Continued...

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●「フォー・ベイビー(フォー・ボビー)」

GT:「フォー・ベイビー(フォー・ボビー)」は1967年にミッチェル・トリオが録音し、同年にザ・サンドパイパーズでイージーリスニング・チャートの小ヒットとなった曲ですが、あなたのバージョンはアルバム『ロッキー・マウンテン・ハイ』に入ってましたね。

JD:この曲については、僕の自叙伝を参照して下さい。「フォー・ベイビー(フォー・ボビー)」は、自分のロマンチックな考えを歌の形にまとめてみようという、初期の試みだったんだ。ぼくらのロマンス(もしそう呼んで良いものなら)は、 彼女(ボビー・ワーゴ)がライブを見に来て、僕に気に入られようと年をサバ読んだところから始まった。今にして思うと、僕らの関係は単なる親友同士だったな。

●「プリーズ・ダディ」

GT:「プリーズ・ダディ」はあなたの最初のクリスマス・シングルでしたね。

JD:この曲は、素晴らしく可愛らしいカントリー・ソングだと思うよ。ビルとタフィ・ダノフが書いたんだけど、素晴らしいメッセージがこめられている。なにかの問題を抱えたときに、薬物に頼ったり溺れたりしてしまう人はとても多い。子供にはそれが理解できないんだ。母親も必ずしも理解してくれるとは限らない。とにかく、これはとてもリアルな問題を扱った、とてもリアルな曲で、これを歌うのはらしいことだよ。

ROCKY MOUNTAIN HIGH: JOHN DENVER'S MUSIC OF THE MOUNTAINS

●「ロッキー・マウンテン・ハイ」

GT:あなたのように大自然や、シンプルで素朴なコロラドのライフスタイルを称える歌を書いたり歌ったりする人を、他に見たことがありません。「ロッキー・マウンテン・ハイ」がいい例ですが。

JD:この曲についても、僕の自叙伝で触れているよ。アニーと僕と友人数人とで、ウィリアムス湖に最初のペルセウス流星群を見に行ったんだ。夜空の星からの光があまりに明るかったので、僕らがいた拓けた場所だけが、周りからくっきり浮き上がるほどだった。星が影を作っていたのには、まったく驚いたよ。流星は、煙を立てながら通り過ぎていった。まるで、大空に炎の雨を降らせているようだった。この曲は、そこに居合わせて魂の自由を感じ、精神的にも物理的にも、そのような高みに立つことが出来た歓喜の気持ちを歌ったものなんだ。(1972年、ポップ・チャート第9位)

●「カウボーイ・アンド・レディ」

GT:1980年ごろ、あなたのマネジャーが毎週放映のテレビ・シリーズに、あなたを出演させようとしたことがありましたよね。これは実現しませんでしたが、曲は結構なヒットになりました。

JD:彼には、僕がナッシュビルで吹き込んだアルバム『あの頃の風』をもとにテレビ映画を作るアイデアがあったんだ。アルバムのなかのボビー・ゴールズボロが書いた曲にちなんで、「カウボーイ・アンド・レディ」というタイトルになるはずだった。演技をする機会がぜひほしかったし、僕もそのアイデアには賛成していた。(1981年、カントリー・チャート第50位、ポップ・チャート第66位)

●「カウボーイのクリスマス」

GT:1975年のクリスマス・シングルだった「カウボーイのクリスマス」について教えて下さい。

JD:あの曲は、僕の当時のギタリストだったスティーブ・ワイスバーグが書いたんだ。素晴らしく情感豊かな曲で、凍てつくような平原の只中にいる男から見たクリスマス、という視点が新鮮だった。「峠のわが家」に出てくる歌詞の中で僕が一番気に入っているのは、カウボーイが次のように歌う部分だ。「もう幾晩も/夜空が煌煌と/瞬く星の光に満ちて/私はただ驚き立ち尽くし/目を奪われつ自分に問うた/ 人の世の栄華など、あの星星に比べるべくもないと」。僕には、カウボーイがこんなにも饒舌だとは思えないけれど、でも「カウボーイのクリスマス」の詞には、これに通ずる雰囲気があるんだよ。(1975年、ポップ・チャート第58位)

