リーダース・ダイジェスト・インタビュー

1996年10月10日


John Denver
His Greatest Hits and Finest Performances



●下に紹介するのは、米リーダース・ダイジェスト社発売の、通販用3枚組CDの付録ブックレットのために行われたインタビューで、CDに収録された全曲について、その背景や裏話等が簡単に語られている。また、彼の音楽観、人生観、自らが収めた巨大な成功に対する考え、そして未来に向けての展望(このインタビューの後、彼は丁度1年しか生きることが出来なかったが)等々について、本人の言葉で知ることができ、非常に興味深い。解説とインタビュアーは、ゲイリー・セロー。

なお、この3枚組CDは現在でもリーダイ社のサイトでのみ発売中だが、残念ながらアメリカ国外への販売はしておらず、日本からの入手は困難である。(アメリカにメル友をつくってゲットしてもらうしかないでしょう。)

John Denver - His Greatest Hits and Finest Performances
Reader's Digest Music

DISC 1
JOHN DENVER CLASSICS

1. Annie's Song
2. My Sweet Lady
3. Take Me Home, Country Roads
4. Sunshine on My Shoulders
5. What's on Your Mind
6. I Want to Live
7. Along for the Ride ('56 T-Bird)
8. Fly Away with Olivia Newton-John
9. Calypso
10. Goodbye Again
11. Some Days Are Diamonds (Some Days Are Stone)
12. Like a Sad Song
13. It Amazes Me
14. Autograph
15. Shanghai Breezes
16. I'm Sorry
17. Perhaps Love with Placido Domingo
18. Dreamland Express
19. It Makes Me Giggle
20. For Baby (For Bobbie)
21. Please, Daddy (Don't Get Drunk This Christmas)

DISC 2
ROCKY MOUNTAIN HIGH

1. Rocky Mountain High
2. The Cowboy and the Lady
3. Christmas for Cowboys
4. Dancing with the Mountains
5. Looking for Space
6. Wild Montana Skies
7. Downhill Stuff
8. Farewell Andromeda (Welcome to My Morning)
9. I'd Rather Be a Cowboy
I REMEMBER YOU
10. Baby, You Look Good to Me Tonight
11. How Can I Leave You Again
12. Sweet Melinda
13. Everyday
14. Love Again
15. Seasons of the Heart
16. Back Home Again
17. Follow Me
18. I Remember You
19. Friends with You
20. Leaving on a Jet Plane

DISC 3
JOHN PLAYS FAVORITES

1. San Francisco Mabel Joy
2. Whose Garden Was This?
3. What One Man Can Do
4. Mr. Bojangles
5. San Antonio Rose
6. Fire and Rain
7. The City of New Orleans
8. The Night They Drove Old Dixie Down
9. Let It Be
LIVE...IN CONCERT
10. Take Me Home, Country Roads
11. Today
12. Sweet Surrender
13. Grandma's Feather Bed
14. Annie's Song
15. The Eagle and the Hawk
16. My Sweet Lady
17. Thank God I'm a Country Boy
18. Poems, Prayers and Promises
19. Rocky Mountain High

Program Notes by Gary Theroux

ヘンリー・ジョン・デュッチェンドルフJrは、1943年の大晦日にニューメキシコ州ロズウェルで生まれたが、育ったのは国内のいたるところでだった。空軍パイロットだった彼の父が、基地から基地へと異動を繰り返したからだ。父デュッチェンドルフは、航空部門で三つの世界記録を打ち立てており、その影響で息子も同様な夢を抱くようになった。しかしながら、その夢は実現することはなかった。空軍大学が過度の近視を理由にヘンリーJrを失格にしたからである。それから若者の関心は音楽に向かい、彼の祖母は1910年型のギブソン・ギターを買い与えた。彼は自分の部屋にこもって、ギターをかき鳴らして歌い、エルヴィス・プレスリーの真似をしては何時間も過ごした。

