れるどころか、ブルボン王家時代と変わらない寄生虫どもが支配し、実権は君主制の従順な下僕だった政治家の掌中にあった。アルカラ・サモラ(大統領)自身は、僧侶階級と大農園主階級を代表する強硬な君主制論者であり、アサーニャ(首相、1931〜33)はかつてマルキアデス・アルバレスの党員、ミゲル・マウラも王党派、アレハンドロ・レルー(首相、1933〜35)は全く下賤なやつだった。
 慰めようのないスペインは、裏切リと陰謀の密会の泥沼へはまり、一九三一年四月の茶番劇は血の雨で償われることになった。
 四月の共和国が何かをもたらし得たとするなら、それは破局だけだった。CNT闘士フェレルの息子の暗殺をはじめ、一〇八人もの殺戮の張本人である大臣(マウラ)が自由に発砲してよい弾圧命令を与え、スペイン中の農山村は墓標の十字架で一大墓地と化した。
 自分たちの希望が無惨に引き裂かれるのを見て、労働者はこの四月の大敗に、怒りをむきだしにして立ち向かっていったのに対し、キミゲル・マウラが自らその新品共和国の武装軍隊を動員して、労働者を殲滅したのだ。パサヘス・アルネド、カスティゴランコ、セビヤ、カタロニア……など、スペイン中の地方都市の惨劇は、財産の没収をしないまま君主を追放し、スペイン艦隊の一戦艦に保護するというこの共和国の本姓を如実に顕している。アルフォンソ十三世の家族は、艦上でサンフルホ将軍(治安警察軍グァルディアスの長官)の歓迎を受けていた。一九三二年八月と一九三六年七月のクーデターで、彼は自分に権力を与えてくれた政治家たちへのお礼として、これら政治家に敵対する人々への襲撃を命令した。彼は王党派に雇われた殺し屋だったのだ。またロマノネス伯爵の消息は、エル・エスコリアの駅頭でじゃ、また≠ニ言ったきりその後は定かでない。
 共和政治そのものは結論の出ない意見交換を無節操に繰り返すばかりで、憲法制定議会(Constituent Cortes)は何一つ問題を解決することがなかった。
 反動軍部の問題──これには銃殺で対処するしかない──は全くの茶番と化し、アサーニヤは非生産者層の絶大な社会的優勢が確保されたという妙な口実で軍隊を撤退させ、兵舎を王党派の将校階級に明け渡してしまった。
 宗教問題も同じ手口で片隅に追いやられた。国家予算から供出されていた宗教行事及び僧侶の経費は言うまでもなく、教会の財産全てを無条件で没収するべきところを、逆に戒律を法制化し、三百もの戒律に安息を求める巡礼信徒たちや、六千人の修道(尼)僧に市民権を与えた。何世紀にもわたってスペインの大地を食い荒してきたこの癌を根絶しようとする手は、一つも打たれなかった。この共和政府は百年もの史的先行にもかかわらず、メンデイサバ政府の成案にも及ばない反動的なものだった。五〇億ペセタ相当のカトリック教会の投資財産も没収せず、国内経済問題は一つとして解決された試しがなかった。前君主制下での借金と債務だけは継承され、その分国家予算は膨張した。非生産者階級と官僚階級ばかりが肥大化していった。一八一四年に三〇億ペセタを記録した公債は、植民地の喪失とモロッコ・ビヤベルデ総督時代のデフレによる経済破綻を経て、この四月共和国当時にはすでに二二〇億ペセタという天文学的数字にまで達していた。
 四月十四日は、金利生活者には庇護を、一般消費生活者には窮乏をもたらし、小作借地税は実に苛酷な負担となった。社会主義政党が入閣しても、実際の政策は明らかにブルジョア寄りのものだった。独占企業だけは従来と変らぬ隆盛を誇り、マルクのような密輸業者らは意のままに投獄を免れた。 国法の改正問題に於いても、満足のいく結果は望むべくもなかった。連邦自治州や共和国の憲法条文が部分的に論議に上がっても、その結論は常に共和政府の中央集権主義が支配した。
 農地解放問題はまたしても大失策に終わった。農地改革協議会そのものが同族びいきの温床で、毎年僅か五千人の農民にしか小作地が与えられず、土地を必要とする農民は、まだ五百万人以上も控えていた。こうした余りにもバカバカしく楽天的な政策では、千年経ったところで先の見透しなどつくものか!
 労働問題となると、彼ら政治家は罵言雑言を用意して挑んできた。当時労働者管理は、仲間意識とえこひいきを堂々とまかり通す、そんな代表者らで占められていた。 あのテレフォニカ(中央電話局)事件でも、論争点となったスペイン植民地での労働者の処遇について、プリエトは勇敢にもマドリッドの大学区内での討論会で、テレフオニカの一方的な労働協約を非難したが、アメリカ資本の庇護を頼みとするようなテレフオニカ労働者である彼らの、お決まりの賃上げ要求デモの時に、機関銃の弾でも浴びせておいた方がましだった。
    *                *      我々はこうして二つの時代を生き抜いてきた──赤い二年間(共和派・社会党連立政権、一九三一年十二月〜)と暗黒の二年間(右翼・中道派政権、一九三三年十二月〜)を。しかし労働者階級はどちらの時代にも卑劣な迫害に耐えねばならなかった。
 他方、資本主義に追従する社会党(党首かつ労働大臣ラルゴ・カバイエロ)は、共和国の防衛法や治安法、四月八日法(事実上ストを禁止した労働争議仲裁法)などを成立させ、労働者弾圧の本質的意図を前面に出した。そしてこの法律の恩恵を最も受け意のままに利用したのは、言うまでもなく反動右翼勢力だった。こうした卑劣な弾圧に対して、労働者は一月八日バルセロナ、十二月三日フィゴルスとで、修道院を焼き討ちにする行動で答えた。バタやビヤ・シスネロスへの労働者の流刑は、共和国をプロレタリアートの永遠の敵に明け渡す要因を、わざわざ作っているに等しかった。
 赤い時代も黒い時代も共に悲惨さが充ち満ちていた。右翼を政府内の支配ポストに据えた責任は、社会民主主義に起因するものであり、革命が外国勢力の介入を防ぐことができない場合、その責任は重大である。一九三一年四月の時点では、イタリア・ファシストはアドナでの痛手から未だ立直っておらず、ドイツ・ヒットラー派も民族主義的ファシスト国家の樹立に手間取っていた。スペインを取り巻く状況は有利であったにもかかわらず、社会党の裏切りとCNTペスターニャ派の改良主義により、到来すべき真実は阻まれ、後に空前絶後の膨大な犠牲が、その代償として払われることになった。
 この混乱した状況の不一致が、十月を一気に突き動かした。
 七月革命の胎動は、アストゥリアスでその産声をあげた(一九三四年十月蜂起)。その激しい闘争は、ただ勇猛さと残忍さだけに支配されていた。カタロニアではデンカス(エス夕トゥ国粋党の独裁者)がその猛威を恐れ、カタロニア労働者階級を暴動から遠ざけることに躍起になっていた。
 この十月に社会党が企図していたことと言えば、中道派大統領アルカラ・サモラを、右翼から手を切らせることだけだった。そのために以前と同じ手口のゼネンストで、彼に脅しをかけた。社会主義者が(共和国の実権の奪取ではなく)真に革命を望んだならば、僅か三カ月前の農民蜂起を利用できたはずだし、ゼネスト指令で地方と都市を同時に巻き込む状況さえ創れたはずだ。だが反対に、彼らは労働者階級のうねりに翻弄されていた。
 二年続いたレル─ヒル・ロブレス(王党派右翼CEDA党首)内閣は、まさに弾圧と投獄に象徴された暗黒の二年であったが、遂に「蜂起逮捕者の釈放」選挙を勝ち獲り、二年後の七月革命を結実させる大きな要因を作った。

第二章 七月十九日(一九三六年)