●「ダンシング・ウィズ・ザ・マウンテンズ」

GT:あなたの「山の音楽」で思い出すのが、「ダンシング・ウィズ・ザ・マウ ンテンズ」ですね。

JD:これは僕のお気に入りだよ。この曲はディスコが大流行で、誰もがクラブ に逃げ込んで一晩中、我を忘れて踊りつづけていた頃に書いた曲なんだ。そんな風に 人々が踊りに出かけるのは、ある意味、中毒みたいなものだと思うよ。薬物療養みた いなものだ。人生の現実的な問題のことを考える必要もないしね。そのことを歌に書 いたんだ。で、「山とダンスをする」といえばスキーのことだし、「海とダンスをす る」といえばサーフィンやセイリングをすることだ。これは、たまらない名曲だと思 うよ。(1980年、ポップ・チャート第97位)

●「ルッキング・フォー・スペース」

GT:あなたはワーナー・エアハードとESTを信奉していましたよね。その経験 から作った曲というのはありましたか。

JD:「ルッキング・フォー・スペース」は、部分的にはESTから生まれた歌 だ。この曲では、あるがままの自分でいられる場所を探すことについて歌っている。 両親や社会や、その他の影響によってあなたが置かれている状況を取り除いたとき、 誰かにこうなれと言われたり、自分でこうでなければいけないとか、人にこうなった 方が良いと言われた自分ではなく、あるがままの真の自分の姿を発見する瞬間に至る んだ。(1976年、ポップ・チャート第29位、カントリー・チャート第30位)

●「ワイルド・モンタナ・スカイ」

GT:エミルー・ハリスとデュエットした「ワイルド・モンタナ・スカイ」は、 これまた素晴らしい「山の歌」ですね。

JD:「ワイルド・モンタナ・スカイ」は、ハミルトン近くのビタールート・ヴァリーで書いた。僕は友人とそこに滞在していて、車でボズマンに向かったんだ。その前の晩に霧が出ていて、それは素晴らしい朝だった。すべてが白い霜に覆われて、光り輝いていたんだ。僕はずっとエミルー・ハリスと共演したいと思っていて、ドライブをしているうちに何か書こうと決心したんだ。この歌には自分の多くが投影されているよ。それは僕が父から学んだとても大事なこと、彼が育ったオクラホマの小さな農家での生活について歌ったものだ。(1983年、カントリー・チャート第14位)

●「ダウンヒル・スタッフ」

GT:LP『大いなる飛翔』からのカントリー・ヒット曲、「ダウンヒル・スタッフ」はどうですか。

JD:あるキャンプ旅行で、僕は8マイルだったか10マイルだったか、とても長いこと徒歩移動したことがあったんだ。その時は、ずっとひたすら上り坂が続くように感じたよ。僕は早く下りにならないものかと思い、その夜、ちょっとした夢を見た。目が覚めると、歌がそこにあった。わずか1時間で書き上げてしまった。とても気に入ってるよ。(1979年、カントリー・チャート64位)

●「さらば、アンドロメダ」

GT:「さらば、アンドロメダ(ウェルカム・トゥ・マイ・モーニング)」の“アンドロメダ”はどんな意味ですか。星雲の名前ですが。

JD:その通り。このアルバムの内側に、素晴らしく神々しい写真が載っているよ。これも、ESTでの体験から生まれた曲なんだ。自分の人生に対する責任を受け入れる、ということについての歌だ。「僕の朝にようこそ、自分で決めてこう作ったんだ」ってね。過去の出来事も、今まさに起きている出来事も、未来に起こるであろう出来事も、全部、自分が造っていることなんだよ。「アンドロメダ」とは、それまで自分が責任を押し付けたり、責めたりしてきた、その対象につけた名前なんだ。(1973年、ポップ・チャート第89位)

●「さすらいのカウボーイ」

GT:「さすらいのカウボーイ」も『さらば、アンドロメダ』のアルバムに入ってましたね。

JD:僕には、大都市に出て良い暮らしをしたいという女性の気持ちがわかる。この歌では、男が「達者でな。俺はこの家でカウボーイで暮らす方を選ぶぜ。」と言っている。僕は、その両方の暮らしをしている。山に住む方がずっと好きだけどね。僕が都会に出かける理由は、そこが僕が歌うべき場所だからだ。(1973年、ポップ・チャート第62位)

I REMEMBER YOU / JOHN DENVER'S ROMANTIC FAVORITES

●「今夜の君は素敵だよ」

GT:あなたの音楽のほとんどがロマンチックで個人的なものですよね。あなたとアニーとの長年つづいた関係の浮き沈みが記録されている。あなたの代表的なラブ・ソングについてお話をしましょうか。まず、「今夜の君は素敵だよ」から。

JD:ビル・ダノフが作った歌だ。スターランド・ボーカル・バンドのファースト・アルバムで見つけたんだ。どこででも歌えるし、聞き手をいい気分にできる。最前列の女の子にウィンクしてごらんよ。彼女はショーが終わるまで、ずっと大人しくしてるだろうさ。(1976年、カントリー・チャート第22位、ポップ・チャート第65位)

●「誓いは永遠に」

GT:「誓いは永遠に」は?