ヘンリーは自分が好きだった町、デンバーにちなんで、名前を「ジョン・デンバー」と改め、南西部のフォーク・クラブで演奏を始めた。1965年、彼は250人もの候補者の中から、チャド・ミッチャル・トリオの、チャド・ミッチェルの後任の座を勝ち取った。デンバーは、「ミッチェル・トリオ」と名を変えたこのグループに、1968年の解散まで籍を置いた。

ジョンの最初のソロ・アルバム、『ライムズ・アンド・リーズンズ』には、彼の自作曲「悲しみのジェット・プレーン」がフィーチャーされていた。ピーター・ポール&マリーがこの曲をカバーし、1969年にナンバー1ヒットとなっていた。2年後の『詩と祈りと誓い』からは、「故郷へ帰りたい」が生まれた。その年の春にシングル発売されたこの曲は、はじめはなかなか売れなかった。数週間後、RCAレコードは、このシングルを売るのは諦めると電話で伝えてきた。「だめだ!」とジョンは言った。「もう少し続けてくれ!」 彼らは言われた通りにし、結果、8月18日にこの曲はミリオン・セラーに輝いた。彼にとって初めてのトップ40以上のヒットであり、カントリー、イージーリスニング・チャートでもヒットとなった。

ジョン・デンバーの音楽は、「コンテンポラリー・フォーク、カントリー、それにポップをクロスオーバーさせたもので、大自然や恋愛、それに田舎の素朴な生活に対する楽しげな賛歌」であると形容されてきた。その考え方は、1972年の「ロッキー・マウンテン・ハイ」のヒットをヒントに、バスキン=ロビンスが「自然味」のアイスクリーム、「ロッキー・マウンテン・ハイ」を発売したことからも明らかだった。ジョンは、その飾らない振舞いをテレビの中へも持ち込んだ。その年の8月、NBCで「ミッドナイト・スペシャル」が放映開始されたときに、その初回のホストを務めた。彼の「ジョン・デンバー・ショー」はエミー賞に輝き、「ロッキー・マウンテン・クリスマス」の視聴者は6,500万人にものぼった。その上、彼は当時81歳だったジョージ・バーンズと、ファンタジー映画『オー!ゴッド』で共演さえした。この映画は、1977年最大のヒット作のひとつだった。1979年までに、デンバーは1億枚以上のLP・シングルを売り上げていた。

おそらくジョン・デンバーのアーティストとしての手腕の鍵となるのものは(彼のわかりきった才能は別として)、彼をポピュラー・ソング界のノーマン・ロックウェルたらしめている、その絶えることのない誠実さと率直さであろう。1996年10月10日に行われた下記のインタビューを見ての通り、私は彼とそのことについて、また彼の代表的なヒット曲の裏話について語り合った。(場合によってジョンのコメントを、彼 の1994年の自叙伝「Take Me Home」の内容を参考に補足した。)

Gary Theroux(以下GT) :私はいつも思っていたのですが、人がある歌に感情移入するのは、その歌が彼らの心を代弁しているからだ思うんです。あなたは、歌が大衆と接点を持つためには、どうあるべきだと思いますか?

John Denver(以下JD):詞とメロディーが醸し出すある種の感覚、聞き手の気に掛かったり、自分との関わりを感じさせるような何かが必要だろうね。ラジオでどう聞こえるかが、いっそう大事になってくる。そこで、この業界では陥りがちなことだけど、歌を「製造」するようになってしまうわけさ。僕は、それはしないけどね。

GT:ご自分の音楽がどうしてここまで人気を呼んだと思いますか。

JD:僕の声や歌い方に、人々の心の琴線に触れる何かがあったのだと思う。僕の音楽には自然があふれているしね。僕は世界に起こっている、現実の出来事を歌に書いているけど、これは、世界中の人々はみな同じで、世界のどこであっても同じように僕の曲を聞いて感動してもらえるんだという信条に基づいて、そうしているんだ。そのコツはつかんでいるよ。僕の歌の大半はバラードや、現代風のフォーク・ソングだ。カントリー・ソングもたまに書くけど。その多くが、爽快感のある歌だよ。「ロッキー・マウンテン・ハイ」や「わが友、カリプソ号」や「悲しみのジェット・プレーン」といった曲を、どうジャンル分けしたものか、僕には見当がつかない。ソングライターというものは、ラジオや身の回りの出来事に耳を傾けているうちに、そのうちのいくつかがアイデアとしてふつふつと沸きあがってきて、それから曲を書くものなんだ。

GT:ということは、あなたは流行を追いかけているわけですか?