 スペインの悲劇に終幕はない。どんなに関達なペンをもってしても、過去及び現在の恐怖に身も心も打ち震える民衆の悲惨さを、描写しきることはできない。
 我々でさえ、苦難を背負うために生れてきたかの様な、この一民族の十字架刑を精確には再現し難いのだ。
 一九三六年二月のスペインの情景は、最も深い悲しみの暗黒色に色どられていた。十九日のその日、スペインは一つの広陵とした収容所であり、鉄格子の向こうには数千人もの労働者が繋かれていた。
 我々は七月革命の直前に立ち帰り、あの反動軍部の暴挙に道を開いた諸事件を思い起こさねばならない。
 暗黒の二年時代、その政策を破綻させたヒル・ロブレスは、彼を支持する輩の貧欲さを満足させてはいなかった。アルカラ・サモラ(大統領)と右翼国民戦線の首領ヒルとの対立が表面化したが、カトリック教会勢力(イエズス会)は、共和国大統領サモラを支持していた。彼サモラは、教会勢力の新しい希望であった。憲法改正と教会保護政策を掲げたのは、根拠のないことではなかった。共和国議会が、どれ位持ちこたえられるかは不明であったし、議会内では急進派と右派ブロックとの離反が決定的となり、国民感情から大きく隔たっていた。収拾のつかない議席争いに明け暮れる議会は、劣悪、矛盾、不法に満ちた政策をそのまま反映していた。
 他方プロレタリアートは、無産階級に相応しい独自の方針を歩み始めていた。マドリッド、バルセロナ、バレンシアの競技場で開かれた巨大な集会は、大群衆を結集したが、これら決意表明と革命魂の鼓舞の数々が、アサーニャのような古き反動の輩の信任を甦らせることになろうとは、思ってもみなかった。それは後々利子を付けて償わねばならない大きな誤算であった。
 状況を支配できると見取ったアルカラ・サモラは共和国議会を解散させ、(総選挙後の)暫定内閣の組織に当たっては、フランコ、ゴデ、カバネヤス、ケイパ・デ・イヤノ、モラなどの将軍(サモラのあやつり人形)で軍部を固め、ポルテーラ・バイヤダレスなる財界のゴロツキを、政策担当の側近に置いた。
 新しいスポンサーを得たサモラ国家財源は、これまでのガリシアのカシケ(政界のボス)を見切り、不正選挙や公認候補の入閣資格などの(中道派勢力拡大を意図した)工作にもかかわらず、二月総選挙の結果はローマ法王庁を安心させるものとはならなかった。
  計画どおりに事が進まないのを悟ったアルカラ・サモラは、ポルテーラに国家非常事態を宣言するよう迫ったが、ポルテーラは首を縦に振らなかった。まもなくスペイン国民の声が、アサーニャの入閣を要求していることに気づいた彼は、正しかった。赤い二年時代の政治家の議会復帰は、一時の鎮静剤にはなった。だが同時に、それは確実に反動の時代の招来を表現していた。つまり、オリエンテ要塞に足しげく通っていたかの将軍たちに、反乱準備を完了させる絶好の機会を与えていたのだ。
 さらに、二月総選挙の勝利は社会主義勢力を盲目にしていた。大量の政治犯逮捕に対する異常なまでの抗議集会や、あのドラマチックな十月蜂起で逮捕された労働者の釈放に対する熱狂的な叫びも、社会主義者にはそれ以上の新しい意味など何もなかった。彼らが後生大事に抱いていた目的は、新しい議会、新しい共和国大統領でしかなかった。民衆にではなく、共和国軍隊に実権を与えようとしたサモラの政策意図を、彼ら社会主義者は支持していたのだ。
  しかし、二つの二年時代を耐え貫き、苦い教訓を得ていたプロレタリアートは、闇雲に街頭へと飛び出していき、くすぶり続けていた怨念を晴らすかの様に、各地の教会に火を放ち、これに応える獄中からの歓声は、獄舎の壁を踏み破った。都市も地方も一体となって奮いたった。
 社会民主主義者の無知は、民衆蜂起の機を遅らせてしまったが、幸いに五カ月経っても右翼からの巻き返しは、その単純さもさることながら、アサーニャ及びプリエトの真の反革命的役割を見抜けず、街頭での情宣活動に終始していた。
 この二月から七月にかけての情勢は、散発的な暴力抗争の域を出なかったとは言え、労働者の血は相変わらず流れ続けていた。マドリッドの建設労組のストライキ──そしてマルガの武力衝突。これらは、二月政府閣僚のクレチン病体質を、如実に暴いて見せた。 だが大胆にも右翼勢力は、あの民衆感情が噴出した総選挙後の状況に、集中攻撃をしかけてきた。ファシストたちは、急襲を繰り返し憎悪を高める、という姑息な手段に打って出た。他方民衆の間では、暗黒のスペインの謀略の気配をそれとなく感じ、右翼軍部の暴走がしきりに話題となっていた。
 もはや疑う余地はなかった。プロレタリアートが、七月への道を歩みだしていた時、政府は依然として楽観を決め込んでいた。ファシズムかプロレタリアートかの選択問題は、前者寄りの道が選ばれていた。自分に不都合な過去を隠滅するためには、このカサレヌ・キロガ(五月に首相に就任)という比類のない裏切り者なら、議会の壇上から右翼勢力を恫喝し、市街戦へと煽動するのはたやすいことであろう。
 このカルボ・ソテロ殺しの張本人は、自分の思惑とは反対に、事態を土壇場にまで追い込んでいった。今にも軍隊が市街制圧に出動するという噂が流れると、それまでの憶測は全て真実味を増した。一体政府の閣僚たちはどんな予防手段を打ったというのか。カナリア諸島駐屯軍のフランコ、バレアレス諸島のゴデ、モロッコのナバレではモラ……、これら悪党集団が最高指揮官の座から一掃されなかったのは一体何故なのか? フアシストどもは政府内派閥の連合権力とも脈を通じ合っていたのだ!
 七月十七日、短期間ではあれ我々が必死で食い止めてきたスペインへの天罰は下された。かのバレアレス諸島、モロッコ、カナリア諸島で駐屯軍将校らが、公然と反乱に出た。
 この暴挙を即座に阻止する、どんな手が一体打たれたと言うのか。あのヨタ者キロガを囲う政府は、完全な無為に徹したうえ、人民大衆には事態の深刻さを隠蔽し、厳重な検閲を統制し、プロレタリアートへの武器の供与を拒否することだけには懸命だった。
 共和国政府が反乱軍を軍事的に捕捉するための時間は七月十七日から十九日にかけてまだあったが、巷では強い不信感と自棄的な様相が蔓延していた。カサレス・キロガは、明らかにモラ将軍の共犯者だからだ。あの人民戦線圧勝に終わった二月総選挙の結果に対し、公然と反乱を宣言した後も、ナバラのバムプロナに留まり、反乱の擁護如何にかかわららず、全ての謀略家を右翼陣営に組織する工作に暗躍していたのは、他ならぬあのモラだ。
左翼陣営からの裏切りも明白だった。人民大衆に武器の一つさえ手渡されなかったのは、ブルジョア民主主義者にとってプロレタリアートこそ恐怖の的だったからだ。アラゴンの首府サラゴサでは、市長のべラ・コロネルが労働者側との武器供出交渉で言い逃れに終始し、結果的にファシストを勝利に導く要因を作った。またバレンシアでは、スペイン全土が一丸となって右翼軍部との対決を決意している中で、反乱軍が兵舎に居座っているのを黙認していた。
 この歴史的な血戦の真最中にあって、労働者階級に対する恐怖の余リ、ファシズムヘ公然と寝返った共和派政治家を非難するのは、口先だけの御都合主義からではない。そればかりか我々は、あの四月の傀儡共和国以来、労働者階級の拠り所を荒廃させ続けてきた共和国の、息のかかった道化役者たち全てを糾弾する。革命を起こすべき時に革命を回避したからである。
 人民大衆は自ら武器を探し回らねばならなかった。圧倒的な人民による支配という権利意識が手に武器をとらせた。それ以外の、他の誰からも、与えられたものは一つもなかった。共和国政府からも、ヘネラリタト(カタロニア州自治政府)からも、ライフルの一挺すらもだ!
  七月十九日、以前体験した偉大な日々のように、プロレタリアートは自らの地勢を市街地に求め、飛び出していった。僅か数日間とはいえ、スペイン全土の貧民街は徹夜の自衛体制が敷かれた。カタロニアの州都では、あの輝かしい過去の闘いぶりが再び眼前にありありと蘇った。        
 バルセロナの港では、湾内に停泊中の補給船「マニュエル・アルヌス号」と「マルケス・デ・コミイヤス号」から、最初の武器が労働者によって強奪された。 七月十九日の夜明けとともに、反乱軍部隊は、カタロニア市民の抵抗に遭いながら市街制圧に乗り出したが、兵舎はたちまち市民に包囲され、最後のファシスト陣地もやがて奪取された。
 カタロニアのプロレタリアートは、スペイン全土のプロレタリアートをファシズムから救った。プロレタリア・カタロニアは、一つの大きなかがり火となって、スペイン全土を照らしたのだ。ファシストの手中にある全国の農村地帯は、我々工業地帯の労働者が必ず解放する。
  一方マドリッドでも事情は変わらなかった。ここでも武器は一つも配給されなかったのだ。それでも市街地を制したプロレタリアートは戦い抜き、モンターニャ兵舎を包囲し、団結を勝ち取っていた。そしてショットガンや武器になりそうなものは何でも手にし、モラ将軍の進攻を阻止するためシェラ・デ・グァダラマへ向かった。ナバラ駐屯軍部隊を率いるモラ将軍は、カスティヤの首都制圧を準備していたのだ。