JD:ジョージ・バーンズと共演した『オー!ゴッド』の撮影中、アスペンからLAへの飛行機の中で書いた曲だ。毎週末に、アニーと子供たちの待つ山に帰る機会があったのだけど、すぐまたLAに帰らねばならなかった。LAはあまり好きな町ではなかった。ジョージ・バーンズとの仕事にはワクワクしたが、同時に、我が家と愛する家族のもとを離れるのは耐え難かった。(1977年、カントリー・チャート第22位、ポップ・チャート第44位)

●「スイート・メリンダ」

GT:次は「スイート・メリンダ」だね。

JD:これを書いたスティーブ・ジレットは、「ダーシー・ファロー」とか、僕の生涯のお気に入り曲をいくつか書いている。「スイート・メリンダ」はアップ・テンポな曲で、歌っていて気持ちがいいんだ。僕は非常に多くのバラードを歌って、そうしたアップ・テンポな曲にはあまり縁がないだけに、自分で歌える曲を見つけられると素晴らしくいい気分になるね。(1979年、カントリー・チャート第47位)

●「エブリデイ」

JD:ところで、なぜあなたはバディ・ホリーの「エブリデイ」をカバーしたのですか。

JD:バディ・ホリーが好きだったし、あの曲も好きだった。ぜひ歌ってみたかったし、僕らのはなかなかいいバージョンだったと思うよ。バディ・ホリーには遠く及ばなかったけどね。マイク・テイラーが、ギター・リックでだいぶ曲の感じを変えてくれたんだ。いつか、あのリックに別の曲をつけてみたいね。(1972年、ポップ・チャート第81位)

●「ラブ・アゲイン」

GT:さあ、今度はシルヴィ・バルタンと歌った「ラブ・アゲイン」ですね。

JD:僕の父が亡くなった後、立ち直るまでの間、母は非常に辛い年月を過ごしてた。シルヴィ・バルタンも同じような経験をしていた。彼女は結婚目前で、生涯の恋人を失ってしまったことがあったんだ。それらすべてに思いをめぐらせ、当時、自分が離婚していたこともあって、これからまた恋に落ちる可能性などあるのだろうかと考えた。僕のプロデューサー、ミルト・オクンがフランスに家を持っていて、シル ヴィと彼女のプロデューサーであり、夫であるトニー・スコッティと知り合いだった。それで、僕らは共演することになったんだ。(1984年、ポップ・チャート第85位)

●「シーズンズ・オブ・ザ・ハート」

GT:「シーズンズ・オブ・ザ・ハート」は、別れ行く二人のことを歌った曲ですね。

JD:ある日、書き下ろしたばかりの「シーズンズ・オブ・ザ・ハート」を練習していたんだ。すると、彼女(アニー)が冷ややかに、きっぱりと、皮肉を込めた口調で、「私に何か言いたいことがあるわけ?」と言った。あの美しい女性が、と信じられないだろうけど。アニーは本心を偽っていたのだろうか。それとも、単に鈍いだけだったのか。人には、他人には知り得ない部分があるものだ。以後、この曲を彼女のために弾くことはなかったよ。(1982年、ポップ・チャート第82位)

●「バック・ホーム・アゲイン」

GT:「バック・ホーム・アゲイン」は、「緑の風のアニー」が入っていたアルバムのタイトル・ソングですね。

JD:この仕事をはじめてからというもの、演奏旅行先で過ごすことがほとんどだった。僕は、荷をまとめたりほどいたりが嫌いだし、長いツアーには二度と出たくないと思うよ。で、この曲の場合だけど、僕がツアーから帰ってきて屋根裏部屋に座ってたとき、階下でアニーが料理をしていたんだ。曲は、もうそこに出来上がっていた。完璧にツボに入ったね。(1974年、カントリー・チャート第1位、ポップ・チャート第5位)