JD:流行には興味がないね。僕が書きたいのは自分自身の中にあるものだし、自分が書いた曲に対しては可能な限り忠実でありたいと思っているよ。僕は、狙ってヒット曲を作るためにこの仕事をしているわけではないんだ。

GT:そうした考えの持ち主にしては、あなたは驚くほどの成功を収めましたね。では、あなたのもっとも有名どころの曲の背景について話をしましょうか。

JD:僕はいつも、「この歌のテーマは何々だ」、という話しを人にするのは気が進まないんだよ。歌のテーマとは、何であれ、歌そのものが自らの内に育んでいるものなんだ。芸術作品とは、人格形成に関わる何かを育て上げてくれるものだし、自分の曲のなかにもそうした域に達したものがあってほしいと思うよ。それは、自分の知られざる心の奥底に目を向けるという作業なんだ。とはいえ、そうした歌を書いていた時点で、僕の胸に何が去来していたかを語ることはできるけどね。

JOHN DENVER CALSSICS

●「緑の風のアニー」

GT:あなたの自叙伝「Take Me Home」で読んだのを思い出したのですが、「緑の風のアニー」の発売日は、偶然にもあなたたち夫婦が養子斡旋所でザッカリーを引き取ったのと同じ日だったそうですね。

JD:斡旋所に向かって運転してたら、車のラジオから「緑の風のアニー」が聞こえてきたのを覚えてるよ。その週のカントリー・チャートの第1位だったんだ。僕は「緑の風のアニー」を、1974年初めのある日、上りのスキー・リフトの上で書いたんだ。それは、僕らの初めての深刻な別居の直後、よりが戻ったばかりのことだった。スキーをしている人々の姿やウェアの色彩、鳥のさえずり、リフトの音、山の斜面をスキーヤーが滑り降りていくシューッという音が、僕の意識の中に入ってきていた。これらすべてが僕の感覚を一杯に満たしていて、僕はそのことを独り言でつぶやいた。すると、自分でも出所がわからないイメージが、次々と湧き出るように浮かびあがってきた。夜の森。雨の中の散歩。春の野山。これらのイメージすべてが互いに溶け合ってゆき、最後に僕のもとに残ったのはアニーだった。この歌は、そのときに僕が感じた愛情を、歌の形にしたものなんだ。(1974年、ポップ・チャート第1位、カントリー・チャート第9位)

●「マイ・スート・レディ」

GT:「マイ・スイート・レディ」は、どのようにして生まれたのですか。

JD:フランク・シナトラが、コンテンポラリーな若いソングライターが作った曲を探していたんだ。そのことを知って、僕は約24時間、部屋に缶詰になって、4曲書き上げた。そのうちの1曲が(シナトラが71年にレコーディングした)「マイ・スイート・レディ」だったわけさ。面白いことに、僕はその時点ではまだ、あの歌に出てくるような経験をしてなかったんだ。それは一種の予知体験で、僕は、いつの日か、それが自分の身に起こることを予感していたんだ。(1977年、ポップ・チャート32位、カントリー・チャート62位)

