アボリジニの闘い(表紙)
WHITEWASH(ホワイトウォッシュ)
Australia's Bicentenary Another history
オーストラリアの200年 もう一つ歴史
First published in 1988 by the ASF-IWA
Produced by Melbourne-ASF
Printed by A press
はじめに
Aborigine(アボリジニー)、Aboriginal(アボリジナル:「アボリジニーの」という意味)という言葉の使用について----これらの言葉は、1788年以前にオーストラリアに定住した人々すべてを一般的に指す言葉として現在使われている。私達は様々な異なった地域に住むアボリジニー達が、それぞれ異なった名前で自分達のことを呼んでいるのを認めることができる。例えば、コオリ、ムッリ、ニュンガ等々と。
この小冊子の至る所で私達は、 state(国家)という語を用いている。最も簡単な意味では、この語は、官僚機構、議会、警察、法律、裁判所、学校等、私達を管理支配するために使われている政府機構すべてを指している。オーストラリアの場合には、連邦と各州の政府、地方議会、そして諸々の半民半官の行政局を意味している。
国家は、政府財政や「我々自身の福利」のための法令を通じて、私達の生活の益々多くの部分を支配する様になってきている。組合官僚、民生委員、コミュニティ・アーティスト(小地域専属の技芸者?)、法的救助のための弁護士等々は、国家の管理支配機構の一部となりつつある。
国家はその支配階級の利益に基づいて社会を統治する。支配階級とは、ボス、地主、大企業、ビジネスマンの全てであり、彼らは自身の現在の利益に飽き足らず、より大きな権力、財産等を求めて、私達を搾取する。
最も広い意味では、国家とは、私達が自分で何をすべきで、いかに生きるべきかを他者から教えてもらう必要があるという思想や信念、言い換えれば、権威と位階制が必要不可欠であるという思想や信念の集合体である(即ち、「心理の国家」)。
この小冊子の中で、誤りを発見した時には、その誤りは、わざとそうしてあるのだと思って下さい。私達が皆のために何かを出版しようとする時、いつも間違い探しに夢中になる人達もいるものです。
何故88年を祝うのか?
1988年の二百年祭は、広大で「無人だった」国を、開け放ち、そして征服した勇敢で気高い「人々」が居住するようになった「植民地時代」をめぐって展開せざるを得ない。マス・メディアは、常に私達に、有徳で勤勉で率直な白人のオーストラリア人達について語り、ついでながら現在は、その人々が後からやってきた非サクソン系の移民達と神話のように調和し協力し合っていると、まるで爆撃のように宣伝しまわっている。二百年祭のテーマは「共に生きること」と、「(オーストラリアを)偉大にしよう」である。
1987年の間に、こうした雰囲気に代わるとらえ方が浸透し始めた。ジョン・ピルガーが、「秘密の国」という彼のドキュメンタリーの中で、オーストラリアの歴史を断罪する見解を発表した。この頃になってようやく、私達の多くが、東部の州で「いかに西部は敗北したか」という映画が上映されている時に、西部オーストラリアでの羊毛生産の成功の背景にある真実に気づくようになった。二百年祭の前夜、国家にとって一番困っていた事は、長い間必要とされてきた、拘禁中のアボリジニー達の死亡に関する調査委員会の事だった。そうした死亡は決して目新しいものではなかったが抗議の声が高まりつつあった。
私達はこの二百年祭の性格や、それが無視している歴史、そしてそれが取り上げようとしない社会問題に関心を持っている。
このパンフレットは、これらオーストラリア史の語られざる部分を明らかにしようという試みである。ここには、史上試みられた人種絶滅、アパルトヘイト(人種隔離)、そして今も存在する一般的な人種的偏見が述べられている。
私達は総合史家の語る歴史の中できまって欠落させられていた、オ−ストラリアの労働者達の闘争のいくつかの特徴について語る。特に、国家によって例外なく弾圧された、国際主義の運動と、その他の既成労組に属さない運動について、これは、主流派労組が企図している「労働者の出世物語」に対する直接のアンチテーゼ(反立)である。
祝賀しているどころか、私達は将来の「国家からの弾圧」に対して固く団結しなければならない。既に、私達が獲得した小さな自由の全てが取り去られようとしている。私達は、改定された身分証明制度(新しい納税番号)や、公共福祉の削減(医療、18歳以下の 業手当、保育基金等)に屈伏しようとしている。金持ち共は株式市場を過大評価することによって、経済をパンクするまで膨らませ、経済が崩壊したら今度は、労働賃金の全国的な上昇を政府に拒否させることによって、労働者にそのつけを回す。実際、今ではほとんどの人が、これ以上ベルトを締めようにも残りの穴も無いくらいだ。
このパンフレットの最後の章では、資本主義社会にとっての「ナショナリズム」の重要性、その結果もたらされた諸々の出来事、そして現在、我々が見ている国際的な関心の意味と重要性についてふれている。我々が今ここでこういうことをするのは、二百年祭がナショナリストの祭典だからである。即ち、この大陸に住む人々すべてにこのイデオロギーを押し付けようとする試みとしての「民族の祭典」。ナショナリズムは、世界の労働者達に何の良いことももたらさない。
1788年1月26日、8隻の航海中の船が、オーストラリア東海岸のとある湾に入り、上陸後、この大陸全体を大英帝国のものであると宣言した。
1988年に一体何を祝うのか。それはこの大陸への定住ではありえない。考古学上の証拠から明らかなように、オーストラリアのアボリジニー達は少なくとも4万年前ないし5万年前からここに住んでおり、また、いくつかの最近の研究によれば、誕生期の人類の一分枝がこの大陸で発展した。二百年祭の祝うものは、この大陸の「発見」でもありえない。アボリジニー達の祖先のうちのある部分は、北の方から来たようである。又、ニューギニアその他の太平洋地域からメラネシアの人々が、そして、インドネシア諸島から貿易商人達が、1788年に先立つ長い間、この国の北部を訪れていた。1788年は、この大陸、ヨーロッパ人による最初の「発見」ですらない。それ以前、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人の貿易商人や探検家達がみんな既にここに来ていた。そればかりか、1988年は民族国家の設立から二百年でもない。大英帝国皇帝の下の、dominion(ドミニオン:自治領)と呼ばれる、6つの自治的植民地の連合からオーストラリアが国家(訳註1)となったのは、1901年1月1日のことである。実際、この件の五十年祭は1951年に催されている。どうして、その37年後にオーストラリアは二百年祭を祝うのか。ところで、ウェストミンスターの大英帝国議会の出した法によって認められた、植民地を前身とする政治的連合体は、今回の祭典の中身に入っていないし、又、アメリカ合衆国で二百年祭の祝われた、イギリスの植民地支配を覆したアメリカ革命のような、国の神話(訳註1)の中にも入っていない。
今祝われようとしているのは、植民地時代のオーストラリアの国の神話(訳註1)であり、新しい「広大な」国を「開け放ち」「定住した」、勇敢な探検家達や逞しい先駆者達の神話である。しかし、1988年が実際に意味しているのは、侵略の開始である。オーストラリア・アボリジニー達のほぼ全面的に近い人種絶滅を開始した侵略である。1788年 1月26日、ニュー・サウス・ウェ−ルズのボタニー湾に、残虐な刑務所植民地が建設されて侵略が始まった。
白人のオーストラリアには黒人の歴史がある
1788年以前、オーストラリアには家族、氏族、部族の集団構成を持った、アボリジニー達が大陸の全てとタスマニア島に広がって住んでいた。500近くの言語集団が存在していた。集団内の、あるいは集団と集団との関係は、「 Dreamtime(ドリームタイム:夢の時代)」に基づく伝承的知識と法の複合体系によって定められていた。
この「ドリームタイム」は、一連の創造神話であるが、部族組織、社会的義務、行状、土地との関係の基本を定め、過去、現在、未来の繋がりについて述べている。
集団の決定は、年長者達(普通、男性)と幾人かの女性達とによる協議でなされた。この女性達とは、自分達の独自の社会的、又は儀礼的な活動の他、集団全体の社会的、文化的、経済的営為に加わっている人々であった。