●「フォロー・ミー」

GT:セカンド・アルバムの『明日への希望』(1970)には、「フォロー・ミー」が入ってましたね。ピーター・ポール&マリーのマリー・トラヴァースが1971年に放った唯一のソロ・ヒットがこの曲でした。

JD:初めてのプロモーショナル・ツアーでこの曲を歌って以来、今も僕の代表曲の一つだよ。

●「アイ・リメンバー・ユー」

GT:1986年、LP『ワン・ワールド』で吹き込んだ「アイ・リメンバー・ユー」は、1942年、ジミー・ドーシーが最初に有名にした曲ですね。

JD:(1962年の)フランク・アイフィールドが忘れられない。彼の歌い方が大好きだった。いつも歌ってみたいと思ってたし、実現するとなったときはワクワクしたよ。いちばん楽しめたのは、メロディの流れだね。

●「友への誓い」

GT:「友への誓い」は、5番目のアルバム『友への誓い』(1972年)からのシングルですね。

JD:この曲は、あまりやらないな。演奏が難しいんだ。僕が成功しはじめた頃に作った曲だよ。ひとたび交友の輪が膨れ上がってしまうと、元の場所に戻って来ても、気心の知れた仲間達にいつでも再会できるというわけにはいかなくなってしまう。彼らは、「あいつは変わってしまった、ハリウッドに行っちまったんだ」などと言う。でも、次に帰ってきたときに、前の旅のときに会えなかった相手を捕まえて膝を交えて語れば、時間のことなんか忘れてしまうものさ。「友への誓い」は、「故郷へ帰りたい」を共作したビルとタフィ・ダノフが書いた。彼らはその後、スターランド・ボーカル・バンドというグループを結成し、僕は自分のレコード会社・ウィンドソングと契約してもらった。彼らは、全米第1位とミリオンセラーに輝いた「アフタヌーン・デライト」で、1976年のグラミーの最優秀新人賞を受賞したよ。

●「悲しみのジェット・プレーン」

GT:ミッチェル・トリオは、1967年に「悲しみのジェット・プレーン」を録音したけど、その2年後、PPMのバージョンが、彼らの最後にして唯一のナンバー1ヒットになった。あなたは、RCAからのデビュー・アルバム『ライムズ・アンド・リーズンズ』(1969年)でもこの曲を録音しましたね。

JD:もともとあの曲は「Oh Babe, I Hate to Go」というタイトルだった。僕はヴァージニアの友人の家で油彩に取り組んでいた。大学のときに絵に興味を持ったんだけど、ギターを手にして曲を書くにも、魂と精神を解放し、あたかもその情景が手で触れられるほどのリアルさで目の前にあるように思い描くようにしたよ。この曲は、誰かに対してそのような感情をいだいた経験をもとにしたのではなく、そんな風に愛を伝える相手がいてほしいという願望から書いた曲だった。完成したときには、それまでで一番の傑作が書けたと思ったよ。

JOHN DENVER PLAYS FAVORITES

GT:あなたは大抵、自作曲を吹き込んでいますが、このコレクションにはあなたの主だったカバー曲も収録したいと思います。

JD:これから音楽を始めようとしている人たちにアドバイスを求められたら、「誰かの物真似をしちゃいけない。自分の内から湧き出るものを見つけ出すこと。自分の生き方のすべてが反映されていることが肝心だ」と答えるよ。僕が他人の曲を歌うときにいつも心がけているのはそのことだ。自分流を心がけているよ。「すばらしきカントリー・ボーイ」を聞いて、「こんな歌、俺にも書ける」とか、「私が書けばよかった」と思うことがあるでしょう。すんなりと深い感情移入ができてしまうので、まるで自分でその歌を書いたかのように思えてしまうんだ。だから、自分の力を自然に使えばいいんだよ。誰かがやったのと同じように真似てはやらないことだ。そんなことするんだったら、歌う意味なんてないでしょう。

●「サンフランシスコ・メーベル・ジョイ」

GT:LP『あの頃の風』のために録音した「サンフランシスコ・メーベル・ジョ イ」は、ミッキー・ニューベリーの1971年の名曲、「アメリカン・トリロジー(アメ リカの祈り)」のB面だった曲ですね。

