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人物伝・河井継之助「再遊学(久敬舎時代3)」



久敬舎時代における逸話の続きです。

(其十)横浜警備

ある日河井は長岡藩庁から呼び出され横浜警備の隊長を命じられました。
その時に河井は「殺生与奪の大権まで御委任になるなら、謹んで命を奉じまするが、それでなければ御断り申し上げる。」と答えたそうです。江戸家老はその申出を受けず、河井は断り久敬舎へ引き上げました。

塾で河井に会った古賀茶渓(塾の先生、久敬舎=古賀塾)が「お前は今朝藩の御用で屋敷へ行かれたようだが、どう言う御用であったか?」と聞いたので河井は藩からの命令内容・それに対する返答・結果を報告した所、古賀茶渓は「国家の事変に当たって一介の書生を抜擢し横浜の警備という大任を委ねるという事は、誠に有難い訳である。それを軽率に御断り申すのはどういう事である。祖先以来大恩を受けて居る御主人の命を余りに軽く心得はせぬか?」と言ったそうです。そこで継之助が言った言葉は

「人というもの、世に居るには出処進退の四つが大切でございます。其中の、進むと出づるという事は、是非上の人の助けを要さねばならなぬが、処ると退く方は、是は人の力を籍らずに自分ですべきもの、今私が藩の政権を執ろうとするには、人の助けもいりますけども、退いて野に処るには、人の世話は一切ならぬでも良い、丁度円い石を山の上から落とすようなもので、誰が手を出さなくても石自身の力で渓底まで落ちる。私は君命を御辞退して帰るのは、恰も石自身の力で谷底まで落ちるようなものであるから、誰も手出しができるものではありませぬ。」でした。

#上記の意見は、なるほどその通りではあるが「それを言っては..」になる類いのものですよね。普通は「世に出るためには自ら修行鍛練せよ、退く時はまわりに迷惑をかけず、相談の上行うように」が一般常識でしょうから。継之助は人事を自然現象の一つとして捉える力があったのと、人並み外れた気の強さと、確かな現状認識(後述)ができていたように思います。

継之助が藩邸を退去して三日ばかりたって藩庁から呼び出しがあり、殺生与奪権が認められて隊長として横浜へ向かう事になりました。継之助は隊を整え一路横浜へ..となる筈だったのですが途中品川で女郎屋の前を通った時に継之助は馬からひらりと下り、女郎屋の二階に上がってしまいました。そこで隊の頭分の者を呼んで「此処で遊ぶ、屋敷へ帰りたい者は帰るがよい、横浜へ行って固めたい者は横浜へ、一緒に女郎買したい者はしろ、何でも自由に任す」と命令したのです。それが藩に聞こえて帰藩命令が出たのですが、継之助は「門を出た以上殺生与奪の権を持っている私の勝手である。それをなぜ呼び戻される?そう言う委任の仕方では元の通りお返しするしかありません」と言って久敬舎へ戻ってしまったそうです。

古賀茶渓は戻ってきた継之助に理由を問いただしたところ、継之助はこう答えました、「ナニ、あれは英国からから威かされているのです。一体日本がビクビクするからいけない。英国も本気で戦う意思はない。それにあれ程の兵を率いて3ヶ月も4ヶ月もいたら藩の経済は大変に減ってしまう。幕府に申し訳程度の人数をやっておけばそれで良い。幕府も兵端を開くというのは嘘だ、英国も戦をするというのは嘘だから始まりようがない。
そこでこっちも女郎買いをしていれば丁度良い」と..

#継之助が持った見通し自体は多くの人物が考えたとは思いますが、彼のような行動をとった人がどれだけいたか..なぜ自らの主張を理解させるためだけにこれほど危険が事をするのか..それが河井継之助なんでしょう。

横浜警備についての話が長くなってしまったので西国遊学までの話は次回にしたいと思います。

(この項つづく/Mr.Valley)




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