アボリジニーの生活と文化は、大陸全体をとってみると、場所によってずいぶん違いがあった。オーストラリア南東部の沿岸部では、いくつかのアボリジニー部族は、かなり人口の密集した地域で、半永久的な石造りの小屋に住み、頭から足までの毛皮の服を着、種子を持つ幾種類かの草を栽培していた。中央部の砂漠地帯では、もっと小さな集団が広く分布し、カンガルーや、その他の有袋類や、トカゲを狩り、野草や根っこや土中の幼虫等を採集し、基本的な道具類を持っただけで水を求めて絶えず移動していた。自然要因や、彼らにとっての文化的な反応の結果として、アボリジニーの人口は比較的小さいまま保たれた。推計によれば、1788年には30万人から300万人の間であった。
広大な地域に分散していたにもかかわらず、アボリジニーの諸部族は、その内部のみならず部族同士の複雑で広範囲な諸々の関係を有していた。「Dreaming(ドリーミング)」のいろいろの部分を組み合わせた繰り返し歌がそれぞれ異なった地域と結び付いていて、大陸の正反対の所まで広がっていた。様々な出来事の情報は短期間に何百マイルも離れた所に届いた。いろいろな品物(そのほとんどが象徴的な性質のものであった)が、広範な地域にわたって取引され、時折、大人数のアボリジニーが一同に集まって、儀礼的な共同体の集会を催した(corrobor:コロボリー「確証」と呼ばれる)。食糧は伝統的にアボリジニー社会の集団の全構成員に分配され、「富」の「私的」貯蓄を誰かが望むということは無かった。「労働」は必要に応じて、あるいは必要に備えて、実行されるだけであったし、その残りの時間は、集落の生活と文化に費やされた。
アボリジニーの土地との関係は、重要でしかも複雑なものである。耕作、狩猟、採集、それに火の使用による環境の広範囲な変更を通じて、土地は、アボリジニー社会の基礎をなす。実際、特定の草木を増やすための火の使用、そしてこれに並行する、ワラビーやカンガルーなどの動物の放牧は、非常に広範囲に行われたものであり、オーストラリアの生態系はたった一人の人間による人工物ではないかという議論がされているほどである!土地は又、アボリジニーの社会組織の基礎をも提供している。いくつかの特定の氏族が、特定の区域の使用と世話の、諸権利それに特定の諸義務を持っている。よくあることだが、狩猟と採集の権利は部族集団の中の誰もが例外なく持っていても、聖なる区域についての権利と責任、そしてある特定の場所と関連する「Dreaming :ドリーミング」の物語は、ある特定の氏族の管轄に置かれ、その氏族の構成員によって口頭で代々継承されていく。このようにして、アボリジニーの経済、法律、社会組織、文化、精神すなわち彼らの生活全体の基礎を土地が提供していた。
侵略と人種絶滅の殺戮
オーストラリアへの白人侵略者達の到来は、史上最も大規模な人種絶滅の殺戮の実例の開始を告げた。百年間のうちに、アボリジニー人口の80%(もっと大きい数字だと言う人さえいるが)もの人々が白人侵略者達に直接に殺されるか、あるいは、この侵略の結果として死亡した。彼らの死は至る所にあった。いくつかの事例では、土地、水等の使用をめぐる特定の衝突から起きた手当たり次第の殺人の故であり、又、白人の集団によるアボリジニーの大集団の大量虐殺の故であった。こうした殺戮は、アボリジニー狩りと呼ばれ、カンガルー狩りとほとんど同じ様な調子で行われた。これらの殺戮は公認のことがよくあったが、公認されていたかどうかに関わらず、白人はほとんど、アボリジニー殺害の故に裁判にかけられる事はなかった。信じられない様な残酷さについての報告は沢山ある。あるアボリジニーの集団の数少ない生き残りが伝えた事件では、何人ものアボリジニーの赤ん坊が首のところまで土に埋められ、それらの首はどれだけ遠くに飛ばせるか競争するために蹴り飛ばされた。同時に女性達は計画的に強姦され、そして膣を貫いて身体を串刺しにして殺された。最後に男性達は生殖器を切り落とされ、放置されて出血多量で死んだ。
病気が死亡のもう一つの大きな原因であった。アボリジニー達にはヨーロッパ人の病気に対する免疫が無かったからである。特に天然痘や諸々の性病が多大の犠牲者を生み、白人の入植地の境界を越えて急速に広まった。病気を原因とする死亡は、多くの場合、既に天然痘や腸チフスなどの病気にかかっているアボリジニーの集団に毛布が配られたことで一層増加した。
毒薬も又、アボリジニー達を殺すために計画的に用いられた。毒入りの小麦粉が配られたり、あるいはもっとよく使われた手口としては彼らが生きていくのに必要としていた水の井戸に毒が入れられた。再び言うが、全てのアボリジニーの集団がこのような手段で獣のように殺戮された。
新しくある地域を奪い取った(植民した)時には、白人達は水利のある最良の平地へ素早く移動した。その為アボリジニー達はどんどん、高所の乾燥し辺鄙な土地へと追いやられた。アボリジニー達が川や井戸に近付こうとして銃撃されることはよくあった。白人達は野性の動物も追い立てたり、殺したりし、それらの替わりに羊や家畜を連れてきた。多数のアボリジニーが数少ない水資源と食糧の周りに集まっていたので、水と食糧の供給に対する圧力が大きくなり過ぎた時には、無数の者が餓死した。
アボリジニーの女性達が強姦される事は頻繁にあったが、誘拐されて、検査官、羊飼い、垣根守り達の性的な、又個人的な奴隷にされることも多かった。又いくつかの場合では、アボリジニーの女性達は白人の男達をなだめようという試みから、周りに促されて自らの肉体を差し出した。自ら進んで白人の男達のもとへ行った女性達もいた。男性と違って、彼女達の性が女性であることから、白人達の社会や品物に近付く独自の道があったからだった。それが白人の女性達と同じ出発点に立っていたのではないことは言うまでもない。こうしたことは、全て、アボリジニー社会内部の、又白人達と黒人達の間の大きな緊張の源となったし、部族社会の崩壊を招き、報復の殺人の原因となった。アボリジニーの男性達は、アボリジニーの女性達への虐待に対して白人達を罰する事を望んだからである。
アボリジニー達の聖地は、ある時は無意識に、しかしそれ以上頻繁に意図的にその神聖さを冒涜された。儀礼上の営みは徹底的に打ち砕かれた。黒人達のいかなる大規模な集いも、植民者達の集落に対する潜在的脅威と見なされて、解散させられた。残虐な形で解散させられる事も稀では無かった。「ドリームタイム」伝説の、ある世代から次の世代への伝承は、諸々の部族集団の非常に多くの構成員が死亡したり離散したために、破壊されてしまった。自分達の伝統的な土地を強奪されたことの心理的、又社会的影響が、巨大な衝撃を与えて、道徳的頽廃が生まれ、又一方で、アルコール(これも彼らには初めてのものだった)によって事態が一層悪化する中で、数多くのアボリジニーの集団の部族的生活の解体が進行した。
アボリジニーのオーストラリア全体を乗っ取ろうとした事の経済上の動機は、当時イギリスで勢いのあった社会ダーウィニズムのイデオロギーによって補強されていた。社会ダーウィニズムによれば、人類に進化の位階があり、あらゆる階級と人種のうち、上流階級の西洋白人男性は生まれながらにして優越した存在なのであった。自分達よりも洗練されていない技術しか持たず、中央集権的政治構造や土地の固定した私的所有制をも持っていなかったアボリジニー達に遭遇した時、アボリジニー達はやがて死滅することが不可避な、原始的な「石器時代」の人間達であるとの見解が取られた。従って、アボリジニー達の殺害は殺人とはならず、優越した進んだ文化と劣等の死滅しつつある文化との衝突の不可避の結果とされた。このような態度はオーストラリアに、今日まで長い間にわたって残って来た。ほんの数年前に至るまで、ほとんどの学校の生徒は、アボリジニーは死滅しつつある人種であり、彼らが生き残れる道は、唯一、白人社会への同化なのだと教えられていた。1987年、イギリスのポーツマスでの二百年祭行事では(それが二百年祭行事であることを前もって知らされていずに)踊りを披露したアボリジニーの踊り手達は、式次第の中で「文明以前の」人々として書かれていた!最近、人類学、生態学的思想、そしてアボリジニー達自身による強力な発言が展開されるようになってやっと、アボリジニーの文明の到達点がかつてどのようであり、又現在どのようになっているかを幾人かの人々が認識するようになった。
こうしたイデオロギーは、又オーストラリアは「空白の土地」だから、白人達がアボリジニーと協定を結ぶ必要は一切無い、という見解の基礎を与えた。これはおそらく、ニュージーランド、アメリカ合衆国、カナダから学んで、オーストラリアの場合には大陸全体を手に入れることを決めたのだろう。又、強く広まっていたもう一つのイデオロギーは、アボリジニーの文化は優れた白人文化によって圧倒された、静止した文化であり、それ故、何ら抵抗はなされなかったというものであった。実際には、アボリジニーの対応は、侵略に対する非常に強力な抵抗を含めていろいろあった。アボリジニーの土地の使用を認めることの拒否、部族組織、そして、侵略へのゲリラ的抵抗が、土地に関する一切のアボリジニーの権利の拒否に基礎を与えている。この闘いを、彼らは二百年祭の今年、今なお続けている!