 ファシズムの根は、スペイン北部やレバンテ地方のほか、アラゴン、アンダルシァ、エストレマドウラ地方の諸都市にも、深く根付いていた。これら以外の地方でも、多かれ少なかれ労働者は丸腰にされたまま、スペイン・ファシストたちに道を開いた左翼州知事らとの抗争を余儀なくされていた。
 もともとマルチネス・バリオ(首相)の許で、政府内部への足掛かりを築き、四月の憲法制定議会を骨抜きにした野心家、カサレス・キロガは、ファシスト勢力と結託し、政治の実権を彼らに譲り渡す意図を以て、権力の座にのし上がってきていた。これに素早く対応した労働者階級の行動により、これまで見たこともない最も卑劣な裏切りである、悪法の制定は粉砕されたが、この裏切りの策謀が成就されなかったのは、単に時間的な余裕が無かったからであった。アサーニャを初めとするこれら同類の政治家どもは、自分の首を以てその卑劣きわまる策謀の代價としなければならない。当初悲観的だったこうした情勢も、また政府部内に流れていた暗然たる降伏の気運も、プロレタリアートの激烈な勢いに掻き消された。そしてマルチネス・バリオに代わり、ヒラル(共和派)が後任の座に就いた。                
    *           *     
 ここまで我々は、事態の展開を史実に沿って概略的に追ってきた。しかしこの七月に関してはもう少し堀り下げて考察し、あの輝かしい日々に、一体どんな革命が達成されたか詳しく検討してみなければならない。
 七月については、すでに多くの理論付けが試みられている。ブルジョア民主主義者は、七月の大衆的爆発は最悪の敵が仕掛けた攻撃に対する、プロレタリアートの正当な自己防衛として位置づけられるべきものだ、と主張する。これを彼らのテーゼと考えるならば、それは紛れもない革命的かつ階級的一大現象としての七月を、完全に骨抜きにしたものと言わざるをえない。
  我々の立場から見たこのテーゼは、欺瞞に満ちた論理である。革命の勃発は予見を許さず起こるが、それは革命の長い懐胎期を経てもたらされる必然の産物である。四月はそうした意味から画期的な過程であった。そしてその四月時代のまさに幕開けから今日に至るまで、労働者階級は、革命の先鋒を独占的に担い続けている。仮にあの七月の向こう見ずとも思える街頭への直接行動が無かったとしても、プロレタリアートは何時か他の時期を捉えてやはり同じ行動に出たに相違ない。いずれにせよ、ブルジョアのくびきから自らを解放するという高潔な仕事は、一時でも中断されることはなかったろう。
 他方プチブルジョアジーからは、我々の一切の行動や意見は、常に外の街頭にばかりあったという、非難めいた主張もある。これに対しては、危機が最高度に達した状況にCNTとFAIが飛んでいかなかったならば、事態はすべて十月のバルセロナの茶番劇の二の舞を演じていただろうことを、彼らに想起させねばならない。
 特にカタロニアでは、CNTの組織労働者が圧倒的支配力を誇っている。この事実を否定するなら、それは全くの無知か、それともカタロニア大地に根差したCNTの歴史を、故意に無視しようとするものだ。
  七月革命は、労働者からその起動力を引き出したし、またそうであるが故に階級革命であった。反面プチブルジョアジーは、街頭においてもまた理論的レベルでも、後知恵以上のことはしなかった。
 これらとは別に、重要なあるいはそれ以上と思われるいくつの考察が他にある。十七、十八、十九世紀の資本主義が生ぜしめた政治情勢は、既に記憶からも遠のいたものとしてあるが、一八七三年やこの四月の様なやや前近代的な人気取りの茶番劇がもたらした状況に、プチブル的民主主義の幻想をいくら打ち立てところで、それらは完全に粉砕されてきたことを、思い起こさねばならない。二月以降の段階で、スペインに可能な唯一の革命方法は、あの光り輝いた七月のような社会革命であった。
 四月はこの点決定的な意味を持っていた。我々が二度と同じ過ちを犯さないよう、十分に教えてくれた。権力から受けた集中弾圧にとどまらず、マルクス主義者に仕掛けられた、無意味でバカげた論議に、自らのめりこませるような過ちからも救われるだろう。
 こうして我々が何万回も批判してきたにもかかわらず、七月革命で見られたこの過ちの繰り返しは、いったいどう説明したらいいのか? 七月社会革命のために、どうして我々は、断固闘い抜かなかったのか? またどうして労働者組織は、全国的な最大限の支配力を、徹底的に行使しなかったのか?
 全国の大多数の労働者人口は、CNTを支援していたし、特にカタロニアでは、CNTが最大の労働者組織であった。にもかかわらずCNTが、CNTの革命、すなわち圧倒的人民の革命を、成し遂げなかったのは何故なのか?
 その原因は、当然の帰結をもたらしただけのことであった。CNTは、革命理論などまったく持ち合わせていなかったし、我々には革命の具体的な綱領も、目標とする社会概念もなかった。昂揚したセンチメンタリズムだけは、満ち溢れていたが、そのすべてが言葉と行動によって吐き出されると、たちまち労働者大群衆と共に、我々は何をなすべきか、またこの大いなる感情の発露を、どの方向へ実体化すべきか途方に暮れながら、やり場のない憤悶は、CNT内部へと噴出した。こうして目的を見失ったばっかりに、我々は革命を、みすみすブルジョアと、前年の茶番劇に加担したマルクス主義者らの、生け贄にしてしまった。そればかりか、ブルジョアジーの復帰と再生、そして征服者気取りの復権を許してしまった。  
 CNTは、その役割をどう果たすべきか、見失っていた。革命とその一連の諸結果を背負って進むには荷が重すぎたのか、外国艦隊の集結におののき、バルセロナが英国戦艦の艦砲射撃に見舞われる恐怖を、いたずらにあおっていた。
 まさに無数の困難を克服することなしに、革命が成功した試しはない。また諸外国の干渉を回避できた先進的革命が、この世界に一つでもあっただろうか。
 恐怖感を増幅させ臆病さにうちふるえながら、勝利を導くことはできない。大胆さと決死の勇気を以てしか勝利を得ることはできないのだ。臆病者は大衆の先導者たりえない。
 組織というものが、その全存在を賭けて革命の道を説くのであれば、有利な一定の状況が整えば、何時でも行動に出る義務がある。そして七月はその好機を捕らえた。CNTは組織を挙げて、前近代的な遺物総体に決定的な一撃を与えるため、スペインの先導車となって駆け回るべきであった。そうすることによって、我々は戦争を勝ち抜き、革命を救えたはずだ。
 ところが実際は、その全く逆であった。CNTは、国家の非常事態に、ブルジョア階級との協調の道を選んだ。国家なるものが、至る所でボロボロと崩壊しつつあったまさにその最中に、である。コムパニィスとその一味を支援し、貧血と恐怖症に喘ぐブルジョアジーに、胸一杯の酸素を吹き込み蘇生させたのである。
 結果的に革命の窒息とCNTの排除をもたらした、最も直接的な理由は、街頭での圧倒的支配力にもかかわらず、CNTが少数派的な態度を採り続けていたことにも求められる。この少数派的姿勢によりCNTは、独自の計画を展開できなかったばかりか、常に他勢力の妨害にあい、混乱と欺賄の政策に翻弄されるばかりであった。さらにカタロニアでは、ヘネラリタト政府部内でも、また地区革命委員会でも、他党派に比べ多数派であった我々が、いざ投票となると少数派に転落する結果が出た。それでもやはり、街頭に出れば、我々が市街地を制していた。にもかかわらず,何故、我々はその社会的支配力を、愚かにも見捨ててしまったのか?
 先の裏書でも述べたように、誰が異義を唱えようと革命は多分に「全体主義的要素を持つ」ことを、我々は主張しておきたい。現実問題として、多様な革命的諸側面が、新たな展開を求めて論議される中で、社会の新秩序を代表する階級は、最も責任ある立場を引き受けねばならないことも、事実である。現在我々を苦悩に落としめているこの七月の破局は、まさにその徹底的遂行を怠った所産である。
 七月に創立された反ファシスト民兵委員会は、階級レベルの組織ではなかった。ブルジョアや反革命小党派もそれぞれ代表者を持ち、この委員会は、さながらヘネラリタト政府とのバランスを保たせる様な権力構造を備えていたが、それも全くの見せかけけに過ぎなかった。他方、監視パトロール隊が組織された。彼らは常にバリケードや街頭を防衛し、大小の工場や会社などを接収し、農園経営者を追放して、事態に備えた。そして防衛委員会や物資供給委員会が、各地方および都市単位に設立された。
 すでに十六カ月が経った。そして、これら全てが、跡形もなく消え去った。七月の革命闘志は、一片の記億となり、七月の革命組織は、過去に消えた。
 政府機関やブチブルジョアジーは、無傷のままのうのうと居残っているのに引きかえ、カタロニアの中心地、バルセロナの労働者だけで支えてきた共和国広場の、いくつかの解放区は、見る影もなく、ただ草だけが生い茂る。