●「故郷へ帰りたい」

GT:あなたの初めてのヒット曲、「故郷へ帰りたい」はどうですか。

JD:ワシントンDCのセラー・ドアーは、僕がミッチェル・トリオと初めて仕事をし、トリオ解散後は前座として出演した場所だった。ビル・ダノフとタフィ・ニヴァートもそこで仕事をしていた。僕がメイン・アクトを務めることになって、「誰に前座をやってほしい?」と聞かれたとき、僕は「ビル&タフィを」、と答えた。僕らは、それは素晴らしい仕事をしたと思うよ。初日の晩は、クリスマスの翌日だった。僕らは興奮して、だいぶ訳がわからない状態になっていたよ。その後、ビルとタフィの家に向かっている途中で、僕らの車が事故に遭い、僕は親指をケガしてしまった。僕らは、彼らの部屋で、15〜20匹もの猫達ともども車座になった。彼らは他の誰よりも猫をたくさん飼っていたんだ。夜が明けると、ビルがこう言ってきた。「ジョン、僕には今、にっちもさっちもいかなくなってる歌があるんだ。」 彼は歌いはじめた。「♪ウェスト・ヴァージニアは、まるで天国のよう…」 そして、その朝、僕らは力を合わせて曲を完成させたんだ。彼らと僕のそれぞれのショーがあった晩、僕がアンコールを受けたので、彼らをステージに呼び戻して「カントリー・ロード」を演ったんだ。会場は熱狂したね。その仕事がはねた後、僕たちはニュー・ヨークに向かい、この曲を録音し(ビルとタフィは「ファット・シティ」の名で参加)、その後、僕の一番最初のヒットになったんだ。(1971年、ポップ・チャート第2位、カントリー・チャート第50位)

●「太陽を背に受けて」

GT:「太陽を背に受けて」には、変わった経緯があったんですよね。

JD:そう、この曲はマイク・テイラー、ディック・ケネスと1972年*に共作して、初出はLP『詩と祈りと誓い』(1972*)だった。「さすらいのカウボーイ」のシングル(1973)のB面にも使った。その後、俳優のクリフ・デ・ヤングが、テレビ映画『サンシャイン』で僕の歌を何曲か歌い、「マイ・スイート・レディ」のシングルを「太陽を背に受けて」とのカップリングで発売したんだ。RCAが僕の『グレーテスト・ヒッツ(故郷の詩)』を発売する計画を発表したとき、僕は何曲かを録音し直したんだ。この曲も含めてね。その結果として、僕は初めてチャートの頂点に上り詰めることができた。僕の曲のいくつかは、「アイム・ソーリー」や「太陽を背に受けて」のように、憂鬱な主題を憂鬱に歌ったものなんだけど、それが人々に「そうそう、こんなことが自分にもあった」と、いい意味で感じさせるんだ。「太陽を背に受けて」はカントリー・ソングではない。あるレベルでは、それは愛の美徳についての歌なんだ。その一方、もっと深い情感のレベルでは、全世界が受け入れられる何物かの領域に達しているんだ。(1974年、ポップ・チャート第1位、カントリー・チャート第42位)(*訳者註:1971年の誤り。)

●「二人の絆」

GT:1978年のアルバム『大いなる飛翔』に入っていた、「二人の絆」は?

JD:あの曲は、アニーと僕がよりを戻し、互いにそっと歩み寄る雰囲気になってきていた、ある一時期の状況をもとに書いた曲だった。ちょっとした眼差しや、ふれあいがあって、「以心伝心」になってる状態さ。セクシーで可愛らしい曲だと思うよ。(1979年、カントリー・チャート第47位)

●「生きる歓び」

GT:あなたは、70年代半ば、Harry Chapinと共に、大統領任命の国内外飢餓対策委員としての仕事に時間を割いていましたね。

JD:僕の歌、「生きる歓び」は、その活動を称えるために書いた、賛歌だったんだ。1977年の暮れに発表したアルバムのタイトル・ソングでもあった。(1978年、ポップ・チャート55位)

●「アロング・フォー・ザ・ライド」

GT:「アロング・フォー・ザ・ライド」は?