様々な対応と抵抗
当初、アボリジニー達は、以前の白人達との接触がいつもそうであったように、白人達が居座るだろうとは思わずに、彼らを受け入れた。事実、ボタニー湾に作られた最初の刑務所植民地は、すぐにポート・ジャクソンに移った。入植者達がそこにずっと居座るだろうことがやがて明らかになった時、アボリジニー達は親切と分与という、彼らの伝統的な対応をよく行った。こうした対応はほどなく不適切になった。植民者達が自分達の品物や動物をアボリジニー達に分け与える意志が全く無いばかりか、アボリジニー達自身の土地と水にアボリジニーが近付く事を拒否しようとやっきになっていることがはっきりしてきたからである。暴力、即ち、白人達による殴打、銃撃はすぐに紛争を引き起こし、報復合戦に発展した。最初のうちは、アボリジニー達は目には目を、という伝統的な価値観を適用して、特定の強姦、殺人、その他の暴行に対して、その特定の張本人である白人を攻撃したようである。間もなく、白人達がこの公正の原則に全くとらわれておらず、一頭の羊を盗んだだけでも、あるいは、一人に対する報復を行っただけでも、黒人達は集団的な攻撃を受ける事が明らかとなった。又、無差別の大量虐殺が行われた事を知るに及んで、戦術の変更が行われ、数多くの地域で、白人全てが敵として見なされる様になった。こうした発展が数多くの地域で起こった後、全面的なゲリラ戦争の段階に突入し、数百の、あるいは数千の入植者が生命を失った。アボリジニー達は自分たちが火器において劣勢なのをすぐに悟ったので、何週間もじっと待った末に、武装していない個人を捕えるとか、農場や入植地をその最も弱い時に襲うといった戦術をよくとるようになった。この抵抗はこの国ではほとんど認識されないままである。
多くのアボリジニーが白人達の便宜を図ってあげようとし続けた。しかし、ほとんどの場合、彼らが出会ったものはといえば、誤解と無視と人種差別であった。
「保護」と「同化」
1850年代までに、アボリジニーのオーストラリアのうち、沿岸地帯のほとんどが、侵略されており、公然と殺戮の行われることは無くなったが、アボリジニーの集団に対する襲撃事件は、クイーンズランドとノーザン・テリトリーで1930年代に至るまで報告されている。1900年までに大陸はほぼ全体が植民地にされ、遠隔地や島嶼部に住む僅か一握りのアボリジニー達が部族的な生活を送っているだけとなった。アボリジニーの大半は全国約250ヶ所の mission station(ミッション・ステーション:宣教師定住地)又は reserve(リザーブ:居留地)に集められた。互いに言葉の通じない集団も、あるいは互いに関係を持つことがタブーとなっている集団も一緒くたに放り込まれた。これらの国家と教会によるミッション(宣教師定住地)は、キリスト教道徳とキリスト教への教化を特徴としていた。強制的な家族の離散、英語の使用と白人の習慣の強制等を通して、部族の言語や習慣は破壊された。食糧、住居、医薬品の乏しさ。予防可能な疾病(結核、ハンセン氏病等)。財産管理に関する法的無資格。「保護」という公式の政策の下の、収賄と経済的、性的搾取。畜舎のような施設で、アボリジニー達は、賃金も与えられず、砂糖、小麦、紅茶、タバコの生産のために働いたが、強力であった労働組合運動からは何らの支援も無かった。宣教師定住地や居留地におけるこのような「アパルトヘイト」は南アフリカ共和国から調査団さえやって来たくらいだ−−自分達の所の黒人を処遇するためのアイデアを得ようとして!
「保護」と言う名の放置の50年ないし70年が過ぎて、1920年代には、公式の政策は、「同化」政策へと転換した。アボリジニーの家族は解体され、子供達は教育を受けさせるために公共機関へ連れていかれた。青年期のアボリジニーの女性達は数千マイルも離れた町へ連れて行かれて、黒人の召使い階級を創ろうという試みから、金持ちの白人家庭へ入れられた。それでも、この同化政策にもかかわらず、アボリジニーの教育、訓練、健康、栄養上の需要、あるいは、偏見や制度的人種差別への挑戦には、ごく少ない財源しか充てられ無かった。失業、アルコール依存症、そして予防可能なはずの病気が蔓延していた。
1946年5月1日、オーストラリア北西部のピルバラ地域の800人のアボリジニーの郵便労働者が、砂糖、小麦、紅茶、タバコだけの支払いに代えて、賃金支払いを要求してストライキを行った。多くのアボリジニーが、労働者として、羊小屋のような施設に戻って来る事もなく、30年も40年もの間、鉱山事業所の中で生き永らえていた。60年代の初め、ノーザン・テリトリーのワッティ・クリーク(イギリス人の中で最も金持ちの男、ヴェスティ卿の所有)のアボリジニー達が賃金を要求してストライキを行った。彼らは同時に自分達自身の土地の一部を返還するよう要求した。現代の土地所有権運動はここから開始されたのだった。
この頃から始まったアボリジニー達の闘争には、例えば1938年、白人による占領の150年祭の年の、シドニーでのアボリジニー権利集会という歴史的なものもあるが、これらは概して、白人の歴史学者や政策決定者達から無視され続けてきた。
1962年になってやっと、アボリジニーの牧夫が賃金を受ける権利を求めた闘争に勝利し、ようやく1968年には、アボリジニー達は人口調査の時に人口として数えられるようになり、又、選挙権も持つようになった。180年間、彼らは自分達の土地の市民でさえなかったのだった。その20年後の現在、彼らは侵略、強奪、物理的な、又、文化的な人種絶滅、そして、何年もの公式の放置と人種差別を「祝え」と言われているのだ!
オーストラリア:刑務所
白人のオーストラリアの建設は刑務所植民地から始まったが、植民地化の最初の50年間のうちに、東海岸沿いにいくつもの刑務所が作られた。イギリスの諸都市における階級制度がもたらした極度の貧困によって発生したいくつかの社会問題を追い払おうと、イギリスが考えたせいである。ちょっとした窃盗であろうと、もっと重大な犯罪と同様に、オーストラリア植民地への、片道切符の7年間の流罪という宣告を受ける可能性があった。アイルランドの貧しい小作農達がこの頃、自分達の国のイギリスによる植民地化に抵抗して闘っていたが、彼らも、イギリスの諸都市の貧しい者達に合流することになった。
オーストラリアにおいて創り出されたものは、史上最も残虐な体制のうちの一つだった。南アフリカやチリなどの、いくつかの現代の独裁体制と、規模においてはさておき、ひどさについては肩を並べるものであった。植民地の軍事支配者達は、服役者達の生命を完全に支配していた。大きな違反には絞首刑が普通で、小さな不服従や抵抗には、最高50回の「猫の九尾」鞭による鞭打ち刑が行われた。懲罰方法としては、他に、石造りの冷凍室のような独房にパンと水で長期間留置することもあった。
服役者達は採石、農作業、建設工事などで奴隷労働に使われた。数名で一組にされて、犂を引かせられたり、木製の鉄道の上を兵士達を乗せて引いて行かせられる事も度々だった。食糧の配給は乏しく、餓死、病死、過労死が少なくなかった。女性の服役者達は、看守達や自由入植者達に性的に奉仕するよう期待されており、彼らに割り当てられていて、彼女達が同意しないときには強姦がしょっちゅうであった。彼女達は自由入植者や看守と結婚することによって、即ち、隷属の一形態を他の形態と交換することによって、彼らの赦しを買い取ることができだ。
社会ダーウィニズム的態度や邪悪な刑罰制度の犠牲者であったにもかかわらず、或いはおそらくそうであったからこそ、受刑者達はアボリジニーへの残酷な襲撃に何度も加わった。
この刑罰体制への能動的反抗は苛烈に行われた。例えば、キャッスル・ヒルの反乱では200人もの受刑者達が殺された。道具を失くしたり、品質の悪い物をわざと作ったり、ゆっくりとしか働かなかったりするような、受動的反抗はもっと一般的だった。「お上に一撃食らわせる」という言い回しの源になったのがこうした事情だったが、こうしたことは、オーストラリアの労働者階級の搾取への抵抗の特徴的な形態として今日まで残っている。この刑罰体制はイギリスの自由主義者達や、オーストラリア内の、免罪符を得て解放された元受刑者達からの圧力があったほか、それ自体が非効率的であるという理由から解体された。二百年祭の公式行事の一つが現代の刑務所管理と将来の監獄制度の方向性を討論する、第一回国際矯正会議であるのは皮肉なことである!多分、刑務所監禁について強調するのだろう。