第三章 五月三日(一九三七年)

 
  七月革命の息の根を止めるため、反革命が総力を挙げて狙い打ちした攻撃目標は、革命の源泉、カタロニアの兵舎内であった。
 カタロニアの経済構造は、工場や商店など、仕事場で階級意識を培われた、労働者の集中を容易にする基盤を備え、革命目的を達成する上で、この工業中心地は、極めて有利な条件を提供している。七月、社会生活を新たに建て直したカタロニア労働者の不屈のプロレタリアート魂は、CNT一般労働者の長年の闘争経験を、唯一重要な拠り所として、再び反撃にでた。カタロニアには社会革命たりえるものが、存在したのだ。そればかりかこの革命的プロレタリアートは、戦略的にも官僚的・改良主義的中央政府権力に拮抗する、有力な支配勢力として、バスク地方のカソリック反動勢力に対しても、睨みをきかせていた。
 ところが、事態は別な方向に転回した。カタロニアでは、革命が起こらなかったのである。プロレタリアートが、曖昧な屁理屈ばかり並べ立てる指導部に、再びてこずっていることを察知したブチブルジョアジーは、七月段階の陰険な傍観的態度から一転し、急遽戦列に参加してきた。
 さらに中産階級となると、マルクス主義者の周辺に、商店主らや民族資本家党(イエハ)の十二万人もの取巻きが、詰めかけていたという、信じられない様な特異な事実に触れておかねばならない。
 カタロニアでは、社会主義は、いつも見すぼららしい代物であった。革命反対論者が、社会主義自治政府の要職を占め、反革命を統卒してきたも同然であった。UGT(社会党系労働総同盟)が結成されたものの、それはGEPCI(小資本家組合連合)の手先へと、変質していった。一方で反革命を賛歌しつつ、他方では手始めにPOUM(反スターリン主義のマルクス主義統一労働者党)を壊滅させた、マルクス主義指導者らは、CNTとの協調路線を再三策謀し、統一戦線のスローガンをぬけぬけと打ち出す陰険さである。
 社会主義者および共産主義者の連合勢力を加えた、プチブルジョアジーの共同謀議が、最も悪質な形をとって、革命に追打ちをかけたのが、五月事件であった。
 この五月事件の真相を巡って、様々な対立意見があったが、労働者階級を街頭で混乱させておいて、一気に殲滅するという、反革命勢力側の挑発が、この事件の発端であることは、もはや疑いのない真実である。この反革命の目的が、不十分とはいえ達成されたのも、実に、敵勢力を市街から掃討できる圧倒的優位に立ちながら、休戦命令をだしたり、よりによって『ドウルティの友』グループを、扇動者として排除した、革命勢力側の、一部指導者たちのバカバカしさのお陰である。
 もとよりバレンシア政府の監視をかい潜って、カタロニア社会総体の、権力秩序を掌握することに懸命な反革命陣営は、ラルゴ・カバイエロのお陰で、これも成功させた。この時期に及んで、CNTが閣内に四つの大臣ポストを占めたことに、一体何の意味があると言うのだ。
 社会的動乱の勃発を口実に、外国勢力の介入を誘導する計画が、ブチブルジョアジーによって用意されていた事実も指摘されている。ある(英国か)外国艦隊が、バルセロナに向かう予定であったことは確かである。また、フランス機甲師団が、何時でも越境介入する手はずになっていた話には、フランス人民政府の上層部に通じていた、ヘネラリタトの政治家の存在を暗示させる。
 状況は緊張の度合いを極度に高めていた。CNT組合員証は引き裂かれ、CNTとFAIの閣士たちは、武装解除させられていた。散発的な衝突は絶えないものの、その深刻な状況を大きく転換させるチャンスは、少しも見出だせなかった。我々労働者が、こうした挑発に耐えねばならなかった理由は、明らかに、上層部官僚主義者からの破廉恥極まりない脅迫が、露骨に行なわれたからだ。
 戦闘的社会主義者ロルダン(UGT)の死体は、気違いじみた権力誇示のための生け贄ショーの道具として、反革命集団全員が、居並ぶ前に無残にもさらけ出された。
 過ちの全責任が、CNTに負わされ、アナキストたちはあらゆる不運に泣かされた。食料不足の鬱積は、CNTが支配的役割を担ってきた、供給委員会にぶつけられた。
 五月三日、首都バルセロナは、ついに爆発点に達した。自治政府公安大臣アイグァデ(エスケラ)の承認を得た警備隊長ロドリゲス・サラスが、アサルトス警備軍一部隊を差し向け、テレフォニカ(中央電話交換局)を襲撃させた。この電話局は、CNTとUGTとの共同管理下にあるのを承知の上で、CNT同志だけの武装解除を狙ったものであった。
 スターリンの手先集団と化したPSUC(カタロニア統一社会党…共産主義主流派)党員、ロドリゲス・サラスによるこの動きは、本格的な武力闘争の引き金となった。二〜三時間の間に、バルセロナ市内の街路という街路には、バリケードが築かれ、ライフル銃、機関銃、大砲など、銃弾と爆弾と砲弾の炸裂音が絶えず、昼夜を支配した。
 さらに数時間後には、あの七月の時のように、自ら銃を取って、権利を守りぬくCNT所属のプロレタリアートが、優勢に転じ、市街を制圧した。市街全域が、我々の支配下にあった。もはや我々の手から、この街頭の支配権を奪い盗ることができる権力は、この地上のどこにも存在しなかった。労働者居住地区を奪回した我々は、敵の占領地区へ徐々に進撃し、市中心部の居住地区を占拠する敵前まで迫っていった。CNT委員会のお偉方の背信がなかったら、ここはとっくに我々が解放していたはずだ。
 この戦闘で露見した、CNT指導部の優柔不断な態度、また我々から切り離せない拠点である、街頭でのリーダーシップや組織力の欠如に気づいた我々は、アナキスト・グループとしての、声明とパンフを配布した。
 CNT委員会は、こぞって我々に扇動分子のレッテルを貼った。と言うのも我々の主張が、
(1)事件の扇動者の銃殺、
(2)正規軍の解散、
(3)武力挑発に関与した政党の処分、
(4)社会主義経済の推進と、労働組合の集中的経済支配権のための、革命評議会(フンタ)の創設
を要求するものだったからだ。
 あの緊迫した局面に、敢えて声明とパンフで表明したように、優勢に立っている部隊が、みすみす劣勢の敵に譲歩するなど前代未聞であり、絶対にバリケードを、無条件放棄してはならないというのが、我々の状況分析であった。
  武器を取って応戦した我々労働者が、逮捕されないという保証が必要だったときに、CNTのボスたちが確約してくれたのは、ヘネラリタト内のCNT代表者らによる、労働者階級寄りの弁護だけだった。案の定、バレンシアで既に起こっていた事態が、ここカタロニアでも、現実に再演されることになった。
 我々の側には、何らそうする理由もないのに、一方的にバリケードが放棄されたのだ。カタロニアでの状況が、平静さを取り戻すに従い、マルクス主義者と治安警備部隊による暴挙は、ますます露骨になった。我々の見解は、間違っていなかった。同志ベルネリは、自宅から拉致され、通りの真ん中で射殺された。サルダニョーラでは、三十人の同志が検束され、手足を切り取られた無残な死体で、発見された。リベルタリオ青年同盟(Libertarian Youth)の同志マルチネスは、チェカのリンチにより暗殺され、CNTとFAI所属の同志が、大量に惨殺された。
 ベルネリ教授は、どの流刑島、共同墓地、強制収容所も犠牲者で足の踏み場もない、あのファシスト・イタリアから亡命してきた、学識あるイタリア人同胞だったことを忘れてはならない。彼もまた、他の反ファシスト同志と同様、ムッソリーニのイタリアから、離れざるを得なかったのだ。
 この同志の大量殺戮のあとには、さらに大々的な集中弾圧が、畳みかけるように押し寄せた。七月と五月の両事件を口実に、再び革命者狩りが、堂々と罷り通り、労働組合、集産協同体、「ドウルティの友」グループ事務所、リベルタリオ青年同盟のほか、POUMにも攻撃の手が延びた。
 その中でも決して見過ごすことができない事件がある。アンドレ・ニン(POUM議長)の失踪と暗殺である。既に半年以上が無駄に過ぎたが、それでも、最後まで、このいわゆる「謎のニン殺人事件」の究明を、政府に迫っていかねばならない。ニンの暗殺者が判明するその日まで、我々は諦めないだろう。
 五月以降の反革命の勢いは、至る所でこれまでになく激しさを増していった。外国権力が、この中央政府官僚らの反動政策に、援助を与えていた。数日の間に、ネグリンを首班とする新中央政府が組閣されたが、その成立の陰に二つの密約が取り交わされていた。即ちプロレタリアートの革命的セクションの抹殺、それと「ベルガラの抱擁」(反乱軍部との和平)の準備であった。一方、それと歩調を合わせるかのように、カタロニアでも、各政党と労組の幹部からなる、反動政府が成立し、ルイス・コムバニイスが、CNT代表者を、ヘネラリタト内から排除する筋書きが進行していった。
 五月の状況は、七月革命とはかなり異質なものであった。(七月の、旧権力に対する革命人民大衆の権利意識の爆発に比べ)五月のプロレタリアートは、まさしく階級魂と共に戦い、労働者階級としての、革命の根底化を目的としたことは、疑いのない事実であった。
 反動的出版物によって、如何にねじ曲げられようと、五月の本質は、革命の危磯を察知し、これを救出し蘇生させようとしたプロレタリアートが、街頭で組織した、臨機応変な対抗措置として、歴史上位置付けられるだろう。
 五月の時点では、我々は、まだ革命を救うことが可能であった。この歴史的瞬間に、停戦の呼びかけに傾いていったものの多くは、後侮するするばかりか、労働者であふれる牢獄の惨状に、胸を引き裂かれるに違いない。
 『ドウルティの友』グループは、最後までその責任を果たした。状況にまどわされることなく、唯一果敢に立ちむかっていけたのは、我々はこれらの結果を、完全に予見できたからである。
 五月を絶対忘れさせてはならない。ブルジョアジーを、その戸口まで追い詰めた、労切者階級の雄叫びを忘れさせてはならない。五月事件を語るとき、紛れもなくプロレタリアートの新時代を印す、ゆるぎない杭を打ち込んだ、カタロニア・プロレタリアートに対し、歴史家は、必ずや敬惹を表さずにはいられない時が来るだろう。