JD:1986年のアルバム『ワン・ワールド』では、他の作家の曲も多く取上げて、よりコンテンポラリーなサウンドを目指したんだ*。この曲は単に僕が気に入ってたんだよ。原曲のいいところを出し切れなかったけどね。ダニー・オキーフ(「グッド・タイム・チャーリー・ガット・ザ・ブルーズ」で有名)のオリジナルは、素晴らしいバージョンだよ。あの感じが大好きなんだ。(1986年、カントリー・チャート第57位)(訳者註:『ワン・ワールド』には他人の曲は3曲しか入っていない。『ドリームランド・エクスプレス』とごっちゃになっているようだ。)

●「フライ・アウェイ」

GT:「フライ・アウェイ」は、オリビア・ニュートン=ジョンがバック・ボーカルを入れてますね。

JD:僕はオリビアが大好きだったんだ。だぶん、今もね。彼女を一目見て、一度歌を聞いただけで、デュエットをしてみたいと思った。この歌は、オリビアでなく他の女性との経験をもとに書いたものなんだけど、歌そのものが語っている以上のことは言えないな。行き詰まってしまったとき、遠くへ行ってしまいたい、飛んでいってしまいたいと思うでしょう。この歌の大半は、ギターの旋律とメロディとの並列と対位とで成り立っているんだ。オリビアのためにこの曲を弾いて聞かせたら、明らかに彼女の琴線に触れたようだったよ。彼女はとても複雑なパートをこなしてみせ、結果、美しいレコードが完成したんだ。(1975年、ポップ・チャート13位、カントリー・チャート12位)

●「わが友、カリプソ号」

GT:あなたの「わが友、カリプソ号」が、ジャック・クストーに捧げた歌で、彼の船の名にちなんでいることは良く知られていますね。

JD:僕には、いつかスキューバ・ダイビングをやってみたいという夢があって、ジャック・クストーは僕のヒーローのひとりだった。彼に会いに、ベリッツまで行った。僕らは一緒にテレビ特番を制作し、はじめて彼の船に乗ったんだ。船の上を歩きはじめて数分経たないうちに、サビの部分が浮かんできた。「♪ああ、カリプソ号よ/君は様々な場所を訪ね/多くの物を示してみせ/様々な物語を教えてくれる」。特番を撮り終えた僕は、アスペンの自宅に戻って、ツアーに備えた。「ジョン・デンバー・ライブ」のアルバム・カバーのように、ステージでスライドやフィルムを見せる予定だった。クストー船長は、必要であればどんなフィルムでも提供できると言ってくれた。しかしフィルムを編集するためには、曲自体を完成させなければならないというのに、まだ出来ていなかった。気も狂わんばかりだったよ。ある日、遂にあきらめた僕は、スキーに出かけてしまった。すると2回ほど滑ったところで、突如として、ものすごいテンションが湧き起こってきたんだ。家に帰って、歌を仕上げなければと思い、わずか20分で山から我が家へ運転して帰り、その20分の間に曲を完成させてしまったんだ。(1975年、ポップ・チャート第2位)

●「グッドバイ・アゲイン」

GT:1972年のアルバム『ロッキー・マウンテン・ハイ』はもともと、このアルバムに入っているビートルズの曲にちなんで『マザー・ネイチャーズ・サン』というタイトルになるはずだったそうですね。このアルバムからのファースト・シングル「グッドバイ・アゲイン」もフィーチャーしていた。あなたの本によると、この曲は「悲しみのジェット・プレーン」「フォロー・ミー」と続く三部作の最後の歌だそうですね。

JD:面と向かってはアニーに言えないようなことも、歌の中でなら言えたんだ。(1972年 ポップ・チャート第88位)