事実、1987年と1988年初頭に、オーストラリアの刑務所のいくつかは、暴動、火事、人質「危機」によって爆発した。ビクトリアのペントリッジ刑務所では、4人の服役者が超近代的な「K区域」(これは、非人間化させる電気動物園だ)の環境に抗議して、火事の中で死んだ。ニュー・サウス・ウェールズのパークレア刑務所とウエスタン・オーストラリアのフリーマントル刑務所では、暴動、火災、看守を人質に捕らえることが、受刑者達へのいじめが続いていることから起こっているようである。クイーンズランドのボッゴ通り刑務所では、明らかに88年二百周年万国博に抗議するアボリジニー達を脅迫しようというクイーンズランド州政府の企みとして、悪名高い地下房(「ブラックホール」と呼ばれている)が再開されたことに対して、暴動と火事が起こった。
一方、アボリジニーは、オーストラリア国内のすべての集団の中で、被投獄者の割合が最も高い。全国平均では13倍の高さで、サウス・オーストラリア州などのいくつかの州では20倍の高さである。
ボス共の歴史は労働者達の悲惨だ
大きなカラー・ポスターや、写真物語ではお目にかかれない、オーストラリア史の一枚の写真があるが、それは、横一列の警官と軍隊の隊列が「犬のように血まみれの労働者達」(原註1)に発砲している写真である。この言葉は、1890年代のニュー・サウス・ウェールズ州内閣の一閣僚であったブルース・スミスが語り、又、彼自身が率直に認めた言葉である。
その時の労働者達は、ストライキに入っていた、羊毛刈り込み労働者と港湾荷役労働者で、総勢1万人であった。彼らは、非組の労働者達が桟橋へ羊毛を運ぶのを阻止しようとした時、強制的に解散させられた。牧場主達は典型的な資本家的態度で、より低い賃金とより劣悪な労働条件に基づく雇用契約で非組のメンバーを雇い入れることによって、組織された労働者達を切り崩そうとした。彼らの狙いは、ウィリアム・レインによって次のように要約されている。「資本家達は、もし自分達が組合員達に非組合員や非組の物品とうまくやっていくよう強要出来るなら、常に組合員達を静かに、しかし、効果的に迫害することができ、組合否定へと十分に脅しをかけて導くことが出来、そして、たとえ組合が生き延びていたとしても実践的には機能しない状態に追い込むことができる、ということを熟知していた。」(原註2)
1890年代以前に、労働力の不足と経済成長のおかげで、多くのオーストラリアの労働者達は、8時間労働制とか最低賃金等、いくつかの譲歩を雇い主から獲得するのに成功していた。1890年代の経済不況は労働力の供給過剰を生み出し、資本主義はその真の色彩を見せ、既得の労働条件をすべて丸裸にしようという試みがなされた。不幸にも、この状況を受けて結成された労働党は、労働者の戦闘性に一層歯止めをかける方向に働き、直接行動は、労働者の代表を国会に送ることが経済的平等を獲得する道であるという無益な信念に流しこまれてしまった。労働者達は、裁判による仲裁の方が、「ゼネラル・ストライキ」よりも有効であると信じこむように言いくるめられた。裁判による仲裁の判定は、現在も見ての通りであるように、労働者に与することはきわめて稀である。
ここから、労働者の歴史と労働党の歴史が分岐する。労働党の歴史は、憲法上の変化、改良に関するものであり、それらは歩みが遅く、しかも、ほとんど経済的公正を達成することはない。悲しいことに、オーストラリアで労働者階級の歴史の大部分をなしているのは、こちらの方なのだ。労働者の側の戦闘性は、昔も今も、たいていその目標を達成できずに散発的に終わる。これは、雇用者の側がうまく労働者の側を分断しておくことに成功しているからである。労働者達は未だに、レーニンが「中央政府を強化することに従事する民族ブルジョア政党」と述べたような政党に忠誠を誓っている。
1928年から1930年の間、ボス達はスト破りの労働者達(最近の移入者であることが多かった)を使い、そして、スト中の港湾労働者達に対抗させた。再び、労働者達は発砲を受け一人が死亡した。炭鉱労働者達は、警官の警棒による襲撃で重傷を負った。港湾労働者達、炭鉱夫達、そして、木材労働者達は皆、それまでより長い時間、少ない給料と低下した労働条件の下で働くことで、不景気の矢面に立たねばならないのだと告げられた。1980年代にも労働者達は同じ話を聞かされている。雇用主達は労働組合をどんどん切り崩そうとしている。例えば、1986年には、ヴィクトリア州のケイン労働党政府は、最も戦闘的な建設労働者の組合である建設労働者連盟を解体しようとして警察を用いた。雇用主達の目論見は現在まで基本的に成功しているので、その産業における多くの労働条件、特に安全性に関わる条件が浸食されてきている。
「新右翼」は労働者達をもっと効率よく搾取できるようにするため、労働組合を全て破壊するため全力をあげていくと叫んでいる。
「労働者の」歴史の対極としての労働党の歴史は、安全な歴史である。これは何故かというと、議会による改良を通じて得られて、私達の誇りや喜びとして示されるような漸進的な獲得物は、国家が描き出したいと望む、社会の理性的な秩序づけに合致するような、労働者の諸闘争の非暴力的側面しか反映していないからである。労働者達による戦闘的な抵抗をうまく抑えつけるために使用されてきた国家の残虐行為は、その国家の人民「全て」の生活の向上・改善に専念する、父親のような恩人としての現在のイメージの一部としては、十分にとらえられていない。
直接行動を通じて経済的平等を得ようとして、オーストラリア人が行った真面目な試みはどれも、その試みを民話的英雄という無害な役者像に当てはめる事によって初めて、受け容れ可能なものとされてきた。飢えた浮浪者は、愉快な人物として誤って描かれている。彼は、正当にも、何かを食べようとして、地主とその番犬共につまみだされた時に自分自身の体に食いついた、というふうに。爆弾を投げた労働者達は、彼らのかかえていた状況が絶望的だったことの認識を拒絶され、精神病のアナキストあるいは共産主義者として単純に分類されている。
労働者の歴史や、経済的平等の獲得の失敗が、二百年祭の特徴とはされないだろう。この国は、その労働組合の伝統をあまりに誇りすぎている。労働組合は昔ながらに国家から今も大目に見られているが、それは、それらが本性からして改良主義的であり、時には資本主義的となるからであり、又最も重要な理由としては、それらが、労働者達を職業によって分断されたままに放置しているからである。国家にとって真の脅威は、すべての労働者が自分達の共通の目標と権利を認識し、それらを獲得するために一緒に闘うような、単一の大きな労働者組合(訳註2)の結成にある。革命的組合主義の構想は、この単一大組合の概念を具体化したもので、人種や性による分断を受け容れることを拒否するものである。1890年代のメルボルンの失業労働者組合は、男性と同一線上に女性を組織した最初の組合であった。
「多くの労働組合が有色人種の労働者に加入を認めなかった時(例えば、鉱山労組)、1908年、オーストラリアに初めて創設された世界産業労働者組合(IWW=Industial Workers of the World)は、そうはしなかった。IWWは国際主義的な運動で、第一次世界大戦の末期には、オーストラリアの労働者階級が、かつて経験したうちで最も強力で重要な革命的運動となった。」(原註3)
IWWのスローガンは、「単一大組合」と「世界の労働者よ団結せよ」であった。IWWは、資本主義のための戦争に疲弊し、労働組合の無効さを自覚しつつあった労働者達を惹きつけた。1916年には、政府の転覆を擁護する人物による結社を禁止する法律が作られた。この法律は、当時の全国労働党政権のヒューズ首相が、IWWの影響力に対抗しようという意図で作ったものであった。1916年、12名のIWWメンバーが逮捕され、後に、放火罪で有罪とされて、投獄されたが、このオーストラリア史上最大の政治的フレーム・アップ事件の中で、彼らのうちのほとんどは、後に無罪が認められて釈放された。
国際的な組合主義は、昔もそうであったが現在もなお、支配階級にとって真の脅威である。労働党は、協調して、労働者を直接対峙の外に置くよう、又、遅くて最小限の改良を受け容れるよう務めを果たした。1975年から1985年までの女性の10年間で、女性達は総計で1%の雇用の伸びに甘んじるしかなかった。
もしも、オーストラリア人達が、何故、労働組合主義が、経済的平等を創造しようという試みにおいて、過去に失敗し、現在も失敗しているのかについて、もっと良く理解したならば、又、もしもオーストラリア人達が、社会的組織化のためのもっと有効な選択肢(オールターナティブ)に関する思想にもっと簡単に近付く方法を持ち合わせるならば、彼らは、全国的な協調組合国家主義(訳註3)に反対して、もっと固い決意で組織化を始めるかもしれない。「巨大企業」が裏にいる現在の政府が、人々を戸惑わせるような写真やポスターや歴史を展示したいと思うはずがない。
人種主義の祝典?