第四章 スペインの独立


 スペインが出口のないジレンマに直面するとき、そこには常に外国権力の干渉が集中的に働いていた。
 十六世紀よりこのかた、スペインの政治情勢はこの大国の先取特権に支配され続けてきたのだ。つい数年前の一九三一年四月十四日まで、スペイン人民はサボイ家のアマデオの短期支配も含め、二つの王朝、即ちオーストリアのハプスブルグ家とフランスのブルボン家の権力に服従を余儀なくされてきた。
 スペインの独立は常にフィクションであった。スペインの決定に対し、中でもわが国の駐在大使館とフランス外務省とが最も大きな影響力を持った。一九三二年夏のサン・フルホ将軍の反乱を思い起せ。反乱後の彼の特赦放免は、フランス政府の圧力で簡単に実現してしまったではないか。
 またスペイン経済は、特にその農業経済が諸大国の大きな工業力に踏みにじられてきた。我々の農産品が輸出されると、その見返りに、国内でも作れるような機械類を買わされ、例えばロンドンがオレンジを購入する場合には、見返りとして英国産石炭の輸入を迫られ、その結果スペイン国内の石炭業界の不況が炭坑労働者に操業短縮を強いる、といった具合である。
 我々は鉄、銅、その他の鉱石を輸出し、その輸出先国が我々の原料で作った高価な工業機械製品を、我々が買わされているのである。
 スペインの地下資源は、きわめて豊富である。しかしそれを所有しているのは、我々ではなく外国資本なのである。つまりわが国は、人民の富をむさぼり食う、国際金融資本の魔手に絡めとられているのだ。スペイン労働者が、絶えず汗水たらして苦労してきたのは、他でもなくこれら外国資本の株主と金融資本家の、膨大な配当金と不労利益を産み出し喜ばせるためだったのだ。
 しかしながらスペインの歴史が始まるその最初から、スペイン人民には、確固たる独立精神が宿っていた。無数の侵略にも屈せず、独立というその聖なる炎を決して絶やすことはなかった。
 初期におけるイベリア人、フェニキア人、カルタゴ人、ローマ人、アラブ人、フランス人などによる侵略に比べ、現在の侵略は、本質的にまったく異なったものである。即ちこれら初期の侵略には、社会的影響力がまったく無かった。
  かつてナポレオン統治下では、リベラル派と絶対専制派とが肩を並べてこれと戦った。リベラル派のゲリラ指導者エル・エンペシナードは、成り行きの上とはいえ、絶対専制派のメリノ大司祭を味方と見倣した。
 ところがウィーンからの神聖同盟の代理人アングレム侯爵が、スペインへの遠征途上、イベリア半島全土でこれに対する世論が真二つに割れたすえ、メリノ大司祭はこの侵略者側にねがえり、裏切られたエル・エンペシナードは、侵略軍に抵抗していった。
 今日進行している出来事は、かつてのこのフェルナンド七世統治下の出来事の再演である。同じウィーンで、フアシスト独裁者らは、再びスペイン侵略を謀議したのだ。武器を手にした労働者は、自らエル・エンペシナードの意志を引き継いでいた。
 ドイツとイタリアは、スペインの地下資源、とりわけ鉄,銅、鉛、水銀などを必要としているが、これらの採掘権は、フランスとイギリスが保有している。仮にスペインが侵略を受けたとしても、イギリスはこれに対し何の手も打たず、むしろ利権保全のために、フランコとの卑劣な裏取引に応じようとしているのは、明らかだ。
 この戦争が始まって以来、イギリスは、我々の勢力下にある港の封鎖に手を貸し、ファシストが送り付けてきた軍事物資は、同じファシズム勢力下の港にぞくぞく荷揚げをさせ、……代って空船には、鉱石、家畜、石油などが船積みされていく。国際ファシズムは、軍需品と交換に食料を要求しているのだ。ヒトラーのスローガン「食料よりも武器を作れ」や、ムッソリーニの自給自足体制のために、スペイン反乱将軍勢力の規律に従わせられる農業地帯は、掠奪を欲しいままにされている。
 もとより、他国に依存せざるを得ないスペイン経済は、常に通商条約や貿易収支の不利な立場を強いられてきたのに加え、こうした情勢は、スペインを益々経済破綻の悪夢へと、引きずり込んでいった。
 スペインの問題は、被植民地の問題に等しい。資本主義は自ら封建主義をしめ出しながら、他方では搾取の都合上、封建社会体制を支持せざるをえないという、全く矛盾した身勝手さを備えている。中国においてと同様、この事実はスペインにもあてはまる。 スペイン独立はまさに労働者階級の責務である。国際資本が、我がもの顔に越境している現在、民族資本(主義)が、その役目を買って出ることは先ずなかろう。我々労働者は、これら外国資本を根絶しなければならない。真の独立には、愛国主義が入り込む余地はなく、まさしく階級の利害に関する問題なのである。
 国際的陰謀が横行するなかで、イギリスはこのスペイン問題を、恥辱に充ちた現状には触れないまま、うまく納めてしまうに相違ない。一体イギリスは、鉱掘権等の権益をめぐり、ドイツ、イタリアにどう譲歩するつもりなのか?地下資源の不当な諸権利は、そのまま諸外国の手に分割委譲されるのだろうか? スペインは領土分割されてしまうのではないだろうか?
 イギリスは、わが国の豊かな鉱物資源に関心があるのだが、世界中に拡大するファシズムと、かの反コミンテルン協定に従う政党の絶大な影響力を考えると、二心のある不誠実な大英帝国としては、例によって、地中海での航行の自由が脅威に曝されないかぎりは……、という取引条件で、あっさりこの圧力に屈することだろう。
 この先何が起こるか、推測はむづかしい。国際連盟やその委員会、小委員会の理事国など、我々は信用しないし、またニヨン会議のような、単なる時間の浪費を目的とする、諸々の国際会議なども、信用してはいない。かと言って、イギリス保守党政府が、かのインドでの大虐殺の張本人、バリファクス上院諸員を罷免したからといって、我々には何の意味もない。