●「あの頃の風」

GT:「あの頃の風」は、1981年の同名アルバムからの曲ですね。

JD:RCAが、オリジナルの「たぶん、愛」が入っていたアルバムを却下にしたんだ。これは素晴らしい曲だったが、アルバムの残りの曲がちょっと暗くて、ヒット・シングルがないと連中は考えたんだ。契約上は彼らが却下することはできないことになっていたのだけれど、僕の当時のマネジャーもその歌が気に入らなくて、RCAの支持をとりつけようとしたんだ。僕はナッシュビルに行って、当時ケニー・ロジャースとの仕事で人気だったプロデューサー、ラリー・バトラーと組んでニュー・アルバムを作らされた。そのアルバムについては、いまだに憤懣さめやらぬことが8,000くらいはあるよ。そのひとつは、ラリー・バトラーが、自分が何がしかの権利を持っている楽曲を採用したがったことだ。僕は自分の曲を2曲入れるためにも戦わなければならなかった。「あの頃の風」は、彼が用意した1曲だった。サビの部分は好きだったし、自分に重ねることもできたけど、それ以外の部分がサビを引き立てていない感じがしたんだ。サビだけを残して他を書き換えてしまいたかったが、そうもいかず、あの状態で発売になった。(1981年、ポップ・チャート第36位、カントリー・チャート第10位)

●「悲しい歌のように」

GT:「悲しい歌のように」にはどんな由来が。

JD:1975年にCMA(カントリー・ミュージック・アソシエーション)のエンターテイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞したとき、僕はオーストラリアのパースにいたんだ。「バック・ホーム・アゲイン」も、ソング・オブ・ザ・イヤーに選ばれていた。こんなに素晴らしいことが起きているにもかかわらず、僕はといえば、ホテルの部屋で、妻がここにいてくれたらと思い焦がれ、この喜びをともに分かち合えたらと願いながら、たったひとりで座っていた。そんな気持ちのときは、狂おしいほどに誰かにそばにいてほしいものだし、その感じは、悲しい歌に似てるんだよ。(1976年、ポップ・チャート第36位、カントリー・チャート第34位)

●「愛のおとずれ(イット・アメイゼズ・ミー)」

GT:「愛のおとずれ(イット・アメイゼズ・ミー)」も、『生きる歓び』からのシングルですね。

JD:世界に目を向けると、良きにつけ悪しきにつけ、そこで起きていることに対して畏敬の念を感じてしまうよ。とてもワクワクする。自分から一歩退いて、少し客観的に自分の人生や、自分を取り囲んでいる世界を眺めてみると、びっくりしてしまうよ。僕の人生の中で一番幸運だと思うことのひとつは、自分を取り巻く生命や世界が素晴らしいと思える機会が、まだまだあるということなんだ。それらが互いにうまく機能しあっている様は、本当にすごいと思うよ。(1978年、ポップ・チャート第59位、カントリー・チャート第72位)

●「オートグラフ」

GT:1980年のアルバムのタイトル・ソングだった「オートグラフ」はどうですか。

JD:あの曲は、レイク・パウェルの砂漠で書いたんだ。僕はサインをするのが嫌いでね。サインのこととなると本当にみんな馬鹿みたいになるよ。大の大人が、「子供が信じてくれないから」とか、「あなたに会ったのにサインを貰わなかったと知ったら、母は死んでしまうわ」などと言いに来る始末さ。まるで何かの証明書を欲しがってるみたいだ。僕にとって、いつまでも残る「サイン」とは、自分の音楽なんだ。僕の真の姿が反映されているのだから。自分の最善の部分がね。それに、もし音楽が何らかの形で人を感動させたとしたら、それは紙切れなんかよりもずっと長く、人の心に残るものだよ。(1980年、ポップ・チャート第52位、カントリー・チャート第84位)

●「上海ブリーズ」

GT:「上海ブリーズ」は、LP『シーズンズ・オブ・ザ・ハート』に入ってまし たね。

JD:アニーと僕は、もう数ヶ月にわたって別居状態だった。僕は一人で中国を旅していて、最初に訪れたのが上海だった。それは6月10日の朝のことだったけど、アニーがいるコロラドは6月9日の晩で、僕らの結婚記念日だった。その夜、僕は彼女の夢を見て、翌朝、目覚めてから彼女に電話をかけた。彼女はハイキングから帰ってきてちょうど家に入ってきたところだった。彼女は、二つの山の後ろから月が昇って くるのを見たといい、僕が中国で見ているのと同じ月なのかしら、と思ったという。少し話しをして、じゃあねと電話を切った後、僕はその光景にすっかり心を奪われてしまった。ちなみに、夏の上海は、暑くて湿度が高い。でも、夕方になると、いつも揚子江から微風が吹いてくるんだ。まるで神様からの、その日一日の贈り物みたいに。それは何とも素晴らしい体験だったよ。僕の関心はどこか他にあったのだけれど。お互い世界の反対側にいたにもかかわらず、そのことが僕とアニーが一緒にいるように感じさせてくれたんだ。