オーストラリアの人種主義的な態度は、この国の経済発展の発端から続いてきた。この態度は、その富を世界中の他の労働者達と分かち合わねばならなかった資本主義社会の恐怖を反映している。1900年代には、社会ダーウィニズムの概念は、現存の人種的敵意と合体することに成功しており、「白人のオーストラリア」政策の提唱者達によって用いられていた。アジアやポリネシアの文化は、明らかに劣等のものと表現され、有色人種の移入は、人種主義の政治家が言うには、オーストラリアにおける白人の、イギリス文明を劣悪化させるものであった。
アボリジニーの土地の搾取は、これまで常にオーストラリア経済の基礎をなしてきたし、この「幸運の国」の労働者達やボス共の相対的な繁栄は、一面では、この始源的な窃盗に基づいてきた。
18世紀においてだけでなく、イギリス人の官吏は、アボリジニー達を奴隷として働かせようとした。アボリジニー達は、彼らが怠け者だと嘆いたが、特に、アボリジニー達が彼らの横暴にさんざんひどい目にあった後、まだ逃げ失せることもできるような時にはそう言った。他のアボリジニー達には、その土地で働くことを押し付けられた者もいたし、又、多くの者が入植者達に騙された。アボリジニー達が、オーストラリア経済の屋台骨である、羊の大牧場で働く奴隷労働力として使われたことは疑い無い。
1946年に、わずかの賃金あるいは無賃金で、ウェスタン・オーストラリアのピルバラ地区の牧場で労働させられていたアボリジニー達がストライキに入った。そのときのアボリジニー達の多くは、今日も尚、自分達はストライキを続けていると考えている。
アボリジニーの女性達も、絶えざる性的な襲撃を蒙った。入植者の家の囚人になっていることも度々だった。
安価な有色人種の労働力が1840年代に、それまでの服役者達の供給を失ったニュー・サウス・ウェールズの牧場主達によって用いられた。政府もノーザン・テリトリーの鉱山で中国人達を使ったが、彼らには、ヨーロッパ人が受け取る12分の1しか支払われなかった。ヴィクトリアやニュー・サウス・ウェールズの南部金鉱地帯で探査をしていた中国人達は、地表の金鉱が無くなり始めた頃までは大目に見てもらえたが、その後は、白人の入植者達と直接に競争せねばならない羽目に陥った。この間に、全てのアジア人は、鉱山業者保護連盟への加入を禁じられてしまった。1890年代から、太平洋の島々の住民が、砂糖きびプランテーションでの労働のために、クイーンズランドへ引きずりこまれてきた。彼らの運命は重労働の手作業の毎日となったが、過酷な労働条件の下で、わずかな賃金が支払われただけだった。砂糖きび農場主達が白人労働力を使っていたとしたら、より高い賃金を支払わねばならなかっただろうし、利益もより少なくなってしまっていただろう。
白人労働者達は、自分達自身の僅かばかりの特権や権利を「有色人種の(カラード)」労働力が脅かしていると信じきっていた。中国人達が羊毛刈り込み労働者達のストライキを支援して彼らにカンパ金を送った時でさえ、羊毛刈り込み労働者達は連帯の表明を全くしなかった。一方で、ブルジョア商人達は、アジア人貿易商と競争せねばならない状態だった。
これら2つの集団はどちらも有色人種の移入に反対して大衆動員をかけ、国民党の「白人のオーストラリア」政策を煽った。有色人種の移入に対する労働者階級の態度は、ブリスベーン・ワーカー紙(原註4)等の諸紙に反映されている。ブリスベーン・ワーカー紙は、貧困やストライキを「有色人種の呪い」のせいにした。1920年、国民党政府は、非ヨーロッパ人の移入を阻む一連の法案を成立させた。クイーンズランドにいた太平洋の諸島から連れて来られた人々は、多くが強制的に元の島へ帰された。
第一次世界大戦の間に、反徴兵制運動は、悲しいことに、その支持の大きな割合が人種主義宣伝を通じて得られている有り様だった。労働者達が資本家の戦争の中で秣として使われていることに焦点を当てずに、この運動の提唱者の多くは、オーストラリアの男達がヨーロッパに出掛けてしまえば、「黄色人種の侵入」があると恐怖を煽り立てたのだった。
当時の労働者達が非白人の移入から被害を蒙っていたに違いない、その唯一の理由は、現在のその被害の理由と同じである。即ち、雇用主による、安価な労働力のなりふりかまわぬ使用である。移入者の多くが、その出身国で、白人の侵略又は搾取(両方のこともある)を蒙っていた。ヨーロッパからの移入者達は、帝国主義あるいは肥大する資本主義の搾取の結果である、宗教的、経済的、政治的抑圧から逃れてきていた。彼らはこの地にやって来た時、何度も自分達が労働者の戦闘性を破壊するために使われていることを自覚せねばならなかった。彼らは労働力の供給過剰を生み出し、雇用者達に、更に低い賃金と労働条件を許すことになった。(1930年代には、彼らは、時々、スト破りの労働力として用いられた。)
1950年代と1960年代には、移入者達は、資本主義の膨張の基盤を提供する全国的な産業立地(インフラストラクチャー)の建設のための、制御・管理された労働力となった。第二次世界大戦直後、移入者達は、私企業、公営企業を問わず、送られた先ならどこでも、3年間の間、働かなければならないとされた。多くの者が、スノーウィ・マウンテンズ(「雪に覆われた山々」)の水力発電計画のような大規模な事業で働いた。彼らは危険で凄まじい条件の下で働いた。移入者達の住宅、冷蔵庫、テレビ、車などの消費物の需要が、1960年代の消費者景気の基礎を作った。
今日でさえも、新しい移入者は、高度な熟練職や専門職につくための資格を与えられることなく、あれやこれやの低賃金のきつい仕事にまわされる。彼らは、既に「オーストラリア人」として身分の安定した労働者達がもはや、やろうとしない仕事をやる。又、現在、たくさんのオーストラリアの製造業が海外で行われるようになっている。こうした方が利潤が大きいからである。そこで、オーストラリアの労働者達はこんな風に言い聞かされている。「アジア人達が失業の原因だ」と。それから又、矛盾した物言いなのだが、「もし、労働者が賃金や労働条件を下げないと、製造業はこれからもどんどんフィリピン、タイ、韓国などの近隣諸国に持ち去られてしまうぞ」と。
ほとんどのオーストラリア人は、安く生産される商品や女性を買うことによって、近隣諸国の仲間の労働者達を搾取して喜んでいるが、それでも、彼らのことをひっくるめて「黄禍(yellow peril)」と呼んでいる。彼らに対してこのような仕打ちをし続けることによって、オーストラリア人労働者達は、経済的平等のための闘いの中で労働者階級を分断されたままにしておくことで自分達が自身の喉を切ろうとしている(首をしめようとしている)事を、立ち止まって振り返ってみようとは、めったに考えない。
二百年祭当局は、複数文化主義を、一つの大きなテーマとして推進している。最も重要なものとして企画されている行事が、アングロ・サクソンの侵略を含むものである時、これは茶番でしかない。この複数文化主義の推進は、自分達が人種的に分断された社会に生きていることを、オーストラリア人達が、無視するのを助ける目隠し以外の何物でもない。
今日お祝いだって?
今日の社会・経済の現状をよく眺めて見れば、祝う事など何も無いことが分かろうというものだ。働く者としての我々の生活水準は、ここ数年間のうちに急激に低下したが、他方で利潤は久し振りにかつてない水準まで高まっている。ボス共にとって、労働力の「コスト」は、6年間で 8.8%低下したが、その大半は、我々の賃金の下落である。失業率の公式統計は約8%であるが、この事態は、完全雇用として広められている。我々のオーストラリア政府の回答では、失業状態の責任を失業者達に負いかぶせている。
このようにして、18歳以下の者への失業保険給付は、雀の涙の職探し費用に切り詰められてしまった。「自己都合で」退職する人々は、今や、13週間も失業保険給付を待たねばならないが、これは、産業上の徴兵制の導入であり、人々に給料も乏しく不愉快な仕事にずっととどまるよう強制するものである。何百人もの人々が社会安全課(略称・SS)の特別機動隊の魔女狩りによって、失業保険を待つ列から放り出されている。
このように、失業が拡大する一方で、女性達が労働力に参入し始めたことが民間企業や国家の重荷と表現されている。女性達が男性の3分の2の賃金しか得ておらず、又たくさんの女性達が自分自身と家族を養っていくために雇用を必要としているにもかかわらず、育児サービスの供給は削減されてしまった(戦時下には、育児センターが女性達を工場へ送り込むために作られたというのに!)