 我々にとってただ一つ懸念するものがあるとすれば、それはフランスの動向である。いったいフランスは、その領土上の保全問題に、どう対策をたてるのか?人民戦線政府、レオン・ブルムが打ち出した不干渉政策を、維持するのだろうか、それとも植民地派遣軍を、撤退させるのだろうか?
 どれも信用してはならない。我々を救う道は、自らの手中にあるのだ。今や外国勢力の悪意や陰謀は、鳴りをひそめつつある。我が労働者階級は、スペインを、タンジール、ダンティヒ、ザールなどのような、国際的陰謀の取引の犠牲から救う方途を、必ずや見出だすであろう。
 勝利か死か。同志よ、今やそれを決めねばならない。


第五章 協調路線と階級闘争


  他の国に於いても凡そそうであるように、このスペインにおいても労働運動は、二つの大きな潮流に分かれている。改良的協調路線と、そうでない、敵とはいかなる取引も許さない非妥協的路線、である。
 わが国でこのいわば古典的な改良主義者の役割を演じたのが、UGTなる組合を傘下に従えた社会主義そのものであった。それはまさに、裏切り労働者の隠れ家であるばかりか、プロレタリアートを、ブルジョアの使用人たらしめることだけを目的とする、労働者組織潜入工作者達の巣窟でもある。
 あの赤い二年の時期、インダレシオ・プリエトが、鉄道労働者のストライキに対して発した声明は、この協調路線の本質をよく物語っている。実に悪意に満ちたことを、このインダ親分は言っている。
 「私は社会主義者である前に、先ず大臣である。」
 スペイン革命が、苦難を背負ったのは、こうした改良主義者が、その邪悪な権力を利用して、革命の方向を歪めたからだ。七月事件の社会的、階級的意味を、明快に述べる意志は、彼らには一度も見られなかった。
 CNTが常に説いてきた階級闘争路線は、革命の遂行を著しく妨害する一連の論争介入により、二次的な問題へと退けられてしまった。この後退の無意味さによって、直接革命が被った損害のみならず、組織上の問題として、階級的観点に立脚した革命路線厳守の失敗と、革命的サンジカリズムの蹂躙に起因する、革命基盤の崩壊がもたらされた事実を、悔やまねばならない。
 労働組合たるものは、資本主義との絶えざる闘争の中で、その階級の信念を嘘偽りの無い純粋さで、表現する器官なのである。今、我々の側から、こうした組合の役割を後退させるならば、プロレタリアートの利益は、当然不当な損害を強いられるだろうことは、目に見えている。
 協調路線主義は、いかなる場合にも悔恨を残すものとしてある。資本主義との協調は、それが国外のブルジョア国家だろうと、また国内の政府であろうと、どんな形であれ試みられてはならない。生産者としての我々の立場は、労働者先導型革命を貫く、単一主体の強化育成に携わる、労働組合以外の場所にはないのだ。
  階数闘争は、もとより戦場で戦い続けている労働者にも、また軍需工場で汗を流す労働者にも何ら障害となるものではない。組合には当然優先権を与えつつも、一つの階級意識を持って、それぞれの立場で、新しい地平を切り開いて行かなければならないことも、忘れてはならない。
 労働組合の外部に、組合の権力を制限するような如何なる経済団体も、新設してはならない。たとえ国家といえども、この労働組合との共存はおろか、その下での延命はあり得ない。労働組合は、我々自身の力だけで成り立たせよう。資本主義との闘争は続く。我が勢力陣営内にも、国際ブルジョアジーに通じているブルジョア分子どもが存在する。ここ数年もの間、それが堂々と罷り通っている。これが今問われるべき問題である。
  労働組合は、それ自身に忠実であれ。他のどの組織にも隷属してはならない。七月十九日まで、その歴史とともに、国内ブルジョアジーとの全面対決を、果敢に担ってきたCNTの路線を、支持していこうではないか。
 協調路線主唱者らは、ブルジョアジーとの同盟者に他ならない。そうした同盟関係を力説するものたちは、階級闘争には不感症であり、まして労働組合への関心など微塵も持ち合わせてはいない。
 みすみす敵の立場を強固にする合理化など、断じて応じられるわけがない。
 労働者の敵は断じて排除しなければならない。万が一我々の側に亀裂の生じることがあるとしても、我々のとるべき立場として、資本の側へのあからさまな支援となるような社会的逸脱行為は、断固として拒否する態度を守りぬかねばならない。
 搾取する者と搾取される者との間には、共通利害など絶対あり得ないのだ。両者の勝敗は、唯一その戦闘だけが結論をだすことができるのだ。両者の間には一切の妥協は存在しない。ブルジョア階級の勝利か、でなければ労働者階級の勝利か、しかないのだ。  労働者階級は未来を手にしている。我々社会的下層者は、失うものがない。しかし我々は労働者同胞の解放という史的運命を勝ちとることができるのだ。
 あらゆる不当な態度をぶち壊せ。労働組合を強化せよ。階級魂の健在ぶりを示せ。