JD:素晴らしい曲だね。ミッキーの、絵画的に言葉を使った表現が大好きだ よ。ああいった物語性の強い曲に対する思い入れはあるし、自分でも歌ってみたいと いつも思っているよ。ただ、僕が歌うそんな悲しい曲を、みんなが買いたがるかどう かわからないけどね。

●「この自然はだれのもの」

GT:「この自然は誰のもの」は、トム・パクストンの作品ですね。

JD:僕が初めて手がけた、環境問題を扱った曲だ。1970年の秋にRCAからの3枚 目のアルバムが出る頃までには、僕の社会的・政治的な考え方はだいぶはっきりして きていた。この曲をタイトルに掲げたアルバムは、みんなを死ぬほど退屈させてしま い、今まで手がけたどのレコードよりも売れなかったけど、これがきっかけで僕は もっと自由に物が言えるようになったよ。

●「夢と愛」

GT:1982年のLP『シーズンズ・オブ・ザ・ハート』の中でも、「夢と愛(What One Man Can Do)」は異色曲ですが、特定のモデルはいたのですか。

JD:「夢と愛」は、バックミンスター・フラーの81歳の誕生日のために書い たんだ。

●「ミスター・ボージャングル」

GT:ジェリー・ジェフ・ウォーカーは、「ミスター・ボージャングル」の作者として最も有名ですが、この曲は1970年にニッティ・グリッティ・ダート・バンドの初めてのトップ10ヒットになりました。あなたは、同年、アルバム『この自然は誰のもの』のためにこの曲を吹き込みましたね。

JD:まだ駆け出しの頃の彼に何度か会ったことがあるんだけど、とても優れた作家だと思ったよ。「ミスター・ボージャングル」は、「サンフランシスコ・メーベル・ジョイ」にも通じる感傷をもった、とても素晴らしい物語だ。憂鬱で感傷的な要素を持った曲に、自分の声を使うのは好きだね。

●「サン・アントニオ・ローズ」

GT:ボブ・ウィリスが1939年に発表したウエスタン・スウィングの傑作「サン・アントニオ・ローズ」を、あなたは1976年に録音してますね。なぜこの曲を選んだのですか。

JD:「サン・アントニオ・ローズ」は、僕の両親のお気に入りだった。彼らのために録音したんだよ。素晴らしい曲だよね。非常に美しい、不朽の名曲だよ。

●「ファイアー・アンド・レイン」

GT:ジェームス・テイラーの1970年の大ヒット、「ファイアー・アンド・レイン」は避けて通れなかったのでしょうね。

JD:僕の(1971年の)バージョンに、ジェームスは感心しなかったろうな。あれは彼がやってこその曲だったし。今にして客観的に見ると、僕は歌の核心に迫っていたとも思えるし、近づけたのかどうかわからなくなるときもある。どちらにしても、僕はこの曲が好きだし、楽しんで歌ったよ。

●「シティ・オブ・ニュー・オーリンズ」

GT:「シティ・オブ・ニュー・オーリンズ」は、アーロ・ガスリーが1972年にチャートに送り込んだ曲ですね。

JD:「シティ・オブ・ニューオーリンズ」は楽しかったよ。作者のスティーブ・グッドマンとは時間をかけて話し合いを持った。というのは、彼の3番構成の原曲をそのまま演奏するのは自分にはしっくりこなかったからだ。歌詞の中に変えたい部分もいくつかあったし。彼と僕とは一緒に座って編曲に取り組んではみたのだが、案の定、大してうまくいかなかった。アーロはオリジナル通りの歌詞で大成功したわけだし、僕に何がわかるというんだい。僕のバージョンの方は少しばかり商業性が強い仕上がりになった。もしいつか、列車の歌を集めたアルバムを作るとしたら、スティーブの原曲通りの詞を使いたいね。

●「オールド・ディキシー・ダウン」

GT:ザ・バンドのロビー・ロバートソンが書いた「オールド・デキシー・ダウン」をあなたは1970年に吹き込みましたね。

JD:これも本当に大好きな曲だよ。

●「レット・イット・ビー」

GT:1971年に、あなたはザ・ビートルズの「レット・イット・ビー」のカバーを吹き込みましたね。

JD:ザ・ビートルズからは多大な影響を受けたよ。ジョン・レノンからもポール・マッカートニーからもね。マッカートニーは史上最高のソングライターの一人だと思うよ。彼のコンサートをフェニックスで観たことがあるんだが、これまでに聞いた最上の楽曲3,4曲がすべて揃ったショーだったよ。「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」に「ヒア・ゼア・アンド・エブリホエア」。すべて、この男が書いた曲だった。マッカートニーが書いた楽曲は傑作だと思うよ。ジョン・レノンから学んだのは社会問題に対する意識と、敢えて少しばかり政治的な姿勢をとるところだ。僕にとってそれはずっと重要なことだった。

