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人物伝・河井継之助「再遊学(久敬舎時代2)」



前回に引き続き久敬舎にいた頃の逸話を紹介します。

(其五)
継之助は蝋燭の火を睨めくらべをするのが好きだったようです。継之助は強く、蝋燭2本で鼻の先に火を突き出しても瞬きをしなかったそうです。

この話は少年時代の「居眠りをしたら顔に墨をぬる話」に近いような気がしますね。負けん気が人十倍は強かったのでしょう。また、この話は火を見て瞬きをしない、とのなんだか意味深なものです(継之助は後年まさに「鼻の先に突き出された火を見て瞬きをしなかった」と同じような行動を長岡藩の宰相として行うのです)。

(其六)
彼は他の塾生から「河井は字を書くのではない、字を彫るのだ」と言われていました。それは彼の書き方がとても骨が折れるように見えるものだったからです。彼は字を書くのが下手だったようですね。

彼は字も駄目、剣術・馬術等も真面目に習おうとしない、洋学も一切やろうとしない、はたから見れば真面目な人間には見えなかったでしょうね。

(其七)
彼はそれほど多くの書物は読んでいなかったそうですが、これと思った本は何度も読み、必ず書き写していたようです。読んだもの皆書き写していたのではそれほど多くの書物は読めません、が、読むべき書物からは多くのものを得、自分のものにしていたようです。特によく読んでいた書物は宋明の語録や明清の奏議類で、歴史の事柄や時事を談じて河井に優るもの なく一人として彼に挑む者がいなかったとの事です。

後半は大袈裟な表現になっていると思いますが、塾では劣等生であるのに何か凄みがあって皆が一目置いていたであろう事は想像できますね。

(其八)
久敬舎には当時塾頭として小田切盛徳(米沢藩士)なる男がいました。この男と塾生6〜7人で新宿へ花見に行く途中、料理屋で一杯飲んだそうです。その時、勘定の段になって小田切が「今細かいのを持っていないから出しておいてくれ」と言った所、その中にいた継之助が「勘定はするが小田切だけの勘定はしない」と言って勘定し、小田切だけを残し皆で出ていったそうです。継之助曰く「小田切が懐中に無いのにある顔をしたのが気にいらぬ」....

きっついですね(^^;。彼の気質が一般社会において表現されるとどういう表現になるかの一例ですね。私はこんな継之助が大好きですが、実際社会においては受け入れられる種類の人間ではないですね..。

(其九)
継之助はよく吉原に行っていたようで(^^;吉原細見(娼妓の紹介リストのようなもの)に買った娼妓名の上に○とか◎、△などが入れてあったそうです。こんな事をしていた継之助が三郎(苅谷無隠)に語った事が

「此の通り己は女郎買いをして見た。お前にならないと言う訳は、この婦人に溺れるというものは、惰弱な意気地なしの溺れるものではない、英雄豪傑が却って溺れるものである。それは後ろから羽織を着せられて背中をポンと叩かれるの何んのという訳ではない、言う可からざるの間に鉄石の腸を溶かす者がある。口説や手管で英雄豪傑は騙されぬけれども、一種言う可らざる情に於て其身を誤り易いと思ふ。英雄の気質を備へて居る者程尚危険に思ふ。それだから、決して成長しても是ばかりはやるな。」

でした。

しかし..自分のやっている事を棚にあげてよくもまあこんな立派な話ができるものですね(^^;。ここらへんの俗っ気と考えている事のギャップが彼の魅力だったりしますが(^^)。

次回はこの時期継之助にとって最も大きな出来事であった横浜警備隊長の話・西国遊学に至るまでのあたりを書こうと思います。

(この項つづく/Mr.Valley)




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