第六章 我々の立場


 現状が抱える諸問題について、具体的に展開するとしよう。先ず、反革命との戦争の問題だが、我々は、労働者階級の完全支配下にある軍事組織を支持する。資本主義体制下からの将校士官らは、一片の信頼もおけない。日常茶飯事の戦線離脱や、我々が被った悲惨な結果の大部分は、こうした将校らの公然たる裏切り行為が原因である。従って軍隊に関しては、労働者の独占的指導下の革命的軍事組織を要求し、将校が必要な場合には、最も厳重な監視下に置かれるべきである。
  戦争は労働者階級が指揮すべきである、というのが我々の主張である。これには十分な根拠がある。トレド、タラベラ、での敗北、北部地域とマラガでの失地は、政府部内の無能ぶりと優柔不断さを指摘している。
 因みにスペイン北部では、敵対できる武器さえ手に入れば、これを救えたはずだった。そして現に打つ手もあったのだ。スペイン銀行には、スペイン全土を完全武装させるだけの黄金があったのだ。その時間もあったのに、何故だ? 不干渉条約が発効しだしたのは、この戦争がすでに数か月経過した後だった事実を見過ごしてはならない。
 作戦行動中の統率力も惨憺たるものだった。特にラルゴ・カバイェロの場合は、悔やんでも悔やみきれない。アラゴン戦線であれだけ要請されていた武器が供給されなかったのは、まさに彼の責任である。アラゴン地区部隊の武装化をためらった彼は、アラゴンをファシズムの魔手から奪回する可能性を、むざむざ見殺しにしたばかりでなく、マドリッドとその北部戦線における抵抗力の弱体化を、招来する原因を作ったのだ。アラゴン前線への武器供与は、CNTに武器を与えるに等しいと本音を吐いたのは、他ならぬこのラルゴ・カバイエロだったのである。
     *          *          
 ブルジョア一味との協調路線に我々は反対である。階級闘争路線こそ堅持すべき道である。
 革命的労働者は、政府のどんな公職も背負ってはならないし、国家の大臣に名を連ねることなどは問題外である。戦争が続くかぎり、戦場でも、塹壕でも、砲台や後衛生産部隊のどこにおいても、我々は協力を惜しんだりはしない。 我々のよって立つべき基盤は労働組合であり、仕事場である。ここにおいて、我々はあの革命精神を息づかせ、やがて到来する好機をとらえて、それを全面開花させるのだ。
 諸外国政府の手先となって働くブルジョア政治家の陰謀には、一切関連してはならない。それはただ、敵を強化し資本主義の抑圧に手を貸すことになるだけである。どんな公職や大臣も願い下げだ。労働組合へ、あの仕事場へ戻って、また出直そうではないか!
      *            *         プロレタリアートの団結を図ろう。言うまでもないが、この団結は労働者同胞のであって、間違っても官僚や不労所得階級の輩とではない。
 現在CNTとUGT革命左派との協定は実現可能の見通しが強い。しかしカタロニアUGT、即ちプリエト一派との和解は絶対できない相談である。
      *            *        戦争勝利と革命続行には、経済面での社会化が絶対不可欠である。現在の方策では長続きはしないし、だからといってそれぞれの生産点の中心が整然とした連携を保持しない限り、効果を上げるのは難しい。
 だがこの実現に向かって、現実を直視することができるのは労働者をおいて外にはいない。
     *            * 
  宗教問題には、もうこれ以上議論に首を突っ込むことはない。この件ではすでに人民大衆の最終的な評決が下されているからだ。ところがそれにも拘らず、教会の再開を目指す傾向が現われている。信仰とミサの自由を法令によって保証するとは、あの偉大な教会焼き討ち時代のことを、政府のお歴々はもう忘れてしまったと見える。
      *         *     
  物資配給に当たっては、厳正な割当てが実施されなければならない。労働者が飢えていく一方で、隠匿物資の闇業者等が、労働者管理下の食堂から横流しを企むなどは断じて許しがたい事だ。
 配給は、政府でなく社会の管理下に置いたうえで、割当てられるべきだ。
 官僚制度は排除しなければならない。バルセロナにどっと避難してきた数千人もの中央政府官僚らは、我々に醜悪極まる災難を持ち込んだ。彼ら官僚に代って労働者を受け入れるべきだ。奴らはただ高級クラブにたむろする、ごろつき常連以上の者ではない。
      *         * 
  官僚階級を徹底的にぶちのめせ!
      *         *
 とんでもない給与待遇を直ちに止めさせよう。民兵同士諸君がが日給一〇ペセタであるのに対し、官僚らがべらぼうな高給を取っているのはもっての他だ。アサーニャとコムパニィスのサラリーは、以前と何も変わっていないのだ。
 家族単位による賃金体系の導入を実現し、この忌ま忌ましい不平等を一切断ち切らねばならない。
  社会正義の番人は人民大衆自身である。この原理から逸脱していった誤った慣行を我々は容認することができない。こうした兆候は、下級裁判所から面接判事が務める高等裁判所に至るまで、例外なく存在する。我々は以前の陪審員制度を復活させたい。今彼らはこの制度を排除しようとしている。
 プロレタリアートの正義は労働者だけに属するものである。
     *          *       
 スペインの農業は、社会化の道をさらに押し進めて行かねばならない。集産協同体のサボ夕ージュは、農業生産に甚大な悪影響を与え、投機的な思惑を蔓延させるだけである。都市と農村間の往来は、農民層を益々プロレタリア階級へと近付け、零細な自作農地にしがみ付いていた農業労働者の意識も変革されていくだろう。
     *         *          
 文化的な問題は、凡そ社会、文化、経済的諸活動を見ればわかるように、労働者に属する領域であることは言う迄もない。この新時代の文化様式を形作ったのは労働者自身なのだ。
  *        *      
 革命的秩序を実効させるのは労働者の仕事であって、軍隊ではない。革命の何ら保証とはならない正規軍は解散させるべきだ。我々が定着を目指そうとする新秩序を防衛するため、CNT各労働組合は、組合員を応援に出すよう要請する。
     *         *
 対外政策に関しては、休戦提案など我々は絶対に受け入れるものではない。また革命の対外情宣活動においても、諸外国の政府機関や謀略組織などとは係わりなく、唯一生産点での活動に依拠すべきである。
 海外の労働者に対しては、革命的言葉を用いて呼び掛け、従来の民主主義的な用語で語りかけてはならない。我々の新しい表現は、労働者の組織やそこの全ての労働者へと、口伝いに広められよう──フアシストのための生産をサボタージュせよ!スペイン人民の虐殺者への原料、軍事物資の出荷を拒否せよ!と。さらに我々の呼び掛けは続く──街頭デモを組織せよ!そして自国の政府に要求せよ、我々が護り抜こうとしている道義、世界のプロレタリアートの大義に答えよ! と。

第七章 我々の綱領


  前途の明示も直接の目標もない革命は、成功し得ない。これが七月革命から得た教訓である。七月の大衆の力は強大だったが、CNTは街頭に吹き出したその自発エネルギーを、どう具体化するか途方にくれた。その指導部は全く予期さえしたこともない事象にただ唖然とさせられるばかりであった。
 CNTには行動提起もなければ、それを裏付ける理論もなく、毎年我々は、いたずらに抽象的な空論をもてあそんでいた。何をなすべきか?──指導者らがこう自問している間に、革命は敗退していった。
 こうした高場の時期は一刻の躊躇も許されない。だからこそ、一人一人が自らの目的を自覚しなければならない。七月と五月の過ちを二度と繰り返さないためにも、このことがまさに重要な教訓として導かれる。
 我々は、ここでアナキズムでは若干変則的とも思われるものを、綱領に加えたいと考える。革命的フンタ(評議会)の設立である。
 これまで見てきたように、革命を監視しかつ敵対勢力を組織的に抑制する機関を、革命は必要としている。こうした敵勢力は完全に壊滅されない限り、消滅することがないことは、現在の状況が如実に示しているところだ。
 アナキスト同志の中には、我々のこの見解にイデオロギー上の反論や疑問を抱くものもいるだろうが、びくびくしながら先を進むことから、もう決別すべきであることは、これまでの経験が教えてくれている。
 この革命の過ちを再び繰り返したくないと考えるならば、我々は、労働者階級とは認めがたい勢力に対し全力を傾けて、これに立ち向かっていかねばならない。 以上の前置きを踏まえて、綱領の項目に触れていきたい。

 (1)革命フン夕または全国防衛評議会の設立
 この評議会は、各労働組合組織より選出された評議員をもって成立し、前線にある同志は、その数にしたがい代表権を有する代表者数を選出できる。また評議会は、組合の占有権たる経済問題 に関与しない。
  評議会の機能は次の通りである。
  (a)戦争の遂行運用
  (b)革命秩序の監理
  (c)対外政策
  (d)革命の情宣活動
 役職は定期的に配置替えを行ない、役職への執着を防ぐ。評議会の活動全般を管理するため、各労働 組合が参集する総会がこれを行なう。

(2)全ての経済力をサンジカヘ
 七月以来、労働組合は、偉大な建設的労働能力を発揮してきた。この組合の力を軽視しなかったら、その大いなる成果が期待できたはずだ。プロレタリア経済を支えるのは、労働組合組織である。 各地方の工業組合と、全国工業連盟組織との性格を考慮にいれ、経済活動の整合を促進するためには、経済評議会の設置も考えられるべきだ。