●「アイム・ソーリー」

GT:「アイム・ソーリー」もナンバー1ヒットになりましたね。「カリプソ 号」がB面で。

JD:当時、『タイム』と『ニューズウィーク』の両誌に、「自分がなりたいのは“妻”や“母”ではない」、といって夫のもとを去り、自立を決意する女性たちのことがカバー・ストーリーに組まれていた。映画『クレイマー、クレイマー』みたいに、彼女たちは人生に何か他のものを求めたがったんだ。取り残された男達は、自活し、子供の面倒を見なければならなくなる。何にせよ僕は、ある男の身にそれが突然降りかかり、彼女が去ってしまったときに、どんな気持ちになるんだろうと考えはじめた。取り残されて座り込んだまま、もう手遅れになってしまったことどもに、あれこれ思いをめぐらせるんだ。(1975年、ポップ・カントリー・チャート第1位)

●「たぶん、愛(パハップス・ラブ)」

GT:どういう経緯で、プラシド・ドミンゴと「たぶん、愛」を歌うことになったのですか。

JD:カリフォルニアでアルバムをレコーディングしていた時、僕は「たぶん、愛」を書いた。RCAに却下されたアルバムだ。アニーと僕とは別居していて、僕は本当に暗い暗い精神状態に陥っていた。もう歌うことさえ出来ない気がして、アルバムもどんどん暗いものになっていった。バンド内でももめごとが絶えず、ある日僕は、もうどうにも耐えられなくなってしまった。僕はセッションをキャンセルして、カリフォルニアまで車を飛ばした。当時、アニーの弟・ベンが一緒に仕事をしていたので、僕が馬鹿な真似をしてしまわないように、一緒に乗ってもらった。僕は、今までに経験してきたすべての恋愛を思い返し、愛というものがとる様々な形のすべてに思いを巡らせはじめた。そして、その旅の往き帰りでこの曲を書いたんだ。その頃、プラシド・ドミンゴが初めての現代曲のアルバムをレコーディングしていて、「緑の風のアニー」を吹き込む予定だった。彼は「たぶん、愛」も取上げてくれて、僕も一緒に歌ったんだ。(1982年、ポップ・チャート第59位)

●「ドリームランド・エクスプレス」

GT:「ドリームランド・エクスプレス」は、あなたがRCAから発表した23 枚のヒット・アルバムの最後となったアルバムの、タイトル・ソングでした。たいていのポップス局からは無視されてしまいましたが、カントリー・チャートでは「アイム・ソーリー」以来10年ぶりの大ヒットになりましたね。

JD:素晴らしいレコードだよ。可愛らしい感じが素晴らしい。とても気に入ってるよ。思わせぶりで可愛らしい歌で、今もコンサートで歌ってるよ。この歌の「君の虹色の夢の、その先にいさせて」というフレーズを一度聞いたら頭から離れなくなって、一日中、散歩しながらでも口ずさんでしまうくらい、ご機嫌な気分になると思うよ。(1985年、カントリー・チャート第9位)

●「かわいいおまえの微笑みを」

GT:「かわいいおまえの微笑みを」は、変わったタイプの曲ですね。

JD:可笑しくて可愛らしい、楽しい歌だね。ある日、息子のザックを膝にのせて座っていたんだけど、人生が素晴らしくうまくいってる感じだった。豊かに満ち足りていて、今までずっと夢見ていたことが次々と実現していたんだ。そんな只中で、すっかりいい気分になってしまい、大笑いしてしまったんだよ。(1976年、ポップ・チャート第60位、カントリー・チャート第70位)

.

続きを読む


.