LIVE...IN CONCERT

GT:ここからの10曲は、「ジョン・デンバー・ライブ」からの曲で、そのほとんどが1974年8月26日にロスアンゼルスのユニヴァーサル・アンフィシアターでライブ録音されたものです。あなたは、7日間のコンサートのチケットを24時間以内で売り切ってしまうという、新記録を打ち立てましたね。このコンサートからは「スイート・サレンダー」「すばらしきカントリー・ボーイ」という2曲のヒットも生まれました。2枚組のアルバムはゴールド・アルバムに輝き、同時期に撮影したテレビ特番はエミー賞を受賞しましたね。

JD:ユニヴァーサル・アンフィシアターのような大きな会場で1週間も演奏するのは初めてことで、とてもナーバスになったよ。通常、最初の二晩は、その場の空気をつかみ、場合によっては曲を入れ替えたりもするね。木曜は少し出来が悪くなる。もう4日間も同じ場所にいるわけだしね。しかし、金曜と土曜の晩には大きなヤマが来る。僕らは1週間ずっと録音し続けたけど、記憶違いでなければ、すべてが遂にうまくいったのは金曜日のことで、アルバムの大半はこの魔法がかかったような金曜の夜の演奏から採録されているんだ*。(訳者註:このアルバムの大半が収録された8月26日は、月曜日なんですけどね…。)

●「故郷へ帰りたい」
●「トゥデイ」

GT:このライブ特集は、先に紹介した「故郷へ帰りたい」から始まります。2曲目の「トゥデイ」は、1964年のニュー・クリスティ・ミンストレルズのヒットですね。

JD:「トゥデイ」は、ミンストレルズのリーダーであり、僕がLAに出たとき初めて仕事をくれた人である、ランディ・スパークスが書いた。疑いもなく彼の最高傑作だし、非常に美しい曲だよ。僕は今でもコンサートでやるし、お客さんも大好きな曲だ。自然が登場し、前向きで、気分が高揚し、優しさがある曲は好きだね。

●「スイート・サレンダー」

GT:「スイート・サレンダー」はディズニー映画『遥かなる小熊の森』のために書いた歌ですよね。パトリック・ウェイン演じる主人公は北部の山林に暮らすヴェトナム帰還兵で、インディアンと偏屈な白人との関係を和らげるという役どころだった。

JD:映画を見る前に知らされたストーリーは、自分を見つめ直すために旅に出るヴェトナム帰還兵の話だった。それは、誰もが通る道筋だよ。ぼくらが人生に対し抱く願望や、あるがままに生きよう、どうにか自分自身を見出そうともがく気持ちは、誰にも等しくある強い気持ちだ。これはすばらしい曲だと思うし、人として生きる上で、僕らを束縛しているすべてのものから解放されることについての歌だ。 (1974年、カントリー・チャート第7位、ポップ・チャート第13位)

●「おばあちゃんの羽根ぶとん」

GT:「おばあちゃんの羽根ぶとん」は実に面白い曲ですね。

JD:「あばあちゃんの羽根ぶとん」は、アーカンソー出身のジム・コナーが書いたんだ。彼は60年代にはリチャード&ジムというデュオを組んでた。多くの人が大喜びする曲だね。残念ながら最近の人達はそうでもないかも知れないけど、少なくとも僕は大好きさ。父が育った農場で、おばあちゃんと過ごしたこと、子供同士で大量の毛布の下に潜り込んで動けなくなってしまったこととかを思い出すね。まさにツボに入ってしまったよ。