政治家達が繰り返し言うことには、事態が改善されるためには、その前に一度悪化しないといけないそうである。こんな事を私達は祝おうとしているのか。
全般的に、オーストラリアでは、生活の商業化(コマーシャリゼイション)が進行している。米国その他の諸外国による産業の所有と経済への影響は、彼らに巨大な利潤を保証し、普通の人々にはますます、選択と事態掌握の余地が失われつつある。出版メディアの所有権の集中が意味しているものは、私達の文字化されたニュースや情報のほとんどが、大きな2つと小さな1つの出版業帝国に握られているということである。私達はボスどもの経済的利害に自分自身を一致させるよう、熱心に説得されている。1987年(又、1929年、1890年代等)の株式市場の崩壊が示した、世界の財政、即ち資本主義体制の内在的な不安定性も、私達がベルトを更にきつく締めて最低賃金の上昇も、まだまだ待たねばならないのだと教えこまれることを意味するに過ぎない。福祉設備や公共サービスの全分野が削減されつつある。医療、無料の薬品、公共輸送サービス、図書館等等である。片や、未曾有の数の百万長者がオーストラリアに生まれている。
オーストラリアの生態系は全面的にひどい脅威にさらされている。独特な熱帯雨林が、木材チップ産業の需要によって消滅しつつある。オーストラリアは、他のどの大陸よりも速いスピードで森林を失ってきた。200年間に80%である!保守的な全国農場主連盟は、最近、過去200年間にわたる広汎な耕作の中でなされてきた損傷などは全て、大地が取り返すことは出来ないだろうと警告した。大地のこの濫用(牧畜の過剰、肥料など)や辺境地域への絶えざる膨張が、オーストラリアの経済の大黒柱だったのだ!
オーストラリアは西側同盟に強固にふみとどまっている。少なくとも4つの米豪「合同の」地上通信局が、核の第一撃の目標である。オーストラリアの諸都市は米軍の核装備原子力艦船の寄港地の役割をいつも果たしている。そして、又、ヨーロッパにおける中距離核兵器(INF)協定の結果、アジアと太平洋に海軍基地を含めた大規模な核戦力体制を求める圧力がかけらている有り様だ!核戦争の際には、米軍の軍港、通信設備、後背の産業をたたくために、オーストラリアの諸々の都市も攻撃目標とされよう。
事態が悪化するに従って、これからも一層多くの人々が抵抗の戦いを余儀なくされるだろう。しかし、現在抵抗している人々を見てみるなら、その戦いは、数多くの反対にぶつからざるを得ない戦いだという事がわかるだろう。建設労働者連盟は、その戦闘性故に、組合としての登録を抹消され、組合基金をヴィクトリア州警察の襲撃の過程で没収されてしまった。建設労働者連盟の多くのメンバーが、今、ブラックリストに載せられ、建設業で働くことを禁止されている。クイーンズランドでは、ピケ張り、示威行動、デモ行進等の、労使紛争における行動を非合法としている。警察がピケ張りや追い立ての局面にどんどんつかわ使われるようになっている。
オーストラリア・カード(一種のID・身分登録証)が、徴兵法制化の失敗と反対運動の盛り上がりのために実現しなかったかわりに、「改良型税金登録番号」という形で、独特の、普遍的な身分登録番号制度が導入される危険性がまだ存在している。私達のうち、IDカードや国民総背番号制が既に存在している国々に住んだことのある人達は、その狙いが詐欺行為を防ぐことではなく、人々を管理・掌握し、私達を一列に並んで立たせることであるのをよく知っている。
私達のうちの、それ以外の人々にとって経済状況が悪化し、生態系が解体され、オーストラリアが米軍の戦争体系に組み込まれ続け、不公正が存在し続けるのと同時に、警察国家がこの国でのさばるようになるだろう。
既に、いろいろな州で労働党政府は、麻薬、自動車事故、「非常識な」暴力に対するキャンペーンを口実に、電話盗聴、逮捕・取り調べ、銃器の個人所有、等々の分野で警察の権限を拡大してきた。麻薬や速い車や無差別の暴力の需要を作り出すのは、一体どんな社会なのかを、1988年には誰も尋ねようとしない。こうしたことすべてをやらかしたのは、各州や連邦の労働党政府だと知って驚いた人もいた。しかし、連邦警察を創設したのは、第一次世界大戦の間の労働党・国民党連立のヒューズ政権だっだ。反徴兵制の示威行動にいたIWWのあるメンバーから卵をぶつけられた仕返しにそうしたのだった!そして、オーストラリアの秘密政治警察である、オーストラリア安全諜報機関を創設したのは労働党だった。
この発展しつつある警察国家は、生成しつつある協調組合国家(訳註3)という労働党の展望によく適っている。それはどのようなものかというと、私達の最善の利益のために、政治家、高級官僚、大企業幹部、大労組ボスの統合された指導部によって、私達の生活が支配されるという国家である。例えば、オーストラリア労働組合連盟(ACTU)は、無数の三者評議会(政府、ボス共、諸労組)に委員を送っており、そのオーストラリア再建構想は、たった20だけの大組合の存在を主張しており、賃上げ分の支払いを遅滞して資本主義的な投資にまわそう、などというものである。
国民統合を強調した二百年祭は、アボリジニーからの強奪、人種主義、働く人々の諸闘争の歴史を書き替えることによって、階級、人種、民俗的差異をごまかし続ける一方で、先程述べた方向での発展を受け入れ可能なものとする上で重要な役割を果たすよう企図されている。
我々は白人の世界をいきのびてきた
アボリジニーの人々にとっては、たとえ1968年以来オーストラリアの市民になっているといっても、祝うべきことは更にずっと少ない。二百年祭というものが、彼らの土地を取り上げ、又、そうするために彼らを殺したことの祝いだという事実を別にしても、アボリジニーの人々の現状には、未だ、取り上げられねばならない点が多い。これを最もよく示しているのがアボリジニーの人々の健康状態である。ニュー・サウス・ウェールズのアボリジニー達の寿命期待値は、アボリジニー以外の人より20歳短い。彼らの集落では幼児死亡率は3倍の高さである。失明を招く眼病のトラホーム、耳の病気、そして梅毒などの病気は、アボリジニー以外の集落よりもアボリジニーの集落の方がずっと多い。彼らのハンセン氏病の罹病率は世界最高である。
予防可能かつ治療可能な病気で死ぬたくさんのアボリジニー達の他に、又、多くのアボリジニーが警察による拘置のうちに死んでいる。1983年以来、少なくとも98人のアボリジニーが警察または刑務所の房で死亡した。これらの死亡事件のうち多くは、きわめて疑いの濃い状況の中で発生したが、残りの件については、明らかに警察や刑務所の看守による殺害である。
拘置中の黒人の死亡事件に関する王立委員会の調査が始まった。アボリジニーの人々は、これがまた新たなホワイト・ウォッシュ(白人化攻撃)とならないことを希望している。
不健康によるものや拘置中のものなど、これらのアボリジニー達の死亡の主要な原因は、貧困であり、転地であり、体制化された不公正であり、人種主義である。
そうした様々の不平等にめげず、アボリジニーの人々は、土地の権利、自主決定権、そして自主運営の旗の下、抵抗を続けている。
土地権問題に関わっているいろいろなグループの目標は、きわめて様々である。先祖代々の土地で生活している伝統的なアボリジニー達にとっては、「土地の権利」とは、宗教的そして経済的目的、両方のために、彼らの「諸々の国」を使用し管理しようという主張を意味する。居留地に生活するアボリジニー達にとっては、「土地の権利」とは、彼らがかなりの期間住み慣れてきた居留地区を所有するという主張を意味する。都市に住むアボリジニー達にとっては、「土地の権利」とは、過去における彼らの土地の奪取と白人オーストラリア人による弾圧に対する経済的補償、又は賠償の要求を意味する。1983年以来、アボリジニー達は50万平方キロメートル以上の土地の所有権を持つようになったが、この土地の大部分が砂漠ないし半砂漠であることを留意しておくべきである。実際に、土地の権利の取得に成功したのは、アボリジニーのうちのごく少数でしかなく、もちろん、彼らの側の条件に基づいてではなく、連邦政府の条件にもとづいてである。
ところで、土地の自由保有権は、地下の鉱物に関する権利を含めたものではない。そして、多くの土地が、数年前には、値打ちの無いものとして見向きもされなかったのだが、ここにきて、試堀・採掘のための賃貸契約の下に置かれ、ウラン、鉄、ボーキサイトの巨大鉱山会社がその認可を受けている。何年もの剥奪の後にやっとごく最近になって、彼らが取り戻した神聖なアボリジニーの土地に無理やり入り込もうとする鉱山会社に対して、大規模な衝突が噴出している。