(3)自由自治権
 かつて外国王朝の侵略があるまでは、いくつかの国内都市では、自治権が強固に護りぬかれていた。反中央集権化の伝統は、こうして新たな国家体制の確立を、事前に排除してきた。プロレタリアートが待ち望むこの新生スペインには、かのビヤラールの戦いで消失した自由自治権が、復活されることになろう。これ によって、いわゆるカタロニア、バスク地方などの独立自治問題も解消される。
 以上述べた自由自治権は、組合組織の権限外に置かれた社会的諸機能を、統括しなければならない。従って我々が建設しようとするのは、生産者による独占的構成の社会であるから、当然、こうした自治権の維持・育成は、組合組織が行なう。利害の不均衡が存在しないから、争いも存在しえない。
 自由自治体は、地区、地域、そして半島全域の連盟の三つのレベルで組織され、この三者間の連絡は、組合と自由自治体が、これを維持する。


第八章 新しい革命に向けて


 あの七月革命の崩壊は急激であった。一般に社会革命の原初的形態を包摂する諸革命の中で、こんなにめまぐるしい敗退をみたことはかってなかったことである。
  次々と変化する革命の諸相を理論化できないのは、それは革命が未だに確固たる史的事実として獲得されていないからである。この意味で、スペインの不滅のプロレタリアート精神を、再び開放することが絶対必要である。再び街頭に出て、新しい次の一歩を印さねばならない。
 我が国では、実に様々な革命が頻発する。時には革命に対する現実的要件や成功の可能性さえ顧みることさえなく、である。心理学的にも、また扇動的意味合いから言っても、何者もその正確な発火時期を予測することは不可能である。従って革命の結果は、常にその過程における正しい選択によって決定付けられる。
 予め予測を建てることは至難の技である。新たな七月、あるいは五月の到来を、一体何時、誰が予測できるだろう。もちろん、スペインの状況が一新するだろうことぐらいは見当がつくのだが。
 もしこのまま戦局が好転しない場合、停戦・和平協定を取り付けようとする政治家どもを、一人残らず糞だめへ放り込んでやらねばならない。前線での作戦行動、軍需産業、生活供給物資全般、それに食料品物価の高騰など、何の手も尽くさない政治家のサボタージュは、すでに十分な証拠と言える。この物価の狂乱ぶりはこうした輩が革命にとどめを刺す準備として、反革命的気運を助長させるために仕組んだ罠なのだ。
 休戦交渉はたぶんに成立する方向に向かうだろう。となると、これに武装して抵抗する時が来ている。仮に戦争に勝ち抜いたとしても、これ程厳しい眼前の局面を抱えたまま前線から帰還する兵士同志を迎えても、問題は依然深刻の度合いを増すだけだろう。この戦争終決後の対策を、どう講じればよいのだろうか?
  軍需産業から平和産業への転換、帰還兵士同胞の職場の確保、戦争犠牲者の生活補償、職業軍人将校らの処遇、市場の再開と活性化など、問題は山ほどある。
 これまでの各章で述べた一九二三年、七月十九日(一九三六年)、五月三日(一九三七年)の三つの時期が持つ位相はそれぞれ異なり、この内のどれを当てはめて現実に対処していったらよいか、明言はできない。しかしいずれにせよ、問題の真の解決は、プロレタリアートがこの国を決定的に掌握することであり、そのための新たな決起を準備することに全てがかかっている。
 我々の対応を深刻過ぎると非難するのは全く当たっていない。確かに現在のところはこうした問題について、何ら革命的状況が存在しないかもしれない。ただ反革命勢力だけが我がもの顔で挑発,扇動のかぎりをしたい放題しているだけだ。牢獄は労働者で充ちあふれ、プロレタリアートの権利は公然と蹂躙され、我々革命的労働者はまるで半人前扱いだ。制服と私服を問わず、官僚らが我々に吐く言葉は、組合への誹議中傷は言うまでもなく、堪え難い侮辱に満ちている。
  新たな革命こそ、唯一開かれた路線である。いざ、その準備に取り掛かろうではないか。この状況を一挙に切り開き、前線で戦い続けている同志、獄中の同志、そして労働者階級の正義のため、革命への希望をこの今も撚やし続ける同志心たち、これら同胞全てを再び街頭に呼び戻し結集し、堅い団結を貫こう。
 全国の都市および農村労働者の完全解放を勝ち獲るため、新たな革命の勝利に向けて、人類が熱望するアナキスト社会の達成に向けて、同志よ前進せよ!!


 筆者追記

 「 ドルティーの友」グループの構成員とその機関紙『人民の友』の執筆者紹介

1 ハイメ・バリウス Jaime バリウス
身体障害ジャーナリストで、中産階級出身の元学生。プリモ・デ・リベラの独裁に反対して以来CNTとFAIのメンバー。一九三五〜一九三六年にかけてCNTカタロニア地方機関紙『ソリダリダッド・オブレラ』(労働者の連帯)紙の常任執筆者。著書には、一九三四年十月蜂起を扱った『カタロニアの十月 Octubre Catalan』がある。他にバホヨブレガ地方のアナキスト紙「Ideas」にも執筆。「 ドルティーの友」書記長兼出版責任者。バルセロナのモデル刑務所に投獄され、ネグリン政権下の政治社会軍団に支持されたこともある。
2 パブロ・ルイス Pablo Ruiz
 一九三六年バルセロナでのアタラサナス兵舎攻撃戦にドゥルティと共に参加。ドルティー連帯の重鎮。
3 ドミンゴ・パニアグア Domingo Paniagua
 同編集者。
4 Juan Espanol
5 ”Mingo” Ponciano Alonso 一九三六年以前のCNT─FAI内で著名だった『Novelas de Gudell』の著者。
6 フランシスコ・カレノFrancisco カレノドルティーの緊密な同志で、ドルティー連隊の戦略委員会メンバーとして活躍。ソビエト労働者(政府ではない)宛ドルティーのメッセージを携えて、一九三六年後期、Martin Gudell と共にロシアを訪問。一九三七年五月直前にバルセロナのポリオラマ劇場で開かれた「 ドルティーの友」会議に出席。一九四七年二月フランスにて死亡。
7 Eleutrio Roiguez 同編集者。
8 Jaime Rodriguez
9 Juan Santana Calero マラガ近郊出身の青年アナキスト活動家。青年リベルタリオ同盟カタロニア地方委員会に属し、出版・広報・文化部門の担当責任者。
 Fulmen 同史上でのスペイン革命とフラジス革命との類似性に関する論稿者。
 Atarca 
 Ada Marti
 Manuel Sanchez 鉱山町サイエン出身。彼の死亡記事を同紙第2号(一九三七年五月二六日)に掲載。
 Artemisa 同紙執筆者。
 Francisco Garcia 「 ドルティーの友」グループに最大の貢献をした人物として、CNT機関紙上(一九三七年四月一六日付)に彼の追悼記事がある。
 CNTおよびFAIのカタロニア両地方委員会、ならびにバルセロナ地区組合連合は、「ドウルティの友」グループ員の組合からの除名を脅し文句に、同グループの追放に踏切る旨の報道記事が、「ソリダリダッド・オブレラ」紙一九三七年五月二八日付に掲載された。その翌日、「ソリダリダッド・オブレラ」紙は、同グループから離脱した──Joaquin AubiとRosa Munoz──二人から引き出させたグループ離脱声明を丁寧にも載せていた。

 それでも同グループ書記長バリウスは、自信を以て、「ドウルティの友」グループはCNT─FAIの草の根組合員から支持を得ており、サンス、タラサ、グラシア、サバデュ、サイエンなどの町では同小グループ、またアラゴン戦線にはその同調者たちが存在したことを、強調している。

 「ドウルティの友」グループは、とりわけ食料組合シンジケートでその組織力を発揮した。同グループ紙第八号(一九三七年九月二一日)は、その前日早朝に起きた組合の食料倉庫に対する官憲の襲撃を報じている。数台の戦車、砲台車と機関銃で武装した数百人もの警備隊(共和派)が地区事務局を襲い、二十三名の同志が逮捕された。 また同紙第2号(一九三七年五月二六日)には、その出版基金への寄付金明細が報告されている。

一〇〇〇ペセタ アラゴン前線 Xグループ
一〇〇〇ペセタ ピナの同志一同  
一〇〇ペセタ   ミゲル・チェカ(アラゴン評議会)  
二五ペセタ   グレゴリオ・ホベル  
二五ペセタ   ペユペールデシンカ地区委員会