●「緑の風のアニー」
●「鷹と鷲」

GT:「緑の風のアニー」は既に話題にしました。次の「鷹と鷲」は1971年のLP『友への誓い』からの曲ですね。

JD:「鷹と鷲」は、ロバート・リーガー、モーリー・ネルソンとともにアイダホ州ボイスで撮影したABCのドキュメンタリー番組から生まれた曲だった。モーリーは、猛禽類の世界的な権威でね。彼は怪我をした鳥を保護し、傷が癒えて野生に帰れるようになるまで面倒をみてやっていた。ロバートは僕に番組用の曲を書くよう依頼してきたのだけど、彼のおかげで素晴らしい体験をすることができた。日没時に小高い山の頂上に登り、若いイヌワシを放してやったんだ。それは羽根を傷めて、数ヶ月かけて治療したワシだったんだけど、僕らはその様子を夕日に向かって撮影することにしたんだ。アルバムのジャケット写真のようにね。ワシは多くの国々でシンボルとして使われている。そのワシを腕に乗せて立っていると、なぜ彼らがそれほどまでに 力や、強さや、賢さの象徴とみなされるのかが理解できた。そして、歌が出来たんだ。

●「マイ・スイート・レディ」
●「すばらしきカントリー・ボーイ」

GT:この「マイ・スイート・レディ」のライブ演奏は、もともと「すばらしきカントリー・ボーイ」のB面だったのだけど、1977年にヒットしたスタジオ・バージョンよりずっと優しく、感動的ですね。でもそれよりも、あなたの不滅のヒット曲のひとつ、「すばらしきカントリー・ボーイ」の方を思い出させてしまいます。

JD:あの曲はジョン・サマーズが書いたんだ。彼の理想の自分像を書いたんだろうな。彼はリバティというグループでバンジョーとフィドルを弾いていた。彼らはアスペンで演奏してたんだけれど、初めてあの曲を聞いたとき、「この曲は僕にピッタリじゃないか!くそー、僕が書こうとしていたのに!」と思ったのを覚えてるよ。それは、父が11人の兄弟と共に育った農場を僕が訪ねたときに感じたことを全て思い出させてくれた。僕らは素朴で、働き者で、都会では決して見ることの出来ない、質素な暮らしをしていた。僕は、リバティを自分のレコード・レーベルと契約してもらい、ツアーに同行させて前座をつとめてもらった。僕のショーになると、彼らを呼び戻し、「すばらしきカントリー・ボーイ」を演ったものさ。僕が観客を乗せようと手拍子を始めると、会場は熱狂したね。どうにもならないくらい。この歌をやると、毎回そんな調子だった。(1975年、ポップ・カントリー・チャートとも第1位)

●「詩と祈りと誓い」

GT:「詩と祈りと誓い」は、RCAからの4枚目のアルバムのタイトル曲でした。あなたは自叙伝の中で、自分の才能は神からの賜物だと感じ、その贈り物を育て、広げていきたかったと書いていましたね。

JD:そうだね、世界中をまわって、この才能を役立てたいと思ってたよ。世界には何かが待っていると思ってた。(1971年に)「詩と祈りと誓い」を出した頃には、僕はその境地まで達していたと思うよ。

●「ロッキー・マウンテン・ハイ」

GT:ライブ特集は、先に紹介済みの「ロッキー・マウンテン・ハイ」で締めくくりとなります。さて、あなたには「ゆくゆくは、こんな形で人々の記憶に残りたい」と考えることはありますか。

JD:(長い沈黙)人々の記憶に残るのは、僕の歌のことだろうね。僕は自分が何者であるかを見出すことに本当に真剣に取り組んできた。僕は自分が正しいと思ったことを勇気をもって実行してきた。それは、自分に忠実に生き、自分の内から生まれ出たものを歌にするということだ。僕の子供たちには、そんなふうに生きた僕を覚えていて欲しいと思う。彼らには、自分自身の人生のどこかしらに、何らかの価値を見出して欲しいと願っているよ。僕は何事においても、トップに立とうなどとは思ってもいない。これは「悲しみのジェット・プレーン」の成功後に学んだ教訓だよ。自分は今と違ったものを書いたほうがいいのだろうか?だがそれをやってしまったらどうなるだろう?自分を失くすことになってしまう。僕は歌書きだ。いい曲も書くし、そうでもない曲もある。中には人々を心から感動させるものもあって、そうした曲は、いろいろな出来事を引き起こしもする。僕はここ(カルフォルニアの新居)に腰を落ち着けて、また音楽に取り組もうとしてるところさ。すでに12,3曲のアイデアがあるし、ここに座って海を眺めながら、それらの曲がどんな風に生まれてくるのかを見守ってみたいね。

GT:ということは、新しいアルバムが進行中ということですね。

JD:その通り!


Translated by Takeru Tanaka (2000.11.28) 


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