自主決定とは、彼らが、他のオーストラリアの居住者と異なった経済的、社会的、政治的、文化的背景に基づく一つの民族として、自分達の望む生活・居住の方法を自ら決定したいと望んでいることを意味する。その積極的な発展形態の一つが「基地を出よう」運動で、この場合には、アボリジニー達は町や貧民施設や基地、居住地を去って、小さな集団に分かれて、土地要求を通じて得た彼らの伝統的な土地や、またいくつかの例では、彼らが買い戻した(!)土地に立ち戻っている。ここで彼らは半ば伝統的な方法で生活することができる。つまり、子供達に藪の中での生活の知恵を教えたり、藪の中で取れる食物を食べたり、あるいは又、白人社会と、一定の距離を置きながら、もっと彼ら自身の条件に基づいて遣り取りするのである。例えば、何か店で買ってきた食料を食べ、アルコールを禁止し石油を遠ざけて(いくつかの居住地では、飲酒と石油嗅ぎ(訳註4)が問題になっている)、白人の教師や医療労働者、言語学者、人類学者を、彼らの条件で呼び入れるのである。
70年代後半から、アボリジニーの人々は、少し例を挙げるだけでも、自分達自身の健康、育児、メディア、法律などの組織を自発的に創ってきた。これら全ての自発性の基礎になっているのは、自分達のことは自分達でやりたいという熱望と、政府がこれまで多かれ少なかれ無視してきたような、彼らの集落に影響を及ぼす独自のいろいろな問題を解決したいという熱望である。国家は、これらの組織が国家の掌握から離れて多少の独立性を持つようになり、国家にとって脅威と映るような方向で築き上げられていくのを見て、アボリジニー達や彼らのやる作業を切り崩そうとした。これまでのその主な方法は、これらの諸組織にヒモつきの資金援助を与えておいて、それら諸組織への一定の管理・掌握を得ようというものである。
民族主義には何の団結もない
オーストラリアの二百年祭の諸々の催しは、オーストラリアの歴史と社会の様々な汚点を漂白してしまおうとする試みである。「共に生きる」というスローガンは、鉱山会社の要求に与して、アボリジニー達が必要としている事を、頑として認知しない政府の態度全てに照らし合わせるなら、茶番でしかない。私達の社会は、昔も今も、富、人種、性によって分断されている。植民地化の初期には、服役囚と官僚との間の、金持ちの占拠者と貧しい植民者との間の、白人と黒人との間の、白人と黄色人種との間の分断があった。今日、これらの同じ分断が今なお存在している。歴史全体が、ひっくるめて、浅薄な単一民族論的な、又は、歪曲された方法で扱われている。その際だった例の一つが、鉱夫、商人、軍人達の子孫がユーレカ柵(砦)の中で皆一緒に立っている、「エイジ(時代)」紙(新聞)の肖像画だった。「今や、我々は皆一緒だ」というのがその画の題だった。何と言う下らないことか!ユーレカ柵(砦)で起きた事はやがて警察の出動した暴動に発展し、この柵(砦)が占拠された2時間後も、まだ、騎馬警官が鉱夫や無実の見物人達に発砲していた事は、既に、証拠から明らかになっている。それは警察の過剰反応の事件であったが、今日でもなお、警察が階級戦争の前面に出てきた時や不法居住者の立ち退きやピケの現場で警察を目撃した時に、私達がよく見掛けるものである。私達はこれまで一度も、一緒に幸福に生活したことは無かったし、資本主義が存在する限り、これからも決してそうならないだろう。
民族主義は資本主義の道具の一つである。それは、民族国家への忠誠と服従を発展させることによって、偽りの団結の感覚を作り出す。しかし、この体制の下で何らかの形の団結があると考えるのは愚かである。資本主義は国際的であり、その結果としての抑圧も又国際的なのだから、民族主義は決して労働者階級に益することはない。支配者どもは、自分達の状況に対して、反逆を試みてきたある民族の労働者達を抑圧するために、他の民族の労働者達を犠牲にしようとするものだ。最近の例で言えば、ベトナムがそうである。イギリス、アメリカ合衆国、オーストラリアの何千、何万の労働者達が、ベトナムの仲間の労働者達を殺し、又、一方で自分達の民族のために死んだという栄光を得るよう強いられた。事実、彼らの民族が危機に瀕していたのでは無くて、資本家の利潤がそうだったのであり、まず第一に、この地域(カンボジア、ラオス、ベトナム)をあれほど不安定にしたのは資本家の搾取だったのである。
オーストラリアの労働者達は、資本家が海外の諸民族と、もっと楽に(即ち、もっと利潤多く)競争出来るように、自分達自身の労働条件や賃金を下げるようにせよと言われ続けている。私達が今、取り組まねばならないのは、労働者達の労働条件を引き上げ、私達皆の立場を強めるために、全ての労働者との国際的な連帯を示すことである。既に、オーストラリアでの賃金は、日本の労働者達に支払われている賃金よりも低く、又、アルゼンチンの年間国民総所得はオーストラリアのそれと同じくらいである。「幸運の国」なんてれもうごめんだ!
もしも、私達が、これまで骨折って勝ち取ってきた労働条件をこれ以上失うなら、私達の暮らしぶりは、私達の「第三世界」の親類(仲間)達と変わらなくなるだろう。実際、私達は、その(労働組合組織を通じた)抵抗運動が労働者達の注意を一層引き付けるようになっている、フィリピンや韓国の労働者達の例を見ていないといけない。
労働者達を民族主義国家の中で、即ち人種主義と性差別主義を通じて、分断しておくために用いられている戦術は、国際的な局面でも機能している。一つの国家の労働者達が闘いの用意が出来ているのに、他の国家の労働者達が堕落していては、資本主義の側の国際的に組織された勢力に立ち向かえることを期待しても無理である。二百年祭は、ある民族の祝典であるが、この地の民族の支配者どもが、他の諸民族の支配者どもと国際的な連帯を祝うつもりであることは言うまでもない。
なぜ私達が二百年祭に反対なのか
アナルコ・サンジカリスト連盟(ASF)は、人々が自分達自身の生活に関する決定権を獲得することに力を注いでいる。私達は、人種または性を通じた人々の分断を認めないし、それ故、世界を一連の民族国家に分断することに何の意味も認めない。地球とその住民の健全さは、すべての人々による相互協力にかかっている。資本主義制度は、少数を潤すかわりに、残りの人々に犠牲を強いるだけである。民族主義は、異なった文化や地域の間の相互協力を挫こうとし、私達の間の差異を取り出すことの方により大きな関心を払う。例えば、オーストラリアの民主的とされる体制は、イランの独裁体制より良いと言われる。しかし、実際には、オーストラリアの女性達は、イランの女性達よりも経済面で、ほんのわずかに恵まれているだけだ。そして、彼女達は今もひどい攻撃、支配、搾取にさらされている。
労働党政府は、20の「巨大」労組が、ボス共と一緒になって、オーストラリアの経済を建設するという想定の協調組合国家(訳註3)をつくろうとしている。実際の所、これが意味するものとは、中央集権化されたいくつかの巨大な労組が、これまで以上にボス共の条件で政府を通じて交渉し、めったに労働者の利害に基づいて行動せず、反対に雇用主達に、ふんだんに譲歩と利潤を提供するように強制される、と言うことである。私達は、こうした協調組合国家(訳註3)を発展させることに反対であり、全ての労働者が自分の労働の産物に対して近づける道を持っていなければならず、又、労働者達が労働の現場や生活の場で、自分達自身を組織し生産物の全てを管理・掌握してはじめて、そうすることができると信じている。民族主義的な祭典に参加することによっては、労働者達は平等や自由を得ることはできない。祭典には何百万ドルもかかるが、一体、誰が恩恵を蒙っているのか。この国では貧困の水準が上昇しつつある。住居の無い人々のために、二百周年記念の住宅が一体いくつ建てられようとしているのか。二百周年記念の社会福祉改善事業がいくつ行われようとしているのか。二百周年記念の高等学校(訳註5)がいくつ開設されようとしているのか。二百周年記念の人道的企画の一部として、政治亡命者の保護のために、どのくらいの予算が配分されようとしているのか。このリストはきりが無い。
ところが、資金の使われている先は、「第一船団」の再法制化という侮辱的な行為であったり(アボリジニー達の間の猩紅熱の最初の勃発の再法制化ならどうなのか)、ようのない道路の建設であったり(私達なら、環境に与える損傷がもっと少なくてすむ運輸形態を展開できる)、果てし無い展示やらで、この展示の中には、オーストラリア二百周年委員会とBHP(訳註6)が出資した、2500万ドルの巨費をかけた新作映画の興行も含まれる。労働者達は、このうち1900万ドルを連邦政府を通じて支払っているのだが、BHPが残り600万ドルを支払うことに感謝したり興奮したりするものと思われている。同様に、これまでのいろいろな祝典も茶番だった。例えば、メルボルンには、入港を約束していた70隻の帆船のうち、およそ7隻しか到着せず、岸壁での受け入れ体制はひどいものだった(政府は大混乱だ!)。労働者のポケットから金を流れ出させ、よその地の労働者と分断されたままでいるよう勧めるような、この父親面した下らぬ物にだまされてはいけない。二百年祭をボイコットせよ。或いは、もっと良いことだが、二百年祭をぶち壊せ。
推薦する書物
これらの本のいくつかは、私達がこのパンフレットを書くうえで使用した。それら以外に、私達が重要と感じているものも含めた。この問題についてもっと知りたいと思う人には、ここに挙げた何冊かを読むことを薦める。ほとんどの本が、一般に無視されている事柄にふれているが、特に、アボリジニーに関する部門の本は、ほとんど、ごく最近出版された本であり、白人のオーストラリア人のほとんどが子供の頃から接してきたものとは随分違う、アボリジニーの歴史に関する見方が示されている。
訳註7 著者名、書物名、出版年のみを掲げました。(?)印をつけた書物名は、短いので推定したものです。
1.アボリジニーの歴史、文化、闘争
1.リチャード・ブルーム 「アボリジニーのオーストラリア人」 1982年
2.ケビン・ギルバート 「なぜなら、白人は決してそれをしないだろうから」 1973年
3.ケビン・ギルバート 「黒人として生きて(?)」 1978年
4.ニコラス・ピーターソン(ED) 「アボリジニーの土地権ハンドブック」 1981年
5.ロビンソン、ヨーク共著 「黒人の抵抗」 1977年
6.ヘンリー・レイノルズ 「国境の向こう側」 1981年
7.ヘンリー・レイノルズ 「国境」 1987年
2.労働運動
1.ボブ・ジェームス 「アナキズムと国家の暴力 メルボルンとシドニーにおいて 1986〜1896年」 1986年
2.コンネル、アービング共著 「オーストラリア史における階級構造」 1980年
3.エリック・フライ(ED) 「反逆者と過激派」 1983年
4.ハリス 「徹底抗戦:オーストラリア労働運動政治史」1970年
5.マクマーシー、オリバー、ソーンリー共著(ED) 「愛のためか金のためか:オーストラリアの女性達の政治史」 1983年
6.ジャック・マンディー 「緑の禁制とその彼方(?)」1981年
7.トーマス 「コンクリート・ジャングルの馴らし方」 1983年
8イアン・ターナー 「労使関係における労働者と政治」1965年
9.イアン・ターナー 「組合にこそ力がある」 1976年
10.イアン・ターナー 「シドニーは燃えている」 1965年(改訂版1969年)
11.バーサ・ウォーカー 「連帯よ永遠なれ」 1972年
3.人種主義と複数文化主義
1.マイケル・デューガン 「隣人達が通っていく:オーストラリア移民史」 1984年
2.カーソイ、マーカス共著 「我々の敵は誰か:オーストラリアの人種主義と労働者階級」 1978年
4.オーストラリア一般史
1.ジム・ケイン 「オーストラリア:何人にとっては幸運:漫画によるオーストラリア史」 1986年
2.スザンヌ・ミラー 「オーストラリア史を読む:ある大陸の占領」 1979年
3.シドニー労働史グループ 「何と乱暴な獣:オーストラリア史における国家と社会秩序」 1982年
裏表紙
オーストラリアは、植民されたのか侵略されたのか?
オーストラリアは、広大な空白の大陸だったのか、それとも、アボリジニー達がむごたらしく虐殺されたのか?
彼らは死滅しつつある種族だったのか、それとも、外から持ち込まれた疾病、搾取、無視、文化的絶滅政策にさらされたのか?
調停・仲裁と労働党政府が労働運動の最大の成果だったのか、それとも、ボス共に対する真の反対勢力が弾圧されたのか?
オーストラリアは、幸福な複数文化なのか、それとも、世界で最も人種主義的な国家の一つなのか?
オーストラリアは「幸運の国」なのか、それとも、我々の生活条件が巻き返しを食らいつつあるのか?
民族主義に何ほどかの団結というものがあるのか、それとも、我々は法人国家(訳註3)の準備に取りかかりつつあるのか?
88年に何か祝うことでもあるのだろうか?
オーストラリア政府の二百年祭は、歴史の一節を刻みつつある。これは、別の一節である。
ASF「我々の拠って立つ所」
1.我々の目標は、自由で平等な社会を創造し、防衛することである。
2.我々は、闘争の唯一の手段として、占拠、ストライキ、ボイコット、サボタージュ、ゼネスト等のあらゆる形態の直接行動を行う革命的労働運動である。我々は、一切の改良主義的で位階制の組合や政党から独立しており、我々は、これらに対する、又、現存の社会に対する対抗社会(オールターナティブ)を積極的に創りあげようとしている。我々は政治権力の獲得を追求せず、反対に、それが全ての人に平等に分配されることを追求する。
3.我々は、協力と相互扶助を実践する自治的なアナルコ・サンディカリスト・グループの連盟である。我々は指導者を持たない。メンバーの全員が決定をなすにあたって平等の役割を果たす。各グループ内の責任は、自発的な意志に基づいて、罷免可能な代表によって実行される。連盟の諸決定は、メンバー・グループによる合意を必要とする。
4.我々は、我々が労働し生活する場において、利潤ではなく人間の需要を満たすため、世界共同体のための自主管理された生産、分配、奉仕を発展させる闘争を行う。我々は、これらの闘争に関わっている他の人々にも連帯の手を差し延べる。
5.我々は、国家(共産主義のそれも含む)、資本主義、家父長制度 どの全ての権威主義的機構と、人々の間の全ての位階制的で抑圧的な分断とを廃絶するために闘っている。
6.我々は国を持たず、あらゆる地での抑圧に反対して、国際的な視点に立って組織されている。
日本語版あとがき
このパンフレットは、オーストラリアのAITのセクションであるASF(アナルコサンジカリスト連盟)が、1988年のオーストラリア「200年」祭反対闘争にむけて刊行したものを日本語に翻訳したものです。
その当時、日本においても、AIT・Jで国際連帯の一環として、オーストラリア大使館及び関連企業への抗議行動と抗議集会を行いました。
その後、AIT埼玉からパンフレットとして写真・資料を含めて刊行の予定でしたが、なかなか陽の目を見ずに今日に至りました。
オーストラリアの先住民、アボリジニの諸権利は、70年代以降の様々な抵抗、独立運動により、90年代に至り、回復、改善されたとされています。しかし、土地の所有権や先住権等の本来的な先住民族の権利やアイデンティティー、文化の自立、政治的な自治権の確立、分離独立等には至っていません。先住民の諸権利回復や少数民族との共生(自立や自治)のありかたが、ますますグローバル化する国家(日本も含めて)に問われていると思います。
本年は、シドニーでオリンピックが開催され、オーストラリアが世界中から注目されると思います。このパンフレット(英語版)の刊行から、10年余が経過し、諸情勢が変化していますが、何らかの参考になれば幸いです。
連絡先(参考)
A.S.F. DIRECTORY
ASF Sydney : PO Box 92 Broadway NSW 2007 Australia
ASF Melbourne : PO Box 12022 A'Beckett St. Melbourne Vic. 3000. Australia
Anarcho-Syndicalist Network,
Rebel Worker
PO Box 92, Broadway
Sydney 2007 NSW
rworker@chaos.apana.org.au
http://www.geocities.com/CapitolHill/1052/index.html
(pro-IWA group)
オーストラリア先住民のページ
Aboriginal and Torres Strait Islander Page
http://www.vicnet.net.au/vicnet/COUNTRY/ABORIG.HTM
世界の中の先住民
Indigenous Cultures in an interconnected World
http://www.uiowa.edu/~anthro/fulbright/
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